小中学校時代の思い出その1 ー野球のことなどー

1974(昭和49)年5月5日、ソフトボール部練習風景その1、その2、松戸市立常盤平第二小学校校庭、小学校五年

2008年にこのサイトを始めて以来、これまで16年間一度も書きませんでしたが、僕は、小学校中学校高校大学とずっと野球部でした。

大学では、それまでの真剣な感じの野球とは違い、半分趣味のようなサークル活動でしたが、幸いよいメンバーにも恵まれ、まだできたばかりのサークルでしたので、自分たちで他大学との新しいリーグ戦を立ち上げたりと楽しかったです。

野球は幼稚園の年長組の時に、まったく野球経験のない父と二人で始め、松戸市立常盤平第二小学校五年生の時に、五年生から入れる学校のソフトボール部に入りました。
松戸市内の小学校は当時はソフトボールが盛んで、軟式野球のチームはなく、ましてや今のようにやれリトルだ、シニアだ、ボーイズだなどはまったくなく、野球をやりたければ、誰でもそれはイコール、ソフトボールをやるというのが当たり前という感じでした。

今となっては、どうしていきなりサードを守ることになったのか、もうちょっと思い出せないのですが、とにかく僕の野球のスタートはサードでした。
ソフトボールは塁間が短いため、ましてやサードですから、ピッチャーの次にバッターに近いため、最初は先生のノックのボールがなかなか捕れず、守備が下手でした。
父と団地の家の近くの「はなみずき公園」に行き、至近距離からノックをしてもらい、何度も何度も守備の練習をしました。
その時、塁間よりも距離をやや短くして練習したことをよく覚えています。
特訓の甲斐があって、五年生の後半から少しずつゴロが捕れるようになりましたが、五年生の時はレギュラーにはなれず、六年生の選手の控えのサードでした。
それでも僕の守備は、この五年生の時に、だいぶ上達したように思います。
それから、とにかく目の前のゴロを捕るのにもう必死で、ずいぶん集中力もついたように思います。

僕の父は、大変な子煩悩で、日本橋の会社から当時は半ドンと呼んでいましたが、土曜日の午後に帰ってくると、土曜日の午後全部と、日曜日は一日全部、僕と野球やサッカーをしたり、姉とバドミントンをしたりしてくれました。
そのパターンは完全に決まっていて、土曜日の午後は上記しましたようにスポーツ、日曜日の午前は僕は8時から書道教室に通い、父は姉に勉強を教える、僕が帰宅した後の午前中は父と将棋を指し、日曜日の午後はまたスポーツで、これが雨でも降らなければ一年中続けられましたので、僕が野球やサッカーができるようになり、今日に至るまで毎日運動する習慣が身についたのは、これはもう完全に父のお陰です。
今思い出しても、例えば平日の仕事で今日は疲れているので少し休みたいとか、僕が思うことはあっても、父がそのように言い出すことはなく、父が土日は子供たちと一緒に運動し体を動かしたいという熱意と言いますか、体力と言いますか、ちょっとこれは驚異的だったなと思います。
父は祖父の転勤で家族と過ごした戦時中の和歌山県新宮時代に、米軍の空襲で左肘を貫通する重症を負い、左腕の腕力や握力があまりなかったものですから、運動経験がありませんでした。
運動が得意ではなかったのに、子供たちと一緒になって遊んでくれたその子煩悩ぶりは、おそらく当時、近所でもかなり有名だったのではないでしょうか。

さて、上の写真ですが、あれから今日でちょうど50年になるのですね、なんと半世紀です!
隣のショートを守っているのが、一学年上のKさんでキャプテンでした。
結局、小中高大と僕の野球人生を通じて、このKさんがNo.1のキャプテンでした。
素晴らしい統率力と言いますか、キャプテンシーで、守備がずば抜けて上手く、明るくきびきびしていて、声が大きく、いつもスッと姿勢がよかった。
隣のサードの僕がこんなに守れないのに、ダメだとか呆れたりとか、一度も暴言や暴力の類いはありませんでした。
いつも「ケン、ケン」って言って声をかけてくださいました。
Kさんからしてみれば、「こいつは守れないけれど、まだこんなんだから、まあ一生懸命にやっているし、しょうがないか」という感じだったのでしょうか。

それからエースだった六年生のAさんに、とても仲よくしてもらいました。
なにしろ、常盤平団地の四階に僕の家があったのですが、Aさんの家はその真下の三階でしたので、一学年先輩でしたがもう本当にいつも遊んでもらって、野球もたくさん教えてもらい、生まれた時からまるで幼なじみのようにして育ちました。
結局、この年の大会は隣の常盤平第一小学校に負けました。
小雨まじりの中、負けた試合後の先生との最後のミーティングを、先輩たちと聞いていたことをよく覚えています。
男の子の世界ですから、あの先輩は泣くかとか、ああやっぱり負けた時でも泣かないんだなとか、そんなことを気にしていたように思います。

その試合で、常盤平第一小学校のエースで投げていた六年生の方がWさんで、のちに阪神タイガースの監督にまでなりました。
僕も一打席だけ練習試合でWさんと対戦させていただきましたが、三振した記憶があります。

僕が小学校六年生の時に、常盤平第二小学校の五学年先輩のSさんが、まだ高校二年生でしたが夏の甲子園の決勝戦でサヨナラヒットを打って全国優勝されて、当然のことながら男の子たちの大英雄になり、当時の松戸市のソフトボールのレベルは相当高く、上手い子がたくさんいて、僕などは全然という感じだったように思います。

僕は「野球スコアのつけ方」という本を買って来て自分で勉強して、小学校四年生の時にはスコアブックをつけられるようになっていましたので、今でもこの小学校六年生の時の決勝戦のスコアが残っています。

また、小学校四年生の時に夏の甲子園の決勝戦をテレビで観ていて、広島商業の大利選手が最後代打で出てきて、サヨナラスクイズを決めて静岡高校に3対2で勝った瞬間に、雷に打たれたような衝撃を受け、ここがすごく摩訶不思議なところなのですけれども、将来は選手として甲子園を目指すのではなく、絶対に高校野球の指導者になろうと決心したのでした。

今はこういう時代ですから、ホームページですぐに常盤平第二小学校の写真とか見れるのですね。
びっくりしてしまいましたが、半世紀前の当時とグラウンドや三階建ての校舎の様子が、ほとんど変わっていないのですね。
外壁の大きな丸時計までが、今でもまったく同じ場所にかけてあって。
現地に行きたいか?いや、行きたくはないです。
現地に行けば、いろいろな思い出がこみ上げてきて、間違いなくすぐに泣くような気がしますから。

今思えば、みんなが同じような狭い間取りの団地住まいで、家族と濃密に接しながら暮らし、生活水準にもこれといったような違いもなく、お金持ちの子供など生まれてから見たこともなく、また特に見たくもなく、いつも男の子同士でたくさん集まっては野原を駆け回り、一年中遊ぶ中で育ってきた、そしてソフトボールを通していろいろな先輩や同級生を知ったことは、今の僕にかなり大きな影響を与えているなと思います。

(その2へ続く)

2024年5月5日
和田 健

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