神の物語である「ヨゼフとその兄弟たち」の再読を終えて

2021年11月15日に読み始めたトーマス・マンの「ヨゼフとその兄弟たち」(新潮社版全6巻)を、2022年7月10日になって読み終わりました。
僕が、2015年から2016年にかけて初めて「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房版全3巻)を、読んだ時の感想はこちらです↓
https://kenwada2.com/2016/01/22/ヨセフとその兄弟/
今回の再読で、新潮社版の第1巻を読み終えた時の感想はこちらです↓
https://kenwada2.com/2021/12/22/ヨゼフとその兄弟たち/

再読を終えた今、こうして振り返って見ると、この8ヶ月間というもの、「ヨゼフとその兄弟たち」以外の本は、ほとんど言っていいくらい読みませんでした。
途中から眼を悪くして、拡大鏡を使いながら、かなりのスローペースになりましたが、最後の第6巻は、大きな読書体験の時に、まれに起こることですが、残りのページ数が減っていってしまうことが、なんとも惜しくて、今度は、そういう違う意味で、極端なスローペースとなりました。
実際に、ラストのヤコブの祝福「臨終の集い」の場面では、12人の兄弟をそれぞれ1日ずつ区切って、12日かけて読もうかと思いました。
さすがにそれはしませんでしたが・・・。
実際に、ガドやアセル(アシェル)は、祝福の言葉も短いですしね。
それにしましても、マンの時間というものへの潔癖な性向、たとえばヤコブはラバンのもとで何年間過ごしたかとか、そういった時間というものへのこだわり、追及や判明にかける意欲には、すごいものがありますね。
これは「魔の山」でも、すでに十二分に、その萌芽がみられますが、それがこの臨終の場面においても存分に発揮されていますね。
ヤコブは「最初の記録」(旧約聖書のことです)にありますように、147才だったわけですが、この時、長兄ルベンは78才、二男シメオンが77才、三男レビが76才、四男ユダが75才・・・、末弟ベニヤミンが47才だと断定しています。
そして、ヨゼフの二人の息子であるメナセ(マナセ)とエフライムが、当時どちらも20代はじめの若い貴公子であったことは、明らかだとしています。
僕は、この場面で初めて双生児と言われるシメオンとレビですが、実は年子だということを知りましたが、マンいわく、臨終の場面を描いた「ああいう馬鹿馬鹿しい空想画」(第6巻、p.191)に手をかさないようにしているのです。(下記後日記1)

とりわけ、この第6巻の中でも、ヨゼフが家令のマイ=ザクメと、神の祝祭の物語を仕上げるために、最初に10人の兄たちと再会した場面、これをもって読書の醍醐味と言わずになんと言えましょうか。
それまでうまく演じていたのに、チビのベニヤミンも、今では妻帯して子供が八人いることを知ったヨゼフが、思わずどっと大声で笑い出してしまうところ、家令のマイ=ザクメに背中をこっそりとひと突きされて、もう最高です!

さて本題に入りますが、結論から先に言ってしまうと、もうこの本は、トーマス・マンが、人類に残してくれた文学史上最大級の贈り物ではないでしょうか。
これでは感想にもなりませんが、他にもう何も言いようがない感じがいたします。
確かに下敷きとしての物語である旧約聖書が存在する訳ですが、では逆に、元となる伝説があれば、これだけ書けるのでしょうか。
いったいどれだけの資料を読み込んだら書けるのでしょうか。
何かちょっと人間離れしている感じがいたします。
この物語の中に登場してくる生き生きとした様々な人物、そして語られながら展開されていく思想、特に、世の中は球のようなものであり、回転していくという思想は、今回の再読を通して、僕の人生にほぼ決定的な影響を与えました。

ところで、全体を俯瞰して疑問に思うことが二点あります。
一点目は、なぜ神の物語である作者、すなわち神は、ヨゼフを通して、いったんヤコブ一族70人をエジプトに運んだのか?
なぜあえて異国の異なる文化や神の元で暮らさせたのか?
その意図は、どこにあるのか?
私たちは、「出エジプト記」に書かれていますように、やがてイスラエルたちが、エジプトを脱出して戻っていくことを知っている訳ですが、いったんエジプト経由のようなややこしいことをなぜさせたのか、ここのところですね。
これはおそらく、専門に勉強されている方に尋ねれば、簡単に即答できる問題だと思われますが、何か深淵な神のご計画が隠されているように思いますので、自分で考えてみようと思います。
場所の移動、移住して帰国するは、いったい何を意味しているのか、ということですね。
これは、あらかじめエジプトにつかわされた夢解きのヨゼフが、飢饉の7年間を乗り越えるために、養い人として一族を招き寄せるという通り一遍の解釈ですと、往路だけに話が限定されてしまいますよね。
復路もありますから、何か違うのではないか。
これはヤコブの側から考えるのではないか、ヤコブはエジプトを長年にわたり忌み嫌っていますよね、しかし彼はその国へ行くという決断をした、黄泉(陰府)へ下るという選択。
そこからまた祖先の国へ戻るという蘇生、再生の物語として、つまり、国の移動は前後左右の平面運動なわけですけれども、魂、霊魂の上下の垂直運動として、神はとらえているのではないだろうか、わかりません、僕には。
いずれにいたしましても、マンが祖国を追われ、スイスへ、アメリカへと亡命生活を続けながら、この部分に思いをはせたというか、理解を深めたであろうことは、容易に想像されます。

二点目は、ヨゼフは、自分が受けている祝福は、あくまで世俗的な祝福であり、本来の宗教的な祝福ではない、つまり、自分の人生はあくまで分け隔てられた支流に過ぎず、挿話的なものに過ぎない、したがってこれだけ出世したにもかかわらず自分は祝福を授かることはできない、ということを、どこの時点で悟ったのか、ここのところです。
それは、いったいこの神の物語の中の、どこの時点なのか、ということですね。
ヨゼフの諦観とでもいうのでしょうか、個人的に非常に興味があります。
その時点で、頭の回転の速い、常に機転を働かせるヨゼフのことですから、ルベンは長子権を失っているから、祝福はおそらく四男ユダに与えられるなと察したと思います。

本来ならば、ヤコブは最愛の妻、黒い瞳の持ち主である正妻ラケルの初子ヨゼフをどれだけ祝福したかったことでしょうか。
でもそれはお前ではない、ヤコブにおそいかかる悲哀と断念・・・、などという生やさしいものではありませんが。
つまり神に服従したわけですね。
ヤコブは、ヨゼフよりも神を選択したわけですね。
そして苦悩の男、四男ユダに受け継がれていく祝福。
そこに、タマルという女の存在がからんでくる・・・。(下記後日記2)

その他、個人的に深く考えてみたい事柄は、
①やはりなんと言ってもまずはヤコブの物語とその精神。
この物語全体を通して、ヤコブは別格、他の登場人物たちとは一段階、格が違うと思います。
その威厳に満ちあふれた思想。
②過ちをおかし祝福を受け損なったたけれども、塔のような男・長子のルベン(レウベン)のもつ人間味。
③最終的なヨゼフへの裁きで顕現するポティファルの人間性、人格。
これはやはり、うすうす事情をわかっていたからという解釈でよいのでしょうか。
すなわち、ヨゼフを死罪にしないで、ナイル河上の島の要塞ツァヴィ=レー送りにして監獄行きという温情な裁定。
それに対して、ごちゃごちゃかき回す侏儒ドゥードゥには、舌を切り詰めるという、思わずこちらの気持ちがスカッと晴れるような判決。
④ヨゼフが投げ込まれた井戸の底で痛感した思い。
僕が決めることではもちろんありませんが、ここの部分のマンの鋭い洞察は、確実に、近代文学の一つの頂点ではないでしょうか。
つまり、八つ裂きにされ、ボコボコにされたのに、逆にヨゼフが兄たちの積年の憤怒を感じとるところ。
⑤ヨゼフのアセナテ(アセナト)との結婚の裏側ではないですけれども、見えにくい部分を正確に看破するマンの描写。
⑥10人の兄たちの長年の罪の意識が育て上げたそれぞれの精神。
罪があるからこそ、精神が育まれるというところ。特に四男ユダ。
⑦ポティファルの妻、ムト=エム=エネトという一人の女性に対する、世間の定評とは異なるマンの独自の眼差し。
⑧なんで、イスラエルの家系に、こんなに乱暴な二男と三男、双生児と呼ばれるシメオンとレビが存在するのか。
これに関連して、シケムの町の身の毛もよだつような虐殺が意味するものは何なのか。
⑨ナイル河を護送され流れを下って行く船中のヨゼフの美しいシーン。
そして、監獄長マイ=ザクメに初めて会った時のヨゼフの「わたくしがそれです」の自己告知の台詞。
➉ヨゼフが、エジプトに売り飛ばされ、ファラオの友にまで頭を高められたのに、つまり会いに行こうと思えば行けたのに、父ヤコブには、その時が来るまで、あえて会いに行かなかったところ。
すなわち、17日あれば行けたわけですから、全エジプトの主(つかさ)にまで出世したヨゼフが、ファラオに事情を話し、休暇を願い出れば、おそらく聞き入れられて、しかも王室所有の車で行けたことは、ほぼ確実であると思います。
つまり、神話の完成ですね、そこへ向けて各々がそれぞれの役割を果たしていかなければならない。
「懐かしいお父さん、あなたの愛するヨゼフです。実は生きていたんですよ、ちょっとお顔を見るために帰って来ました。」
では、祝祭の物語の完結には到底なり得ない。
これについてのマンの才気あふれる考察。

まだまだ他にもありますが。

これは、すごい物語ですね。
この一作品の中に、人生を生き抜いて行くための英知であったり、勇気や希望、挫折や転落、絶望のようなもののすべてが、つまり、人生の循環に関わるもののすべてが、凝縮されて詰め込まれているように思います。
余韻にひたりながら、考え続けますと言いますか、一生考え続けていくべき物語ですね、これは。
相手である物語の方が、圧倒的にその存在が大きい訳ですから、思考がまとまらなくても当然なのです。
この偉大な物語を相手に、僕の力で感想がまとまるわけがない。
ざっくりと縦軸だけをとっても、アブラハム→イサク→ヤコブ→ヨゼフ→マナセとエフライムと、親子5代にわたる物語ですからね。
これに、それぞれの兄弟の物語、さらに兄弟の子どもたちの物語が続き、アセルの娘、歌好きのサラの物語まで加わって、もう大変な賑わいです。
要約する、あらすじをまとめることなら、もしかしたら僕にも少しだけならできるかもしれませんが。
問題は、そんなことではない。
肝心なことは、もちろん物語に書かれてある中身そのものですよね。
そういう意味で、ここからいよいよ始まると言いますか、ここからがスタートと言いますか、真剣に考え続けてみようと思います。

おしまいに、どうしてもこれをお伝えしないでは終われません。
それは、訳文の素晴らしさです。
僕が今回読んだ新潮社版は、昭和33年から昭和35年にかけての発行ですから、すなわち西暦1958年から1960年にかけて出版されたことになります。
(新潮社版は、その後、「トーマス・マン全集」に組み込まれる形で、1972年にも出版されているようです。)
それが、62年以上も経って読んでも、少しもみずみずしさが失われていない、鮮度が落ちていない、干からびていない、それは、ものすごいことですね。
普通はどうなのでしょうか、もう少し、いかにも古くさい訳や言い回しだなあと、つい思ったりするのではないでしょうか。
まったくそういうところがない、皆無。
どれだけ日の目を見るのを待っていたんだと、本の中のページが語りかけてくる感じがします。
確かに、旧字体の漢字など読めない字も出てきますが、ネットで検索すれば、すぐにわかります。
初読の筑摩書房版でも思いましたが、とにかく訳文が素晴らしい。
僕は、文学のことは専門外でよくわかりませんが、時として、作家には光が当たっているように思いますが、訳者には、これだけの訳業を残しながらも、それほど光が当たっているとは言えないように思います。
こうした翻訳者の方たちは、人生の最期に、どのような思いを抱えていらっしゃるのでしょうか。
例えば、病床で、奥様の手を握りながら、「ああ、あれは結構よい仕事だったのだがな。無念だよ、もう少し版を重ねて、広く読まれるとよかったのだがな」と、言われるのでしょうか。
それとも、そのようなシーンは、まったくの僕の妄想に過ぎないものなのでしょうか。

つくづく、返す返す、この美しい神の物語が、どちらの出版社の版も何十年にもわたり、絶版状態になっていることが、本当に残念でなりません。
僕自身は仏教徒ですが、是非とも宗教の垣根を越えて、自由な気持ちでもっと多くの方に読まれて欲しい作品です。
なぜなら、ある特定の宗教にしか当てはまらないのであれば、普遍的な神の物語には、到底なり得ないからです。
ナチズムの嵐が吹き荒れる頃、あえてユダヤ神話を主題に選んできたマンの気概に満ちた、それでいながら同時にユーモアあふれる精神が、今ほど(それは具体的にまさしく今年のことです)、必要とされている時も、他にないのではないでしょうか。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。

2022年7月16日
和田 健

後日記1:
「ああいう馬鹿馬鹿しい空想画」が、具体的にどの絵画を指しているのか、興味があって少し調べてみました。
自分の仕事に関係した分野でもありますから。
そこでわかったことは、あまりにもヤコブの臨終の場面+メナセ(マナセ)とエフライムへの祝福を描いた絵画が数多くあり、とてもではありませんが、特定できないということです。
そこで、ここは逆に、思い切り大胆に、例えばレンブラントの絵画であると仮定したら、どのようなことが考えられるでしょうか。
そうです、あの大レンブラントの1656年の作品”Jacob Blessing Ephraim and Manasseh”です。
そうすると、マンの知性は、あのレンブラントにさえも向かっていっていることになり、これは非常に興味深い問題です。
なんといっても知性は怒りを生み出しますからね。
ここのところ、専門の研究者は、遺されたマンの所持品や手紙などの資料、または実際にどこそこの美術館へ行ったなどの確認できる事実から、具体的にどの絵画だと推定しているのでしょうか?

後日記2:
ここのところですが、「タマルの物語」の順番を、マンは入れ替えていますね。
マンほどの作家が、ぼんやりしていたということは、まずあり得ませんので、マンがこの「タマル物語」の部分を旧約聖書の順番から、意図的に入れ替えたことは、ほぼ確実だと思います。
そこで問題になるのは、マンは小説の全体構想を俯瞰した上で、なぜあえてこの部分の入れ替えを行ったのか、ということになります。
これには、個人的に非常に興味があります。
すなわち、旧約聖書では、ヨゼフがエジプトに売り飛ばされ、ヤコブが嘆き悲しんだ、その後に「ユダとタマル」がきて、ポティファルとその妻と続きます。
それに対して、マンの作品では、もうそんなことは全部終わっていて、ヨゼフが監獄に入れられ、召喚されてファラオの前に立たされ夢を解き、オンの祭司の娘アセナテ(アセナト)との婚礼の後に、「タマル」がきます。
つまり、旧約聖書でいうと、創世記の42章の前に「タマル物語」を入れてきています。
これは、明らかに意図的ですね。
なせか?
この入れ替えに焦点をあてたマン研究者の論文がありましたら、是非、読んでみたいです。
なにかの全体構想上の俯瞰の観点から、マンの知力がそうさせている、そこまでは僕にも直感的にわかるのですが。

後日記2のつづき:
これはおそらく、作品の構想上、それまではどうみてもヨゼフ中心に進んできた物語を、ここでいったん、そのための助走ではないですけれども、新潮社版でいうところの最終第6巻へ向けて、それまで比較的地味な存在であったともいえる四男ユダに、読者の意識を向かわせたかったのではないでしょうか?
すなわち、性欲の強い、なかなか複雑な性格の持ち主だと、読者の関心をユダに振り向けさせておいて、第6巻のあの有名なユダの弁明(ユダの嘆願)へと劇的に繋げたかった、結びつけたかったのではないでしょうか?
そのための伏線が是非とも要るよ、というマンの判断からです。
そうでないと、すなわち、「タマル物語」が、旧約聖書通りにずいぶん前だと、「なんでここでユダが一人でずっと弁明しているの?」と、やはり作品として少し間が抜けてしまうのを、マンは演出的な観点から危惧したのではないでしょうか?
わかりません、あくまで僕の推測に過ぎません。

旧約聖書の構成さえも入れ替えてしまうマンの並外れた知性であるとも言えますし、逆に言うと、なんで旧約聖書は、その順番でよかったのか、ということにもなりますね。
これは確かに、マンの順番の方が、演出的効果は高まりますね。
「ユダって、少し前のところで、タマルだとわからずに、路傍の女を買ったあのユダだろ。それにしては、実に堂々とした立派な弁明をするではないか、すごいな!」と、通常、その印象として、結びつくのではないでしょうか?
旧約聖書の創世記の38章「ユダとタマル」は、その前後と脈絡を欠き、なんだかぽっかりと浮いていますから。
試みに、38章を飛ばして、37章から39章へとつなげて読むと、前後の意味がよく通じます。
ヨゼフがエジプトに売り飛ばされて、てっきり死んだものと思ったヤコブが嘆き悲しみ、「ユダとタマル」のエピソードが唐突に挿入され、その後、ヨゼフがポティファルの屋敷に連れて来られる。
不自然ですよね、これでは、どうみても。
でも、これには必ずなにか訳があるように思います。
そして、その理由について、マンがおそらく見当をつけていたであろうことも、十分に想像できます。
「理由が○○であるから、動かしてもよい」、マンはそのように判断したのかもしれませんね。
ここへきて、謎の解明のポイントが、旧約聖書の順番の方へと移ってきました。

2022年8月3日、4日、5日
和田 健

後日記3:
えーと、これはちょっと違うな。
僕が、後日記2に書いたことは、間違えたと思います。
一人で勉強していれば、間違えることはしょっちゅうあるし、別に恥ずかしいことではありません。
「僕は、間違えました」と言わないことが、恥ずかしいのであって。
まあ、そんなことは、今はともかくとして。

これは、旧約聖書の方は、ヨゼフがエジプトに売り飛ばされ、いよいよこれから世俗的な道を歩み出す、そのタイミングで「ユダとタマル」を並べ置く、祝福を授かるという観点から、将来的に非常に大きな意味を持ってくるヨゼフとユダの両者を、俯瞰した上での対比にあるのではないでしょうか、おそらく。
並置、並列、対比・・・。
ヨゼフはエジプトに着きました、一方、その頃、ユダは・・・、のような一つの手法。
頭のよい人であれば、この38章の時点で、「あれ、なんかおかしいぞ」と、「これは将来、ユダが浮かび上がってくるな」と、察したかもしれません。
僕にはまったくわかりませんでしたが。
つまり、改めて言うまでもないことですが、神の物語である創世記の作者である神は、この物語の結論を知っている訳ですから、どこの時点で両者を対比させるのかについて、かなり思案したのではないでしょうか。
そして、それは、ヨゼフがエジプトに着いて、ポティファルの屋敷に入り、世俗の道を歩み始める、まさにその時点がよいと判断したのではないでしょうか。

それに対して、マンの方は、演出的効果を高めるために、ユダ関連のエピソードを近づけた、近接させたのではなく(と言うのは、もし旧約聖書通りの順番であると、「タマル物語」は、新潮社版でいうところの、第2巻と第3巻の間になり、かなり以前になってしまいます)、これもヨゼフの内面から考えるのではないでしょうか。
ヨゼフが世俗的使命に忙殺されるようになり、今やマシーンのようになっているところに、ヨタヨタと路傍の女などを買っている悩めるユダを、旧約聖書とは異なる意味合いで、しかし同時に、これも両者の対比として、マンはあえて設定してきたのではないでしょうか?
つまり、マンは、ヨゼフの内面的な変化の度合いが、エジプトに着いた頃などよりも、より高まった時点でと言いますか、最高潮に達した時点で(そこには、ひたすら世俗性を深めるヨゼフに対する、マン一流の皮肉の意味合いも、もしかしたら多少含まれているかもしれません)、あえて両者の対比を試みてきたのではないでしょうか。
その方が、より強烈なコントラストになるだろうということです。

そして、有名なユダの弁明(嘆願)の場面で、ユダがヨゼフを「ああ、御主君様。・・・」と呼びかけるのは、神によくみられる皮肉が感じられます。
世俗的な祝福を本来の宗教的な祝福の上位に立たせるという、この場面には、神の皮肉が、結構、含まれているのではないでしょうか?
そして、実は、タマルがヨゼフの「世俗的な祝福」について、その本質を一番熟知しているのではないでしょうか、これもおそらくですが。

非常に難しいな、マンの「タマル物語」の順番入れ替えについてのこの問題は。

2022年8月6日
原爆の日に
和田 健

後日記4:
マンの「タマル物語」の順番入れ替え問題について、相変わらず考えています。
結局、この問題を解決するためには直接、「トーマス・マン日記」(紀伊國屋書店)にあたるのが一番賢明であり、何か新たな手がかりが得られるかもしれないと思いいたり、手元にあった「1940-1943」の巻を調べてみました。
その結果、いろいろなことが判明しました。
まずマンは、「ヨゼフとその兄弟たち」の第四部「養う人ヨゼフ」を、1940年8月10日土曜日に書き始めています。
そして、1943年1月4日月曜日に「養う人ヨゼフ」の最終行を、すなわち、1926年12月から足掛け18年にわたって書き継がれた作品「ヨゼフとその兄弟たち」全体の最終行を書き終えています。
この日の日記(p.817)は、大変印象深いものですので、少し抜き書きをしてみます。
(前略)朝食の後、結末近くまで仕事、上に上がって、爪の手入れ、洗髪、ひげ剃りを済ませ、また机の前に座って、ちょうどランチの合図があった時に「養う人ヨゼフ」の最終行、ということは、「ヨゼフとその兄弟たち」の最終行を書き終えた。興奮と悲しみを覚えた。しかし、こうして、どうにか仕上がったのだ。私はこれを、芸術と思想の記念碑というよりは、むしろ私の人生の一記念碑、執念の記念碑だと思う。—K(とはマン夫人のことです)は感動していた。(後略)

さて、この第四部執筆の期間の中で、「タマル」の章は、1941年12月2日火曜日に書き始められ、1942年1月16日金曜日に「「タマル」を再度完了。」と締めくくられ、全部で6話からなるこの章を書き終えています。

そこで、問題の核心になりますが、マンは、なぜ「タマル」の章を旧約聖書の順番から入れ替えたのか、に関することですが、僕の調べた範囲では、それにかかわる最も重要な記述だと思われるところは3箇所ありました。

まず、1箇所目は、1940年7月30日火曜日の日記(p.200)にみられる「午前中は「ヨゼフ」のノート類と取り組む。イェフダ(ユダのことです)の物語を前にもって来るべきだろうか。」というとても興味深い記述です。
これについての、非常に詳細な[訳注]には、「(前略)ヨゼフは、その父ヤコブまでの族長たちが神の祝福を伝える系譜に連なっているのに対して、その系譜から外れた人物なので、その意味では、ヨゼフの物語は「創世記」という神の祝福の物語の大きな挿話ということができるかもしれない。それに対してイェフダの物語は、「創世記」第三十八章でまさしく挿話的に語られているが、実は祝福の物語の本流に連なるものである。イェフダ(ユダ)はヤコブの四男で、奇妙な経緯からであるにせよ、祝福の系譜に連なったからである。そしてこの第三十八章は、ヤコブに偏愛されたその第十一子ヨゼフが兄弟たちにうとまれ、エジプトへ向かう隊商に売られ、さらにエジプトの高官の家に売られるいきさつを語る第三十七章とエジプトでのヨゼフの目覚ましい閲歴を伝える終わりの十二章との間に挿入された形になっている。トーマス・マンは、「ヨゼフとその兄弟たち」でヨゼフがエジプトで奴隷として売られた経緯を第三部「エジプトのヨゼフ」で扱い、そのあとにイェフダの物語を挿入する機会を見送っているので、最終第四部のどこにイェフダの物語(「タマル」)を挿入するか、執筆に先立って検討したのである。」(アンダーラインは僕が引きました)とあります。
問題は、アンダーラインの部分の見送った理由であり経緯なのですが、それについては触れられていませんね。

2箇所目は、1941年10月23日木曜日の日記(p.525, 526)にみられる「物語の進行についていろいろ思い巡らす。おそらくヘブロンへ再び目を向けなければならない。」という記述です。
これにもありがたいことに非常に詳細な[訳注]がついていて、「ヨゼフの父ヤコブはヘブロンに住んでいたから、ヨゼフもエジプトへ売り払われるまでは、当然アブラム(アブラハム)以来の、この父祖の地で暮らしていた。ところで、「ヨゼフ」物語そのものは、すでにヨゼフを軸にエジプトで展開して、ヨゼフの結婚に至っているが、おそくともこの段階で、神の祝福がヤコブから、ヨゼフ以外の誰にどのような経緯で伝えられたか、それが語られなければならない。旧約聖書では、この挿話はヨゼフのエジプト到着直後に語られているし、それをなぞる必要はなくとも、おそくとも兄弟たちとの再会に先立って神の祝福の「挿話」を挿入することが必要だと、トーマス・マンは判断したのだろう。とすればその舞台は当然ヤコブの住むヘブロンとその周辺ということになり、ヘブロンへ再び目を向けるというのは、このようにエジプトにおけるヨゼフの物語の中にイェホヴァの神の祝福の物語を挿入することを言うのである。」(同じくアンダーラインは僕が引きました)と、マンの「タマル」挿入の判断について解説されています。
[訳注]の中のイェホヴァは、もちろんイェフダ、すなわちユダのことだと思います。

3箇所目は、1941年10月29日金曜日の日記(p.530)にみられるより直接的な重要な表現である「「タマル」物語の挿入について検討したが、自信がない。」という記述です。
マンの率直な思いが吐露されるとともに、マンほどの大作家が自信がないだなんて、よほどこの問題については、頭を痛めていたのでしょうね。

結論として、マンは、「タマル」物語の挿入箇所について、相当悩みながら思案していたことはわかりましたが、なにゆえ旧約聖書の順番から、この物語の部分の順番を入れ替えたのかという事実を解明するための決定的な根拠は、「トーマス・マン日記 1940-1943」の巻からは、僕には残念ながらついに得られませんでした。

例えば、非常につまらない言い方になりますが、要は、この部分が「タマル」物語を挿入するのに、マンは最終的に妥当であると判断したということなのでしょうか?
逆に言うと、そんなに苦しむくらいなら、なぜマンは、旧約聖書の順番通りに「タマル」物語を入れなかったのだろう?
また、僕のもう一つの対案としましては、新潮社版でいうところの第4巻第七章の最終話「裁き」の後、第5巻の冒頭部「天上の諸階における序曲」の前に入れるというのは、いかがでしょうか?
そうしますと、第5巻第四章「許しの時」の全8話から、第6巻の第六章「神聖な演技」へと、要するに、10人の兄たちが初めてエジプトにやって来るところに話がつながり、なかなか悪くない流れになるかと思うのですが。
要するに、「ユダとタマル」の章は、どこに入れても唐突なんですね。
でも唐突だからで、それで問題を終わりにしないで、その順番が成立する理由について、これまで思考してきたのです。

結果から言えば、僕が、後日記3で考察したことから、なんだかさらに遠ざかってしまった感じもいたしますが、久しぶりに「トーマス・マン日記」を読んでマンの日常に再び触れたことは、非常に生々しい有意義な体験でした。
そして、以前、読んだときには気づかなかった新たな発見もあり、僕はそれを個人的なキーワードとして、「スピード感」と名づけましたが、大変貴重なものを得ることができましたので、今後の絵画の制作の展開に少しでも活かしていきたいと思います。

2022年8月18日 
和田 健

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