さて、東京に引っ越して来て、世田谷区立北沢中学校に入学すると、最初は、田舎から来たからとか、顔が変だからとかで、からかわれいじめられました。
別に不登校になったりとかはありませんでしたが、それでも容姿のことは、このことから、その後も長い間コンプレックスになって残りました。
中学校に入ると、当たり前のように野球部に入部しました。
入部して間もなく、三年生が春の世田谷区大会で優勝されて、その決勝戦を見学して強烈な印象を受け、同時に大きな憧れを抱きましたが、あまりにも新入部員の僕とは立場が違い過ぎて、三年生と親しくお話しできるという感じは、当時は全くありませんでした。
そして、三年間顧問だった恩師のY先生に見出され、中学校に入ってから初めてピッチャーを始めました。
中一の夏休みの野球部の練習は羽根木公園の野球場であり、その成果を試すために初登板初先発した町田市立南中学校で行われた練習試合のことは、今でもよく覚えています。
8月24日のものすごく暑い日で、3対2で完投して勝つことができて、試合後、水飲み場のところで、一学年上のキャッチャーだったWさんが「お前、絶対にレギュラーになれる!」と言ってくださったことが懐かしいです。
「なんだか暑いな暑いな」と思いながら投げていて、家に帰って夕刊を見たら当時としては記録的な37℃だったことを今でもよく覚えています。
ただし、その後はストライクが入らなくなり、ずいぶん僕も苦しみ、チームにもだいぶ迷惑をかけました。
当時は、一学年上のエースだったAさんが、とにかくみんなが唖然とするくらいとんでもなく速い球を投げていて、ピッチングのことをいろいろとたくさん教えていただいて、本当に心からお世話になりました。
同学年では、サードのNくんやショートのWくんが上手くて、一年生の秋からもうしっかりとレギュラーになりました。
ようやく、中二の新人戦が始まる直前の練習試合の頃から、ピッチングフォームを少しサイドスロー気味に変えたところ、ポンポンと面白いようにストライクが取れるようになり、秋の新人戦では、一回戦教育大附属駒場中に5回コールド7対0で勝って波に乗り、二回戦玉川中に6対0、準々決勝上祖師谷中に5回コールド8対1、準決勝で駒場東邦中学校に4対0で勝って、世田谷区の決勝戦まで勝ち進みました。
準決勝までの4試合で、失点は1点のみでした。
決勝では芦花中学校に負けましたが、僕の学年はとにかく芦花中学校が一番強かったです。
もちろん全試合完投しましたが、それが当たり前の時代でした。
当時の世田谷区の中学校の野球大会は、参加校が多くて、区立と私立、国立の中学校を合わせて32学校でしたか、33学校でしたか参加していて、5回勝たないと優勝できませんでした。
そのため、世田谷区だけ特別に2校、秋の新人戦の都大会に進めて、4番のMくんの逆転満塁ホームランで武蔵村山市立第一中に一回戦を6対4で勝って、青梅市立第三中との二回戦は2回までに6点とられ、後半1点ずつ追い上げたのですが、序盤の失点が大きく響き、追撃も及ばず4対6で負けました。
後輩のTくんがつけてくれていたこの試合のスコアブックが今でも残っていて、僕は148球も投げていたのですね。
これは今でしたら、中学生としてはちょっと多い球数ですが、当時は特に疲れなどはありませんでした。
(高二の夏に城西高校との練習試合で、180球投げた時には、さすがに最後、足にきていましたが(笑))
当時の都大会の会場は、上井草グラウンドでした。
世田谷区大会と都大会を合わせて、この秋の僕の打率はちょうど5割でした。
またこの秋には、最終回の2アウトまでが1回、最終回の1アウトまでが1回と、2回ノーヒット・ノーランのチャンスがありましたが、どちらも最後に打たれて達成できませんでした。
さて、上の写真ですが、この日もかなり暑い日で、とてもよく覚えています。
母が観に来てくれた前日の池尻中学校との夏の大会の一回戦を3対0で完封して迎えた二回戦のこの日、みんなで懸命に頑張りましたが、相手の駒留中学校の圧力のようなものがすごくて、点の取り合いのような感じになりましたが、僕のピッチングも踏ん張り切れず、押し出されるような形で、結局、この試合が中学校生活最後の試合になりました。
駒留中学校は、この試合の一、二年生で、秋の新人戦で都大会で優勝しましたので、やはり相当強かったのだと思います。
よく練習はしていましたが、たいしたピッチャーでもなかった僕を、いつも必死に守って盛り立ててくれたキャッチャーのTくん、ファーストのMくん、セカンドのKくんとTくん、サードのNくん、ショートのWくん、レフトのIくん、センターのTくん、ライトのYくん、それから当時はものすごく部員数が多くて、ベンチで応援してくれた3年生の部員には感謝しかありません。
僕は勉強も頑張っていて、中三の9月の実力テストで、初めて学年で一番になりました。
10月の実力テストでは学年で二番でした。
得意だった科目は数学で、中二の時に一月期の中間、期末、二学期の中間、期末、三学期の期末兼実力テストで五回連続100点を取り、中二の時は数学は一問も間違えませんでした。
そう言えば、中二の芦花中学校との決勝戦の日は、ちょうど二学期の中間テストの数学の当日だったことを、午前中に試験を終えて、その日の午後に投げたことを今突然思い出しました (笑)。
野球部を引退した後の中三の頃は、テストの時は、よく午前3時ごろまで勉強していたことを思い出します。
また、それまでは将来は高校野球の指導者になろうと考えていたのですが、北沢中学校で恩師のY先生に出会えたことで、高校野球はやはりセレクションを開催したり、スカウトして集めてくる選手によって結果が大きく違ってくるし、それであれば中学校は学区から集まる子供たちだけでお互いに試合をするので、その方がフェアだなと思い、将来はY先生のように中学校の先生になって、中学校の野球部の監督になろうと決めたのもこの頃です。
さてこの後、僕は当時有数の進学校だった東京都立戸山高校に進学し、野球 (ピッチャー) を続けますが、そこではやることなすことなにもかもが上手くいかず、苦闘と暗黒のまるで茨の道のような、青春などと言う言葉とはまるで無縁の三年間が始まります。
やはり今思い出しても、この三年間が僕の十代で一番苦しかったですが、よく自分を笑わずに最後まで頑張りました。
大学を卒業後は、公立中学校の教員になり、科目まで恩師のY先生と同じ理科でしたが、体を壊して教師を断念するまでの15年間、中学校の野球部の監督として、土日祭日などはなく生徒たちと共に野球に全力で打ち込みました。
そこまでが、僕の第一の人生で、その後、39才でゼロから絵を始めて今日に至るまでが、僕の第二の人生です。
2024年5月9日
和田 健