
Today’s Drawing Photo on April 8, 2024
Acrylic on canvas, 24.0×29.0 in. (60.6×72.7 cm)
(最終回のその1から続く)
3. ピョートルによるキリーロフのお茶訪問
(略してピョキリ茶)
さて、中盤の山場である第三ラウンドの開始です、カーン!
「東奔西走」(三の6) する陰謀家にして策士ピョートルのこの日の動きを、順を追って改めて時系列に整理しますと、まずは知事レムブケーを訪れ、手のうちにまるめ込もうと大いに奮闘努力した後、カルマジーノフの家で図々しくも朝飯をたらふく食らい、「君は近ごろ、なんだか大変おこりっぽくなりましたね。だから、僕も訪問を避けるようにしてたんですよ。」(三の61) と言い訳?の一つも放ちながら、キリーロフの部屋を久々に訪れます。
まあ、久々にと言いましても、「君がここへ来て、もう三週間になるから」(三の66) とありますので、そんなに間隔があいた訳ではない、つまりは、「三週間」とは経過していない訳ですから、キリーロフが約束通りちゃんと自殺するかどうか不安になって、その確認のためにちょっと顔を出したのでしょう。
そして、この場面でピョートルに向かって、キリーロフの「お飲みなさい。冷たい茶はいいですよ。」(三の62) という決定的な言葉が飛び出します。
え〜と、いくらキリーロフがピョートルのことを「僕は君がきらいでたまらないんですよ。」(三の61) であっても、一応、ピョートルは客ですからね、客をもてなすのに、サモワールを沸かすことなどはまったく考えもせず、そこにあった「朝からの茶がまだ片づけられないで、テーブルの上に冷たくなっていた。」(三の59)、その茶をキリーロフが差し出すというのは、なにか唐突で不自然な感じがします。
つまりは、キリーロフはピョートルに向かって『「君、なんです!茶が飲みたいんですか?冷たいですよ。まあ、僕は別のコップを持って来てあげましょう。」(中略) キリーロフは戸棚まで行って、きれいなコップを持って来た。』(三の62) ように実に気軽に立ち働き、コップは親切にわざわざ戸棚から持って来るのに、茶は冷たいままで出すという、この場面のキリーロフの言動のちぐはぐさに、ドストエフスキーの意図的な示唆やほのめかしが含まれているように感じます。
ただしですね、そこはなんと言ってもドストエフスキーですから、示唆やほのめかしが表立って目立たないように、ややフェードアウトさせるとでも言いますか、この後、ピョートルに立て続けにシャートフを訪問させますよね。
その連続するリズムによって、読者がなんとなく混同し、キリーロフも時間がなかったのだし、「冷たい茶」でもまあよいかと考えてしまいがちなのですが、違いますよね、キリーロフがピョートルがこの後シャートフのところに寄ることを知るのは、二人の会話も最後の方になってからの以下の言葉の応酬によってですから。
「僕は今すぐあの男のところへ寄るつもりです。」
「ご勝手に。」(いずれも三の68)
僕は思うのですが、キリーロフのこの「冷たい茶はいいですよ。」という特異な発言にいたって、第一、第二ラウンドで、これまでに考察してきましたドストエフスキーの「キリーロフとお茶」の真意が、もはや黙示録の「ラオデキヤ」に向けたものであることが、俄然、歴然としたものになってきたとでも言いますか、この段階でかなり明白になったのではないでしょうか。
つまりですね、ここでちょっと整理いたしますと、第二ラウンドで、キリーロフはニコライに『「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。』(二の50) と熱い茶を差し出しますよね。
でも、この第三ラウンドでは、キリーロフはピョートルに「冷たい茶」を差し出す。
そしてさらに、この後の第四ラウンドでも、キリーロフはピョートルに「お飲みなさい、ほしかったら。」(四の178) と実に素っ気がない。
でも、キリーロフはシャートフに対しては、「お茶が熱いから。」「熱いんだ、思い切り熱いんだ。」(いずれも四の204) と飛び切り熱い茶を差し出すというように、ドストエフスキーは、あまりにもわかりやすいくらいにお茶の温度に明確に差をつけてきています。
ですので、ピョートル=「冷たい茶」=無神論という、ドストエフスキーが得意とする示唆、暗示、ほのめかしを、ここに構想していたことは、もはやかなり明らかなのではないでしょうか。
このことが、チーホン僧正のニコライに対する言葉である「完全な無神論者は完全な信仰に達する、最後の一つ手前の段に立っておる」(三の166) にも関連してきますが、ドストエフスキーはピョートルをなまぬるい=無関心であるとはとらえていない、お前は冷たいんだ=無神論なんだと。
ここで、「ラオデキヤ」に関する文献をいくつか読んでみましたが、ラオデキヤの地理的な状況との関係で、ラオデキヤに来る「途中で湯の温度が下ってなまぬるくなってしまう」という記述がありました。
ドストエフスキーは、この史実について当然読んでいたと思われますので、そこで、そこからこの「キリーロフとお茶」を思いついた、発想したのではないでしょうか。
反対意見としましては、キリーロフが「冷たい茶」をピョートルに差し出したのは大嫌いだったからだよ、というのがまずは出て来るかと思いますが、それですと、単に好き嫌いの問題になってしまい、ドストエフスキーの作品としては、ちょっと次元が低いとでも言いますか、ドストエフスキーにして、それはあり得ない感じがします。
それよりは、むしろ、キリーロフがニコライに熱い茶を差し出したのは、なにゆえなのか、ここのところですね。
そして今回も、第二ラウンドですでに考察しましたように、絵画の場合で言うと、補色の関係に当てはまるところの黙示録はやや離れたところにあり、キリーロフがピョートルに向かって「僕がある晩、あの男 (とは懲役人のフェージカのことです) に黙示録を読んで聞かして、お茶をご馳走してやると、あの男は一生懸命に聞いていたっけ。本当に一生懸命に、夜っぴて。」(三の67)
ちなみに、この懲役人のフェージカですが、神学生のスチェパン氏に対する「もしあなたが十五年以前、カルタの負債を償却するために、あの男を兵隊にやってしまわれなかったら」(四の52) や、ピョートルの「実際うちの親爺はイギリスクラブでカルタに負けて、それでお前をたたき売ったんだからなあ。どうもこれは不公平な、人情を欠いた仕打ちだよ」(二の97) などにみられますように、ピョートルの父であるスチェパン氏が、カルタの負債を返済するために放り出したのがフェージカであるという暗い因縁があるのですが、このキリーロフの台詞は要注意です。
(ここで、スチェパン氏のこのカルタ熱なのですが、ドストエフスキーのルーレット賭博への熱情の影が、この部分に投影されてはいませんでしょうか。)
極道ではあるけれども、今までその機会がまったくなかっただけで、知識や教養を身につけたい、少しでも学びたいというフェージカの人間として成長したいという飢えのような切ない気持ちが、この言葉の中にとても感じられるのです。
そのことを、キリーロフはよく見抜いていて「あれはそんなことをしなくても、初めからキリスト信者ですよ。」(三の67) につながり、つまりは推測しますに、キリーロフは首領のピョートルなんかよりも、ずっとフェージカという人間の中に真実であるなにものかを見つめているように思います。
またこの「お茶をご馳走してやると」ですが、フェージカは「雨にぬれた長い船橋の、ほとんどまん中」(二の95) で出会ったニコライに「旦那、お茶の一杯も飲んで、暖まりたいのでござんすが、あなたもどうか三ルーブリばかり恵んでやって下さいませんか。」(二の97) とねだっているところからみると、懲役から逃げ出してきて、普段はお茶も満足に飲めない境遇にいることが感じられます。
フェージカがキリーロフのところにいるということも、この後のかなり重要なポイントになってきます。
問題は、このポイントの中身なのですが、精神的な相互の影響は一先ずおいて、キリーロフのお金の出所ですね、第一ラウンドでも触れましたが、キリーロフの臨時収入の出所、これはどうなんだろう、まさかな、でも他にキリーロフにはまったく収入がないし、でも「お茶をご馳走してやると」だから、やっぱりフェージカの例のことによる金・・・ではないな、よかった?のかな、・・・う〜ん。
つまりは、キリーロフって、「恐ろしく上等のピストル」や「アメリカ製の六連発拳銃」(いずれも二の53) と立派なピストルを二丁も持っていて、いつでも部屋の中に「茶はある、砂糖もある、サモワールもある。(中略) しかし、湯沸 (サモワール) はあとだ。僕のとこには二つあるから。まあ、いまテーブルの上から急須を取って行きたまえ。熱いんだ、思い切り熱いんだ。みんな持って行きたまえ。砂糖も持って行きたまえ、そっくりみんな。パン・・・・・・パンはたくさんある。そっくり、みんな持って行きたまえ。犢肉もあるよ。金も一ルーブリ。」(四の204)
また「キリーロフは、一人の老婆を『お祝い』によこした。またそのほかに熱い茶と、たったいま焼いたばかりのカツレツと、それに『マリヤさんに』と言って、スープを白パンと一緒に届けてくれた。」(四の250) というのは、やはりなにがしかの臨時収入があるように、どうしても思えるのですよね。
この臨時収入は、以前、キリーロフが会から「君の旅費とした百二十ターレルを醵金しましたぜ。つまり、君は金を受け取ったわけですよ。」(三の63)、また「君はあの時、われわれから金を無心して」(四の282) という表現も出てきますが、その金のことではないと思うのですよね、キリーロフは「ペテルブルグで百二十ターレル返した」(三の64) と明言していますから。
(ここで、「悪霊」執筆当時の、すなわち十九世紀後半における一ターレルが何ルーブリくらいになるのかについて少し調べてみましたが、確かなことはわかりませんでした。)
しかし、それにしましても、シャートフが「いきなりキリーロフのところへ飛んで行った。」(四の203) から始まるこの二人の場面は、物語全体の中でも明らかに最も美しいですね。
特に、この一ルーブリ (四の204) → 一ルーブリ (四の225) → 鶏 (四の225) → 鶏肉 (四の277) の流れには、なにか神秘的な魅力さえ感じます!
4. ピョートルとリプーチンによるキリーロフとフェージカのお茶訪問
(略してピョリキリフェ茶?)
さて、第四ラウンド開始、カーン!
リプーチンの「もう十時ですからね。」(四の172) という忠告にはなんら動じることもなく、「泰然と落ちつき払って」(四の172) 料理屋でビフテキを食べ始めるピョートル。
ですので二人がキリーロフの部屋に着いたのは、まあ大体十一時くらいだと考えてよいのでしょうか。
「キリーロフはいつもこの時刻にするように、例の革張りの長椅子にすわって、茶を飲んでいた。」(四の177) から始まって、ピョートルの『「お茶をいただいても悪くないですな」(中略)「たった今ビフテキを食べたんですがね、お茶は多分あなたのところに出てるだろうと思って、当てにして来たんですよ。」
「お飲みなさい、ほしかったら。」』(四の178)
話が進んで台所にフェージカが「陣取って」(四の183) いることがわかり、「テーブルの上にはウォートカの小ビンが据えてあって、皿の中にはパン、素焼の器には一きれの冷肉と馬鈴薯が入っていた。(中略) 仕切りの向う側では湯沸が煮立っていたが、それはフェージカのためではない。フェージカはかえってその火を起こしたり加減を見たりして、もうこれで一週間ばかり、『アレクセイ・ニールイチ』のために、毎晩世話をやいているのだった。『どうも毎晩お茶を飲むのが、すっかり癖になってらっしゃるのでね』と彼は言った。冷肉と馬鈴薯は下女がいないところから見ると、あるじのキリーロフがフェージカのために、朝から炊いて待っていたものに相違ない、ーこう私は固く信じている。」(四の183、184)
問題は、この「こう私は固く信じている。」ですね、ドストエフスキーは、思わず思い切り肩に力が入っていますね。
このようなところ、別にそんなに力まなくてもよいはずです。
う〜ん、この力説はいったいなにを意味しているのであろう?
やっぱり、これはあれだな、僕にとっては大変残念なのだけれども、第三ラウンドで考察したキリーロフのお金の出所は、おそらくフェージカなんだな、やはりこの「もうこれで一週間ばかり」というのが決め手で、少なくともこの「一週間ばかり」については。
つまりは「ついこの間の殺人放火事件の犯人」である「懲役人のフェージカ」(いずれも四の192) が、「レビャードキンのところで盗んだ大金」(四の193) なのであり、冷肉も馬鈴薯もなにもかもその金から・・・。
そのことをドストエフスキーは、これだけ強調して念押ししておけばわかるであろうと、示唆してきている。
キリーロフよ、血で汚れた金など使ってはいけない、そんなことをしてどうするのだ!
でも断定はできませんが、キリーロフならおそらく使うでしょうね、それは、ニコライとキリーロフの一連の問答 (主に二の56から61あたり) を読んでいると、なんとなく伝わってくるのです、う〜ん、非常に難しいな、この問題は。
う〜ん、これはドストエフスキーは、血で汚れた金を使えるキリーロフと、キリーロフが自殺する前に、(四の289) 以降に主張する「我意」の問題を重ね合わせてきているのであろうか。
おそらくそうなのだろうな、キリーロフの「なぜって、いっさいが僕の意志だからだ。(中略) それはちょうど、貧しいものが遺産を相続して、度肝を抜かれたため、自分でそれを領有する力がないと思い込んで、金の袋に近寄る勇気が出ないのと同じ理屈だ。」(四の290) という言葉がそのことをいみじくも暗示していて、そうなると、これはもうドストエフスキーというあくまでも一人の作家が、各々の登場人物の中に分裂させながら、あわせ持つところの思想の行き着く果てについてですね、極点はいったいどこにあるのか。
このラウンドの補色の関係にあたる黙示録の部分は、フェージカの「キリーロフさんは哲学者だから、お前さんに本当の神様、ー つくりぬし様のことや、この世の始まりや、来世の運命や、黙示録に出て来る獣や、そのほかさまざまな生物の造り変えのことなどを、幾度となくお前さんに聞かしなすったのだ。ところが、お前さんはわけのわからないでくの坊だから、唖聾みてえにがんばって、あの無神論者という極悪非道の誘惑者みてえに、少尉補のエルテレフを、同じ道へ引き込んでしまったのだ・・・・・・」(四の186) というピョートルに対する言葉なのですが、「黙示録に出て来る獣」だけでは、縦糸の縫い込みが、やや弱い感じがいたしますが、この場面はなんと言っても、まあリプーチンはとりあえずどうでもよいとしまして、上述しましたようにキリーロフ⇄フェージカ、フェージカ⇄ピョートル、ピョートル⇄キリーロフの三者それぞれの関係性ですね、まさしくここのところです。
ここでこの「黙示録に出て来る獣」ですが、第二ラウンドで考察しましたピョートルがもらい受ける「大きな赤いゴム毬」、また「赤い蜘蛛」、「マッチの赤い大きな箱」への暗示として、その中に出てくる「大きな赤い竜」の赤を、ドストエフスキーは含意しているのであろうか?
5. スチェパン氏の絶叫による最終判定!
ドストエフスキーが横糸 (お茶) と縦糸 (黙示録) を、交互に織り込みながら一つ一つ縫い上げてきた布地=作品も終わりに近づき、これまでの考察もいよいよ大団円を迎え、聖書売りの女ソフィアとスチェパン氏の会話からなる「ラオデキヤ」の登場です。(待っていました!)
え〜と、物語の終末にですね、これだけの長さを割いてわざわざ引用してきているということは、この直後に出てくる「豚のむれ」のこれも長い引用と並んで、作家ドストエフスキーの「悪霊」執筆の究極の目的が、どこにあるのかは、ほぼ明白なのではないでしょうか。
つまりは、神の問題に立ち返れと、特にこれまでにみてきましたように、ニコライ (二十九)、ピョートル (二十七)、キリーロフ (二十七)、シャートフ (二十七か八) などの、ロシアのこれからの未来を担うまだ二十代の若者たちよ、神の問題に戻りなさいと。(各々の年齢につきましては、第二ラウンドですでに考察しました。)
そのことが、懲役人フェージカのピョートルに対する言葉「それにね、お前さんがその腐った心のために本当の神様を、ー真の創造主を信じなくなったということだけで、どういうものになりさがったかわかってるかい?」(四の185、186) にも表れているように思います。
この後、間もなく亡くなるスチェパン氏 (五十三) のこの最期の絶叫をもってして、僕は結論になりますが、やはり「キリーロフとお茶」の度重なるセッティングは、まさしくこの「ラオデキヤ」へと集約してきた感じを、今はより深めています。
それでは、最後はそのまま本文を引用して、余韻を残すような形にして終わりにしたいなと思います。
『ソフィアは本をひらいて、読み始めた。
(中略)
「これは黙示録でございます。」
(中略)
『なんじラオデキヤの教会の使者に書きおくるべし、アメンたるもの、忠信なるまことの証者、神の造化の初めなるもの、かくのごとく言うと、いわく、われなんじの行いを知れり。なんじすでにぬるくして、冷かにもあらず熱くもあらず。われはむしろなんじが冷かならんか熱からんかを願う。かく熱きにもあらず冷かにもあらず、ただぬるきがゆえに、われなんじをわが口より吐き出さんとす。なんじみずからわれは富みかつ豊かになり、乏しきところなしといいて、実は悩めるもの、あわれむべきもの、また貧しく、めしい、裸なるを知らず。』
「それも・・・・・・あなたの本にあるんですか!」枕から頭を持ち上げて両眼を輝かせながら、彼はこう叫んだ。「私は今までこの偉大な章を、少しも知らずにいましたよ!まったくですね、なまぬるいよりはむしろ冷たい方がいい。単になまぬるいよりは、むしろ冷たい方がいいです!ああ、私はそれを証明します!ただ見捨てないで下さい、私を一人きりおいて行かないで下さい!私たちはそれを証明しなきゃなりません、証明しなきゃ!」』(四の351、352、すべて「冷か」の表記)
6. ニコライとチーホン僧正による最終判定に至るための問答!
『「ふむ・・・・・・あなたは黙示録をお読みになりましたか?」
「読みました。」
「覚えていらっしゃいますか、『なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし』ってのを・・・・・・」
「覚えております。」
「あの本はどこにあります?」(中略) 「僕はあなたに読んで聞かせて上げたいのです・・・・・・ロシヤ語訳がありますか?」
「私はあの場所を知っておる、覚えております」とチーホンは言った。
「そらで覚えていらっしゃる?では、読んで下さい・・・・・・」
(中略)
チーホンは一こと一こと思い起こしながら暗誦した。
『なんじ、ラオデキヤの教会の使者に書おくるべし、アメンなる者、忠信なる真の証者、神の造化の初めなるもの、かくのごとく言うと。いわく、なんじ冷やかにもあらず、熱くもあらざることを、なんじのわざによりて知れり。われなんじが冷やかなるか、あるいは熱からんことを願う。汝すでにぬるくして、冷やかにもあらず熱くもあらず、このゆえに、われなんじをわが口より吐き出ださんとす。なんじみずから、われは富みかつ豊かになり、乏しきところなしと言いて、まことは悩めるもの、あわれむべきもの、また貧しく目しい、裸かなるを知らざれば・・・・・・』(三の166、167、一回目は「真」、二回目は「まこと」、一度だけ「なんじ」が漢字、すべて「冷やか」の表記)
最後まで拙い文章をお読みいただき、本当にありがとうございました。
2024年4月6日
和田 健
(第四回から続く)
皆様、こんにちは。
最終回は、実に味わい深い「キリーロフとお茶」です。
はじめに、ドストエフスキーの作品の中には、実際にさまざまな問題点があると思うのですが、例えば、この「悪霊」の中でも、ピストルを売りに行ったシャートフが、リャームシンに向かって言いますよね、「なんだ、折紙つきのユダヤ人のくせに。」(四の232)
また、懲役人のフェージカが、ピョートルに対して「お前さんは偶像崇拝者 (でくおがみ、と読み仮名がふってあります) だ、だから、ダッタン人やモルドヴァ人と同列なんだ。」(四の186) などなど。
こういうのを読むと、具体的に名指しされたこれらの民族の現代に生きる人たちは、要するに子孫の方たちですね、はたしてどのような感情をもって、ドストエフスキーの作品を読むのだろうかと思います。
これらの剥き出しの民族感情の問題 (これはナショナリストとしての一面の言わばコインの表と裏ですね) は、ここで一旦別にしまして、ドストエフスキーの天才としての能力が、ちょっと超弩級と言いますか、前代未聞レベルにあることも同様にまた事実であると思います。
そして、小説家として物語全体を構成してくる比類なきその能力を、如実に示しているのが、これからご紹介する「キリーロフとお茶」なのではないでしょうか。
え〜と、まず、結論から言ってしまいますと、僕は機織りのことは残念ながらよくわかりませんが、これは、お茶という実に味わい深い小道具をキリーロフに用意させることによって、物語全体に横糸をはりめぐらせておきながら、今度は縦糸で、新約聖書の「ヨハネの黙示録」(以下、単に黙示録にします) へと、その一つ一つの場面を掘り下げていく、そのようにして、横糸と縦糸を交互に織り込みながら、作品という一枚の布を編み上げてきていますね。
(機織りに詳しい方で、横糸と縦糸の言葉の使い方に、違和感がありましたらごめんなさい。)
つまりは、最終的に黙示録の「なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし」(三の166、167、四の351) に集約したいがために、ドストエフスキーが温度の加減を調節できるお茶という飲み物をここに持ち出してきたことは明白で、これが例えば本文中に実際に出てくる他の飲み物である、シャンパン (一の18と45)、ウォートカ (一の68他複数)、赤ぶどう酒 (三の48)、ぶどう酒 (三の49)、コニャック (三の109)、ビール (四の172) などではだめな訳です。
もちろん改めて言うまでもなく、キリーロフが、シャートフのように、特になにも飲まないという設定では、どこへも織り込んでいけません。
ドストエフスキーが、これほどしつこく何度も「キリーロフとお茶」をセットしてきている以上、そこに示唆、暗示、ほのめかしがあることは明らかであると思いますし、特にドストエフスキーの場合は、第三回の「カルマジーノフ氏への徹底批判」にもみられますように、執拗に何度も繰り返してきたら要注意です。
それを踏まえた上でも、なおかつただ単に「キリーロフってよっぽどのお茶好きなんだね」っていうのは、僕はちょっと読み込みとしては若干甘いような感じを受けます。
これは、気づいてみますと、別にどうってことはないと言いますか、ドストエフスキーはなにも奇抜な突拍子もないことを考え出してきた訳ではないのですが、まずは制作者側としてのこの日常生活に非常に密接した「茶」を用いるという発想ですよね、ここに並外れたものを感じますし、また、当然と言いますか、それを努める役はキリーロフをおいて他にいないだろうという、この役者の選択、人選ですね。
これは僕の仕事である絵画の分野で言いますと、りんご一つでパリ中を驚かせてみせるというセザンヌの発想にとてもよく似ています。
そんなもん、お茶で十分だろ、お茶で十分に黙示録にもっていけるというドストエフスキーの感覚です。
そこで決定的な問題になるのは、お茶の必然性ですね、どうしてお茶の場面をたびたび挿入してくるのか、別になければないで構わないのではないのか、必要ないのではないのか、なにも困らないのではないのか、単発的に黙示録を時折はさみこんでくればそれでよいのではないのか、という疑問に対する答えですね。
問題は、まさしくここのところ、この一点ですね。
これなのですが、上記の横糸と縦糸の関係で、縦糸 (黙示録) だけですと、ドストエフスキーはやはり物語の複合体としての重厚さに欠けるとでも言いますか、縦糸だけのバッサリした布地=作品になってしまい、物語としてのつや、光沢、輝き、面白み、味わい、奥深さなどといったような複合的な魅力に欠けると判断したのではないでしょうか。
ですので、横糸 (お茶) が、どうしても必要であると。
他にどのような理由が考えられるのだろう。
まさか、ノンアルコールでないと、キリーロフが人神論を展開するのに都合が悪い、そんな理由ではないでしょう。
それでは、順にみていきたいと思います。
1. Gによるキリーロフのお茶訪問
(略してジキリ茶、すみません、つまらない遊びです)
まずは、第一ラウンド、カーン!
お茶が出てくる非常に印象的な最初の場面 (キリーロフが出てくる最初の場面ではありません) ですが、わたしことGが、キリーロフの住む離れの部屋を訪れますよね、この場面のGの描写が大変素晴らしいので、そのままここに引用いたします。
『「僕は茶でもなにされるかと思っていました。」と彼は言った。「僕、茶を買ったです。おいや?」
私は辞退しなかった。間もなく古女房が茶を持って来た。というのは、熱い湯の入った素晴らしく大きな土瓶と、ふんだんに茶を入れた急須と、俗な模様のついた無骨な茶碗二つと、大きな丸パンと、皿いっぱい盛った割り砂糖とであった。
「僕は茶が好きです」と彼が言った。「夜ね、やたらに歩いては飲むんです。夜が明けるまで。外国にいると、夜の茶は都合が悪いですね。」
「あなたは夜明けにお休みになるんですか?」
「ええ、いつも。僕はあまり物を食べないで、茶ばかり飲むんです。リプーチンは狡猾だけれど、せっかちですね。」』(一の192)
Gが辞退しなくてよかったですね、辞退していれば、物語がここで終わってしまいますので (笑)。
余談になりますが、ロシアの茶の歴史について少し調べてみましたが、これはおそらく紅茶のことですね。
また「割り砂糖」のところで、思わずゴーゴリの「死せる魂」の中の鮮やかな一場面 (第一部第一章の女中頭と蠅のところ) を、咄嗟に思い出しました。
それから、この後、二度ほど出てきますので、最後は病院に入る (三の66) この「古女房」に注意です。
ドストエフスキーは、この最初のお茶の場面で、キリーロフが大変なお茶好きであるという前提を、読者にしっかりとイメージさせようと、その定着を図ってきているように思います。
それは、「ほとんど乞食のような貧しい境涯にいる」(二の54) キリーロフなのに、大変なお茶好きであるということを読者に馴染ませるためには、どうしても必要不可欠であると。
そして、そのためには最初の訪問者は、第三者的なこの物語の説話者であるGをおいて他にはいないと。
ここで、Gがキリーロフの部屋に入ったのは、まあ、これは「偶然にもキリーロフ氏に行き会った。」(一の191 ) のですが、夜の七時過ぎです。
ですので、これは僕の推測ですが、「僕、茶を買ったです。」の茶を買った日は、おそらく当日のことではないかと思われます。
最初、このあまりにも唐突な「僕、茶を買ったです。」の意味が、僕にはすぐにわかりませんでした。
第一回にも書きましたように、ドストエフスキーの場合は、常に台詞の裏の意味を推し量ってこなければなりませんので、「乞食のような貧しい境涯にいる」キリーロフが大好きな「茶を買った」ということは、いつもは気難しいキリーロフだけれども、この日はまず大変機嫌がよかったと解釈すべきです。
さらには、もう一点、ドストエフスキーが含ませている意味が感じとられて、貧しいキリーロフが茶を買えたということは、なにがしかの臨時収入があったのではないかということをも、ほのめかしているのではないでしょうか?
それであれば、それはいったいなんの収入なのか?
額面通り「建築技師」(一の152) としての収入として受け取ってよいのか?
よくないですね、違うと思います、と言いますのは、リプーチンの言葉「今度こちらへ見えたのは、ここの鉄橋架設工事に口が見つかるという、確かな当てがあったからなんですよ。目下さきの返答を待っておられるのです。」(一の154) とありますように、実際にはまだ働いていないからです。
そして、ここが肝心なところですが、熱い、ぬるい、冷たいなどの茶の温度の加減については、まだこの最初の段階では、ほとんど言及されていないことです。
ドストエフスキーは意図的に、この最初の場面では、茶の温度には、あえて触れてきていないように感じます。
まずは、その前に、しっかりと土台作り、基礎を固めてからとでもいったところでしょうか。
立ち上がって、帽子を取り、部屋を出て行こうとするGに向かって、キリーロフの『「あなたは僕の兄に似ていらっしゃる、非常に、大変」(中略)「七年前に死にました、兄貴です。非常に、非常によく似てらっしゃる。」』(一の199) も味わい深いです。
つまりは、七年前に兄が亡くなって、その後、キリーロフは「外国に四年」(一の154) だか、「外国に五年」(一の199) だか滞在しているのですね、ここのところ。
2. ニコライによるキリーロフのお茶訪問
(略してニコキリ茶)
さて、いよいよ第二ラウンド、カーン!
ここでドストエフスキーは、第一ラウンドで前提になる条件は整えておいたぞとばかりに、茶の温度の加減を連発してきます、当初からの全体構想通りだぞと、まるで言わんばかりです。
夜の九時半から着替えを始めたニコライが、ボゴヤーヴレンスカヤ街の「黒く古びたフィリッポフの持ち家の、閉め切った門の外へ立ち止まった時は、すでに十時を過ぎていた。」(二の47, 48) から始まって、
『「スタヴローギン君?」手に毱を持って、床から起きあがりながら、いささかも驚く色なくキリーロフはこう言った。「お茶を飲みますか?」(中略)
「結構ですね、もし冷たくなかったら」とニコライは言った。(中略)
「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。(中略)
ニコライは席に着いた。なみなみとついだ茶碗を、ほとんど一息に飲み干した。
「まだ?」とキリーロフがきいた。
「ありがとう。」』(いずれも二の49, 50)
うまいなあ〜、読書の極上の魅力、ここに極まれり!という感じですね。
もちろん、キリーロフのこの「得意そうに引き取った。」に注意です。
さて、これだけを読みますと、茶の温度がどうだとか、そんなことばかり話しているような印象を受けますが、そこはなんと言ってもドストエフスキーですからね、これら一連の会話の裏の意味の読み取りに、黙示録を暗示してきているように感じます。
ちょうど僕の仕事である絵画の場合で言いますと、補色の関係に非常によく似ています。
これが、生涯基礎基本、原理原則を貫いたような天才アンリ・マティスのような場合ですと、赤色系のそばに緑色系をおいてきてくれますので、比較的わかりやすいのですが、ドストエフスキーは、どちらかと言うと、同じ天才でもピエール・ボナールのタイプです。
つまりは、赤色系からやや離れたところに緑色系をおいてくるので、両者の関係の読み取りに一瞬まごつくのです。
赤はわかった、それで、緑はどこだどこだという感じになるのです。
この場合も、やや離れた会話のところで、ニコライが突然キリーロフに尋ねます。
「黙示録の中で、一人の天使が、時はもはやなかるべし、と誓っていますがね。」
「知っています。あれは全く非常に正確な言葉です。明晰で的確です。完全な一個の人間が幸福を獲得した場合、時はもはやなくなってしまいます。必要がないですものね。非常に正確な思想です。」(二の57)
ドストエフスキーにしてみれば、これだけほのめかしておけば、茶の会話の裏の意味の読み取りはできるだろうと、わかったか、ちゃんと示唆しておいたよな、という感じなのでしょう。
ただし、ここのところがすごくドストエフスキー的なのですが、いきなり「なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし」のところは出してこない。
ドストエフスキーは、黙示録の中の別の箇所を出してくる。
それはまだ先だよ、「ラオデキヤ」の登場は、でも、もうわかるだろう、ああ、これは確実に裏をとってつなげて来るだろうなっていうことが!とでもいうところでしょうか。
ここで少し余談になりますが、このキリーロフという「建築技師」は、男からみると、すごくいい奴ですね。
自らの思想に殉じて、「まだ二十七かそこいらの若い男」(一の153) なのに、勝手に死んでしまいましたが。
「生後一年半ばかりの赤ん坊」(二の49) と、「ハンブルグで買った」(二の56) 「大きな赤いゴム毬」(二の49) で遊んであげて。
この赤いゴム毬の場面 (名場面ですね) は、キリーロフが幼い子供と遊ぶ姿を通じて、ドストエフスキーはそれを見つめるニコライに、どれだけ生活を愛する心がまだあるのかを、逆に問いかけている気がします。
そのことが、ニコライのキリーロフへの「じゃ、君は生活も愛してますね?」(二の56) の問いにつながります。
「キリーロフ君、君は非常に幸福らしいですね?」
「ええ、非常に幸福です。」(いずれも二の57)
(ここでさらなる余談になりますが、この「赤いゴム毬」の赤なのですが、ドストエフスキーは、「未発表の章」の『スタヴローギンより』(三の172) の中に出てくる「小っちゃな赤い蜘蛛」(三の186)、「小さな赤い蜘蛛」(三の194) の赤と掛け合わせてきていますね。
つまりは、時系列に整理しますと、ニコライは、まずペテルブルクで赤い蜘蛛を見て、次にキリーロフのこの家で赤いゴム毬を見る、ここで象徴としての赤をオーバーラップさせておいて、今度はキリーロフの「ほら、蜘蛛が壁を這ってるでしょう。」(二の60) で色を抜く、赤い蜘蛛→赤いゴム毬→色の指定なしの蜘蛛。
うまいなあ〜!やっぱり、この辺りが天才の天才たるところだな。
キリーロフの蜘蛛に色をつけなかった理由は、おそらくですが、ここでもう一度赤い蜘蛛と書くと、読者がその点と点のつながりを容易に察知してしまう恐れがあるからで、絵画で言えば、ドストエフスキーとしては、うっすらと見えるか見えないかくらいの斜線を、ここに密かに引きたかったのではないでしょうか。
この赤いゴム毬は、最後、図々しいピョートルがもらうのですよね (三の68)。
この場面のリズムの不自然さ、ドストエフスキーは、確実になにかのメッセージをここにこめてきています。
なんだろう、この意図は?
なぜピョートルがだしぬけに赤いゴム毬をもらい受けるのであろうか?
ここを額面通りに、ピョートルの「僕も体操がしたいんですよ。」(三の68) と受け取ると単純過ぎるように思います。
う〜ん、ここは非常に難しい、元に返しているのであろうか、元の赤い蜘蛛に、逃亡するピョートル、海外に高飛びするピョートルに赤い蜘蛛。
その意図は元に返して、このピョートルはまずは赤い蜘蛛のペテルブルクに逃げるぞ、その後、今度は赤いゴム毬を買ったハンブルグ、すなわち、どこだたわからないけれども海外へと高飛びするぞ、赤いゴム毬を追え!ではありませんが、逃亡者のシンボルとして、ピョートルにくっつけておいてやろうという暗示です。
さらにこの後、ピョートルが自殺したキリーロフの死体を見るために、「マッチの赤い大きな箱」(四の303) で、「ろうそくの燃え残りに火をつける」(四の304) 場面も出てきますね。
最初は、赤い蜘蛛の箇所ですから、ドストエフスキーはニコライの少女凌辱の一節との関連を、ピョートルになにか重ね合わせようとしてきているのかなと考えていたのですが、そうではなくて、単に逃亡や追跡の象徴くらいの意味であれば、ここでさらに大きな問題が出てきて、今までは「悪霊」の執筆開始時からの構成であったと普通に考えていたのですが、ドストエフスキーはいったいどこの時点で、最終的にピョートルだけは逃亡させると決めてきたのであろうか?)
ニコライは、介添人になることを頼むくらいですから、当然そうなのでしょうけれども、キリーロフに対しては、一目置いていますね。
全篇を通じて、ニコライが敬意を払っている相手は、チーホン僧正を別にすれば、まずキリーロフくらいなものではないでしょうか。
「あなたは強者じゃありません。お茶でも飲みにいらっしゃい。」(二の155) という決闘後のニコライに対するキリーロフの対等な言葉もいいですね。
そして、キリーロフと同様に、シャートフもやはり生活を愛していますね。
身籠ったのはニコライの子なのに、マリイのお産の時のちょっと尋常ではないはしゃぎぶりや、『「エルケリ君、可憐なる好少年!」とシャートフは叫んだ。「君はいつか幸福だったことがあるかね!」』(四の252) などからも、そのことがありありと滲み出ています。
でも、ニコライには、それが感じられない。
そこで、ドストエフスキーは、この三者の年齢を二十代後半に大体そろえることによって、ある程度、比較対照しやすいように設定してきている感じがします。
まあ、リプーチンのように「もう中年の県庁役人」(一の45) では、ちょっとやりにくい。
ちなみに、参考までに、キリーロフが上記しましたように「二十七かそこいら」、
シャートフが「二十七か八」(一の47)、
ニコライはGが「四年前はじめて見た時と同じように」(一の316) で、はじめて会った時は「年のころ二十五ばかり」(一の67) なので、二十九くらい。
ちなみに、ピョートルもやっぱり「年のころ二十七かそこいらの若者」(一の312) です。
長くなりましたので、第三ラウンド以降は、また次回にいたします。
2024年3月27日
和田 健