Acrylic on canvas, 39.5×32.0 in. (100.0×80.3 cm)
April 17, 2021

Acrylic on canvas, 39.5×32.0 in. (100.0×80.3 cm)
April 17, 2021



スペインの Artcertificate が主催する International Art Competition ABSTRACT ART 2021 で、COUP DE CŒUR 賞を受賞しました。
主催者側の発表で、世界中から300人以上のアーティストが参加して、700作品以上応募されているということでしたので、今朝連絡をいただくまで、忙しくて全く気にしていませんでした。
今年の新作の黒と青の作品を3点提出したのですが、その内、2点も受賞して大変ありがたいことです。
本当にありがとうございました。
2021年4月6日
和田 健
Cher mes amis,
J’ai le plaisir de vous annoncer que j’ai gagné le prix coup de cœur du concours d’art international “Abstract Art 2021” pour mes deux œuvres!
Artcertificate en Espagne a organisé le concours qui a réuni plus de 300 artistes du monde entier et plus de 700 oeuvres toutes catégories confondues.
Merci beaucoup!
Bien amicalement,
Ken WADA

Ken Wada

Ken Wada


いやー、これは面白い!
ここまでのクオリティーで展覧会がオンラインで開催できるのでしたら、コロナ禍のこの時代、もうこれからはこの様式が、少なくとも今後しばらくの間は定着するのではないでしょうか。
僕にとって初めて参加するオンライン展覧会、VIRTUAL ART FAIR 2021 が、2021年4月1日から始まりました。
18か国から37人のアーティストが参加して、2021年6月1日までの2ヶ月間、開催されます。
日本人は僕一人だけなので、頑張らなきゃ?いけませんね。
始まったばかりですので、感想もまだまだこれからというところですが、ぱっと思うところを少しだけまとめますと、アーティスト側にとってのメリットは、作品の搬入・搬出にかかわる輸送業者との手続きが不要で輸送コストもかからない、オープニング・レセプションに出席するために現地に出向かなくてもよいなど、まあそういった脱炭素、非移動、非接触、というあたりでしょうか。
それから、うまく表現できませんが、世界中誰がどこにいても平等に観れるという、何かピュアでフェアな感じがするんです。
つまり、僕の言いたいことは、垣根がないと言いますか、フラットであると言いますか、お高くとまっていないとでも言いましょうか、さらに言えばリベラルな感じさえしますが、例えば皆さんは、ギャラリーを訪れた時に、何か冷たいクールな感じがして敷居が高いな、僕などが入っていいのかな、入るのに何だか躊躇するな、緊張するな、勇気が要るなと思ったことはありませんか?
僕などは、これまでに何度もそのような思いをしました。
もう様々な業種、業界で、これだけイノベーションが行われ、世の中が大きく変わってきているのですから、そうした旧態依然とした因習、風習、しきたり、まあ言い方は何でもいいんですが、もうそういうのは絵画の世界でもやめて、是非フラットにしませんか、ということなんです。
そこでパンデミックの作年から、僕が具体的に構想していることを、下に英語で少し書きましたので読んでください。
話が飛びましたが、逆に、オンラインの展覧会には、もちろんデメリットもあります。
まずは、何と言っても実物の作品を観たり接したりすることができない、作品を観てくださった方の生の声や感想を聞けない(ただしオンラインでもチャット交流はできるようになっています)、他のアーティストとの交流や出会いがない、展覧会を通して、その国や街の文化を知る貴重な機会を失う、というところでしょうか。
でもこれからさらにあと数年は覚悟しなければならないコロナ禍の時代において、みんながそれぞれの制約の中でこれだけ我慢を重ねながら、明日への希望を何とかつなぎとめて必死に生きている、そうしたこの特異な状況の中にあっては、この方法が昨年から世界のアート関係者が模索してきた解の一つであるように思います。
今回のパンデミックに、いち早く反応したニューヨークのギャラリーの動向をだいぶ注視してきましたが、やはりこの解を軸として動いています。
まずは何はともあれ是非一度ご覧になってみて下さい。
展覧会の会場内の様子と、展覧会のeカタログと2種類用意されています。
入場無料です。
僕はB-16ブースで、昨年制作した新作8作品(いずれも未発表)を展示しています。
おっと、いけない!
よそみして、ぼやっとしていると、会場内で迷子になりそうです!
https://www.contemporaryartstation.com/enter-art-fair
2021年4月1日
和田 健
Dear friends,
It is my pleasure to inform you that VIRTUAL ART FAIR 2021 organized by CONTEMPORARY ART STATION opened on April 1st, 2021.
The Art Show is held by the London-based organization from April 1st to June 1st, 2021.
This is my first participation in Virtual Exhibition/Art Fair in my artist career, that’s why I’m very excited!
You can find my eight artworks from last year “Untitled 2020 ーfrom the series Green and White Paintingsー” on view now at the Virtual Booth(B-16).
It’s included 37 participating artists from 18 countries in the Art Fair.
Admission free.
Please enjoy both the Exhibition Space and the Online Catalog!
Have a nice weekend!
Warmest regards,
Ken WADA
https://www.contemporaryartstation.com/enter-art-fair
P.S.
I found such an online exhibition to be a great solution in this difficult situation of the COVID-19 pandemic.
So, please imagine and follow what I’m thinking about right now.
There is a small gallery in the forest…,
The walls of the gallery are green…,
The season is spring…,
A lot of butterflies are flying in the garden…,
Many flowers are in full bloom…,
New green leaves are very beautiful…,
And when you open the door of the gallery, you can hear the sound of a doorbell.
Then, you can find a mysterious cat at the entrance…,
And the cat guides you through the rooms…,
My artworks are hung on the walls…,
You can see the paintings and labels well by clicking…,
There is a small sofa in the living room…,
And you can also drink a cup of tea/coffee there…,
There is a donation box at the exit, and if you like this solo show, you can donate voluntarily.
Of course, you are free to choose whether to donate or not.
But now the artists are in this pandemic, have no income and their lives are very difficult, so the donations will help their lives.
Then, I have already considered the autumn version of this gallery.
It means, my idea is to hold a solo exhibition at this gallery in the forest at least twice a year, in spring and autumn.
Unfortunately, I don’t have this kind of computer technology, so I would be very happy if anyone could create such a virtual gallery.
I would like to work with him/her, and we do it all virtually!
It’s my current projects and inspiration.
Thank you.
無題 2021 No.7
ーシリーズ黒と黄のペインティングからー
2021年3月
北軽井沢 作品 No.424
画布にアクリル
97.0×130.3 cm
Untitled 2021 No.7
ーfrom the series Black and Yellow Paintingsー
March 2021
Kitakaruizawa Works No.424
Acrylic on canvas
38.5×51.5 in.
Sans Titre 2021 Nº7
ーde la série Noir et Jaune Peinturesー
mars 2021
Kitakaruizawa Œuvres N°424
Acrylique sur toile
97.0×130.3 cm

無題 2021 No.6
ーシリーズ黒と黄のペインティングからー
2021年3月
北軽井沢 作品 No.423
画布にアクリル
97.0×130.3 cm
Untitled 2021 No.6
ーfrom the series Black and Yellow Paintingsー
March 2021
Kitakaruizawa Works No.423
Acrylic on canvas
38.5×51.5 in.
Sans Titre 2021 Nº6
ーde la série Noir et Jaune Peinturesー
mars 2021
Kitakaruizawa Œuvres N°423
Acrylique sur toile
97.0×130.3 cm

Painting 2
Acrylic on canvas, 38.5×51.5 in. (97.0×130.3 cm)
March 25, 2021
Painting 1
Acrylic on canvas, 38.5×51.5 in. (97.0×130.3 cm)
March 25, 2021
う〜ん、苦しい!
これだけ苦しかった記憶は、ちょっとない。
前回の Today’s Studio Photo No.8 で、もう見えたようなでかいことを書いておいて、その後、まるで将棋で王手、王手で詰まれる時のように、ものの見事に一手一手と追い込まれ、あっ、まずい!追い込まれていくな、とは痛切に感じたけれど、切り返しの一手が打てず、打開の一手が見出せず、袋小路へ袋小路へとうまい具合に誘い込まれ、挙げ句の果てに全滅した。
その誘導の仕方が、実に狡猾で、まず外堀を埋めてから、退路を断って、退路を断ってを繰り返して(波状攻撃で)くるので、首根っこを押さえつけられて、ぐうの音も出なくなる。
3月14日がどん底で、地に落ちて、全部黒で消して、最初からすべてやり直して、そんな全部消すことは、よくあるのだけれど、今回はそれとはちょっと違う!
絵画とは改めて、恐ろしいものだなと思う。
例えば「僕/私は、絵画に習熟、熟達、熟練しています」なんて言葉が仮にもし存在したとして、それを読んだり聞いたりしたとしたら、そんなのはすべてこれほどわかりやすい真っ赤な嘘もないくらいの大嘘です。
そして、そんなことがわかる(判断できる)ようになってもどうしようもない。
僕の今までの人生の経験から、どのような職種であっても、5年、10年と集中して仕事をしていけば、例え No.1 にはなれなくとも、一人前という言葉があるように、もう少し習熟してくるものだけれども、絵画は一切、それを受け付けない、お前に生意気なことだけは絶対に言わせないよって向こう(絵画)から言ってくる、決して高を括れない。
そういう仕事が好きな人にはいいですけれど、人間というのは、長い間同じことを続けていれば、普通、少しは一人前な口をきいたり、自然と高を括りたくなるものなんです。
Painting 1 は、今日の制作の終わりに黒でつぶしました。
つぶすかどうかの判断のポイントは、線が追えなくなった時、色と形が追えなくなった時=描いていて楽しくない時です。
絵画とは、異様なまでに情け容赦のない、そして何かある種形容し難い潔癖さのかたまりのようなものです。
最後に三男アレクセイ(アリョーシャ)。アリョーシャにつきましては、初回に書いたことと、ほとんど変更はありません。僕は、リーズとの恋愛は破滅すると思います。一緒にくっついてきそうな善良な「人はいいけれどなんら定見のない」(中巻、p.91)ホフラーコワ夫人については、作者ドストエーフスキイ自身も何か微笑ましいおしゃべりな夫人として見ている感じがしますが、でも毎日、こんな風になんとかですわ、なんとかですわ、なんてやられたらたまりませんが。しかしそれにしてもドストエーフスキイは、脇役のこうした生き生きした姿や点描を書かせたら、それこそ天下一品ですね。もう見事と言うほかありません。つまり、僕の言いたいのは、こうしたホフラーコワ夫人やスネギーレフ二等大尉、「罪と罰」の僕の大好きなマルメラードフ、そういったクラスの脇役でなくとも、もっと小さな役、例えばミーチャがピストルを質入れする若い官吏ペルホーチンですとか、極端に言えばその息子の台詞のない!ミーシャにいたるまで、まるで彼の手にかかると何か魔法のように、いつも躍動感にあふれた生き生きとした人間描写の登場となります。
このホフラーコワ夫人の娘のリーズには非常に大きな問題があります。具体的には、下巻のp.148、149あたりで展開されるユダヤ人の復活祭の子供の話です。今まで全て本文を引用しながら話を進めてきましたが、ここでは引用するのもためらわれます。ドストエーフスキイは何故このような話をここへ挿入したのでしょうか。これはよくない。ドストエーフスキイのこうした負の側面については、どのように考えられているのでしょうか。全体として圧倒的なまでのそれこそ前代未聞の崇高にして深遠なるテーマを与えてくれるために、こうした負の側面があってもよいということにはならない。和田さん、そんな小さなことには目をつぶりなさいよ、何といっても彼は世界の大文豪なのですからとはなりません。この理屈が通ることは、決してあってはならない。ましてや文学だとか絵画であるとか芸術分野でその理屈が通ることはあってはならない。むしろそれに対抗するのが、芸術の本来の役割であるはずですから。この論理が一旦まかり通ると、それは現在、世界中で繰り返されているように、大きな平和のためには、小さな平和は犠牲になってもやむを得ないということにつながります。それから僕がよくないと思う別の意味として、後世の作家がこの手法を形として、要は悪のエピソードを挿入する形式として、取り入れようとする危険性を伴うのではないか、と考えるからです。
次に、第一部で二十歳のまるで天使のようなアリョーシャについて、ドストエーフスキイが冒頭部分で思わずギョッとするようなことを言っています。僕は、結局この物語の最後まで、冒頭部分のドストエーフスキイのこの言葉が忘れられませんでした。
「問題は、彼もおそらく活動家なのであろうが、それもきわめて曖昧で、つかみどころのない活動家だというところにある。もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。」(上巻、p.10、11)
ドストエーフスキイはこの物語を「単にわが主人公の青年時代の初期の一刹那のことにすぎない。」(上巻、p.11)と言います。
「第一の小説は今を去る十三年の前にあったこと」(上巻、p.11)ですので、彼は三十三歳になったアリョーシャの何を二十歳の時点ですでに看破しているのだろう。二十歳のこの上なく天分に恵まれた瑞々しい青年もやがて四十歳になり六十歳になります。心酔する六十五歳のゾシマ長老の「娑婆」(上巻、p.144)で生きなさいという教えに従い修道院から去るところ、「われわれが彼を置き去りにして以来、アリョーシャはひどく変わっていた。彼は法衣を脱ぎすてて、今は見事に仕立てたフロックコートをまとい、短く刈りこんだ頭には、柔らかい丸い帽子をかぶっていた。それらがひとかたならず彼の風采を引き立てて、すっかり美男子に仕立てていた。」(下巻、p.44)という変貌や、大変な非常事態ではあるけれども、一度は神につかえた身でありながら、三つ目の駅長に「だから、イワン兄さんやカーチャが僕にそうしてくれと頼んだら、そのときは出かけて行って賄賂を使うつもりです。」(下巻、p.492)とあるところ。
その辺りから、さらに考えてみようと思います。
僕がこの物語に惹きつけられるのは、父フョードルはもちろん言うまでもないとしても、ミーチャ、イワン、アリョーシャと、三兄弟がみんな不完全で病んでいることにあるのかもしれないなと思います。そのことが逆に、誰でも一人一人何とか必死で生きているんだなという、人と人とのつながりの連鎖の実感のようなものを、妙にリアルにまざまざと僕に感じさせてくれるのです。
それは、僕は今年五十八歳になりますが、これまで生きてきて出会った人は、本当にただ一人の例外もなく、みんな病んでいたことに深く関係し通底しているのかもしれません。僕は誓いますが(無論僕は当たり前のこととして)、今までの人生で、病んでいない人に出会ったことは一度としてありません。
最後に、第二部のスタートで当然予想される3組のカップルの設定、すなわち、ミーチャとグルーシャ、イワンとカーチャ、アリョーシャとリーズの内、この後、何とか、それもあくまで何とかです、幸せになれそうなのは、これはあくまで僕の推論になりますが、罪人同士であるミーチャとグルーシャであることを、ドストエーフスキイはすでにはっきりと認識しているのではないかということに、何か深いものが感じられるように思います。
すなわち、人間は、自分は罪人であるということを深く自覚した者同士でなければ、決して幸せにはなれないということに。
僕は、今、ドストエーフスキイは第二部の冒頭をどこで始めるかということを考えています。別に深い意味はありません。文字通りその場所です、起点です。どの場所で第二部の物語をスタートさせるか、これを集中して考えています。
「だが僕は間もなくこの町を去ります。たぶん長いあいだ帰って来ないだろうと思います。」(下巻、p.511)というアリョーシャのエピローグ(このエピローグのイリューシャの埋葬の部分ですが、何て言いますか、物語の音階のようなものとでも言えばよいのでしょうか、意識的に一オクターブ上げて書いているような感じがしてとても気になります。このラストの章だけ、何故トーンが異質であり、メルヘンチックでさえあるのか、2つの理由から考察してみました)の言葉と合わせて、僕には非常に興味があります。
それは誰だって、第一部の冒頭部分を精読すればするほど、第二部が読みたくなります。それはわかり切ったことです。
ただ僕には、もう一つの理由があるように思います。それは作者であるドストエーフスキイが五十九歳の若さで亡くなってしまった、せめてあともう何年か生きていてくれたら、この第二部が読めたのにという思いが、人間ですから誰しも当然湧き上がってくるように思います。さらに言えば、本当にせめて初めの十ページ分くらいでもよいので遺稿があれば、第二部の物語の方向性や全体像が大きくわかったことでしょうね。そのことはどうみても間違いありません!
そこで僕の関心、ドストエーフスキイは、どこの地点から第二部を始めるか?
それによって、その後の物語のベクトルが自ずと決定され、全体の構造が描かれていく訳ですから、始点Aを間違いなく完璧に設定してくるでしょうね。
そこでキーポイントになってくる問題は、十三歳のコオリャ・クラソートキンですね、コオリャの居場所だと思います。コオリャはどうしてもアリョーシャに再会しなくてはなりませんから。
しかしそれにしてもドストエーフスキイという人は、すごい全体構想を組み立ててくる人だな。異常な熱意、そして細心の注意を込めてこの生意気な「年端のゆかぬ」(下巻、p.11)十三歳の少年を書いている。この子が第二部の核になると、まるで公言しているようなものだな。
つまり、ドストエーフスキイは第一部を書きながら、同時に頭がすでに第二部に行ってしまっている感さえある。と言いますか、「本当は僕は第二部が書きたくてしょうがないんだよ、そのための第一部なんだよ、わかるかい?」という気持ちが、本からはっきりと漂ってくるようです。
二十六歳になったコオリャの生活の拠点を、ドストエーフスキイはどこに設定してくるか。ここをドストエーフスキイたる者がぬかる訳がない。僕には見えませんが、彼は、もう完全にこの点を押さえてしまっている。彼が完全に押さえてしまっているということだけは、よく伝わってきます。で、それはどこなのか?
ちなみに、第一部の舞台であるこの小さな町は、全編を通じてただ一度だけ名前が出てきますが、「スコトプリゴエフスク」(下巻、p.126)といいますが、もう長くなりましたので、この辺りでやめます。
僕の話は拙く、大変お粗末でした。
2021年3月18日
和田 健
次に次男イワン。実はここが一番難しい!これは考えれば考えるほどわからなくなる。
まず第一部のイワンのこの病気ですが、「震戦性譫妄性」(下巻、p.252)です。おそらく現在の言葉でいう振戦せん妄のことだと思われます。調べてみましたが、アルコールの離脱症状(俗にいう禁断症状)のひとつで、長期間の飲酒歴のある重度のアルコール依存症者が、飲酒を中断または減量した際に生じるそうです。そこでまず、大酒飲みのミーチャがこの病気にかかるのでしたら少し理解できますが、たいした酒飲みでもないように思われるイワンが、何故この病気にかかっているのかということが解せません。ですが、まあその点はすっ飛ばして、現在イワンは、アリョーシャいわく、「いま一人のほうは瀕死の床にたっています」(下巻、p.511)と、ほとんど死にかけています。
ですが、イワンは死にません。そのことをドストエーフスキイは、きちんとほのめかしています。それは「彼はモスクワから帰ると早々、カテリーナ・イワーノブナに対する燃えるような、物狂わしい情熱におぼれきっていたのである。けれど、後日イワン・フョードロヴィッチの全生涯にその映像をとどめた、その新しい情熱については、いま物語るべき機会ではない。これはまた、別な小説の主題を形造るべきものである。が、その小説にいつか取りかかるかどうか、それは作者自身にもわからない」(下巻、p.204)とあることからわかります。
一体にドストエーフスキイという作家は、ほのめかす、におわすのが、本当に好きな作家ですね、僕はそう思います。「何はともあれ、あらかじめ何か先手を打っておこう」(上巻、p.12)という記述もあります。つまり、イワンはカテリーナと暮らしながら、グルーシャの言うその「傲慢な唇」(下巻、p.499)に翻弄され、「争ったときとかひどく怒ったときなどは(そんなことはたびたびあった)」(下巻、p.205)ように、喧嘩の絶えないカップルとして、次第に疲弊していくのではないでしょうか。
イワンを考える時に、僕にとって非常に鍵になるスメルジャコフの分析があって、それは一度目はスメルジャコフ本人の口からイワンへ、二度目はイッポリット検事の論告の中でスメルジャコフから聞いた話として出てきます。これは読み落としてはいけない箇所であって、明らかに意図的にドストエーフスキイは二回繰り返しているように思います。
一度目の分析であるイワンのスメルジャコフとの三度目の最後の会見では、「とてもだめなことですよ、あなたはあまりに利口すぎますよ、なにしろあなたがお金のお好きなことはよくわかっています、あなたは自尊心の強いかたで、このうえもなく名誉を重じていらっしゃます。それに美しい女はことのほかお好きなんです。が、なかでもあなたの一番にお好きなのは、誰にも頭を下げないで、安らかに、楽しく暮らすことなんです、ーそれが何よりお好きなんです、だからあなたは、永久に自分の生涯を棒に振ってまで、そんな恥さらしなことをわざわざ法廷へ出てなさるおつもりはありませんよ。あなたは三人の御兄弟のうちでもいちばんフョードル・パーヴロヴィッチに似ておいでですよ、ことに精神はあのかたにそっくりです」(下巻、p.248)とあります。
ちなみに、この後のイワンの言葉は要注意です。「「おまえはばかじゃなかったな」イワンはなにかに感動したようにこう言った。彼の顔は急に赤くなった」(下巻、p.249)です。僕の考えでは、イワンはこの時、生まれて初めて自分のことを正確に指摘されて当を得たのではないでしょうか。簡単に言うと、自分よりも頭のよい人間を初めて目の当たりに見たのかもしれません。これに対して、スメルジャコフはさらに、「わたしをばかだと考えていらっしゃったのは、あなたのうぬぼれですよ。」(下巻、p.249)と、本質をつく形で切り返します。
イッポリット検事の論告の中に出てくる二度目は、「つまり、「三人の息子たちの中で、その性質からいって、最もフョードルに似通っているのは、あのイワンです」と、彼はわたくしにこう言いました。」(下巻、p.373)です。
ところが、イワンは翌日法廷へ出てきます。
「ついでに兄ドミトリイ・フョードロヴィッチに対するイワンの感情について、ほんの一言だけ述べておくが、彼は全然ミーチャを愛していなかった。」(下巻、p.191)とありますように、全然愛していなかったミーチャのために出廷します。出廷前日には、出廷するという「堅い決心」(下巻、p.251)ができたことで、歓喜、幸福、快感さえ覚えます。
何故か?何故イワンは出廷したのか?僕の考えは、スメルジャコフの言う自尊心の強さを再認識できたからではないでしょうか。そのことが、「彼は自分の内部に無限の強さを自覚したのである。」(下巻、p.250)や、「だが、おれはなんという自己反省の力を持っていることだろう!」(下巻、p.251)につながります。
結論として、イワンは、前々回に書きましたように、完璧な芸術家になる素質はもっていながら、つまりその点は僕の意見は変わらないのですが、絵の具で自らの手を汚す芸術家にはならずに、ただし並外れた非凡な審美眼はもっている、ないしは育っていくと思いますので、芸術家を食い物にするという言い方は非常によくない、芸術家を使うという言い方もよくない、何と言ったらよいのでしょうか、今の言葉で言ったらアート・ディーラーとして頭角を表して成功し、富裕になるということは考えられると思います。何かをクリエイトする人間になるためには、もっと進んで恥をかけるマインドが必要だと思います。
長男、次男ときて、初回の僕の第二部の夢想は、ここへ来て今や完全に崩壊しました。
また長くなりましたので、アリョーシャは次回にします。
2021年3月16日
和田 健