無題 2020 No.9
2020年6月
北軽井沢 作品 No.402
画布にアクリル
91.0×72.7 cm
Untitled 2020 No.9
June 2020
Kitakaruizawa Works No.402
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.
Sans Titre 2020 Nº9
juin 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°402
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm
今日から新しい4作品に着手=Paint1。
珍しく初日の段階の写真を撮ってみる。
今度のテーマ=Plan は下地に白、上にピンクと黄と青。
僕の場合は絶対に最初の Plan 通りにはいかないので、今はまだどうのこうの言っているような段階では全くないので、描いていてとても楽しい。
毎日が今朝のような初日だったらいいのに。煮詰まってくると、一手一手がまるで詰将棋のようになり、とてもこうはいかない。
この段階でまず確認しておくことは、個人的に「面取り」と呼んでいるけれど、
色ごとの面積比、これをしっかり把握しておきます。
あとはこの場合だと、ピンクの色にどのピンクを使うか、つまりピンクが主要色になる予感があるから、青はどの青でいくのか、黄はまずまず決まったな、とかそういうこと。ピンクを2種類、青を2種類、試しました。
さてさてこの後、何色で塗り潰しが来るのでしょうか?
基本的には補色で来る訳だけれど、例えば最終的に Green Painting にもっていきたいのなら下地に赤を多く入れる、でもそんなことにとらわれなくていい、もうそんなことにとらわれなくていいんです、もうそんなことからは自由になりました。絵画は生き物だから、絵画は先が読めないから、絵画は展開が見えないから、だからこそ決して飽きることがないんです。色と形の変化に人間の脳が決して追いつけないからこそ絵画は楽しいのです。そこで脳のために時間を稼ぐ、猶予時間を作り出すことがどうしても必要になります。先日そのためのちょっとした施策を思いつきました。早速実行してみるつもりです。別になんてことはない手段をどうして今日まで思いつかなかったのだろう?
それからちょっと違う話になりますが、こうした日々の制作に対するモチベーションも要らない、元々が僕の生活はもうずっと以前からモチベーションなしでも必死に生きてきたようなものだから、モチベーションなんて静かな気持ちから本当に要らないんです。つまり、個展があるからとか展覧会があるからとか多くの人に観てもらえるからとか、だから意欲・動機づけになって僕は頑張れますとか、これからも毎日頑張りますとか、要らないんです。モチベーションなんてなければないで生きていけるんです、元来が余分なものなんです、本当です。要は慣れの問題なんです。腹のたるんだ贅肉とまるで同じだ、おっとこれはいけない、気をつけよう!
個人的には今日の制作で左側の2枚がピタッと繋ぎ合ったのが面白かった、これはこの配列で並べたことも含めて全くの偶然です。こういうのは終わった後、ちょっとクスッと笑えます。
2020年5月20日
和田 健
後日記
2020年5月22日 Paint2、すなわち選択は白。右から1番目上がる。右から2番目、下がる、没、ダメ。右から3番目、ごく普通、ただ一部分観るところはある。右から4番目の左角に une obrique が欲しかった。こんなのは明日刷毛で入れて即確認。であれば、右から1番目を一つのモデルケースにして全体を高められればよさそうなものだけれども、絵画はそうはいかない、ここが絵画の実に面白いところなんです。僕の人生経験から言って、他の分野の仕事であれば一つの雛形をモデルにしてもう少し何か作れる、もう少し何かある程度できる、でも絵画はそうはいかない。一点一点奔放なんです、解放なんです、一つに集約しないんです。でも人間は論理的思考によってつい集約したがる、ついまとめたがるんです。人間ってホントまとめるのが好きですよね。だから前にも何回もこのサイトに書きましたように色と形に遊んでもらう感じが大切で、色と形を支配しない、コントロールしない、征服しようとしない。解放と集約を履き違えない。この後、Paint3 はピンクで見えているので、選択は楽です、Paint1 でピンクはシェルピンクで、とりあえず行き詰まるまではシェルで確認済み。明日の朝シェル入れてまたView、さあ〜いくぞ〜って感じ。そしておそらくその後、黄、青と入れてまた白、この4色入れを3回繰り返すと思います。4回かもしれない、その時点で次のキーワード、個人的に「全取り替え」と呼んでいるものがおそらく出てくる。feeling が fade するからです。これは文字通りトランプの手札の全取り替えと同じです、全てを捨てないと何かを得られない。じゃあ、この後その通り進んでいくのかと言ったら、これが進まない。つまり絵画は手順化・法則化できない。ここがこの仕事の実に面白いところで、繰り返しになりますが他の仕事であればもう少しマニュアルというものが必然的に浮かんでくると思う。つまり絵画には熟練できないのだと思います、いつまでも一年生と言うか、あと20年続けたとしても熟練できないんだろうな、引き出しや経験が増えるだけで。そこが絵画の魅力と言うか生物(なまもの)と言うか、本当に面白いところなんです。でも熟練できない仕事でよかったな、熟練して大御所みたいになって・・・・そんな人生はまっぴらだ!
ね、モチベーションなんて要らない!
続後日記
2020年5月23日 Paint3終了。右から2番目、少し上がってきた。
ではその熟練できない絵画の、集約できない絵画の、その制作の繰り返しの日々の人生をこれからどうやって生きていくかと言うと、これが実は中心にあるものは愛なんだな、ようやくそのことに気がつきましたってえらそうに言っても、それがわかった、あるいはつかみかけてきたのは、本当にここ半年くらいです。でもわかった。絵画・人生に一番必要なものは愛です。そんなことは若い頃はわからなかったな。でも年齢とともに愛の要る仕事でよかったな、年齢とともに愛の増える仕事でよかったな。年齢とともに愛の増える人生でありたいです。
そして最終目標は顔真卿の「祭姪文稿」、この恐ろしく美しいものを絵画として描く。「祭姪文稿」をピンクで描けない訳がない、青で描けない訳がない。一人の中国人にできたことが一人の日本人にできるかな、わからない、挑戦してみないことにはわからない。しかしちょっと目標が高すぎやしないか。「祭姪文稿」の絵画化はおそらく同じく最終目標である「鳥類の聖書」でもあり、僕の中で重なり合うのだと思います。うん、わかった、つまり、高すぎる目標の場合は、同じだと感じるもの(事例)を増やしていけばいいんだ、そこから実は真正面が見えてくるかもしれない、見えてこなければ即次の手段を考える。失敗したら素早く立ち上がる、ドロドロそんなところに腰掛けていない。明日、Paint4黄とPaint5青二ついきます。
毎日、こんなことを書いていると延々と続いてしまうので、この4点の完成まで一応ここでやめますね?
ーやめません。今朝(2020年5月24日付)の The New York Times の一面には魂を激しく揺さぶられた。これがメディアだろう、これこそがジャーナリズムの気迫だろう。この一面の実現は、アイデアだとか企画だとかという次元の簡単な話ではない。リベラルな文化の彼我の差を痛感した。会ったこともない一人一人の何故か笑顔が行間から立ち昇ってくるようだった。みんな、もっと生きたかったんだろうな。みんな、もっと生きていたかったのだろうな、という思いに胸を締めつけられるようだった。さあ、生き残った僕は、生きている僕は、せめて絵画の制作を頑張ろう。 上述の最終目標はもしかしたらもうすぐそこまで来ているのかもしれない。昨日、制作の後、筆を洗っている時にふとそう思った、時間にして10秒くらい。すぐに「ええ〜、まさかなあ〜」、というつぶやきにとって変わられた。最終目標はあと何十年も努力してようやく得られるかもしれない境地だと常に思ってきたから。お前こそがリベラルな文化の少なき民そのものだ、どうしてすぐに「まさかなあ〜」なのだ。そんな条件反射ばかり鋭くなってお前は一体これまで何を学んできたのか?
無題 2020 No.5
2020年5月
北軽井沢 作品 No.398
画布にアクリル
91.0×72.7 cm
Untitled 2020 No.5
May 2020
Kitakaruizawa Works No.398
Acrylic on canvas
36.0×29.0 in.
Sans Titre 2020 Nº5
mai 2020
Kitakaruizawa Œuvres N°398
Acrylique sur toile
91.0×72.7 cm
今朝ニューヨークのアゴラギャラリーから連絡があり、ディレクターの Eleni Cocordas さんが新型コロナウイルスによる合併症のため5月1日に亡くなったことを知りました。今はすごく悲しい、そして悔しいです。彼女は横浜に住んでいたことがあり、日本文化に大変造詣が深く、2017年6月に僕がアゴラギャラリーで展覧会をした時に、真っ先に日本人の僕に話しかけてくれたのが彼女でした。穏やかで知的に話すエレガントな方でした。アート界にとっても日本人アーティストにとっても大切な方を失いました。何もできませんが、ちょうどこの新作をアップした日に彼女が亡くなったことを知りましたので、せめてこの絵を彼女に捧げます。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
和田 健
This morning I received an email from Agora Gallery in NYC and knew the passing away of Executive Director Eleni Cocordas, on May 1, 2020, due to complications from COVID-19. At first I could not believe it, I could not believe my eyes, now I am in shock and so deeply saddened by the news. She has lived in Yokohama and was very knowledgeable about Japanese culture. When I participated in the Agora Gallery’s exhibition in June 2017, she was the first person to talk to me at the opening reception. She was a very calm and elegant human who speaks intellectually.
We have lost her, which is important to both the art world and Japanese artists. I can’t do anything about it, but since I learned of the passing away on the day I uploaded this my new work, I dedicate this painting to her. My deepest condolences and blessings to Eleni, her family, loved ones, and all the staff of Agora Gallery.
Ken WADA
皆様、こんにちは。
今僕は写真のようなF30号の絵画を4枚制作中です。すべてまだ途中です。
前作を3月下旬にサインしてからのこの一ヶ月間、精神的にかなり追い込まれました。
結局、とことんやった結果、どうしてもこれまでの「描く表現」では、もう僕の中の何かがフィットしなくなり、我慢ができなくなりました。
「描く表現」の限界をつくづく感じました。
そして、もうしばらく描くのはやめよう、描くのはやめて作ろう、「作る表現」へと踏み出そう、この場合の「作る」は「創る」の字ではなくてあくまで「作る」の字の感覚です(「作る」で本当は十分なのではないのか、「創る」なんて大上段な構えは実は要らないのではないのか、という気持ちもあります)、そう思える自然なそして僕にとってはかなり大きな転換点・分岐点のようなものが訪れました。
絶望と裏腹のその瞬間は具体的には2020年4月21日の午後1時55分にやって来ました。
これからはしばらく「作る表現」を模索し格闘していきます。
今は「作り」始めたのだから当然楽しい、でもこれは同時にかなり難しい、そしてやがてまたいつの日か僕の心の中で「作る表現」にもフィットしないある限界点が訪れたら、、、また自分のその変化を受け入れて、自分を乗り越えて、あるいは壊して前へ進まなきゃね。芸術家は皆そうやって暗中模索の中、少しずつ前進して行くものなのでしょうね。答えがないから。
絵画を制作できるのは健康寿命の間だけだから、これからもとことんやろうと思います。
新作の4点、少しだけ期待してくださいね。
後日記
わかった! 結局、これは全取り替えの精神なんだ。絵画制作、結局、これは何かのリズムなんだな。もっとリラックスして制作したらどうか、日々の絵画制作をトレーニングとして行ったらいけない。前作やシリーズ化することに引き込まないこと、引き込むと天井(脳天)がつかえるから。制約や約束事が生まれるから。1点1点、分離・独立させること。どこでへも好きなところへ行って走り回っておいで。
姉 2
松戸市常盤平団地の自宅のベランダにて
1970年6月
撮影者: 母
姉と僕
My Sister 2
June 1970
Photographer: my mother
my sister and me
Ma Sœur 2
juin 1970
Photographe: ma mère
ma sœur et moi
姉、松戸市立常盤平中学校1年生。
僕、松戸市立常盤平第2小学校1年生。
朝の登校前、7時半頃だと思いますが、この時間には父はもう出勤していましたので、撮影者は間違いなく母です。
この小さなベランダにはたくさんの思い出があります。
カナブンをとってきて足に縫い糸を結んでベランダから放して遊びました。これは当時の男の子たちがごく普通にやっていた遊びでした。また春先になると千駄堀の畑まで歩いて行き、よくカエルやどじょう、ザリガニをつかまえて遊びました。僕はざるでどじょうをすくうのがうまかったですね。あの頃の子どもたちにとって憧れはマッカチと言っていましたが、ザリガニの非常に大きいやつでこれはさきいかを持って行って紐で吊るして釣らないといけない。ザリガニを160匹だかとってこのベランダに持って帰り、母を困らせました。当時はお百姓さんも大らかなもので田植え前の田んぼに子どもたちを入れてくれました。一度どじょうをすくっていてあまりに夢中になって片方の靴を畑の泥土の中に失くしてしまい、裸足で帰ったこともありました。写真の後ろの物置にカブトムシの幼虫を越冬させておいて、春先に羽化させたり、本棚の引き出しにカマキリの卵を入れておいて、翌年300匹だか床にぞろぞろ這い出してきて、うあ〜、カマキリの赤ちゃんて生まれた時からもうカマキリの形をしている〜、という僕の感動とは別に、母を困らせました。そうですね、カブトムシはあの頃の男の子にとって、もう何て言うか黄金の宝物でしたね。カブトムシ対ノコギリクワガタの千秋楽結びの一番とかやって盛り上がっていました。これにはちょっと組み合わせるときにコツが要るんです。まともにやるとカブトムシが圧勝しますから。相撲と言えば、全盛期に盲腸炎で突然亡くなった横綱玉の海関の大ファンで自分で母からもらった白い布に墨で頑張れ、玉の海と書いて応援旗を作り、テレビの前で熱心に振っていました。これには中学校から帰って来た姉も笑っていたな。小学校2年生の時、横綱が亡くなって、その翌日からピタッと相撲を観なくなりました。そうそうそれから、大切に飼っていた僕の亀がケースから逃げ出しこの4階のベランダから落ちてしまい、探しに行ったこともありました。ちゃんと無事に見つかって亀って丈夫だなあと感心したり、ベランダの鳥籠で飼っていた十姉妹が増えすぎちゃって大変なことになり、これも母を困らせました。
僕はとにかく手がつけられないほど腕白で、別に何か悪いことをする訳ではないのですが、毎日外を走り回っていないと気の済まない子でした。小学校から帰ると、ただいま〜、行ってきま〜す、と玄関にランドセルを放り出し、そのまま家には一歩も入らずに、暗くなるまで外でたくさんの友だちと遊びました。春・夏・秋は主に野球、冬はサッカー、小学校時代を通じて人の3倍は遊んだなという妙な自負があります。勉強なんてのは体が弱かったり、何か事情があったりして家にいなければいけない子がやるもんだと、かなり長い間真剣に思っていました。おやつなんか食べる子もどうかしている、おやつを食べる時間がもったいない、その分遊べなくなるじゃないかと思っていました。毎日走り回っていたので長距離走が速くなり、小学校3,4年生の時、校内の学年のマラソン大会で確か開校以来初の2連覇をしました。当時は1学年8学級もありましたので、すごくうれしかったです。休み時間に学校の図書館でオリンピックの本を見て、ザトペック選手の写真を見たりしてモチベーションを高め、さらに走っていました。子どもの頃に思う存分自然に触れ、野原を駆け回ったことが僕の絵にどのような影響を与えているのかについてはわかりませんが、あの頃は、自分がまさか将来、毎日森の中のアトリエで絵を描いたり本を読んだりして暮らすようになるとは、人間は勉強以外では絶対に向上できないと考えるようになるとは、夢にも思いませんでした。人間、得意なことと好きなことの区別はなかなかできないものです。子どもはもちろんですが、大人になってからもこれはかなり難しいことなのではないでしょうか。
「姉」というタイトルなのに、自分のことばかり長々と書いて失礼いたしました。
この写真からちょうど50年が経ちましたね。
姉はその後、娘時代に洗礼を受けクリスチャンになり、子どもたちの明るい優しい母親になりました。子どもたちも皆独立し、子育ても終わりました。
姉とは今日までもめ事や喧嘩の類は一切なく、何か困ったことがあれば話し合い協力して乗り越えながら何とかこれまで生きてきました。
姉には本当に感謝しています。
後日記
僕の人生においても、そしておそらくは誰の人生においてもそうだと思いますが、この後、いろいろとつらいことや悲しいこと、挫折や苦しい病気のこと、さらには地獄の底のような大きな絶望が続きました。当たり前のことですが、人生は子どもの頃に野原を駆け回っていたようにはいかない。でもあの頃はそんなことはわからなかったな、このままずっと走り続けて行けるような気がしていた。上述のような小さなエピソードならあと50や100は書けると思いますが、何故か重要だなと思うことをあと2つだけ、僕は子どものころ授業中クラスのみんなを笑わせることがとても好きな子どもだったということ、小学校6年間ほとんど毎時間これに熱中していました。あともう一つは非常に神経質な子どもだったということ、これは自分で自分は神経質だなあと子どもながらによく感じていました。
姉 1
姉の春休みに松戸市常盤平団地の自宅前の芝生にて
1967年3月
撮影者: 母
姉と僕
My Sister 1
March 1967
Photographer: my mother
my sister and me
Ma Sœur 1
mars 1967
Photographe: ma mère
ma sœur et moi
姉9才、僕3才。
姉はとにかく真面目でおとなしい人でした。
小学校から帰ると真っ先に宿題を済ませ、その後は本を読んでいました。
夕方になると毎日決まってピアノの練習をかなりの長時間熱心にしていました。
そんな素晴らしい6才上の姉に対して、僕にはどうやってコミュニケーションをとればよいのかわからない、何か気恥ずかしさや照れ臭さのようなものがあったのだと思います。
姉が練習している時、ピアノの隅っこの鍵盤をよく思いっきりボーンとたたいたり、姉が結んだ髪の毛をしょっちゅう後ろにぐっと引っ張ったりしていましたが、優しい姉はついに一度も怒りませんでした。
僕にとっては今日に至るまで、いつでも信頼できる敬愛する大切な姉ですが、こんな弟では話し相手にもならないし、姉にとってはさぞかし物足りなかっただろうと思います。
お話にならないと思ったのか、兄弟喧嘩らしい喧嘩もほとんどといってよいほどありませんでした。