無題 2020 No.8
2020年5月
北軽井沢 作品 No.401
画布にアクリル
91.0×72.7 cm
Untitled 2020 No.8
May 2020
Kitakaruizawa Works No.401
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.
Sans Titre 2020 Nº8
mai 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°401
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm
無題 2020 No.5
2020年5月
北軽井沢 作品 No.398
画布にアクリル
91.0×72.7 cm
Untitled 2020 No.5
May 2020
Kitakaruizawa Works No.398
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.
Sans Titre 2020 Nº5
mai 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°398
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm
今朝ニューヨークのアゴラギャラリーから連絡があり、ディレクターの Eleni Cocordas さんが新型コロナウイルスによる合併症のため5月1日に亡くなったことを知りました。今はすごく悲しい、そして悔しいです。彼女は横浜に住んでいたことがあり、日本文化に大変造詣が深く、2017年6月に僕がアゴラギャラリーで展覧会をした時に、真っ先に日本人の僕に話しかけてくれたのが彼女でした。穏やかで知的に話すエレガントな方でした。アート界にとっても日本人アーティストにとっても大切な方を失いました。何もできませんが、ちょうどこの新作をアップした日に彼女が亡くなったことを知りましたので、せめてこの絵を彼女に捧げます。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
和田 健
This morning I received an email from Agora Gallery in NYC and knew the passing away of Executive Director Eleni Cocordas, on May 1, 2020, due to complications from COVID-19. At first I could not believe it, I could not believe my eyes, now I am in shock and so deeply saddened by the news. She has lived in Yokohama and was very knowledgeable about Japanese culture. When I participated in the Agora Gallery’s exhibition in June 2017, she was the first person to talk to me at the opening reception. She was a very calm and elegant human who speaks intellectually.
We have lost her, which is important to both the art world and Japanese artists. I can’t do anything about it, but since I learned of the passing away on the day I uploaded this my new work, I dedicate this painting to her. My deepest condolences and blessings to Eleni, her family, loved ones, and all the staff of Agora Gallery.
Ken WADA
皆様、こんにちは。
今僕は写真のようなF30号の絵画を4枚制作中です。すべてまだ途中です。
前作を3月下旬にサインしてからのこの一ヶ月間、精神的にかなり追い込まれました。
結局、とことんやった結果、どうしてもこれまでの「描く表現」では、もう僕の中の何かがフィットしなくなり、我慢ができなくなりました。
「描く表現」の限界をつくづく感じました。
そして、もうしばらく描くのはやめよう、描くのはやめて作ろう、「作る表現」へと踏み出そう、この場合の「作る」は「創る」の字ではなくてあくまで「作る」の字の感覚です(「作る」で本当は十分なのではないのか、「創る」なんて大上段な構えは実は要らないのではないのか、という気持ちもあります)、そう思える自然なそして僕にとってはかなり大きな転換点・分岐点のようなものが訪れました。
絶望と裏腹のその瞬間は具体的には2020年4月21日の午後1時55分にやって来ました。
これからはしばらく「作る表現」を模索し格闘していきます。
今は「作り」始めたのだから当然楽しい、でもこれは同時にかなり難しい、そしてやがてまたいつの日か僕の心の中で「作る表現」にもフィットしないある限界点が訪れたら、、、また自分のその変化を受け入れて、自分を乗り越えて、あるいは壊して前へ進まなきゃね。芸術家は皆そうやって暗中模索の中、少しずつ前進して行くものなのでしょうね。答えがないから。
絵画を制作できるのは健康寿命の間だけだから、これからもとことんやろうと思います。
新作の4点、少しだけ期待してくださいね。
後日記
わかった! 結局、これは全取り替えの精神なんだ。絵画制作、結局、これは何かのリズムなんだな。もっとリラックスして制作したらどうか、日々の絵画制作をトレーニングとして行ったらいけない。前作やシリーズ化することに引き込まないこと、引き込むと天井(脳天)がつかえるから。制約や約束事が生まれるから。1点1点、分離・独立させること。どこでへも好きなところへ行って走り回っておいで。
姉 2
松戸市常盤平団地の自宅のベランダにて
1970年6月
撮影者: 母
姉と僕
My Sister 2
June 1970
Photographer: my mother
my sister and me
Ma Sœur 2
juin 1970
Photographe: ma mère
ma sœur et moi
姉、松戸市立常盤平中学校1年生。
僕、松戸市立常盤平第2小学校1年生。
朝の登校前、7時半頃だと思いますが、この時間には父はもう出勤していましたので、撮影者は間違いなく母です。
この小さなベランダにはたくさんの思い出があります。
カナブンをとってきて足に縫い糸を結んでベランダから放して遊びました。これは当時の男の子たちがごく普通にやっていた遊びでした。また春先になると千駄堀の畑まで歩いて行き、よくカエルやどじょう、ザリガニをつかまえて遊びました。僕はざるでどじょうをすくうのがうまかったですね。あの頃の子どもたちにとって憧れはマッカチと言っていましたが、ザリガニの非常に大きいやつでこれはさきいかを持って行って紐で吊るして釣らないといけない。ザリガニを160匹だかとってこのベランダに持って帰り、母を困らせました。当時はお百姓さんも大らかなもので田植え前の田んぼに子どもたちを入れてくれました。一度どじょうをすくっていてあまりに夢中になって片方の靴を畑の泥土の中に失くしてしまい、裸足で帰ったこともありました。写真の後ろの物置にカブトムシの幼虫を越冬させておいて、春先に羽化させたり、本棚の引き出しにカマキリの卵を入れておいて、翌年300匹だか床にぞろぞろ這い出してきて、うあ〜、カマキリの赤ちゃんて生まれた時からもうカマキリの形をしている〜、という僕の感動とは別に、母を困らせました。そうですね、カブトムシはあの頃の男の子にとって、もう何て言うか黄金の宝物でしたね。カブトムシ対ノコギリクワガタの千秋楽結びの一番とかやって盛り上がっていました。これにはちょっと組み合わせるときにコツが要るんです。まともにやるとカブトムシが圧勝しますから。相撲と言えば、全盛期に盲腸炎で突然亡くなった横綱玉の海関の大ファンで自分で母からもらった白い布に墨で頑張れ、玉の海と書いて応援旗を作り、テレビの前で熱心に振っていました。これには中学校から帰って来た姉も笑っていたな。小学校2年生の時、横綱が亡くなって、その翌日からピタッと相撲を観なくなりました。そうそうそれから、大切に飼っていた僕の亀がケースから逃げ出しこの4階のベランダから落ちてしまい、探しに行ったこともありました。ちゃんと無事に見つかって亀って丈夫だなあと感心したり、ベランダの鳥籠で飼っていた十姉妹が増えすぎちゃって大変なことになり、これも母を困らせました。
僕はとにかく手がつけられないほど腕白で、別に何か悪いことをする訳ではないのですが、毎日外を走り回っていないと気の済まない子でした。小学校から帰ると、ただいま〜、行ってきま〜す、と玄関にランドセルを放り出し、そのまま家には一歩も入らずに、暗くなるまで外でたくさんの友だちと遊びました。春・夏・秋は主に野球、冬はサッカー、小学校時代を通じて人の3倍は遊んだなという妙な自負があります。勉強なんてのは体が弱かったり、何か事情があったりして家にいなければいけない子がやるもんだと、かなり長い間真剣に思っていました。おやつなんか食べる子もどうかしている、おやつを食べる時間がもったいない、その分遊べなくなるじゃないかと思っていました。毎日走り回っていたので長距離走が速くなり、小学校3,4年生の時、校内の学年のマラソン大会で確か開校以来初の2連覇をしました。当時は1学年8学級もありましたので、すごくうれしかったです。休み時間に学校の図書館でオリンピックの本を見て、ザトペック選手の写真を見たりしてモチベーションを高め、さらに走っていました。子どもの頃に思う存分自然に触れ、野原を駆け回ったことが僕の絵にどのような影響を与えているのかについてはわかりませんが、あの頃は、自分がまさか将来、毎日森の中のアトリエで絵を描いたり本を読んだりして暮らすようになるとは、人間は勉強以外では絶対に向上できないと考えるようになるとは、夢にも思いませんでした。人間、得意なことと好きなことの区別はなかなかできないものです。子どもはもちろんですが、大人になってからもこれはかなり難しいことなのではないでしょうか。
「姉」というタイトルなのに、自分のことばかり長々と書いて失礼いたしました。
この写真からちょうど50年が経ちましたね。
姉はその後、娘時代に洗礼を受けクリスチャンになり、子どもたちの明るい優しい母親になりました。子どもたちも皆独立し、子育ても終わりました。
姉とは今日までもめ事や喧嘩の類は一切なく、何か困ったことがあれば話し合い協力して乗り越えながら何とかこれまで生きてきました。
姉には本当に感謝しています。
後日記
僕の人生においても、そしておそらくは誰の人生においてもそうだと思いますが、この後、いろいろとつらいことや悲しいこと、挫折や苦しい病気のこと、さらには地獄の底のような大きな絶望が続きました。当たり前のことですが、人生は子どもの頃に野原を駆け回っていたようにはいかない。でもあの頃はそんなことはわからなかったな、このままずっと走り続けて行けるような気がしていた。上述のような小さなエピソードならあと50や100は書けると思いますが、何故か重要だなと思うことをあと2つだけ、僕は子どものころ授業中クラスのみんなを笑わせることがとても好きな子どもだったということ、小学校6年間ほとんど毎時間これに熱中していました。あともう一つは非常に神経質な子どもだったということ、これは自分で自分は神経質だなあと子どもながらによく感じていました。
姉 1
姉の春休みに松戸市常盤平団地の自宅前の芝生にて
1967年3月
撮影者: 母
姉と僕
My Sister 1
March 1967
Photographer: my mother
my sister and me
Ma Sœur 1
mars 1967
Photographe: ma mère
ma sœur et moi
姉9才、僕3才。
姉はとにかく真面目でおとなしい人でした。
小学校から帰ると真っ先に宿題を済ませ、その後は本を読んでいました。
夕方になると毎日決まってピアノの練習をかなりの長時間熱心にしていました。
そんな素晴らしい6才上の姉に対して、僕にはどうやってコミュニケーションをとればよいのかわからない、何か気恥ずかしさや照れ臭さのようなものがあったのだと思います。
姉が練習している時、ピアノの隅っこの鍵盤をよく思いっきりボーンとたたいたり、姉が結んだ髪の毛をしょっちゅう後ろにぐっと引っ張ったりしていましたが、優しい姉はついに一度も怒りませんでした。
僕にとっては今日に至るまで、いつでも信頼できる敬愛する大切な姉ですが、こんな弟では話し相手にもならないし、姉にとってはさぞかし物足りなかっただろうと思います。
お話にならないと思ったのか、兄弟喧嘩らしい喧嘩もほとんどといってよいほどありませんでした。
母 3
松戸市常盤平団地の自宅近くの熊野神社にて
1963年6月23日
撮影者: 父
母、姉と僕
My Mother 3
June 23, 1963
Photographer: my father
my mother, my sister and me
Ma Mère 3
23 juin 1963
Photographe: mon père
ma mère, ma sœur et moi
Mother
My first memory about you was when I was two or three.
I looked up at you in front of the closet.
You always wore your handmade clothes.
You always put on your makeup with cheap cream.
You always tied your hair with a rubber band.
You made homemade food for my sister and me every day,
so she and I never ate frozen food.
You always ate a little.
I was a child, but I knew well you would eat a little for your children.
We lived in a small housing complex, but there was nothing wrong with it for me.
For a long time, there was no vacuum cleaner in our house, but the house was always clean and tidy.
Everyone was still asleep on Sunday morning, but you baked me a fried egg.
I ate it and ran to the calligraphy class.
It is my tiny life’s pride that I was raised by a person like you.
母
あなたについての最初の記憶は僕が2才か3才の時だった。
僕は押し入れの前であなたを見上げていた。
あなたはいつも手作りの服を着ていた。
あなたはいつも100円のクリームでお化粧をしていた。
あなたはいつも輪ゴムで髪を縛っていた。
あなたは毎日姉と僕に手作りの料理を作ってくれた、
それで姉も僕も冷凍食品を一度も食べたことがなかった。
あなたはいつも少ししか食べなかった。
子供だったけれど、僕にはあなたが少ししか食べないのは子供たちのためなのだとよくわかった。
みんなで小さな団地に住んでいたけれど、それで僕には何の不自由もなかった。
長い間、家には掃除機がなかったけれども、家の中はいつも清潔できれいだった。
日曜日の朝まだみんなは眠っていたけれども、あなたは僕に卵を焼いてくれた。
僕はそれを食べて書道教室に駆け出して行った。
あなたのような人間に育てられたことは僕の小さな生涯の誇りです。
母 2
河口湖遠足、千代田区立今川中学校1年生の時
1948年秋
撮影者: 不明
向かって右から左へ: 母、お友だちの M.I. さん
My Mother 2
Autumn 1948
Photographer: unknown
from right to left: my mother, classmate
Ma Mère 2
Automne 1948
Photographe: inconnu
de droite à gauche: ma mère, camarade de classe
僕の母は、日本橋で生まれて、神田で育ちました。
戦時中は埼玉県行田市の東福寺に集団疎開し、その後家族で長野県長野市川中島領家の親戚を頼って疎開し終戦をそこで迎えました。
1945年3月10日の東京大空襲で神田の家は全焼し、
焼け跡に母の父が6畳二間のバラック小屋を建て家族で生活しました。
お皿やお茶碗は花街の焼け跡を母親と掘って見つけました。
中学校を卒業すると、母は御茶ノ水にあった専門学校に進学し午前は英語を午後はタイプを2年間学びました。
どちらも成績は一番で在学中から校長先生に少し仕事を回してもらっていました。
卒業後はすぐに東京駅の丸ビルの貿易会社で英文タイピストとして働きました。
もらったお給料で夜はYMCAで英語を、アテネ・フランセでフランス語を学びました。また会社内のサークルでドイツ語も学びました。
回ってきた原稿をそのまま(abcで)打つのではなく、意味がわかるようになりたかったから、とよく言っていました。
日本橋の商事会社に英文タイピストとして移った後、21才で5才上の父と職場結婚し家庭に入り、牛乳配達や眼科の受付、保育園のお手伝い、
特に一番長くやっていた和裁の先生などの内職をしながら、姉と僕の二人の子どもに無限の愛情を注いで、懸命になって育ててくれました。
今は母は体調を崩し、いろいろなことができなくなりましたが、僕の小さな人生において、母の子どもに生まれたことは最大の幸運であり幸福です。