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ブッデンブローク家の人びと

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 20 November 2020 by kenwada

この秋、渡邊一夫氏の「フランスルネサンス斷章」(岩波新書)を昭和25年発行の初版で読み、次にトーマス・マン、渡辺一夫の「五つの証言」(中公文庫)へと進み、アンドレ・ジードの序文を読んだ時に、そう言えばまだトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」を読んでいないなと思い、10月8日に読み始め、11月17日に読み終わりました。
これでトーマス・マンの3大作を読んだ順に、「魔の山」(岩波文庫、上下巻)、「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房、全3巻)、「ブッデンブローク家の人びと」(岩波文庫、上中下巻)と今ごろになってすべて読み終わりました。
何事も非常に遅い僕の人生の歩み、そのものですね。
順番をつける問題ではありませんが、一番面白かったのは、「ヨセフとその兄弟」です。
「ヨセフとその兄弟」についての印象は、以前当サイトに少し書かせていただきましたので、ご紹介いたします。
https://kenwada2.com/2016/01/22/ヨセフとその兄弟/

「ブッデンブローク家の人びと」は、これは何と言っても、何故25才の青年がこのような親子4代にわたる物語を書くことができたのか、もうこの一点に尽きます。
このことだけを上巻、中巻あたりまで、メモを取りながら、ただひたすらずーと考えていました。
通常あり得ない、他のいわゆる文豪の方たちの若い時の作品に比べてもあり得ない、何か違和感すら覚える、異様な感じがする、天才だから書けた、それでは僕の疑問は解決しない。
そこで以前、マンの時間の使い方に焦点を当てて、「トーマス・マン日記」(紀伊國屋書店)を読んだ経験から、自分なりの仮説をたててみました。
以下、全くの初心者の私論です。
逆に世の中には、相当数のマンの研究者、専門家の方がいると思いますので、大学のドイツ文学の先生方の間では、当然数えきれないくらい議論が交わされ研究され尽くしたであろうこの問題について、現在どのような統一の見解が出されているのでしょうか。
仮説1は、「トーマス・マン日記」を読むと、主に夕食後に家族を前にして日常的な習慣として繰り返し行われる自作の朗読というキーワードが浮かび上がってきます。
おそらく幼少期から兄ハインリヒは当然として、兄弟間で、または家族で、毎日のようにこの自作の物語の朗読会を繰り返していたのではないか。
それによって、ごく幼い頃から物語を語る能力が養われ、25才にしてすでに十二分に熟成されていたのではないか。
このことは、「ブッデンブローク家の人びと」の中ではハンノの唯一の友人であるカイ少年の姿にも重なります。
仮説2は、このブッデンブローク家の物語がほぼ実話なのではないか、その部分の強みである程度書き進められたのではないか、そうであっても驚異的ですが、そんなことを思いながら読み進めてきたのですが、下巻の参事会員が妻が少尉といる階上の深い静けさに耳を澄ませるシーンなどは、やはり何か違和感がある、つまり仮説1+2では割り切れないものを感じました。
また中巻でフィシャー街に参事会員が華麗な夢のような邸宅を新築したあたりから、次第に精気を失っていく様子の細やかな描写も上手すぎる。
家を新築したあたりから人生が下り坂になっていくという現象は、世間でよくみられることだと思いますが、25才の青年がここまでこと細やかに、それを俯瞰して総合的にとらえられるというのは、何か少し不自然な感じがする。
そこで僕の仮説3が出てきて、マンは何らかの意味で、ものすごく早く社会に出た/接触したのではないか、というものです。
意味でというのは、例え家の中で生活していても、もう社会に出ているような何らかの意味合いが、そこに事実としてすでに生じていたのではないか、ということです。

後の「魔の山」への萌芽もたくさん感じました。
トラーヴェミュンデの全てのシーン、特に下巻で参事会員が激しい雨の中、療養ホテルで雑談にふける場面。
これだけ多くの登場人物がいて、主人公は誰だということになれば、さかれているページ数から言えば、一応、参事会員トムことトーマスになるのだと思いますが、僕がすごくひかれたのは、その妹のトーニことアントーニエです。マンはこの世に素晴らしい一人の女性を送り出しました。この女性は美しい、圧倒的に美しい。特に下巻でメング通りの実家が売却された後、「往来のまん中で、多くの通行人が見ているまえで、ぽいぽいと泣き出した。これからさえずろうとする小鳥のように頭を反り返らし、・・・通行人の姿は目にはいらなかったし、・・・流れる涙を拭こうともしなかった。トーニらしい、人目をはばからない、子供のようなすがすがしい泣きようであって、人生のたびたびの嵐と難船にも失なわなかった泣きようであった。」2度の離婚を乗り越えて、トーニだけは、いつどの場面で出てきても、いつだってトーニはトーニなんですよね。いつだって愛らしい上唇を少し突き出して、上半身を反り返らせて、感じやすい善良な心をもち、いつまでたっても少女のようなお転婆娘で・・・、現代の一人の女性として、これからの未来の女性像として考えても大変な魅力です。

そして読者にとっては、あれっていうくらい、トーマスが実にあっけなく亡くなり、まるで余ったページの付録のように、何故その後、ハンノの一日の話がだらだらと続くのかなと、正直なところ最初はそう思いながら、下巻の最後の部分を読み進めて、ところがところがですね、圧巻はここからでした。
これはその辺りの優等生や秀才には、間違っても書けない。
学校の授業のこのシーンはすごいですね。
マンは余程、劣等生と言うか、反抗的と言うか、学校、校長、教師、そういったありとあらゆる権威と名のつくものに対する憎悪、吐き気、敵対心、そして恐怖。
それとともに級友たちの実に生き生きとした描写。級友たちに注がれるユーモアに富んだ温かい眼差し。こちらは同級生の横の関係であり、同列だからですね。
この第11部の第2章は、並行してどこかに別に執筆しておいたものを、小説の構成上、最後になって、ここにどんと入れたのだろうか。
1901年の小説が2020年にまるで鮮度が失われていない、すごいなあ。

それで、どうしてハンノ少年までチフスで死ななければいけなかったのだろう。このマンの意図はわからない、これではちょっと救いようがないではないか。副題の「ある家族の没落」と言うよりも、壊滅、死滅のようなものに近くなってしまう感じがする。それ以前に、すでに「ヨハン・ブッデンブローク」商会は、精算して、解散しているのだから、何も死ななくてもよいのではないか。この少年は現実的な能力の乏しいままに、それでもなおピアノに寄り添いながら、ひっそりと生きていくという選択肢を何故取らなかったのだろう。

最後に、一番美しかったシーンは、上巻でトーニがトラーヴェミュンデの海沿いのシュワルツコップ家でモルテン青年と過ごす「たのしい夏の何週間」の日々でした。
一番絵画としてとらえられたのは、これも上巻でトーマスがフィシャー街にある「入り口のドアがせまく、小さなひっそりとした花の店」で、アンナと話す場面です。
中巻の記述では、「貧弱なショーウィンドーの緑色のガラス板の上に二、三の球根植物の鉢がならべられている小さい店」となっていて、この緑色のガラス板の上という描写にひかれます。
アンナは最後、弔問客としてトーマスに告別に来ますね。

リューベックには行ったことがありませんが、何故かトラーヴェミュンデの場面で、フランスのノルマンディーの海岸を、特に僕の大好きな Manche 県の静かな恐ろしく静かな海岸を思い出しました。

The sea of Normandy 3, 2009, Gouville sur mer, Manche, France
Watercolor on paper, 31.8×41.0 cm

これから気になったところ、印象に残ったところを、部分部分で読み込んでみます。
これこそ読書の醍醐味ですね。

2020年11月20日
和田 健

後日記:読後から10日が経ちましたが、何故ハンノは死ななければならなかったのかについて、未だに考えています。
日本語と英語の論文や分析を合わせて10本くらい読んでみました。
いろいろなことがわかりましたが、何故ハンノが死ななければいけなかったのか、そこに迫るものは日本語で一つだけありましたが、疑問は依然として残りました。
それとは別に、ハンノとカイとの関係は同性愛としてとらえられているのですね。
日本人では伊藤白さんという方がゼゼミに焦点を当てて書かれた論文が非常に面白かったです。
1959、1960年製作のドイツ映画「Buddenbrooks」も観てみました。よくこれだけストーリーを作り替えてマンの遺族の方が、了承したなというのが、僕の率直な感想ですが、トーニ、トーマス、クリスチアン、ゲルダと役者が皆素晴らしかったです。

©The Buddenbrooks (1959 film) – Wikipedia
向かって左からゲルダ父、ゲルダ、トーマス、クリスチアン、トーニ、コンズル夫人

イメージしてきたこととピッタリだったのは、トラーヴェミュンデでトーニがモルテン青年と過ごすシーンはやはり美しいなということ、おお!アンナの花の店に光が当てられて、アンナが重要な役をしているぞとか、主役ではないけれども、やっぱりこの物語はキャラクター的にトーニが主役になってしまうなとか・・・、そこでやめとけばよかったのですが、何故かこの物語を日本で作れないものかと突然奇妙なことを夢想して・・・、トーマスはなんといっても絶対に佐田啓二さんですね。亡くなったとか、そういうことは関係ない、佐田啓二さん。トーニは南果歩さん、クリスチアン役のために・・・、やめます。
もう一つトーマス・マンを読んでみようと、「ファウスト博士」を注文し、11月25日から読み始めました。同じ作家の46年後の作品ですね。今のところ奇抜な出だしで全体の状況がつかめない、けれども楽しい、「ブッデンブローク 家の人びと」のような違和感は読んでいて感じない、というところ。
岩波文庫の古書が高かったので、より古い岩波現代叢書の方の古書で、Ⅰ、Ⅱ巻合わせて650円でそろえられました。Ⅰ巻が昭和27年のうれしい初版で350円、Ⅱ巻が昭和38年第7刷の美本で300円でした。

2020年11月27日
和田 健