Untitled 2020 No.20 ーfrom the series Green and White Paintingsー

Posted in Works 2020 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 18 September 2020 by kenwada

無題 2020 No.20
ーシリーズ緑と白のペインティングからー
2020年9月
北軽井沢 作品 No.413
画布にアクリル
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.20
ーfrom the series Green and White Paintingsー
September 2020
Kitakaruizawa Works No.413
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.

Sans Titre 2020 Nº20
ーde la série Vert et Blanc Peinturesー
septembre 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°413
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.19 ーfrom the series Green and White Paintingsー

Posted in Works 2020 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 16 September 2020 by kenwada

無題 2020 No.19
ーシリーズ緑と白のペインティングからー
2020年9月
北軽井沢 作品 No.412
画布にアクリル
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.19
ーfrom the series Green and White Paintingsー
September 2020
Kitakaruizawa Works No.412
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.

Sans Titre 2020 Nº19
ーde la série Vert et Blanc Peinturesー
septembre 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°412
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.18 ーfrom the series Green and White Paintingsー

Posted in Works 2020 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 13 September 2020 by kenwada

無題 2020 No.18
ーシリーズ緑と白のペインティングからー
2020年9月
北軽井沢 作品 No.411
画布にアクリル
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.18
ーfrom the series Green and White Paintingsー
September 2020
Kitakaruizawa Works No.411
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.

Sans Titre 2020 Nº18
ーde la série Vert et Blanc Peinturesー
septembre 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°411
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.17 ーfrom the series Green and White Paintingsー

Posted in Works 2020 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 10 September 2020 by kenwada

無題 2020 No.17
ーシリーズ緑と白のペインティングからー
2020年9月
北軽井沢 作品 No.410
画布にアクリル
91.0×72.7 cm

Untitled 2020 No.17
ーfrom the series Green and White Paintingsー
September 2020
Kitakaruizawa Works No.410
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.

Sans Titre 2020 Nº17
ーde la série Vert et Blanc Peinturesー
septembre 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°410
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm

連続森の中のリアルタイム童話第3回:「きくねえちゃんのサンポ」

Posted in 連続森の中のリアルタイム童話 2020 with tags , , , , , on 7 September 2020 by kenwada

秋の一日、2014年10月、北軽井沢 作品 No.153、紙に水彩、26.0×36.0 cm

連続森の中のリアルタイム童話第3回:「きくねえちゃんのサンポ」
語り手:和田 雷
聞き手:和田 健
絵:和田 健
登場人物・動物
・黒猫の子猫で語り手の雷 3ヶ月
・やさしいきれいな猫の楢姉ちゃん 1才
・お父さん
・お母さん
・雷を守る 9羽の雌鶏のお姉ちゃんたち 1才
・雷が憧れるかっこいい猫のもみ兄ちゃん 1才
・大きな柴犬の喜久姉ちゃん 9才

ライだよ、おとうさんとおかあさんのところへきてあっというまにはんつきがたったんだ、それでけさはじめてやねにひとりでのぼれたよ、それをみていたおかあさんが、ライ、すごいねえ、もうやねにのぼれるんだねってほめてくれたんだ。はんつきのあいだにはなしたいことがたくさんあったけれど、ぼくがいちばんキョウミをもったのは、おおきなしばいぬのきくねえちゃんのサンポなんだ、おとうさんがまいにちあさはやくとゆうがたにきくねえちゃんをつれてサンポにでかけるんだけれど、これにいっつももみにいちゃんとならねえちゃんもくっついていくんだ。おとうさんは、いぬのサンポについてくるねこなんてとてもめずらしいんだぞっていっていた。だからぼくもいっしょにいきたくてしょうがないんだけれど、おとうさんがライにはまだはやすぎるな、まいごになったらたいへんだからなっていうんだ。もみにいちゃんにもきいてみたんだけれど、おまえみたいなちいせえやつがあるけるようなハンパなキョリじゃねえっておこられたんだ、それでぼくはいっつもにわのはじっこのカッテグチってところまででおしまいなんだ、いつだってにゃーんにゃーんってきくねえちゃんともみにいちゃんとならねえちゃんをみおくるだけなんだ。
さっきもひとりでルスバンしていて、にわとりのおねえちゃんたちとあそんでいたら、なんだかすっごくつかれちゃって、サンランバコのなかでねむっちゃたんだ、そしたらサンポからもどってきたやさしいならねえちゃんが、ライ、おいでってよんでくれて、サンポにはやくいっしょにいけるようにまいごにならないれんしゅうをしようっていってくれて、ならねえちゃんは、まずここはダイガクムラっていうんだよ、さいしょにおとうさんのすんでいるじゅうしょってもんをしっかりおぼえなきゃいけないよっておしえてくれたんだ、ぼくはなんだかずいぶんえらそうななまえだなあっておもったけれど、うんわかったよ、ダイガクムラだねっていったら、ならねえちゃんが、いいかい、ライ、ちずをもってあるくなんてニンゲンみたいな、しみったれたまねをしちゃいけないよ、あたしたちねこのごせんぞさまは、よんせんねんもまえのえじぷとってくにのきのうえにいたんだからねって、おまえだってけさはじめてやねにのぼれたんだろう、そうやってたかいところからフカンしてなんでもものごとをはんだんするんだよ、いいね、ねこのキョウジってもんをしめさないといけないんだ、それからミギとかヒダリとかもはしたなくていけない、とってもヒンがないからね、ちゃんとおまえはこれからトウザイナンボクってもんをだいじにして、ずーといきていかなきゃいけないんだ、おひるにトナリムラのくりだいらのボウサイムセンがなるだろう、あれがなったらおてんとうさまをかならずすぐにみるんだよ、そしたらそっちがみなみだ、そのはんたいがわがきただよ、きたをむいたらおまえがいっつもしっぽをかたむけているほうがひがしで、そのはんたいがわがにしだよ。
いいかい、ライ、ここからがだいじなところだよ、よっくきいてあたまにいれるんだよ、おまえはちいさいけれどあたまがいいんだからねって、ダイガクムラはゴバンのめのようになっているんだよって、じめんにおおきなたてとよこのせんをなんぼんもかいて、いまライとあたしがいるのがここだよ、ライ、きたにひとついって、ひがしにひとついって、みなみにひとついって、にしにひとついったらどこだ、ぼくはずーっとのらをしてきたからすぐにわかって、ならねえちゃん、いまいるところだよっていったら、やっぱりおまえはちいさいけれどのみこみがはやいんだねえってほめてくれて、じゃあライ、モンダイだよって、きたによっつあるいて、ひがしにふたつあるいて、みなみによっつあるいて、にしにふたつあるたらどこだ、ならねえちゃん、かんたんだよ、やっぱりいまいるところさってこたえたら、ならねえちゃんはほんとにうれしそうで、このこはあたまがいいんだねーって、じゃあライ、こんどはむずかしいよ、オウヨウモンダイっていうんだよ、きたにむっついって、ひがしにみっついって、みなみにむっついって、にしにふたついったらどーこだ、ええっと、ちょっとまってね、わかったぞ、ならねえちゃん、となりのひがしのいえのかどだよってこたえたら、やさしいならねえちゃんはすっごくカンシンしたようすで、おまえはからだがよわくて、このあいだまでびょうきばかりしておとうさんをこまらせたけれど、ほんとうにあたまがいいんだねえって、これならいますぐにでもサンポにいけるねえって、すっごくほめてくれて、ちょっとここでまっているんだよ、いいものをあげるからねっていって、ゆかしたのならねえちゃんのひみつのひきだしのかぎをあけて、なかからきれいなみずいろのびーだまをひとつもってきてくれて、これおまえにやるよ、まえにきくねえちゃんのサンポのときみちでみつけたんだよ、ばんごはんまでこれであそんでいるんだよっていって、こんなだいじなもんいらないよってかえそうとしたんだけれど、ならねえちゃんはいいんだよ、もってなっていったんだ。
しばらくひとりでみずいろのびーだまをまえあしでころがしながらあそんでいたら、そこにもみにいちゃんがとおりかかって、ぼくはもみにいちゃん、オウヨウモンダイだよっていって、ならねえちゃんからさっきおそわったばかりのことをとくいになっていったんだ、もみにいちゃん、みなみにみっつあるいて、にしにふたつあるいて、きたにみっつあるいて、ひがしにふたつあるいたらどーこだっていったら、もみにいちゃんはいっしゅんうってうなって、しばらくかんがえていたけれど、きゅうにすっごくおっかないめつきになって、ひるまからオウヨウモンダイなんてかんがえているようなやつはとてもおとことはいえねえ、そんなのはおんなのすることだっていうんだ、おとこはいつもハタシアイにそなえていなくちゃいけねえ、それにおとこがみちをあるくときは、おんなみてえにミチバタでぺちゃくちゃしゃべったりちゃらちゃらしねえで、だまってまっすぐにまえをみてあるかなくちゃいけねえ、それがおとこってもんだ、だからたまにニンゲンにあって、みちをきかれてもそこはだまってとおりすぎなくちゃいけねえ、そいつがトセエニンのつれえところよってもみにいちゃんはいって、ライ、おまえなにしてあそんでいるんだ、おとこがそんなびーだまなんかころがしてあそんでちゃいけねえ、そんなあそびはおんなのすることだ、ちょっとまってろおまえにみせてえもんがあるっていって、ゆかしたのもみにいちゃんのひみつのひきだしのかぎをあけて、なかからあかやきいろのいろいろないろのおちばをもってきて、みろこれがねこふだってえもんだ、おとこはこんなもんで、やねのうえであそぶんだ、さしむかいでよっていうんだ。おまえさっきならにきいたんだけれど、けさやねにのぼれたんだってな、じゃ、おれについてきなって、もみにいちゃんはひょいってやねにのぼって、ぼくもあとからまえあしでひっしにはいあがって、アキバレのとたんやねのうえはひんやりしてすんごくきもちよくて、そらがとってもあおくてあたまのうえをしろいすじぐもがながれていた。もみにいちゃんが、ほらこうしてあそぶんだぞって、ねこふだをやねのうえにならべたときなんだ、ひゅーってとつぜんすっごいかぜがふいて、もみにいちゃんのだいじなねこふだがぜーんぶそらにまいあがっちゃって、ぼくはああたいへんだって、もみにいちゃんどうしようって、そしたらもみにいちゃんが、おとこがそんなことでじたばたするんじゃねえ、そんなドキョウじゃとてもおとことはいえねえ、かぜにまいたきゃまってぜんぶなくなりゃいいのよ、そうすりゃまたいちからあつめりゃいいだけのはなしよって、それがおれたちねこのいっしょうってえもんよっていったんだ。
もみにいちゃんのだじなねこふだが、まっさおなそらにかぜにきらきらまうのを、もみにいちゃんのとなりにすわってぼくはじーっとみつめていたんだ。もみにいちゃん、あんまりきれいだねっていったら、ああライ、こいつはいつまでもわすれねえだろうなって、もみにいちゃんがいったんだ。

―シリーズ「様々な色彩の小さな斑点が僕に語りかけてくること」より-、2014年9月、北軽井沢 作品 No.145、紙に水彩、グワッシュ、26.0×36.0 cm

(つづく)

今後の不定期の掲載予定:
第4回:「もみにいちゃんのハタシアイ」
第5回:「ライのふらんすゴ」(全5話完結)

連続森の中のリアルタイム童話第2回:「ライのカゾクでびゅー」

Posted in 連続森の中のリアルタイム童話 2020 with tags , , , , , on 4 September 2020 by kenwada

ある芸術家が死んだ後、森の中に遺された十編の青い詩 10 −神の栄光と母のための庭−、2017年7月、北軽井沢 作品 No.289、紙にアクリル、水彩、鉛筆、71.8×77.3cm

連続森の中のリアルタイム童話第2回:「ライのカゾクでびゅー」
語り手:和田 雷
聞き手:和田 健
絵:和田 健
登場人物・動物
・黒猫の子猫で語り手の雷 3ヶ月
・やさしいきれいな猫の楢姉ちゃん 1才
・おばあちゃん
・お父さん
・お母さん
・雌鶏の二三姉ちゃん 5才
・雷が憧れるかっこいい猫のもみ兄ちゃん 1才
・大きな柴犬の喜久姉ちゃん 9才
・獰猛な白鼻心 年齢不明

ライだよ、かぜぐすりもおわったし、はなじるがでなくなったから、ライ、こんばんからはカゾクだぞ、これからはよるはいえですごすんだぞって、けさおとうさんがいってくれたんだ、それまではカンセンショウっていうびょうきが、もみにいちゃんやならねえちゃんにうつらないようにって、ぼくはカクリされていたんだって。それでもってとんでもなくながいひるまがようやくおわって、まちにまったゆうがたになって、さあいよいよカゾクだぞ、これからはどれだけすばらしいんだろうなあって、どあをあけてなかへはいろうとしたら、げんかんのところでならねえちゃんがまっていて、おまえいいかい、カゾクはたすけあわなきゃいけないんだよ、なにごともさいしょがカンジンなんだからね、しっかりやるんだよ、さあがんばっておいでって、ならねえちゃんはぼくのおしりをぽんとねこぱんちでおしてくれたんだ。そしたらぎーってどあがあいて、でんきゅうがきらきらひかってて、ああやっぱりあかるいなあ、これがいえのなかってもんなんだなあとおもったしゅんかん、むこうからおおきなしばいぬのきくねえちゃんがまんめんのえがおでトッシンしてきたんだ、きくねえちゃんはそのままぼくのおなかのしたにはなをつっこんでぽーんとうえにほうりなげたからたまんない、ぼくはにゃーんてはじめてのいえのなかをいきなりとんでろうかのかべにおもいっきりぶつかって、ばたってたおれてきをうしないそうになったんだ。それでもなんとかよろめきながらかうんとえいとでたちあがったんだけれど、またきくねえちゃんがものすごいいきおいでにこにこしながらトッシンしてきてはなをつっこんではほうりなげて、もうきくねえちゃんはうれしくてうれしくてしょうがないっていうかんじで、もうぜんぜんやめてくんなくて、それをそのままさんじゅっぷんもつづけるんだ、さいごはもうぼくもふらふらになってしまって、もうだめだしぬ、なんだ、あこがれのカゾクったって、たったこれだけでもうおしまいかとおもったときに、きくねえちゃんがとつぜんぴたっとやめて、がぶがぶみずをのみはじめたんだ。ぼくはああたすかったとおもって、ぼくものどがからからできくねえちゃんがのみおわるのをまってみずをすこしだけのませてもらったんだ。それにしてもずいぶんてあらいカンゲイだったな、きくはよほどうれしかったんだなって、おとうさんがおかあさんにいっていた。
それからあとはやっぱりおもってたとおり、すんごくたのしくて、みんなでばんごはんをたべて、きょうあったことをおはなして、それからいえのなかにはいってはじめてしったんだけれど、くるまいすにのったおばあちゃんがいて、ならねえちゃんがおとうさんのおかあさんだよってそうっとおしえてくれて、おばあちゃんがまずぼくをひざのうえにだっこしてくれて、つぎにおとうさんがだっこしてくれて、さいごにおかあさんがだっこしてくれて、そりゃもうちゃんとおさらにのったごはんはでるしみずはあるしで、やっぱりカゾクはいいなあとおもって、そうおもったらこれまでのらをしてきたつかれがどっとでちゃって、ザイスのうえであんまりきもちよくてついうとうとしちゃったんだ。
そしたらそのときとってもふしぎなゆめをみたんだ、ぼくはまだのらをしていて、おつきさまやきれいなおほしさまにかこまれて、まいばんねるところはきのむいたところにかってにじゆうにねて、だれにもなんにもいわれないし、でもそういえばともだちはひとりもできなかったな、あとはくびしんってドウモウなやつがよなかにいきなりおそってきたときにはほんとうにふるえあがったな、あのときはぜったいにしぬなとおもった。どこかのあきやのうらにわにほうりだしてあったすのこのしたにもぐりこんでカンイッパツいのちびろいしたんだったっけな。
そのばめんでゆめからめがさめたら、もうだいぶじかんがたってて、となりのならねえちゃんのかごをみたらすーすーねていて、もみにいちゃんもねていて、おばあちゃんもおとうさんもおかあさんもみんなねていて、いえのなかはさっきまでのばんごはんのときとちがって、すっごくしずかでしーんとしているんだ。かべのふるいとけいが、かちっかちってはじめてきくおとをだして、ぼくをさかんにおどかそうとしていたけれど、ぼくはなんだかすっごくふしぎだなあって、またいつものようにひとりでかんがえはじめたんだ。おとこらしいもみにいちゃんのこと、やさしいならねえちゃんとであったこと、おとうさんやおかあさんのこと・・・そのあとぼくはなぜだかじぶんでもよくわからないんだけれど、なんだかとってもあかるいすっきりしたきもちになっちゃって、のそのそとじぶんのかごにもどってそれからあさまでぐっすりねむったんだ。
あさになったら、ならねえちゃんがライ、はやくおきれってぼくをおこしにきて、ミメイににわとりのふみねえちゃんがなくなったっていうんだ、ロウスイだったって。たいへんだ、ふみねえちゃんにはとくにかわいがってもらったからって、すぐにそとにとびだしてみたら、おとうさんがもうにわにおはかをほって、そこにふみねえちゃんをそうっとうめて、それからながいおキョウをしておセンコウをあげていたんだ。おとうさんのよこでもみにいちゃんがきちんとすわってじーっとそれをみていたんだ。そのときもみにいちゃんが、ライ、おまえもこっちへきてちゃんとすわれ、おれたちねこのヒンイがとわれているんだぞって、おおきなこえでぼくにはじめてくちをきいてくれたんだ。おとうさんはぼくがきたのをみて、ふみはごさいだったんだよ、いろいろなことをおしえてくれたたいせつなすばらしいにわとりだった、きっとさいごのばんにライがカゾクになっていえにくるのをまっていてくれたんだねっていったんだ。マイソウがおわってぼくはおとうさんとあるきながら、それはくがつのはじまりのひで、もうあさのくうきはつめたくて、ふみねえちゃんのいなくなったにわとりごやのはしらにあかとんぼがとまっていた。そのときぼくはおもったんだ、もうびょうきなんかしていられない、がんばっていきていかなきゃな、もうのらじゃないんだ、カゾクなんだからって。
(つづく)

今後の不定期の掲載予定:
第3回:「きくねえちゃんのサンポ」
第4回:「もみにいちゃんのハタシアイ」
第5回:「ライのふらんすゴ」(全5話完結)

連続森の中のリアルタイム童話第1回:「ライだよ、」

Posted in 連続森の中のリアルタイム童話 2020 with tags , , , , , on 27 August 2020 by kenwada

山奥の子猫、2014年10月、北軽井沢 作品 No.152、紙に水彩、24.2×33.3 cm

連続森の中のリアルタイム童話第1回:「ライだよ、」
語り手:和田 雷
聞き手:和田 健
絵:和田 健
登場人物・動物
・黒猫の子猫で語り手の雷 3ヶ月
・やさしいきれいな猫の楢姉ちゃん 1才
・お父さん
・お母さん
・煙突掃除のやさしいお兄ちゃん
・雷を守る雌鶏の二三姉ちゃん 5才と 9羽の雌鶏のお姉ちゃんたち 1才
・雷が憧れるかっこいい猫のもみ兄ちゃん 1才
・大きな柴犬の喜久姉ちゃん もうすぐ 9才

ライだよ、なまえはおとうさんがつけてくれたんだ、ジュウサンカクだからいいなまえだぞって、おとうさんはいっていた。
ならねえちゃんもジュウサンカクなんだって、ジュウサンカクってなんのことだかわからないけれど、なんかすごくいいひびきだな、とってもかっこいいや。
それに、ならねえちゃんはすんごくやさしいから、ならねえちゃんといっしょっていうのがまたいいな。
ぼくはしにそうだったんだけれど、おとうさんがどうぶつびょういんにつれていってくれて、まいにちさんかい、めぐすりとかぜぐすりをしてもらっているんだ。
それですこしくしゃみがでなくなって、はなじるはとまってきたんだけれど、めがまだまだで、めやにがすごいんだ、おとうさんはふいてもふいてもなおらないなっていっていた。
ぼくはうまれてからずーっとこれまでもりのなかでのらをしてきたんだ、それでもうさんかげつたったんだって、だからキタナイってなんのことだかよくわからないんだけれど、いままでときどきニンゲンにあうと、いつもキタナイ、バイキンっていわれて、みんなぼくのことをさけるんだ。
ぼくはどうしてなんだろうとずーっとおもってた。それでかんがえてかんがえて、かなしいっていうのはきっとこういうことなんだなっていうことがよくわかった。そんで、さいごしにそうになって、おとうさんのところへいったら、おとうさんとおかあさんとそれからこのあいだ、えんとつそうじのおにいちゃんがきたんだけれど、みんなたすけてくれたんだ。
えんとつそうじのおにいちゃんは、ぼくのおなかについていたおちばまでわざわざとってくれて、ねこがにわとりといっしょにいるなんてめずらしいねって、そうっといってくれた。
そうなんだ、ぼくはいっつもいちにちじゅう、にわとりごやのすみっこで、にわとりのふみねえちゃんたちをみながらひとりでかんがえているんだ。ひとりでいるときは、かんがえていることがいちばんいいんだ、だってだれにもめいわくはかけないし、じかんだっていくらでもつぶせるし、おかねだっていちえんもかからないんだ。のらをしていたとき、みちでごえんだまをみつけたんだけれど、あながあいているだけでぜんぜんおもしろくないからすぐにすてちゃった。
ときどき、やさしいならねえちゃんがきて、かまってすこしあそんでくれるよ、でもぼくはまだはやくはしれないから、おにごっこをしてても、ならねえちゃんはすぐにあきてどこかへいってしまうんだ。
それからぼくのあこがれはもみにいちゃんで、それはすっごくかっこいいんだ、やねからやねにひょいととびうつちゃって、ぼくもいつかあんなふうになりたいなあ、そんけいしちゃうなあ、でももみにいちゃんにはまだいちどもはなしかけてもらったことがないんだ、おまえなんかまだシュギョウがたりないって、もみにいちゃんはじっとめでいうんだ、でもシュギョウっていったいなんだろう。このあいだ、もみにいちゃんのまねをして、すこしだけきのぼりをしてみたよ、それをみていたおかあさんがやさしくわらってくれた。
それからならねえちゃんにきいたんだけれど、おおきなしばいぬのきくねえちゃんがいるんだって、このあいだすこしあって、びっくりしちゃったんだけれど、おおきすぎてかおがよくみえないんだよ、でもならねえちゃんはわがやでいちばんえらいのは、きくねえちゃんなんだぞっていっていた、おまえいいかい、いくらちいさくても、そこんところはしっかりわきまえていなくちゃいけないよ、カゾクなんだからって、いわれたんだ。すっごくふしぎだなんだけれど、おもってたよりたいへんなんだなあ、カゾクになるのって。
のらをしていたときは、カゾクになりたくて、そりゃもうゆめにまででてくるくらいになりたくてしょうがなくて、よるになっていえのあかりがつくと、わあ〜きれいでいいなあとおもってた、あのなかにぼくもはいりたいなあ、きっとあたたかくてたのしいだろうなあって。いえのなかはあめもふんないし、よるはみんなでごはんをたべて、きょうあったことをじゅんばんにおはなししたりするんだろうなって。でもぼくはキタナイからカゾクはむりだろうなっていっつもあきらめていたんだ。それでかんがえてかんがえて、さびしいっていうのはきっとこういうことなんだなっていうことがみにしみてよくわかったんだ。
このごろおとうさんはライはこえがとてもいいっていうんだ、びょうきがなおったら、ショウライ、おんなのこにもてるぞって、でもショウライってなんだろう。ぼくはおんなのこなんかにまるできょうみはないけれど、それでもやっぱりもてるんなら、ならねえちゃんみたいなやさしいきれいなこがいいな。でもこのままここで、にわとりのふみねえちゃんたちのよこでごはんがもらえたら、それがいちばんいいな、でももうびょうきだけはしないようにしたいな、すっごくくるしかったから。
それからおとうさんは、もしかしたらこのこはあたまがすごくいいかもしれないっていうんだ。
だけどおとうさんとおかあさんがどうしてやさしくしてくれるのかはぼくにもわからないな、そうだ、こんどならねえちゃんにきいてみよう、どうしてかなって。
(つづく)

今後の不定期の掲載予定:
第2回:「ライのカゾクでびゅー」
第3回:「きくねえちゃんのサンポ」
第4回:「もみにいちゃんのハタシアイ」
第5回:「ライのふらんすゴ」(全5話完結)

ライだよ、ぼくのゆーちゅーぶができたよ、いえへきたばかりのときに、おとうさんがとってくれたんだ。ゆーちゅーぶってなんのことだかわからないけれど、のらをしていたときは、そんなもんにでるなんてゆめにもおもわなかったな。おもってもみなかったことは、よくおこるんだぞって、おとうさんはいっていた。まあいいや、やさしいならねえちゃんといっしょだから、じゃあね!

Today’s Worst Painting No.5

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 15 August 2020 by kenwada

2020年8月15日、 Each Painting 19、Total Painting 76。
今日のワースト選びは簡単です。全没だからです。4枚とも全没。お話にならない、論外、問題外、お話以前、中でもこれが一番ひどい!
原因は自分ではっきりわかっていて、いつも制作を始める前に、このことは以前当サイトに書きましたが、金科玉条のごとく、1. いい加減に、2. 無造作に、3. がさつに、4. ぶっきらぼうに、5. すっぽ抜けている、6. ぶっ飛んでいる、7. 適当に、8. 見ないで描く、(8. のみ以前に書いた記事に加わっています) の8項目を唱えてから描いているのですが、描きたい気持ちが強い時、意欲のある時によくありがちなのですが、そこにマインドをセットすることなく、つっかけて走り出してしまったからです。文字通り急に来客があって、サンダルをつっかけて応対してしまう時のあの感じです。自分で言うのも何ですが、なかなかこの8点にマインドを作り上げてくるのは大変なんです。集中して描く、一生懸命に描く、丁寧に描く、これなら本当に誰でも毎日できます。

前回の Today’s Worst Painting No.4 の記事の中で、ゲルハルト・リヒターが芸術家になる前、歯科技工士であったことに触れましたが、彼も僕の造語「お針子から重量挙げ選手に」「重量挙げ選手からお針子に」であった訳です。この象徴的な意味合いとしての造語については以前当サイトで説明させていただきました。僕がこのサイトの中で繰り返し使用している言葉は、すべて象徴的な意味合いとして使っています。例えばオリンピックの重量挙げ選手の中にオフ時間に編み物をする人は探せばむろんいると思います、そういうことです、ごめんなさい、次元が低くなりました。
それで話を前に進めます。フランスはパリ時代にモンマルトルのアパルトマンの小さな部屋で、つくづく考えたことがありました。僕はその当時彼らのことを「オール・スター」(この意味についてはまた後日)と呼んでいたのですが、どうして僕の好きな画家たちは、偉大な芸術家たちは、かくも揃ってこうも転向組が多いのだろう、具体的には以下のようにノートに矢印を書いて一心に考えていました。
一例をあげますので、皆様もいくつ正解できるかやってみてください。
ポール・ゴーギャン→株式仲買人からの転向組
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ→画商見習い、炭鉱地区の牧師等からの転向組
アンリ・マティス→法学部からの転向組
ピエール・ボナール→同じく法学部からの転向組
ワシリー・カンディンスキー→モスクワ大学医学部からの転向組
ジャン・デュビュッフェ→ワイン商からの転向組
まだまだ枚挙にいとまがありませんが、リヒターまでもがこれに加わりました。
これはどうしてかと言うと、二つの大きな理由があって、一つは偉大な芸術家になるには高い知性、知力が要るということです。
もう一つは、僕の上記の造語になりますが、異分野の業種を組み合わせることで初めてそこに大きな創造性、創造力が生まれるということです。これについては、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチの中で完璧に説明していて、それを聞いていてやはりなと思いました。僕はあの演説を英語の勉強のために何度も繰り返して YouTube で観ました。
今はこうして簡単に書いていますが、パリ時代にそれがわかったことは、その後の僕にとってやはりかなり大きなことでした。
それでは、また。ではなくて、本日でこのワーストの連載を終わります。
この全没状態 = nothing から絶対にもっていかないといけない。
今日は色と形に遊んでもらうあの感覚がなかったな。
絵画を支配してはいけない、コントロールしてはいけない、自分が絵画に君臨してはいけない、支配される側にいないといけない、いつもオロオロオロオロして、常にヨタヨタヨタヨタと「おお〜、おお〜、次はそう来るか」とかうめきながら、色と形に勝手に決めて進めていってもらえばいいんです。自分が描くことなんて全くないんです。自分は絵画の後ろからノロノロと追いかけていく感じで、自分が絵画の先頭切って張り切って走っちゃいけない。今日は力んで肩に力が入ってしまった、でも明日はすっぽ抜けるでしょ。

Today’s Worst Painting No.4

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 14 August 2020 by kenwada

2020年8月14日、Each Painting 18、Total Painting 72。ダメ、没。
突然「平」の字が出てきた。コロナ禍の時代なのでそれもよいかもしれない。
白でチマチマ塗り上げていくことはできるのだけれど、ここは一度 View だな。
どのタイミングで Judge するのかについては、GERHARD RICHTER の “PAINTING” という2012年にドイツで製作された DVD を何度も繰り返し観て研究しました。
つまり彼の絵画は、Plan→Paint→View→Judge→Repeat と進んでいくのですが、この中で一番難しい移行(→)を求められる View から Judge へ具体的にどのくらいの日数をかけて判断するのかについて体感しながら学ぶことができます。
当たり前ですが、現役の世界最高峰の芸術家から教わることはたくさんあります。
インタビューはドイツ語ですが英語の字幕がついています。
彼が芸術家になる前に医者になろうとしたり、歯科技工士 (dental technician) の仕事に就いたり、いろいろ上手くいかなかった話も出てきます。
今日は少し先が見えてきた Painting が一枚ありましたが、この連載はワーストなので。
没の連鎖の中で自分にこれまで観えなかった形や色が出てきた時、キャンバスに自然に食い入るように引きずり込まれてきた時が待ったをかけるタイミングです。つまりどの段階で終わりにするのかについて現時点で僕がたどり着いた結論は、「この絵画を残しておきたいかどうか」です。キーワードは「保存」です。自分に「これ保存かけるのか、どうなんだ、ええ?」とよく自問します。意外にシンプルな境地にたどり着きました。でもそれでいいんじゃないかと思う、あくまで今の時点の僕の考えですけれど。いいんじゃないかと思う、というのはつまりその考え自体も破壊してしまえばいいからです。つまり実は何も関係ないんじゃないかということです。
それでは、また。

Today’s Worst Painting No.3

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 13 August 2020 by kenwada

2020年8月13日、Each Painting 17、Total Painting 68。
ひょんなことからバランスを崩すタイミングが突然とれ始めた。
これだから Painting は面白くてやめられない、絵画はとにかくバランスを切り崩す/切り裂くことが大事、切り崩す/切り裂くというのは、人間は放っておくと自然にバランスをとろうとするから、それをはずす。
小説家だとここまで偶然の要素を取り込めないのではないか、やはり言葉を一文字一文字起こしていく仕事だから、専門外でよくわかりませんけれど。
でもジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のあのバババダ・・・はよかったな、あの部分の文章原文では、
bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonner-
ronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthur-
nuk! *¹
となっています。あそこまでバランスを壊すことを1939年にすでにやっていたということがすごい!マルカム・ラウリーの「火山の下」の中にもジョイスの明らかな影響がみられます。バランスなんか糞でも食らえ、という感じだな。
今、条件反射的にガルシア=マルケスの「大佐に手紙は来ない」のラストを思い出しました(laugh)。
やっぱり、バランスのとれた絵画、バランスのとれた人間=現代の中高年の立派な社会人なんか観ていても話していても面白くも何ともない、それを切り崩してくれるのは、またまた話が同じところに戻ってしまうけれど、若者なんだと思う、若者しかいないんだと思う。
さあ午後はダンテの「地獄編」を続けよう。ところでフランチェスカのくだりなんだけれど、あそこを読んで日本人が即座に反応するのは難しいのではないか。あそこは欧米人は劇的に感動するところなんだろうな。それとも僕の一般教養が足りないせいだろうか。ああ、でもこれを書いていてその攻略法を見つけました。
なるほどな、その手があったか、そのアイデアで一歩一歩進めてみよう。
それでは、また。

*¹ JAMES JOYCE, Finnegans Wake, Faber and Faber, p3