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ドストエフスキー(1821-1881)の「悪霊」(1871-1872)を読んで 第一回「豚のむれ」

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 22 February 2024 by kenwada

皆様、こんにちは。
僕は今年に入り、懐かしいドストエフスキーの世界に久しぶりに戻ってきて、連日のようにどっぷりと浸かりながらあたたまって?います。
そのきっかけは、昨年の暮れまでゴーゴリを読み続けてきて、まあ、ちょっと疲れたので、一息つこうと思って、おっ、一昨年からずっと計画していた「ガラン版千一夜物語」(岩波書店) が、いよいよ始まるのかと思ったら、なぜかそうはいかなくて、ぼんやりとウィキペディアを読んでいたら、まるでそこには世間的な常識のように書かれていたのですけれども、浅学の僕はまったく知らなくて、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「未成年」、「カラマーゾフの兄弟」をもってして、ドストエフスキーの五大長編と言うんですって、まるで知りませんでした、そんなこと。
自慢じゃないですけれども、僕は本当にごく限られたことしか知らないんですから。
ちなみに、僕の大好きな「死の家の記録」はなんで入らないのでしょうか、長編小説ではないからでしょうか?
それにしては、結構長いと思いますけれども。

僕は「罪と罰」を8回、「カラマーゾフの兄弟」を3回読みましたけれども、個人的な読書なのですから、好きな作品を繰り返して読めば、それでいいやと思っていたのですが、そう言われてみるとなんとなく気になり出して、それじゃ残りの3作品もこの際、全部読んでみようと思い、名前からして「悪霊」が一番強烈なので、いつもの方法でメルカリで岩波文庫版全4巻を1000円で購入して、この人類の文化遺産が1冊平均250円ですからね、信じられないとか、またブツブツ言いながら、2023年12月30日に読み始めたドストエフスキーの「悪霊」(1871-1872年刊) を、2024年2月19日になって読み終わりました。

はじめにお断りしたいのは、僕の読んだ「悪霊」は、1980年から1981年にかけて発行された米川正夫氏訳の岩波文庫版全4冊です。
そこで、以下の考察に関しましては、でき得る限りテキストに添った形で行っていきたいと思いますので、引用文につきましては、いちいち書くと大変煩わしくなりますので、すべて巻数とページ数のみ示します。
したがいまして、例えば、(一の100) とありましたら、それは第一巻の100ページに、(四の100) でしたら、第四巻の100ページに、それぞれ記載されていますという意味です。
それでは、少し長くなるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

まず、読み終わっての第一感想は、あまりに「陰惨な出来事」(四の385) の連続で、いったい全員で何人死んでいるのでしょうか、もうちょっとこれはなんて言ったらよいのでしょうか、エンディングも主人公ニコライの首吊り自殺で終わっていますし、この物語を読んで、例えばですが、爽やかな気持ちになりましたとか、感動しましたとか、また明日から前向きに生きる元気や勇気をたくさんいただきましたなんていう人は (なんだか最近、そのような類いの感想を言う人がすごく増えてきたように思いますがいかがでしょうか) 、おそらくですが、世の中にあまりいないのではないでしょうか?

そこに待っていたのは相変わらずのおどろおどろしい、どろどろのドストエフスキー劇場、やっぱり人物を書かせたらこの人の右に出る者はまずいないと言いますか、ちょっと誰も太刀打ちできない、まさしく前代未聞、空前絶後です、よってぐんぐん物語の世界に引き摺り込まれる。
それから室内の描写ですね、これも相変わらず群を抜いていますね。

さらにはドストエフスキーの場合は、常に台詞の裏の意味を読み取ってこないといけない、推し量ってこないとならない、そこで必ずや神経戦、消耗戦になりますね。
絶えず、示唆、暗示、ほのめかしが、これでもかというくらいに執拗に繰り返されてきますから、どうしても疲れますね、これは集中力の勝負になりますから。
したがいまして、ドストエフスキー作品を速読することなんてことは、まず誰にもできないと僕は思います、まあ、何事にも例外はあるでしょうけれども、速読することにあまり意味を見いだせない、遅読です、ゆっくり繰り返し繰り返し、同じ箇所を何度も味わいながら。

今回、完璧なまでに裏をとってつなげてきたなと感じたのは、新約聖書の黙示録の部分ですね。
最後に至るスチェパン氏の「なまぬるいよりはむしろ冷たい方がいい。単になまぬるいよりは、むしろ冷たい方がいいです!」(四の352) の絶叫にもってくるまでの一連の系譜です。

それに対しまして、風景の描写につきましては、先輩であるゴーゴリの方に、はっきりと軍配があがります。
具体的には、「彼はとつぜん足を止めて、あたりを見まわした。車の轍で一面にえぐられた、古い、黒々とした街道は、両側にお決まりの柳をつらねながら、果てしもない糸のように眼前に延びていた。右側は、もうとっくの昔に刈り入れのすんだ真裸の畑で、左側は灌木の繁みの向うにちょっとした林が続いている。ずっとはるか向こうの方には、鉄道線路が斜めに奥へ入り込んでいるのが、あるかなきかに眺められて、その上には何か列車の煙が見えているが、音はもう聞こえなかった。」(四の315)
これ、ゴーゴリでしたら、まずこのくらいでは終わらないです。
まあ、ゴーゴリの超高速魚眼レンズカメラ VS. ドストエフスキーの超性能定点観測カメラとでもいったところでしょうか。

それでは以下、テーマごとに具体的に考えていきたいと思います。
相手がなにしろ巨大にして難解な作品ですので 、僕の足りない頭では大変心許ないですが、それははっきり言って、今更もうどうにもならないですね。

まずは、思わずしょっぱなからハァーとためいきスタート、それは開始わずか2行目の「凡手の悲しさ」(一の8) のことなのですが 、これはいったいどういう意味で書いているのでしょうか?
おそらく、ただのつまらない謙遜なんかでは書かないであろう、この人の場合。

それでは、本題に入ります。
今回の第一回は、ルカ伝の「豚のむれ」(一の6) についてです。
まずは、その場所に注意です。
第一巻の目次の後に、やや唐突に、プーシキンの詩とともに、新約聖書のルカ伝が出てきますよね、まだ本文の始まる前です。
悪鬼が豚のむれに入る例のくだりです。
少し長くなりますが、ここが肝心なところですので、そのままここへ引用します。
「ここに多くの豚のむれ山に草をはみいたりしが、彼らその豚に入らんことを許せと願いければ、これをゆるせり。悪鬼その人より出でて豚に入りしかば、そのむれ激しく馳せくだり、崖より湖に落ちて溺る。牧者どもそのありしことを見て逃げ行き、これを町また村々に告げたり。ひとびとそのありしことを見んとて、出でてイエスのもとに来れば、悪鬼の離れし人、着物を着け、たしかなる心にてイエスの足下に坐せるを見て、おそれあえり。悪鬼に憑かれたりし人の救われしさまを見たる者、このことを彼らに告げければ、・・・(後略)」(一の6)

ここに掲げてきているということは、かなりの重要性を示していると言いますか、結論はここにあるよと、あらかじめドストエフスキー自身がほのめかしている感じが、これは配置された場所が場所だけに、自然にどうしてもしてきます。

そして、物語の途中、「豚のむれ」なる言葉は、僕の確認ではもう一切出てくることなく (シャートフがレビャードキンのことを「豚の子」(一の256) みたいにわめくというのが一回出てきますが、すみません、つまらない冗談です)、最後から二番目の章「スチェパン氏の最後の放浪」の中で、またもややや唐突に、スチェパン氏の哀願「今度はもう一度あの・・・・・・豚のところを読んで聞かして下さい。」(四の353) で見事につながり、ソフィアが読んで聞かせます。
(ちなみに、ソフィアが読んで聞かせた「豚のところ」は、上記に引用した部分とまったく同じ箇所なのに、語句の使用や句点の位置が微妙に違います。
これは、おそらくですが目次の後に掲載されたGまたはドストエフスキーの聖書と、聖書売りのソフィアが売っている聖書とが、違う本であることを示しているのではないでしょうか。)

ここのところですね、ここのところ。
つまりは、ドストエフスキーは、ニコライも、ピョートルも、リプーチンも、リャームシンも、ヴィルギンスキイも、トルカチェンコも、エルケリも、レビャードキン大尉などは改めて言うまでもなく・・・、要するに本文中何度も出てくる言葉である「有象無象」ですね、もう誰も彼も「豚のむれ」であると言いたいのでしょうね、ここのところをよく考えなさいと、これがまず一点。

ただし、並の作家であれば、話はそこまでなのでしょうけれども、そこはなんと言ってもドストエフスキーですからね。
「豚のむれ」に入らないのは誰なのかを、逆に問いかけているのかもしれません。
なんとなく、そのような気がしてなりません。
これには、本文中にちょっとした示唆が含まれていて・・・、この話は長くなりますので、また次回以降にいたします。

そして、もう一点なのですが、なぜスチェパン氏は、人生の最期に、突然「豚のところを読んで聞かして下さい。」と言ったのだろう?
ここの裏が十分にとれませんが、そのあとにありますように、おそらく「豚のむれ」が子供の時分からのスチェパン氏にとっての「つまずきの石」(四の354) であったからではないのでしょうか?

つまりは、自分の人生はもう終わろうとしているけれども、今思えば、子供の頃の「豚のむれ」のところから転んでしまったなあと、もう決して取り返しはつかないけれども、死ぬ間際になって、ようやくそのことに思い至り、長年心の中で引っかかっていたなにがが、突然表出してきて、唐突な哀訴になったと、そのようにドストエフスキーはとらえたのでしょうか。
子供の時分に「つまずきの石」であるところの「豚のむれ」が理解できずに、神の問題から離れて、自分はその後思想を方向転換していったけれども、あの「つまづきの石」こそが、今思えば実は自分の人生の原石だったなあと。
ですので、スチェパン氏は「自分はもはや、少なくとも三十年くらい福音書というものを読んだことがない。」(四の327) のです。
悔悟の念が、「豚のむれ」の「あるいは私なぞその親玉かも知れない」(四の355) の言葉につながります。(下記後日記1参照)

そこで、そのための事前準備ではないですけれども、ドストエフスキーは段階を踏んで構成してきていますよね、いきなりではあまりにも唐突だと思ったのでしょうか?
ステップと言いますか、足がかりとして、ソフィアはまずは「山上の垂訓を通読」(四の350) して、次に「黙示録」(四の351) を読む。
ここで一度ソフィアが中座しますよね、支払いがどうとか、医者がどうとか、まあ、要するにタイムをとる、それでこの間の猶予に、スチェパン氏のはるか昔の記憶が呼び覚まされて、今やややさびれた (失礼!) 頭のスイッチが入って、突然の「豚のところを読んで聞かして下さい。」になる。
でもこれはあれですよね、百姓家で聖書売りの女ソフィアを登場させた時点から、「豚のむれ」につなげていこうとしたドストエフスキーの構成上の意図はかなり明白ですよね、他の商売ではだめな訳です。
ちなみに、スチェパン氏の年齢は、「五十三才」(一の29) です。

話がそれてしまいますので、この味わい深い「スチェパン氏の最後の放浪」の章について、十分にご紹介できないのが大変残念ですが、「罪と罰」のマルメラードフや、「カラマーゾフの兄弟」の少年イリューシャ、さらには珠玉の短編である「キリストのヨールカに召された少年。」(「作家の日記2」ちくま学芸文庫、ちなみにこの最後の句点は原文のママです) などにみられるように市井の人々の人情ものを書かせても、ドストエフスキーは天下一品です。
ちょっとこれは人間業とは思えないレベルの高さです。

この「悪霊」の中でも、例えば、火事の前でわめき立てる頭のネジがもうはずれてしまったような知事レムブケーが、八十になる老婆を助けようと、彼女の羽蒲団を引っ張り出す場面 (三の102〜105)、このリアリティー、これは人生の中でなにか火事にあった経験でも実際にあったのでしょうか。

ドストエフスキーのこの比類のない筆力、力量はいったいどこからくるものなのでしょうか。
この人はあれですね、僕は「多動の人」(この言葉は別に説明が必要ですよね) なのではないかという結論をもっているのですが、日々の努力ですとか、精進ですとか、鍛練ですとか、そうした類いの観念からは、まるで一切書いていない感じがします。
つまりは、ドストエフスキーは自らを作家として大成させようとしていたのであろうか。
まあ、少なくとも自身を育てていこうとくらいはしていたのであろうか。
違うのではないか、そのような意識から書いているのでは、実はまるでないのではないかということです。
ですので、ドストエフスキーには、最後の「カラマーゾフの兄弟」に至るまで、究極的な意味合いにおける小説家としての変な色気を感じないのです。
ここから、これも同様に究極的な意味合いにおけるところのドストエフスキーの素朴さについて、通常使われるところの「あの人は素朴だ」とか、そういう意味ではない素朴さについて、今少し考え始めています。(下記後日記1参照)

この「スチェパン氏の最後の放浪」の章も、実にもう流れるような展開です。
街道ものとでも新たに名付けましょうか。
スチェパン氏が街道に出る→向こうから田舎馬車が来て、百姓夫婦と知り合いになる→窓の三つついた明るい百姓家に着く→薄っぺらな、半分小麦の入ったうまいプリンが出る→五コペイカ分のウォートカの極小ビン、この五コペイカ分のウォートカの話が実にいいですね、百姓の女房についだら二杯目の自分の分が足りなくなって・・・→さあそこで「これをお購め下さいませんか?」(四の326) と聖書売りのソフィアの登場、ここうまいなあ〜!
ちなみに、このソフィアですが、「私たちの町に福音書を売り歩く行商の女が現われた。」と、以前に一度登場していて、「やくざ者のリャームシン」と「のらくらしている神学生」との「もはやとうてい我慢のできない悪ふざけ」(いずれも二の209) に辱められ、「留置場に押しこめられ」(二の210) てさえいます。

これはあれでしょうか、あまりにもむごたらしい惨殺、自殺が続いたあと、さらにこのあとに、ニコライの自殺も控えているし、ドストエフスキーもちょっとたまらなくなって、このままでは息が詰まるから、新鮮な空気を入れてひと息つきたいと、少しはホッとしたいと、おそらくは相当追い詰められているであろう読者の心情を思いやるというよりは、実は自身がそれ以上に換気が必要だと思ったのではないでしょうか。
なんとなく、そのような雰囲気が伝わってきます。
自己解放とまで言うと、少し誇張になりますが。

しかし、物語の説話者たる「私」こと「G」のスチェパン氏に対する感情移入は、他の登場人物たちへのそれに比べて、友人であるだけに明らかに比較にならないほど深いように思います。
ちなみに、この「G」ですが、「アントン・ラヴレンチッチ」(一の217、218) という名だと、本文中に二回ほど出てきます。
この「私」こと「G」が、どの程度までドストエフスキー自身であると考えてよいのか、つまりは、この「G」とドストエフスキーとの距離感ですね、これを考えていて、頭がぐらぐらしてきたあたりで、今回はおしまいにいたしますが、ドストエフスキーの特異な世界を久しぶりに堪能しました。

しかし、相変わらず人殺しの話が多いですね、今回の火事にしても放火であることが明らかですし、人殺し、自殺、放火と、要は人為ですよね、文字通り人の為すことです、育った地域性もあるのでしょうが、そこに天変地異は出てこない。
地震や火山の噴火は出てこない、ここに若い世代の方にとって、ドストエフスキーの文学に、同様に特異な対抗軸を構築できる可能性があるように思うのですが。
まあそうは言いましても、質、量ともにドストエフスキーを乗り越えるということは、僕の仕事である絵画の分野で言うと、レンブラントを乗り越えることに匹敵すると思いますので、並大抵なことではないと思いますが、それでもわからないですよね、可能性というものは、どんなに少なくともやはり確かにある。

僕の眼の状態をみながらになりますので、いつになるのかわかりませんが、ちなみに、第二回は「マリヤ・レビャードキナと梟」、第三回は「キリーロフとお茶」を一応予定しています。
特に、「キリーロフとお茶」は僕にとって、この物語の中で、一番味わい深いところです。

2024年2月22日初稿掲載
2024年2月23日加筆修正
和田 健

後日記1:
ここで、少し休憩、のわりには大問題です。

それは、スチェパン氏の最期の裏ですね、この裏のとり方なのですが、おそらく直感的に、ドストエフスキーはここに、首謀者ピョートルの逃亡をもってきているのではないでしょうか?
その手がかりになるのは、本文中のスチェパン氏の臨終の叫び、
「ああ、私はできることなら、もう一度生活がしてみたい (中略) おお、私はペトルーシャや・・・・・・ほかの仲間の連中が見たい・・・・・・そしてシャートフも!」(四の370)
ちなみに、ペトルーシャとは、スチェパン氏の息子であるピョートルの愛称ですが、この最期の場面でシャートフがきたか!
「(前略) よくスチェパン氏はこう言って戯れたが、しかし彼はシャートフを愛していた。」(一の47) とありますからね。
このこと一つをとってみても、難しいことはさておき、まずは単純な事実として、やっぱりドストエフスキーは登場人物を、すなわち自らが生み出した人物を実によく見ているなと思います。
また「ペトルーシャ・・・・・・ああ、私はあの連中にもう一度会ってみたい。彼らは自分たちの中にもやはりこの永遠な思想が蔵されていることを知らないのだ、全然しらないのだ!」(四の371、二度目の知らないはひらがなです) ともあります。

ドストエフスキーは、最終的に張本人のピョートルだけは逮捕されることもなく、海外に高跳びまでさせて逃がしています(四の275)。
これは誰がどうみても明らかに大問題ですよね、だって、他のメンバーは皆捕まったり、惨殺されたり、自殺したりしているのに、首領の大悪党であるピョートルだけは逃げている・・・これは読者にとって、「えっ、なんでよりによってこいつだけ捕まらないの?」という感じです。
つまりは、意図的にそのように構成してきたドストエフスキーの思想ですね。
これにつきましては、今年で「悪霊」が出版されてからすでに、2024-1872=152 年が経過していますので、専門の研究者の間でこの問題につきましては、さんざん議論され尽くしたことと思いますが、現在、ピョートルの逃亡につきましては、どのような共通の理解や認識が示されているのでしょうか?
僕にとって、ドストエフスキーのこの思想を読み解くことはかなり難しいのですが、これはあれでしょうか、罪の赦しと再生の問題として、ドストエフスキーは、ピョートルの逃亡をとらえているのでしょうか。
ピョートルよ、偉大なるものの前に跪けと、そうしないとお前ほど悪くて、お前ほど罪の意識の軽い者に最終的な救いなどはまるでないと。
そこで思い出されるのが、ピョートルが最後、プラットフォームでエルケリと別れて列車に乗り込んだ時の「くるりとふり向いてしまった」(四の311) 姿です。
これは、ピョートルが人を道具としてみていることを端的に表しています。
少尉補エルケリは、使用済みで用がないので、もう要らない訳です。
それに対してエルケリは、ピョートルのことを崇拝してやまないので、ドストエフスキーは「この少年がかわいそうでたまらない」(四の154) のでしょう。
この「ピョートルの逃亡」についての専門家の見解をぜひ勉強したいです。

また、この「ピョートルの逃亡」問題をドストエフスキーの制作者側としての視点から考えてみると、まあ、これは別にドストエフスキーのような大作家でなくても、どんな作家でも簡単にわかることだと思うのですが、ピョートルだけ逃亡させたら読者は納得しないぞ、この逃亡は読者には容易には受け入れられないぞと感じると思うのです。
問題は、まさしくここのところなのです。
つまりは、自らの思想なり思考が、ドストエフスキーの場合は、もうここまでくると思想云云と言うよりも魂と言った方がより適切なのかもしれませんが、ピョートルの逃亡を上回ってしまう。
不等号で表せば、
自分の思想=魂>ピョートルの逃亡
です。
ここのところが、上述しましたドストエフスキーには、究極的な意味合いにおいての小説家としての変な色気がないことにつながります。
同じく僕の言う自分自身に忠実に生きるドストエフスキーの素朴さにつながるのです。
なんとなく伝わりましたでしょうか?
ここのところは芸術家として、極めて大切なところです。
商売の方でしたら、すぐにでもお客様の意向にそう形で、多少なりとも修正しなければならないところですから、でもそれはしない。
普通に、小説家としての色気をもっていたら、ここまでの巨人には到底ならない。
僕が、この人に直接訊ける機会があったら、もちろん僕などにそのような機会があるはずもありませんが、仮定です、あくまで仮定、「やっぱり小説なのでしょうか?」ということです。
なにか違うのではないかな〜、生業として仕方なくとまでは言いませんけれども、自己の本分に忠実に思想を深めたい、そしてそれを書き留めたい、ひたすらただそれのみに情熱を燃やして集中していきたい、人生をかけて埋没していきたい、そしてそれらを小説という実験道場のようなものの中で組み立てて試していきたい、でもそれはあくまで自分の思想をさらに深めたいがためだ、そこだけは絶対に譲れない。
となにかそのような感じかなあ、まあそれはあなたの意見でしょと言われれば、それはもちろんそうなのですけれども、でもそのことが、彼をただのストーリーテラーから明確に遠く隔てている訳ですし、後世にこれだけの影響を現に与えている訳です。
つまりは、ここのところ。
したがいまして、ドストエフスキーを読んで、小説家がその魅力的なスタイルをただ形式として取り入れることは (まあ、そんな方はいないでしょうけれども、一応念のため)、僕は極めて危険だと思います。
「プーシキン、ゴーゴリ、モリエール、ヴォルテールなどというような、自分自身の新しい言葉を発するために生まれてきた人たち」(一の141) とは、なんと素晴らしい言葉でしょうか!
こういう一文に出会う (そうです、それはまさしく出会いです) ために、僕は毎日ひたすら読書をしている訳です。

以上、少し休憩、のわりには大問題終わり。

2024年2月24日、25日
和田 健

後日記2:
やっぱり、上記の考察と関連して、ドストエフスキーの場合は、神の問題が、小説家としての自らの作品を上回っているように感じます。
つまりは、また不等号を使って表すと、
神の問題>小説家としての自らの作品
これに対して、通常の小説家の場合は、前作よりも、少しでもよりよい作品を書こうとして、
小説家としてのよりよい自らの作品>小説家としての自らの作品
になっているのではないでしょうか。
そして、ここの違いの中にこそ、なにか決定的なものが秘められているように思います。

2024年3月11日
和田 健

さまよい続ける難破船「和田丸」のその後の航海リスト ーゴーゴリ(1809-1852)の諸作品に接してー

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 7 February 2024 by kenwada

皆様、こんにちは。
大雪に見舞われた僕の住む森の中は、今朝はマイナス12℃ときりっと冷え込んだ美しい朝を迎えましたが、またまた、さまよっています、さまよっています、あり得ないことに森の中で船が、もうほとんど沈みかけようとしています(笑)。

結局、昨年9月以来のニコライ・ゴーゴリに対する興味や関心を、僕なりに追求する過程で読んだ本は、
「外套」(児島宏子訳、未知谷)
「外套・鼻」(平井肇訳、岩波文庫)
「ニコライ・ゴーゴリ」(ウラジーミル・ナボコフ、青山太郎訳、平凡社ライブラリー)
「死せる魂」(平井肇・横田瑞穂訳、岩波文庫上中下巻)
「検察官」(米川正夫訳、岩波文庫)
「狂人日記」(平井肇訳、岩波文庫)
と、ここまできてなにかが物足りなくなり、このなにかがうまく言葉では表現できず、まあ、そのような時に誰でも思いつきそうなことなのですけれども、この際、ゴーゴリの全集を買ってもう少し幅広く読んでみようと思い、いったい去年からずっと計画していた「ガラン版千一夜物語」(岩波書店) は、いつから読み始めるんだとかブツブツ言いながら、生まれて初めての慣れない Yahoo! JAPAN のオークションに少し緊張して入札してみたら、僕しか入札者がいなくて、極めて妥当かつ適正な価格で落札 (やったぞ!) できて、河出書房新社の「ゴーゴリ全集」全7巻が、自宅にどすんと届いたのでした。
以下、この全集で読んだ作品は、
「昔かたぎの地主たち」(全集第2巻)
「イワン・イワーノヴィチとイワン・ニキーフォロヴィチが喧嘩をした話」(全集第2巻) というものすごく長いタイトル
「鼻」(全集第3巻)
「肖像画」(全集第3巻)
「賭博師」(全集第4巻)
「評論」(全集第6巻)の中からいくつか
「書簡」(全集第7巻)の中からいくつか

やっぱり、ゴーゴリは画家だな、その魚眼レンズのような眼が完全に風景画家だな、ゴーゴリは余程画家になりたかったのだろうな、でも小説家になることを選択した。
ともかく伝わってくる彼の桁外れの情熱は、芸術家であれば心が満たされるなどという世間並みの一般的な欲求などでは決してなく、彼にとっては、芸術家以外の人生などそもそもの最初からこの宇宙の中に全く存在さえもしなかった、晩年は宗教に傾倒しましたけれども。
そこで、なんと言ってもやっぱり代表作なのに、なかなか入手しづらい (出版社の方方、なんで?)「死せる魂」について少しご紹介したくなって、特にその冒頭ですね、文字通り物語のこの導入部、そうです、「県庁所在地のNNという市のある旅館の門へ、ばねつきのかなり奇麗な小型の軽四輪馬車が乗りこんで来た。」のところ、これはもう練りに練り上げた上で完全に決めに入ってきたなと思って、うまく言えないけれども、もうほとんどここで勝負あったなと。
それから、何度も何度も繰り返される驚異的な自然描写 (なにしろその眼が画家だから)、風景を書かせたら、この人の右に出る者はまずいない、もう楽しんですらすらと書いている感じ、これに対して、人物の描写は非常に苦心、呻吟している感じがする、書きながらなにか自己を鍛練している感じさえする。
それから脱線になるけれども、少し気になったのは、このゴーゴリという作家は女性は書いてこない、もちろん女性は登場してきますけれども、性としての女の部分はほとんど出てこないとでも言えばよいのでしょうか。
しかしそれにしましても、僕の仕事柄、風景を書けるってすごいなあ〜、通常風景って描くものでしょう、なんと言ってもまずは観るものだから、違うのかな?
このゴーゴリ (1809-1852) の書いた風景と、印象派のオールスターの面々、例えばピサロ (1830-1903) でも、シスレー (1839ー1899) でもいいけれども、彼らの描いた風景を比べてみると面白過ぎますが、ローマを愛したゴーゴリは、偉大なイタリアの画家たちと比べろと怒り出すだろうな。
その一例を挙げろと言われれば、1842年の第一部完成後、1852年に亡くなるまでの生涯の最後の10年間にわたり、書き続けてきた執念の塊のような原稿を自ら焼き捨ててしまい、未完のため世評はあまり芳しくない第二部だけれども、この中の「春の輪踊り」の場面は美しい、あまりにも美しい、これは昔昔僕らが幼少の頃、女の子となかば無理やり手をつないでやらされた「はないちもんめ」のようなものなのかと・・・。
ここで、「死せる魂」(岩波文庫上巻) の巻末に、訳者平井肇氏のわかりやすい素晴らしい「解題」があるのですが、この中で氏は、「彼の心中では、この作が三部作の形に成長し、完成の暁には『死せる魂』は三部分に分れてダンテの『神曲』の三部分に該当した形を取るはずであった。すなわち (中略)『死せる魂』の第一部は『神曲』の『地獄篇』に相当し、(中略) 第二部は『煉獄篇』に当り、(中略) 第三部は『天国篇』に相当するはずであった。」(p.254) と書いています。
う〜ん、つまりは、解釈的には、第一部を土台としてその素材を使って、宗教的な贖罪の方へもっていきたかったのだけれども、もっていけなかった、チチコフとの共有点を見出せ得なかったからという大きな流れでよいのでしょうか?
上記の「ニコライ・ゴーゴリ」の中でナボコフは、「『死せる魂』は完成の暁、三つの表象の結合から成るはずであった。すなわち、罪と罰と贖いである。この目的を達することが絶対に不可能であったゆえんは、ゴーゴリの特異な天才がひとたび勝手に動きだしたらどんな紋切型の図式も破壊せずにはおかぬ態のものであった」(p.205) とあります。
う〜ん、つまりは、ゴーゴリは非常に感覚的な方で、やっぱり小説家というよりは画家で (もちろん言うまでもなく偉大な小説家です、一応念のため)、緻密に計算尽くで物事を進めてこないとでも言いますか、研ぎ澄まされた直感を軸に感覚的に物事の真相を瞬時に感じとるとでも言いますか、自らが創造したチチコフに、後年自らが苦しんでしまったのだけれども、それがなんなの?とでもいうような、どうなんだろう、一人の孤高の芸術家として第一部を書いた後悔はなかった、チチコフに魂の救済なんてできない、でもそれはそれで仕方がないだろう、人生は思考も思想も移り変わっていくものだから、わかりません、それはあくまでも僕の考えですから。
苦しんだであろうな、この人は。
苦しんだなんていう生易しいものではないかもしれないな、この人は。
それが晩年、宗教的な方面に傾倒していったことにも関係しているのかもしれない。
自分の中で、第二部が完結し得ないなと予感した時に、それではせめて自分という人間の魂の救済、贖罪、自分という人間の『煉獄篇』は作りたいなと思ったのかもしれない、わかりません、それはあくまでも僕の感じたことですから。
でもそのことが、1852年2月11日、最期に第二部・第三部を暖炉の中に置き、蝋燭で火をつけた。
跪いて、「やめてくれ」と頼む召使の少年に、「おまえの知ったことではない。 ーとゴーゴリ は言ったー それよりお祈りをしろ」(「ニコライ・ゴーゴリ 」p.241) につながるのかもしれません。
その魂が非常に剛直、真っ直ぐ、正直、清廉潔白、決して金のために文章を書かない、仕事を金に引き換えない。
実際問題として、最後の10年間に「友人との書簡抜萃」の刊行はあるにせよ、いったいどれほどの収入があったのであろうか?
そういう人が詐欺師を書くということ、そして詐欺師を書いたがゆえに、今度は自分が苦しむことになるということ、ここのところ。
世の中の普通の人々であれば、第二部を金に換えてしまうでしょう、家族のためだとかなんとか言って、でもそれはしない。
それであれば、せめて原稿を遺しておくでしょう、出版するかしないかは後世の人の判断に委ねますとかなんとか言って。
でもそうじゃない、断じてそうじゃない、焼いてしまう、この世から完全に消し去ってしまう、すべてはここのところです。
これは、おそらく悔恨ではないかと思う、慚愧の念、悔い、過ちですね、自らの前半生に対するところの。
なんなんだろう、この人にはなにか修道士のような厳しさ、潔癖さがある。
なにかこう、アッシジの聖フランチェスコに似通った気質を感じる。
つまり、僕の言いたいことは、原稿を焼き捨てたというその行為自体の中に、宗教的な要素がなにかしら含まれているのではないかということです。
それともそれは単に文学的な意味合いだけから行ったのであろうか?
ゴーゴリ は、人生の最期に笑えたのであろうか、魂の救いはもたらされたのであろうか、日常の何気ない出来事の中にたとえ少しでも安らぎはあったのであろうかー
「おまえの知ったことではない。それよりお祈りをしろ」!

それから話は全然変わって前に戻りますけれども、第一部第三章の馬車が泥濘にはまって道に迷い、偶然泊めてもらった先が翌朝起きてみれば、なんとコローボチカ夫人の家だったという、この流れるようななんともユーモラスな場面転換・・・、ここも実に面白い!
すべてにおいて非常に球体、転がり出てくる球体、コロコロと・・・、稀代の詐欺師チチコフ自身がまず球体。

でもここでと言うのは、もう昨年末のことになるのですが、ちょっと疲れて休憩!
そして、休憩している間に、話はまったく思いがけない方向に、これもやっぱりコロコロと・・・、「和田丸」は相も変わらずさまよい続けていくのでした。

2024年2月7日初稿掲載
2024年2月8日加筆修正
和田 健

参考までに、気になりましたので、少し調べてみましたが、ゴーゴリが原稿を焼き捨てた1852年2月11日は水曜日で、この年は閏年で2月29日があったため、その22日後の3月4日木曜日にゴーゴリ は亡くなっています。
すでに「自らが企てたハンガー・ストライキ」(「ニコライ・ゴーゴリ 」p.12)、「死に先立つ数カ月間のすごぶる徹底した断食」(同、p.14) とありますように、肉体的消耗が激しく、一概に彼の原稿焼却と死とを結びつけるのは早計であるとは思いますが、魂が抜けてしまったような虚脱感が、おそらくあったのではないでしょうか?
うん?もしかして安堵感のようなものがあったのであろうか?
長年にわたる肩の荷をおろしたような、これでいつでも死ねるぞ、その準備はできたぞとでもいうような。
もしそうであれば、上述しました焼却についての二点の考察に加えて、これはゴーゴリ の焼却行為の三点目の理由になるように思います。
すなわち、
①宗教的ななんらかの観念から焼却した。
②あくまでも文学上の意味合いからのみ焼却した。
③死期を悟った時点で、そこから逆算して焼却した。

それからもう一つ、夕方愛犬の散歩をしている時に、突然思い出したのですが、画家のジョルジュ・ルオーが自作品をやはり焼却処分しています。
我が国では書家の井上有一氏が、たしか同様のことをしています。
三者に共通する気質とはなんだろう?
潔癖さ、完璧主義、宗教性・・・。

2024年2月10日
和田 健

天才ゴーゴリ (1809-1852) の驚異的な自然描写力について、天才ゴッホ (1853-1890) に訊いてみる!

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 8 October 2023 by kenwada

皆様、こんにちは。
今日、これからご紹介する文章は、名づけて「画家の眼の聖書」とでも呼ぶべきものです。

ゴーゴリについての理解を少しでも深めたいと思い、「ニコライ・ゴーゴリ」(ウラジーミル・ナボコフ著、青山太郎訳、平凡社ライブラリー) を読んでいましたが、2023年10月3日に読了しました。
この本の中で展開されるゴーゴリ論は、ロシアで生まれたナボコフが、ゴーゴリの原文を母国語として読み、それを英訳したものを、今度は青山氏が、さらに日本語に訳したものなのですが、その第Ⅲ章「われらがミスター・チチコフ」で、ナボコフが、「死せる魂」の中のプリューシキンの庭園の描写を引用しています(p.135, 136, 137) が、この荒れ果てた庭園の描写には、ちょっと度肝を抜かれました。

僕は、1年365日、森の中で生活していますので、自然がどれだけ実は不格好で、醜く、乱雑で、時として暴力的になるかと思えば、無慈悲でとても残酷でもあり、それでいながら、すべてを受け入れる包容力に、いかに満ち満ちているかを、四季を通じて実感しています。
自然は、決して、均斉のとれた整然としたものなどではありません。
均斉のとれた整然としたもの、それは例えば人為的につくられた公園です。
つまりは、自然は、決して、きれいごとではすまされない、自然は、実はなんでもありなんです。
なんでもありなのだけれども、同時に品がある、これはすごいことですよね。
なにゆえ、そのような両立が可能であるのかと言うと、ここが肝心なところなのですが、自然は、みだらではないからです、自然には、猥褻さがないからです。

僕は、このゴーゴリの文章の中に、我が家のまわりの景色を、何箇所も (そうです、実に何箇所もです!) 見つけ出しました。
そうだ、そうだ、それだ!という感じです。
そう、こなくっちゃな!
すごいなあ〜、いったい、なんなんでしょうね、この天才の眼は!
この自然描写力を自分一人だけの宝物にして、そっとしまい込んでいないで、この文章にぜひ一人でも多くの人に出会って欲しいです。
そうです、これは出会うという、もはや事件と呼んでもさしつかえないレベルなのではないでしょうか?

そこで、ここで少し、このゴーゴリの文章を、僕の仕事柄、僕なりに絵画的にみていきたいと思います。
最初は、まずはなんと言っても、このモチーフの選び方ですね、ここにゴーゴリ特有の特異な眼が、大きな特徴として、すでに十二分にあらわれています。
なんと言っても、ただの「樹木の生い茂るがままに荒れ果てている」庭園ですからね、モチーフが。
このあたりがまず、すごくゴッホ的ですね (ゴッホは、誰もが知っているような有名な作品だけではなく、ぜひとも全作品をご覧になってください、森の下生えや下草、ただの木の根っこなどもたくさん描いています) 。
この荒れ果てた庭園にも、かつては人の手が入っていたのでしょうね、でも、おそらくはそのまま放置されて、すでにもう何年も経っているのでしょう、そのことが文章の最後の方の「人間がああでもないこうでもないと、ややもすれば無意味な苦心を重ねた末に」につながってきます。
まあ、この庭園=放置されっぱなしの雑木林のような感じなのでしょう。
これがゴーゴリの手にかかると、作品の立派なモチーフ「絵のような荒廃ぶり」になってしまう、まずはこの視点です、眼のつけどころ、これを題材に選んでくるのかというところです。
スノッブな画家たちは、もうこの時点で退散ですね、そんなの描いても売れないよ、ときますから。

さて、次は、出てくる色ですね、色をこれだけ観れているということ、これはちょっと尋常ではありません。
テキストの最初から順にいきますと、「緑の雲」、「白い幹」、「緑の密林」、「雪のように白い木肌」、「黝 (くろ) ずんでいるさま」、「黒っぽい鳥」、再び登場「緑の密林」、「灰色の小籔」、「緑の掌葉」で、色名が具体的に出てきているものだけで9箇所。
さらに、具体的な色名こそないものの、明らかに色を連想させる表現としては、これも最初から順に、主だったものだけでも、4度登場する「白樺」、「大理石の光り輝く円柱」、「斜めに鋭く尖った折れ口」、「帽子」、「ホップの蔓」、「細くしなやかな鉤を輪に結んで、風のまにまにゆらゆら揺れている」、「日もささない深み」、「暗い落とし穴」、「ぽっかり口をあけている」、「陰影に閉されていて」、「暗がりの奥」、「僅かに仄見えるもの」、「老い朽ちて洞ろになった柳の幹」、「透明に火と燃え立たせ」、「濃い闇」、「燦然と輝かせていた」、「鴉」、「枯葉」などといったところでしょうか。

さて、今度はこの色を実際に、今ここで、パレットの上に出してみましょう。
結局、パレットに並ぶ色は、緑色、白色、黒色、灰色。
「透明に火と燃え立たせ」や「燦然と輝かせていた」で暖色を1つか2つ、まあ、ここでは代表的な赤色と橙色にしておきましょう。
「枯葉」で大まかに言って茶色か黄色。
これって、実に美しいパレットです、絵画成立に向けた素晴らしいラインアップなのですが、ゴーゴリさん、3原色の青色系がない!
ご存知のように青色だけは作れませんので、これにはちょっと困ります。
灰色は黒色と白色で、橙色は赤色と黄色で、それぞれ作れますから、別になくても構いません。
まあ、一口に青色と言っても、様々な種類がありますが、青色があれば、赤色があるのですから、紫色も作れますし、3原色を全部混ぜて黒色も作れますので、白色さえたっぷりと確保しておけば、ここは、絵画的には、パレットの上に、青色系がどうしても欲しいところです。
画家であれば、おそらくは、なかば本能的に、もうすでにすっとパレットの上に、青色をチューブから出してきているところです。
それではここで、青色欲しさに、じゃあ空の青色でいこうとか、一般的に (単純に) もってくると、もうそれはゴーゴリの世界から遠く離れてしまい、ゴーゴリさんに激怒されそうです。
うん?わざと?故意に?
う〜ん、でも、ゴーゴリさんが、わざと青色を使わなかったのだとしましたら、この場合は、その理由が特にないように思いますので、ここはやはり、ゴーゴリさんのパレットの上には、今回は、青色系がなかったのではないでしょうか?
さあ、それでは、問題です。
あなたは、どこを塗りますか、青色で?
考えていただけましたか?

それでは、いよいよ (待ってました)、ゴッホさんに訊いてみましょう!
ここでは、彼の数ある「Sous-bois」 (森の下生え、下草くらいの意味です) 作品の中から、例として、亡くなる前月の1890年6月に、オーヴェル=シュル=オワーズで描いた作品を選びます。
画布に油彩、大きさは、50×100.5 cm です。

うぉ〜っ、そこで、きたかー、きれいだな、天才だな、本当にきれいだ、青色、青色、青色のまさにオンパレードじゃないですか!

それにしましても、ゴーゴリのこの豊かななどというものではないですね、異常に発達した色彩感覚は、いったいどこからきているのでしょうか?
ウクライナの高等中学校時代に絵画に熱中したことからきているのでしょうか?
それとも、サンクトペテルブルクで、週に3回美術アカデミーに、実際に通ったことからきているのでしょうか?
でも、僕は、そうしたことももちろん影響しているとは思いますが、19才くらいまででしょうか、多感な時期を過ごしたウクライナの村の風景や気候、風土、なにかそうしたものの方が、直感的には、ゴーゴリに強い影響を及ぼしているような気がしますが、とくに根拠がありません。
つまりは、わかりません、僕には。
しかし、このウクライナのヴェルィーキ・ソローチンツィという村、ウィキペディアで早速、調べてみましたが、なにかいかにも天才が生まれそうですね、これで幼少期病弱であったりすることが重なると、天才が出てくる典型的なパターンですね。
天才は、自然豊かなところで育たないと、なかなか生まれてきません。
都市部からある一定の比率で (と言いますのは、結局は、それが正規分布であるからですが) 生まれてくるもの、それは秀才です。

3つ目は、(他の箇所にもあるのですが) ホップの蔓が大変象徴的ですが、画面ではありませんね、紙面がもう揺らいで、波打ってきていますよね、蔓が螺旋状に渦を巻いて上へ下へと大騒ぎをしている、蔓は運動やエネルギー、所有や依存と言ったようなものの流れの象徴ですから。
このあたりも、ゴッホの渦巻く絵画の特徴とすごく似ている。

ここで、僕は思うのですが、なにゆえにゴーゴリは、リアリズムの租なのでしょうか?
僕は、すごく疑問に思うのです、この庭園の描写は、もっとなんて言えばよいのか、そう、すごくモダンですよね。
まるでゴッホの絵画のように、桁外れにモダンですよね。
彼が、これだけ色を観れるということ自体が、なによりもそのことを証明しているように思います。
「外套」を読んでいても思うのですが、例えば、モダニズムの先駆者とでも呼ばれているのでしたら、まだしもわかるのですが。
この件につきましては、自分なりの見解や推測があるのですが、今、ちょっとそれはやめておきます。

この庭園の描写の結論は、「一言にしていえば、何もかもが素晴しかった」の一文に、結局は、行き着ついてしまうとは思いますが、個人的には、濃い闇の中で、透明に火と燃え立ち、燦然と輝く楓の一枚の葉裏にこそ、究極の到達点があるように感じます。
いずれに致しましても、これだけの美しい文章が、ただそれだけで終わってしまうのであれば、非常にもったいないことですので、こうして、3点ほど考察してみました。

さて、おしまいに、実際の文章のご紹介です。
前半が、ナボコフの英訳を青山氏が日本語に訳したもの、後半が、まったく同じ部分の岩波文庫版で、平井肇氏の訳です。
ただし、現在の岩波文庫版の昭和52 (1977) 年に、横田瑞穂氏の改訳がなされる以前の、青空文庫に入力されている平井訳です。
この平井肇という方の訳がどれだけ正確ですごいか、「死せる魂」の初版発行は、昭和13 (1938) 年になっていますので、ロシア語から直接日本語に訳されているわけですから、当時の時代背景などを考慮に入れますと、どれほど驚異的なことか、合わせてご堪能ください。

2023年10月8日
和田 健

ナボコフ英訳→青山訳

 邸の裏手に始り、部落のうしろへずっとひろがって、末は野に消えている古い広大な園は、樹木の生い茂るがままに荒れ果てているが、どうやらこのだだっ広い村に生気を添えている唯一つのものらしく、その絵のような荒廃ぶりでひとり精一杯の美を放っている。勝手放題に伸び拡がり塊をなした樹木の梢は、緑の雲となって、また木の葉そよぐ不規則な円屋根の連りとなって、地平線に横たわっている。暴風か落雷にもぎ取られたらしく頭のない白樺の巨きな白い幹が一本この緑の密林から身をもたげ、ちょうど均斉とれた大理石の光り輝く円柱のように、すべすべした丸味を空中に曝している。天辺で柱頭の代りをしている斜めに鋭く尖った折れ口が、雪のように白い木肌と対照的に黝(くろ)ずんでいるさまは、まるで帽子か黒っぽい鳥のようである。ホップの蔓が下ではにわとこやななかまどや榛の繁みを窒息させたのち、棚という棚の天辺を這い回った挙句、最後に上へよじのぼって、折れた白樺の半ばあたりまで巻きついている。幹の中程まで達するやそこから下へ垂れ下り、今度は他の樹々の梢に絡みついたり、あるいは宙にぶら下り、その細くしなやかな鉤を輪に結んで、風のまにまにゆらゆら揺れている。日の光を浴びたこの緑の密林がところどころ両方へ分れて、その間から日もささない深みが、まるで暗い落し穴のようにぽっかり口をあけている。そこはすっかり陰影に閉されていて、暗がりの奥に僅かに仄見えるものといえば、細い小径、壊れた手摺、倒れかかった四阿、老い朽ちて洞ろになった柳の幹、その背後からあんまりひどく茂ったため枯れ萎びて縺れ合い絡み合っている葉と枝を密な剛毛のように突出している灰色の小籔、はては横合いから緑の掌葉を差し出した楓の小枝などだが、そんな楓の一枚の葉裏にどういう具合にか分からないが日光が入りこみ、この葉を思いがけなくも透明に火と燃え立たせ、この濃い闇の中に燦然と輝かせていた。いっぽう園のいちばん端れには、他の樹木とは不釣合いに背の高い白樺が数本、そのさやさやと揺らめく各々の梢に巨きな鴉の巣をのせている。それら白樺の中には、枝が引き裂けたまま幹からすっかり離れもせず、枯葉をつけたままだらりとぶら下っているのもあった。一言にしていえば、何もかもが素晴しかった。それは自然の風致も人工の妙趣もついに及ばず、ただ両者が結びついた時にのみ見られる佳さで、人間がああでもないこうでもないと、ややもすれば無意味な苦心を重ねた末に、自然が最後の仕上げの鑿を揮って、重苦しい魂を崩し、赤裸々な構図の見えすいている野暮な正しさや惨めな欠陥を除けて、きちんと寸法を測ったように清楚なだけが身上の血の気のない人工に、いみじき暖かさを添える時、初めて生まれる美しさである。(第六章)

平井訳 

 邸の裏から始まり、部落(むら)の後ろへずっとひろがって、末は野原につづいている古い広大な園は樹木の生い茂るがままに荒れ果ててはいるが、どうやら、そのだだっぴろい村に生気を添えている唯一のものらしく、荒れ果てた絵のような姿で、ひとり精一杯の美を放っている。伸び放題に繁茂(はんも)した樹々の梢は、さながら緑の雲か、木の葉のさやさやと顫える不規則な円頂閣の形に群らがって、空高く浮かんでいる。緑の密林の中から、暴風(あらし)か落雷のためにぽっきり折れたらしく頭のない巨きな白樺の白い幹が一本、キラキラと光る形のいい大理石の円柱のように空中に聳えている。柱頭(カピテル)の代理をつとめる尖った斜めの折れ口は、雪白の木肌に対して帽子か、それとも黒い鳥のように、どす黒く見えている。蛇麻草(ホップ)の蔓が下では接骨木(にわとこ)やななかまどや榛(はしばみ)の繁みをすっかり枯らしてしまい、それから柵という柵の天辺を匍(は)いまわった挙句、上へよじのぼって、折れた白樺を半ばまでぐるぐる巻きにしている。幹の中ほどまで登ると、そこから下へ垂れさがって、今度はほかの木々の梢にからみつきはじめたり、または空中にぶらさがって、己れの細くて粘っこい巻蔓(ひげ)を輪にして、風のまにまにゆらゆらと揺れている。この日光を受けた緑の森がところどころで両方へ分れて、その間から日もささない空洞(うつろ)が、まるで暗い落し穴のように、ぽっかり口をあけている。そこはすっかり暗い陰影(かげ)にとざされていて、暗がりの奥に僅かに仄(ほの)見えるのは、真直ぐに走っている細い小径や、壊れた欄干や、倒れかかった四阿(あずまや)や、老い朽ちて洞ろになった柳の幹や、柳の後ろから濃い剛毛(あらげ)のように顔を突き出している白毛頭の雀苧(すずめのおごけ)や、あまりひどく茂っているため枯れ萎びて縺れあい絡みあっている木の葉や枝、さては横合いから緑の掌葉を差し出した楓(かえで)の小枝などであるが、楓の一枚の葉裏に、一体どうしてなのかは、まるで分らないが、不意に日光が映(さ)して、パッとそれを火のように透明なものに変えて、濃い闇の中で燦然と輝かせた。一方、園のいちばん端(はず)れには、他の樹木とは不釣合いに背の高い白楊(はこやなぎ)が四五本、そのさやさやと揺らめくおのおのの梢に大きな鴉の巣をのせている。その白楊の中には、枝が引き裂けたまま、幹からすっかり離れもせずに、病葉(わくらば)と一緒にだらりと下へ垂れさがっているものもあった。一言にしていえば、何もかもが素晴らしかった。それは自然の風致も人工の妙趣もついに及ばず、ただその両者が結びついた時にのみ見られる佳(よ)さで、人間がああでもないこうでもないと、ややもすれば無意味な苦心を重ねた後に、自然が最後の仕上げの鑿を揮(ふる)って、重苦しい塊まりを崩し、赤裸々な構図の見えすいている野暮な正しさや惨めな欠陥を除けて、きちんと寸法を測ったように清楚なだけが身上の血の気のない人工に、いみじき暖かさを添える時、初めて生まれる美しさである。

いよいよ始めます、アカーキイ・アカーキエウィッチの着古した外套!

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 18 September 2023 by kenwada

皆様、こんにちは。

以前、このサイトにも、このことは一度書きましたが、ニコライ・ゴーゴリの「外套」(1842年出版) の主人公であるアカーキイ・アカーキエウィッチの外套、これは、新調される前のすり切れた古い外套のことなのですが、この外套を抽象画で描くということが、僕の長年にわたる絵画の目標の一つなのです。
今、手元に3種類の「外套」のテキストがありますが、最初に読んだ岩波文庫版の最後に、「2004年8月8日読了」と書いてありますので、それからもう19年も経っているのですね。
その間、いくどか原作は読みましたが、ちょうど今、そのタイミングが、本人の思い及ばぬところで、ついに来たようです!
この本人の与り知らないところで、そのタイミングが来るということが、実に面白い?ところなのですが。
これ以上、引き伸ばすと、こういう物事は、そのまま立ち消えになってしまいますので、ここで思い切って小説の中に飛び込んで描いてみます。

まずは、支持体はどうしよう、紙でいくか、キャンバスでいくか、おそらく紙だろうな。
画材はどうしよう、水彩やグワッシュ系でいくか、アクリル系でがっといくか、がっといかないだろう、だってボロボロの外套だぞ。
はたして、シリーズものになるか、一点ものになるか、わからない、それは描いてみなければわからない。
と、こうやって考えていても、絵画は常になまもので、いつもこちらの構想通りにはさせてくれないから、とにかく描き出してみよう。
そうすれば、今度は絵が絵を導いてくれるからな。
絵画の実際のスタートは、ややフライング気味に、これは経験から学んだ鉄則です。
とりあえず、本文をもう一度よく読んで、改めて外套のイメージをふくらませてからだな。

これは、僕にとって(そうです、あくまで僕個人にとってです)、長年の課題であり続けただけに、非常に大きな仕事になります。
さあ、森の中に住む僕に、山の神である狼(大きな仕事)が来たぞー!
(というのは、おそらく、意味が全く通じないだろうな)

2023年9月18日
和田 健

その後、本文を2回読み返しました。
今回、改めて読んでみて、このゴーゴリ(1809-1852) という作家は天才だな。
その天才性について、これまできちんと認識してこなかったことは、実にうかつでした。
今回の絵画の制作と並行して、このゴーゴリの天才性について、徹底して研究してみよう。
よく世間では言われますよね、この芸術作品には現代に通じるものがあるとか、今日的であるとか。
でも、この「外套」は、そんなものではないでしょう、もうこれは今日そのものです、まさしく、今ですね。
これは、改めて言うまでもなくすごいことです、出版されてすでに181年も経っているのですから。
具体的な例として、例えば、アカーキイ・アカーキエウィッチが、役所でいじめられますよね、二通りのやり方で。
これは今、日本の小中学校で、現に行われているいじめとあまりにも酷似していると言いますか、それそのものですよね。
それから、2回繰り返される「わたしをそっとして置いてください、なぜ、あなた方はわたしをいじめるのですか?」(児島宏子訳、未知谷版、p.14、以下同じ) の台詞。
「心ゆくまで清書を仕上げると、彼は明日の日を空想し、微笑みながら就寝します。<明日、神様はどんな清書を持ってきて下さるのかな?>」(p.26) ここのところ。
この物語は、あれですよね、ボロを着ていても、このまま外套を新調することにさえならなければ、ゴーゴリが言うところの「そればかりか誰に助言するでもなく誰からも助言されないような孤独な人にさえ降りかかってくるさまざまな不幸がなかったならば」(p.26)、彼の穏やかな生活は続き、たとえ他人からなんと言われようとも、彼は幸せだった訳ですよね。
つまり、ボロボロだったけれども、心の中は温かかった日々の外套を、僕はこれから描くことになる訳だ。
う〜ん、これ、古い方の外套を主人公にして読むと、やっぱり、このゴーゴリという芸術家は天才だな。
帰宅したアカーキイ・アカーキエウィッチが、新調した外套をぬぎ、大事そうに壁にかけ、もう一度見とれ、見比べるために古い外套を取り出した時、
「彼はそれをちらりと見て、自分でも笑ってしまいました。それほどまでに違いは大きかったのです。」(p.76)
ここのところ、それまでは昔からの大切な仲間であったはずの古い外套なのに、新しいものを所有したとたんに、笑ってしまうという人間の心理のここのところ。
さらに言えば、この小説の一番おそろしいところは、それまでは清書がまるで結婚相手のようであったアカーキイ・アカーキエウィッチが、外套を新調するほかないと観念した時から、今度は、未来の外套への物思いが心を一杯にし、清書にとって変わる、ここのところにあるのではないでしょうか?
そのことが、「彼はなぜか生き生きとして、自分の目的を力強く持っている人のように、性格さえも強くなりました。彼の顔つきや行為からも自然に疑いや優柔不断さが、要するに、すべての動揺しがちで煮え切らない特徴が消えたのです。」(p.62) につながるように思います。
そして、最後、亡くなった彼のわずかな所持品の中に、このボロボロの着古した外套は残される。
つまり、新調した外套は、強奪されたけれども、すり切れて糸目の見える方は、遺品の中に、取り残されたのですね。
すごいですね、この天才のあり方が、絵画の世界で言うと、すごくゴッホの天才のあり方に似ている。
直球勝負なところ、実に似ている。

2023年9月20日
和田 健

その後、もう一度、平井肇訳の岩波文庫版でも、改めて読んでみました。
ただし、この版の字のサイズは、僕には、もうちょっと厳しいですので、同じ平井氏訳の青空文庫版がありましたので、そちらの方を印刷した上で (A4サイズに、全部で32ページになりましたが)、読みました。
このやり方ですと、字の大きなテキストが、いつでも手元にありますので、大変助かります。
やっぱり、テキストを少しでも手から離すと、このような種類の制作はダメですね。
つかまえようと思っても、なにかするりと逃げていってしまいます。

その後、理解をさらに深めたいと思い、「ニコライ・ゴーゴリ」(ウラジーミル・ナボコフ著、青山太郎訳、平凡社ライブラリー) を、現在読んでいますが、お伝えしたいことがたくさんあります。
どこまでもテキストに向かい、小説を読み解くという純粋な行為を、ひたすら続ける大家ナボコフから、物語の前後の文章の温度差、いわば文章のもつ体温の差で読むということを、今回この本から僕は、個人的に学びとりました。
そうか、そういう風に読めばよいのか!
それであれば、「ドン・キホーテ」の後篇第六十九章のアルティシドーラの復活は、前後の関係から極めておかしい、体温の差を明確に感じる!
そこから、僕は、この第六十九章が、もし新約聖書のラザロの復活への仄かしであるとしたら、セルバンテスが復活させたかったものとは、一体なにであったのであろうか?ということを考えています。
今のところ、その候補は3つくらいあるように思います。

それから、これは脱線になりますので、あまり深入りはしませんが、アルティシドーラが出ましたので、ついでながら、この公爵夫妻というのは、実に悪いですね。
夫も悪ければ、妻も悪い、妻も悪ければ、夫も悪い、二人そろってなお悪い!
セルバンテスが、この公爵夫妻を長々と (そうなんです、実に長々とです) 物語に登場させたのは、作品の規模、大仕掛け、スケール、まあ、そのようなものを、さらに一段階引き上げたかったがためなのではないでしょうか?
そのためには、金と暇が要る、よって、公爵夫妻の登場。

ところで、ご紹介しました「ニコライ・ゴーゴリ」の中で、ナボコフが「外套」のラストの謎解きをしているのですが、言われてみれば、子どもの頃のなぞなぞくらいに簡単なことなのですが、僕は、その前の「どこかの民家から飛び出してきた何でもない一頭の、よく肥った子豚に突き倒され」(平井肇訳) た巡査の方に目が行き、それは、どうしても目が行きますよね、巡査が子豚に突き倒されるシチュエーションって、あまりに面白いですから。
それで、ナボコフが言うように「「見当違いな」細部の奔流があまりに強力な催眠効果を発揮するので」(「ニコライ・ゴーゴリ、p.223、以下同じです)、僕は、ものの見事につまずいて、してやられました。
つまり、僕は、気づきませんでした、わかっていませんでした、これまで「外套」のこのラストを。
これって、ゴーゴリの専門家や研究者の方は、そんな調査は、とっくにもう終わっているのでしょうけれども、例えば、学生100人くらいにお願いして「外套」を読んでもらい、なにしろ、決して長いお話ではないですし、ラストの部分に気がついたかどうかのアンケートを実施したら、いったい、どのくらいのパーセンテージでわかっていたのでしょうか?
それによって、このラストの解読度のようなものがある程度、一般的な形で、可視化できるように思います。
調査結果が、具体的になんパーセントくらいであったのかを、是非とも知りたいです。

さらに、ナボコフの言う「かくて物語は完き円を描く。(ここまでは、僕にもわかります) そしてこの円は悪循環の円である。なぜならあらゆる円は、たとえそれがリンゴのふりをしようと、惑星のふりをしようと、あるいは人間の顔に見せかけようと、悪循環であることに変りはないからである。」(p.223)
おそらく、ここのところですね、非常に肝心なところは、ここが肝です。
つまりは、これは、あれでしょうか、昨夜は、中秋の名月で話題になっていましたが、はるかかなたの全然関係ないある星 (A) が輝いている中で、全くそれを知らない僕 (B) が、普通に地面を歩いているというようなことなのでしょうか?
つまり、空に A があって、斜め下に矢印、地上に B が歩いている、右か左に矢印。
でも、それだと円にはならないな、その B の右だか左だかの矢印を、A に返せれば円になる。
よく考えてみます。

セルバンテスは、実は音楽ではなく絵画でしたが、ゴーゴリは音楽ですね、奔流する音楽ですね。
同時に異次元のカメラワークでもあり、ドローン撮影を観る時のような、現在の最先端技術を思いどおりに使いこなしてくる感覚がある。
つまりは、宇宙であると思います。
作品の中に、これだけ奔流する宇宙を自在に盛り込めるというのは、およそ考えられないレベルの天才であると、僕ははっきりと感じます。
絵画でもあるのです (実際に、ゴーゴリは、サンクトペテルブルクで、週に3回「美術アカデミーへ絵を習いに出掛けます」(p.49)) が、眼がカメラですね、カメラ。
眼がと言うより、彼の脳が、最先端技術の撮影を可能にしている感じが強くします。

2023年9月30日
和田 健

上記の「ニコライ・ゴーゴリ」の第Ⅲ章「われらがミスター・チチコフ」で、ナボコフが、『死せる魂』の中のプリューシキンの庭園の描写を引用する (p.135, 136, 137) のですが、つまり、ロシアで生まれたナボコフが、ゴーゴリの原文を母国語として読み、英訳したものを、青山氏が、さらに日本語に訳されているのですが、この庭園の描写には、ちょっと度肝を抜かれました。
僕は個人的に、この文章を「画家の眼の聖書」と名づけました。
まあ、それは、個人的な呼び名にしても、この部分を序文にぜひとも使わせていただき、その後、線や色、形などの一般的な説明に入る絵画の本を作ったら、どんなに素晴らしいでしょうか!
昨日、一字一字大切に写しながら、大きな文字に変換しておきましたので、いつか、皆様にご紹介したいです。
ゴーゴリの眼が、ちょっとあり得ない展開をしますから。
やっぱり、ゴーゴリは、ゴッホに通じる。

2023年10月3日
和田 健

「ナボコフのドン・キホーテ講義」について

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 16 September 2023 by kenwada

皆様、こんにちは。

「今でも思い出すと楽しくなるのだがね、メモリアル・ホールで六百人の学生を前にして『ドン・キホーテ』を、つまりあの残酷で粗野な昔の作品をずたずたに切り裂いたことがあるのだ」というナボコフ自身の言葉にひかれ、「ドン・キホーテ」関連の書籍である「ナボコフのドン・キホーテ講義」(ウラジーミル・ナボコフ著、行方昭夫、河島弘美訳、晶文社) を、現在読んでいます。
これは、ナボコフがアメリカのハーバード大学で、1951年から1952年の春学期に、600人の学生を前にして行った計6回の講義録なのですが、講義録の方は読み終わり、今は、後半のナボコフが、講義の準備のために作成した第二部の「ドン・キホーテ」の各章(と言いましても前篇52章、後篇74章、計126章もあります)の要約を、復習もかねて、のんびりと楽しみながら、一章一章読んでいます。

率直に言いまして、ナボコフの言う「ずたずたに切り裂いた」という感じとは、少し異なる印象をもちましたが、読みながら、主に以下の3つのことについて、いろいろと考えさせられました。

①やっぱり、まずは、この授業準備ですね、下調べ。
これへの熱意、情熱、パッション、まあ、言い方はなんでもいいのですが、これにはすごいものがある。
端的に言いまして、ここまで準備をするのかという感じです。
これは、講義の準備をするというこの仕事自体を、ナボコフ本人が好きなのでしょうね、やはり、まずはなんと言っても。
この熱意の持続は、文学に対するナボコフの深い愛情からきているものなのでしょうか、僕は、直感的にそのように思いましたが。

②物語を分析する際の全体構造の組み方とでも言いますか、分析の手法、分析の骨格・骨組みの作り方について、非常に勉強になりました。
なるほど、こういう風にして、分析という家を建てていくんだな、みたいな感じで。
これは、やはり、ものの見事なまでの分析の手腕であり、独創性なのではないでしょうか。

③時間的な制約のもとに行われる大学の講義、授業の限界ですね、これについて深く考えさせられました。
例えば、受講した600人の学生のうち、何人かでも構いませんので、連続講義を受けての感想文のようなものが読めると、僕の思考を進める上で、かなりありがたいのですが。
例えば、今からでも遅くない、当時の学生たちは、現在、90才くらいでしょうか、600人を追跡調査すれば、せめて2、3人くらいから、この講義の思い出や印象などを、収集できないものでしょうか?
それは、面倒くさいと言われるのなら、作ってしまえばいいんじゃないでしょうか、小説として。
5人くらい登場させて、語り手を替えて、最初は、現在ロードアイランド州在住のAさん(仮名)91才女性、「そうねえ、ナボコフ教授の思い出ねえ〜、あの頃はまだわたしも娘だったけれども、先生は、ホールに入って来られると、こう、パッと上着を脱がれてねえ〜、それがとてもかっこよくて、今でも印象に残っているのよ・・・」というような感じで。

技術的なことを伝えるような講義とは違って、ものを考えさせるようなこういう授業においては、この600人を相手にしているという点が、なにかネックになっているように思います、少人数のゼミとかなら、また違うのでしょうけれども。
やっぱり、学生を惹きつけて、飽きさせないようにするためにも、リズミカルにテンポよく、ダイナミックに講義を進めないといけない。
なおかつ、授業準備を入念にした分、伝えたいことがたくさんあり、急いでいる感がある。
つまりは、学生は、思考を一点に集中して、なかなか立ち止まれない。

第五回の講義のところで、ナボコフの脳がようやく制約を少し離れて?遊びだし、最後の場面で、偽作者が著した偽作続篇のドン・キホーテと、主人公のドン・キホーテを戦わせることができたという指摘には、思わずはっとしました、面白かった。
その対決は、僕にはちょっと思いつきませんでしたが、ここで、僕の疑問が出てきます。
この指摘は、成立しないのではないかということです。
ナボコフは、演劇で使われる「山場」(p.170) という言葉を持ち出しながら、つまりは、「ドン・キホーテ」の物語の最後の弱さを指摘してきている訳ですが、この最後の場面で、偽りのドン・キホーテと、本物のドン・キホーテが対決するのであれば、それは、セルバンテスとしては、「山場」であるこの最大の大一番で、絶対になんとしても本物が、憎き偽物に負ける訳にはいかない。
ここは、100%勝って、しかもこてんぱんに打ちのめして完全勝利しないといけませんよね、そうすると、この物語は、終われません。
実際には、ドン・キホーテは、「銀月の騎士」を名乗る学士カラスコに完敗し、サンチョとともに、とぼとぼと故郷に帰り、そこで善人に戻り死ぬ訳です、つまりは、手早く物語を終える訳です。
ですから、物語の最後が弱くなるのです。
そこで、本物がまた勝っちゃったら、これは、終われない。
まあ、最大の大一番に勝って、サンチョとともに、故郷に錦を飾るという手もあるでしょうが。

ところが、ここで、ナボコフが、実に面白い見解を述べる。
彼は、偽物が勝つと言うのです、本物に。
「私はアベリャネーダの騎士の方に賭ける。なぜなら、凡人の方が天才より幸運に恵まれるのが人生の面白さだからである。人生において、真の勇者を追い落とすのはぺてん師である。」(p.171)
まあ、これは、「ひとつわれわれの空想も自由にはばたかせてみることにしよう」(p.170) とありますように、ナボコフは、空想にふけっているのでしょうね。
確かに、そういう空想であれば、主人公のドン・キホーテが偽物に負けて、この物語は終われます。
しかし、上記しましたように、セルバンテスの気持ちを考えると、主人公のドン・キホーテが、偽りのドン・キホーテに勝つ以外の設定は、これはどう控え目にみても考えられませんので、ナボコフのこの指摘は成立しないように思います。
もちろん、そんなことと言うのは、セルバンテスが、主人公のドン・キホーテが、偽りのドン・キホーテを圧倒的にやっつけて勝つように書くだろうなということは、ナボコフにはわかりきっていた訳で、最後の軍配のところにだけ、ちょっとウィットに富んだ味つけをしてきた訳です。
でも、それであれば、学生がこの見解を聞いて、教授の才知に気づき、それが何人なのか何十人なのか何百人なのか、それは僕にはわかりませんけれども、少しニヤリとした、まさにその瞬間に間髪を容れずに、ナボコフは、ドン・キホーテが勝った場合のエンディングの有り様を、具体的に学生相手に提示するべき、披露するべきではなかったのかなと思います。

それで、ここからは、今度は僕が空想にふけりますが、セルバンテスは、この対決の可能性について、実際に検討したであろうか?
おそらく、考えたでしょうね、直接やっつけるまたとない機会だから、でもこの「山場」をやりたくなかったのではないでしょうか?
あまりにもそれは、露骨過ぎると言うか、えげつないと言うか、なにかの遠慮と言いますか、レパントの海戦に従軍して、火縄銃弾を三発(胸に二発、左腕に一発)受けたけれども、そこまでは、気が強くないとでも言いますか、他人の痛みがわかるとでも言いますか。
当時、スペインで、こうした偽作が横行していたという時代的な背景もあるのかもしれません。
偽作者に対して「しょうがない奴だなあ、叩きのめしてやる、でも本当に叩きのめしちゃいけないよ、奴だって生きているんだから」という感じかなあ。
その思いが、ラストの後篇第七十四章の「一つ。わたしがお二人の遺言執行人にぜひともお願いしたいのは、万が一にも、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャの武勲 続篇』という題で世に出まわっている物語の作者といわれる人物に会うような機会があったら、わたしになりかわって、できるだけ丁重に詫びていただきたいということです。(中略) どうか赦してもらいたいと、言ってほしいのです。(後略)」(「ドン・キホーテ」岩波文庫後篇第三巻、p.410, 411) というセルバンテスの文章につながっていくのではないでしょうか。

第六回のテニスの試合に例えた勝利と敗北のやりとりについては、リズムに乗って半分楽しんでと言いますか、面白がってやっている感じがしますが、これによって物語の的確な理解が、確かに進んでいくように思いました。

2023年9月16日
和田 健

いや〜、この第二部は、味わい深いですね。
ナボコフが、講義の準備のために作成した「ドン・キホーテ」各章の要約です。
それまでの第一部の講義録にみられる張り詰めたような肩の力が抜け、まあ、それは、そうでしょうね、1人で600人も相手にしているのですから、なにか、この第二部の方にこそ、ナボコフの人間性が、しみじみと現われているように思います。
具体的な例を2つほどあげますと、
「「いやフレストンと申したのであろう」という落ち着きはらった、趣のある調子は貴重である。大事に手にとって心して味わうべき果実と言えよう。」(p.248)
このあたり、また、このような記述もあります。
「この場面の記述は第一級の文章である。われわれは翻訳を通して読むだけなので、ここをスペイン語で味わい、純粋なカスティーリャ風の文体に親しむことができないのは残念だ。」(p.270)
まだまだ他にもあるのですが、ナボコフが、本を読むという行為をどれだけ愛しているのか、彼の文学に対する深い愛情が、とてもストレートに伝わってきます。

2023年9月19日
和田 健

セルバンテスの「ドン・キホーテ」(前篇1605年、後篇1615年)を読み終えてーはたしてセルバンテスは、そもそもドン・キホーテの死をあらかじめ構想していたのか、あるいはまた、ドン・キホーテを死なせたものは、一体何だったのか?さらには、セルバンテスの空間を把握する傑出した能力についてー

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 7 September 2023 by kenwada

皆様、こんにちは。
2023年4月28日に読み始めたセルバンテスの「ドン・キホーテ」(岩波文庫全六巻)を、2023年8月23日に読了しました。
その間、7月に「今、セルバンテスさんの「ドン・キホーテ」(前篇1605年、後篇1615年)を読んでいます!」(https://kenwada2.com/2023/07/01/今、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を読んで/)
また8月には「トーマス・マンの「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」(1934) を読んで」(https://kenwada2.com/2023/08/05/トーマス・マンの「『ドン・キホーテ』とともに/)
という2本の記事を書きながら、自分なりの考察をこれまで進めてきました。
ちょうど9月5日に、訳者の円子氏が言われるように「これはフランス語で書かれたもっとも精細浩瀚な」伝記である「セルバンテス」(ジャン・カナヴァジオ著、円子千代訳、法政大学出版局)を読み終えたこともあり、新たに判明した事実も加わりましたので、ここで、これまでに考察してきた事柄の核心部分について、「ドン・キホーテ」の読書感想文のようなものの三部作ではないですが、一度きちんと整理したいと思います。

なお混同を避けるために、今回もまたセルバンテス本人が書いたものは、前篇後篇と表記し、偽作者が書いた後篇は続篇とし、偽作続篇と表記いたします。

1. 偽作続篇が出版されたのは、1614年である。

2. 偽作続篇が出版された時、セルバンテスは、おそらく後篇の第五十九章を書いていた。
したがって、後篇の第五十八章までは、セルバンテスは、偽作続篇のことなど知らずに書き進めていたことになり、ドン・キホーテが当初のサラゴサ行きをバルセローナに変更した件も含めて、後篇が偽作続篇との差別化の方向に進んだのは、この第五十九章から俄然顕著になってくる。

3. 実際に、後篇の第五十九章で偽作続篇への憤懣を初めてぶちまけて以来、第六十二章、七十章、七十一章、七十二章、そしてラストの第七十四章と立て続けに、偽作続篇へのやり切れない思いがめんめんと続き、もうなにか爆発している感じがする。

4. セルバンテスが、後篇の執筆を終えたのは、すなわち、この壮大な物語を完成させたのは、1615年1月である。
「一六一五年一月、セルバンテスは創作を完成する。」(上記「セルバンテス」p.409)

5. セルバンテスが、あの見事なまでの後篇巻頭の名文「読者への序文」を書いたのは、脱稿後、なんと9ヶ月も経った1615年10月末である。
「一〇月末に、ミゲルは例のあつかましい学士に対する自分の心情の一片を含む序文を書いた。」(「セルバンテス」p.409)

逆に言えば、この9ヶ月の冷却期間がなければ、あれほどまでに自制された威厳に満ちた名文「読者への序文」は書けなかったのではないかと思う。
すなわち、ラストの第七十四章にみられる偽作者への憤怒をはらんだまま、その続きの第七十五章的に書いたのでは、あそこまで抑制された序文は書けなかったのではないだろうか。

ただし僕は、この序文の存在が、以降400年間の読者に、以下の2つの点で、結果的に大きな誤解を与えることになったと思う。
①あたかも後篇冒頭から、セルバンテスが、偽作者への怒りを根底にもって、執筆を開始したかのような誤解。
②あたかも後篇冒頭から、セルバンテスが、ドン・キホーテの死と埋葬までをあらかじめ構想した上で、執筆を開始したかのような誤解。

セルバンテスが、この序文を書き上げてきたのは、意図的に巻頭部分に配置するためにあると僕は思う。
意図的にと言う言葉に含意を感じるようで、ふさわしくないのであれば、強い願望。
これから始まる後篇は、ぜひこの序文というフィルターを通して読んでくれよ、というセルバンテスの願望が感じられる。

しかし、ここまで序文を練り上げたことで、結果として、作品としての巻頭が重くなり、このことによって、逆に光が当たり、明るみに出てしまうこと(巻末)があるということに、天才セルバンテスは、なぜ配慮しなかったのだろう?
僕も毎日、絵を描いているので、制作者の視点や立場からするとすぐにわかるが、ラストのドン・キホーテの死は、待って書いてはいない、さんざん待たされたあげくに書いてはいない。
もしこれが、後篇執筆開始時から、ドン・キホーテの死をあらかじめ構想した上で、書き進めたのであれば、このラストへ向かって日々ひたすら突き進んできた訳であるから、もっと密度の濃い、いろいろな意味で熱気を内蔵した重いものになると思う。
感情でものを言ってはいけないから、具体的に書くと、序文を磨き上げるための猶予期間の9ヶ月に対して、「彼がこの小説の最後の一五章を書き上げるのにほぼ六ヵ月が必要であった」(「セルバンテス」p.409) とあるから、これは、あくまでおおよその目安として3週間で2章くらい仕上げるペースになる。
もちろん、筆がのり、立て続けに書くこともあるだろうし、推敲の時間も必要であろうから、ここでは、あくまで大体の目安として。
そうすれば、これは待たされたあげくに書いてはいない。

6. したがって、僕の推測では、セルバンテスは、後篇第五十八章までは、ドン・キホーテの死を構想していなかった可能性は、決して少なくはないように思う。
僕が、その根拠としてあげることは、以下の7に示すように、後篇第五十九章からの物語の変調にあり、それまでは、ゆったりとした広大な大河の流れが、急に狭い支流に入り込んだかのような感じがする。
このそれまでのゆったりとしたスケール感は、セルバンテスが、ドン・キホーテの死を意識していなかったからこそできたことであり、自由に泳げたことなのではないだろうか。

7. この後篇第五十九章からラストの第七十四章までの流れは、なにかどうしても、個人的にとってつけたような感がぬぐえない。
「ドン・キホーテ」の物語を終わらせるために、一度負ける必要がある→《銀月の騎士》に決定的に敗北する→約束通り郷里の村に帰る→狂気から正気に戻り、狂人ドン・キホーテは、善人アロンソ・キハーノとなる→遺言状を作成して死ぬ。
前篇冒頭から、ここまでの言わば突拍子もない場当たり的な冒険の連続(失礼!)とは違い、極めて理路整然としていて、あまりにも筋が通り過ぎている。
実際に、それまでの言わば支離滅裂な出たとこ勝負のような物語の展開(また失礼!)とは違い、一つの集約点である死に向かい、物語のピッチやリズム、速度のようなものが、確実に上がっているように思う。
なにか手早く店仕舞いしようとしている感じが、どうしてもする。
したがって、偽作続篇の登場に動揺したセルバンテスが、後篇の第五十九章以降に、初めてドン・キホーテの死を構想した可能性は、やはり少なからずあると思う。

それでは、逆にもし、偽作続篇の存在がなければ、ドン・キホーテが死ななければならない必然性は、必ずしもなかった訳であるから、セルバンテスが、ドン・キホーテのこの雄大な物語の最後を、後篇執筆当初からどのように締めくくろうと、終えようと考えていたのかが肝心なことになると思う。
つまりは、セルバンテスは、死以外のどのようなエンディングを構想していたのであろうか?
大変残念ながら、その手がかりになるようなものは、これまでに読んだ文献からは得られなかった。

8. 後篇は、1615年11月末、ないしは、1615年12月に出版された。
「数週間後、一一月末、マドリードの市民たちは待望の本を手にした。」(「セルバンテス」p.409)
「一六一五年一二月、「ドン・キホーテ、後篇」が出版された。」(「セルバンテス」p.427)
セルバンテスが、この物語の結末にドン・キホーテの死を書いたことを、翌1616年4月22日に亡くなるまでのわずかに残された約5ヶ月間に、一作家として、どのように感じて振り返っていたのか、すなわち述懐していたのかは、これまでに読んだ文献からは判明しなかったが、おそらく総体的には肯定していた、すなわち、あの結末は、やはりあれでよかったのだ、あのようにせざるを得なかったのだと感じていた、あるいは自らを納得させていたのではないだろうか。

9. 「ドン・キホーテはただただわたしのために生まれ、わたしはドン・キホーテのために生まれたのだ。彼が行動し、わたしがそれを記述することによりわたしたち二人だけが一心同体になれるのであって、(以下略)」(「ドン・キホーテ」岩波文庫後篇第三巻、p.414)

偉大なる狂人、ドン・キホーテは、なにゆえ死ななければいけなかったのでしょうか?
機知に富んだ遍歴の郷士(前篇)、騎士(後篇)である、ドン・キホーテを死なせたものは、偽作続篇の登場なのでしょうか?
それともこれは、セルバンテス自身の心のなせる技、つまりは、ドン・キホーテを永遠に自分のものだけにして、閉じ込めて(封じ込めて)しまいたいようなある種の所有欲、独占欲のようなものなのでしょうか?
さらに突き詰めれば、セルバンテス自身の近づきつつある死の予感、早すぎる死への恐怖が、そもそもの背景として考えられるのでしょうか?

10. しかし、それにしても、「ドン・キホーテ」というのは、ものの見事に抽象画だなあ。
もちろん言うまでもなく、400年前に抽象画は存在していないので、そういう意味でも斬新だなあと思う。
物語が、非常に幾何学的である。
セルバンテス「なんだい、そのチュウショウガっていうのは?おれは、特別に腕のいい画家のつもりだけれども。」

11. 前篇に「愚かな物好きの話」や「捕虜の話」をはじめとする物語の本筋とはなんの関係もない短編が挿入されたのは、絵画だろうが文学だろうが同じことだと思いますが (と書いていて、自分で今思わず笑ってしまったのですが、セルバンテスも全く同じことを言っています*¹)、制作者側の視点からみると、これはやはり、書きためておいた作品を、適当な場所で披露したいという純粋な(ある意味単純な)欲求なのではないだろうか?
つまりは、作家としての力量を示したいので、これは、そのためのいい機会だぞというような感じで。
小品だろうが大作だろうが、制作者というのは、どうしても観て欲しくなるものです。
そして、後篇にはそうした短編がみられないのは、前篇出版後、あまりにそこの部分を批判されたので、いちいち心情を説明するのも馬鹿らしくなり、無益な労苦だと思い、(これもまたある意味単純に)やめたのではないだろうか。

12. これまでにみてきたことで、セルバンテスが、ドン・キホーテの死をどの時点から構想し始めたのかについてや、セルバンテスが、この物語を書き上げた後に、ドン・キホーテの死をどのように感じていたのかについては、多少なりとも考察が進んだように思いますが、冒頭でご紹介した7月、8月の2本の記事の中で、ともに触れてきたもう一つのテーマである、セルバンテスは、なにゆえに、これほどまでに空間の認識能力や識別能力とでも呼ぶべきものが発達しているのか?が、未解明のまま残されているように思います。

そこで以下は、このテーマについての僕の推測です。
まず、「ドン・キホーテ」の物語の全篇を通して、セルバンテスの空間の認識能力や識別能力(というような日本語があるとしてです)が、すなわち、空間を感知し把握する能力が、異様なまでに発達していることは、読んでいてもう明白な事実であり、その例を即座にいくつかあげることは、そんなに難しいことではありません。
冒頭の7月の記事の中で、すでに5例ほど、ご紹介いたしましたので、ここでは、例えば、後篇第五十五章のサンチョが落ちこんでしまった「まっ暗な深い穴のなか」をあげておきます。
僕は、最初、このテーマの解明について直感的に、セルバンテスが、1571年のレパントの海戦に従軍したことと、なにか関係があるのではないかと、その活路を求めてきました。
そこで、レパントの海戦や、ガレー船についても調べてみました。
それにしても現在の私たちからは、ちょっと想像もできないようなすごい時代があったものですね。
なんと言っても、まずは船が囚人による手漕ぎですからね、漕刑囚による。
このあたり、「ドン・キホーテ」の物語の前篇の第二十二章や、後篇の第六十三章にも登場してきます。
ここで合わせまして、僕の仕事柄、Cy Twombly の作品、Lepanto のシリーズも、この際、ぜひお忘れなく、この世にあり得ないくらい美しいですから。
しかし、セルバンテスが、レパントの海戦に従軍したことで、ものすごい体験をしたけれども、それでもなお、そのことによって、空間に対する能力が具体的に向上した、鍛えられたとはさすがに言えない、それには少し無理がある。
そこで、昨日、この問題をずっと考えていて夕方、ふっとわかったのですけれども、セルバンテスは、レパントの海戦で左手を負傷しますよね、名誉の負傷です。
「その負傷がもとで左手の自由を失い《レパントの片手んぼ》という異名をとることになった」(「ドン・キホーテ」岩波文庫後篇第一巻、訳注、p.429)。
ここにあるのではないか、つまりは、レパントの海戦にではなく、その後の障害を負った人生にあるのではないか。
障害をもったことで、それを補おうとして、それ以外の機能が異常に発達することは、世の中でたびたびみられる現象です。
例えば、今現在の僕の眼の病気のことも、なにか他のことに関係している気がしていますし、僕の丸7年間のフランス時代で、今思えばデッサンが一番うまかった人は、アカデミーに集まっていた各国の美大を卒業したようなすごい方たちではなく、もちろん、そうした方たちも素晴らしいのですが、夜学のアトリエに通ってきていた市井のパリ市民の中の障害をもったある男性の方でした。
裸体モデルのデッサンをしていたのですが、一発で線を取ってきますからね、隣で観ていてあぜんとしました。
「まるでラファエロのようですね」と話しかけたら、笑っていましたが、「現代のラファエロが、ここにいるぞ!」と、思わず叫びたくなりました。
つまりこれは、セルバンテスが、左手を失ったことで不自由になり、その後の人生において、両手が自由だった頃への空間に対する意識、希求、欲求、ないしは憧憬のようなものが異常に高まり、深まっていった。
その結果として、かくまで空間に対する能力が向上していったとは、考えられないでしょうか。
人間は、なにか損なわれた機能があると、それを他の機能で補おうとしますから、無意識的に。
ただし、事柄の性質上、本人がその能力に気づいていないということは、あり得るかもしれません。

最後に、皆様にセルバンテスの至言をお届けいたします。
「世の中には多くの珍しい才能が埋もれたままになっていてね、その持主が利用の仕方を知らないばっかりに、宝の持ちぐされになっているのさ。」(「ドン・キホーテ」岩波文庫後篇第二巻、p.16)

以上ですが、なにか毎日こうして「ドン・キホーテ」について考えていることは、小中学生の頃に、面白い算数や数学の問題があると、「おっ、少し手応えがあるな」ってずっと考えていた、それにものすごく似ているなと思います。
つまりは、そういう部分は、おそらく僕はなにも変わっていないんだな、僕がまだ小さかった頃と。
つまりは、なにも成長していない訳だ、チャンチャン。

2023年9月7日初稿掲載
2023年9月8日、9日、10日加筆修正
和田 健

*¹「ところでサンチョよ、先ごろ上梓されて世に出まわっておる新しいドン・キホーテの物語を描いた、あるいは書いた、というのも、描く画家も書く作家も同じようなものだからであるが」(「ドン・キホーテ」岩波文庫後篇第三巻、p.374)

トーマス・マンの「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」(1934) を読んで

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , on 5 August 2023 by kenwada

7月に「今、セルバンテスさんの「ドン・キホーテ」(前篇1605年、後篇1615年)を読んでいます!」という記事を書いたのですが、その後、「ドン・キホーテ」の読書は、後篇の第四十二章まできました。
しかし、それにしましても、この後篇の第四十一章は、この暑い毎日の中でも、思い切り笑えますね。
木馬クラビレーニョの話ですが、前篇の始まりから、ここまでの物語の全体を通して、一番笑えました。
これは、いくらなんでも遊んで書いていますよね。
これは、いくらなんでもふざけて書いていますよね。
そこに、抽象的な意味合いを求めるとか、あまりそういうことをしなくてもよいのではないでしょうか?
この部分は、単純に楽しめば、それでよいのではないでしょうか。

さて、本文の読書は、このまま並行して進めていくことにして、以前から気になっていたトーマス・マンの「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」(1934) を読んでみました。
まずは、基本的な情報になりますが、この作品は、トーマス・マン全集の第Ⅸ巻、評論(1)(新潮社)に含まれています。
高橋義孝氏の訳で、上下二段組の活字でp.340からp.379まで組まれ、そんなに長い作品ではありません。
内容は、1934年5月19日に始まり、1934年5月29日に終わるまでの11日間の一種の航海日誌のようになっていて、マン夫人とともに、大西洋を渡りニューヨークへと向かう豪華客船内での様子が綴られ、全部が全部、「ドン・キホーテ」関連の記述や考察という訳ではありません。
基本的な情報は、このくらいにして、僕は、自由に線を引きたいので購入しましたが、大きな公立図書館でしたら、おそらく、借りることができるのではないかと思います。

最初に、トーマス・マンは、「ドン・キホーテ」を「自分でも不思議だが、これまで一度も、その全部をまとめて読み終えたことがなかった。それをこの船旅でやってみよう。そしてこの物語の海を乗りきってみよう。丁度われわれが十日がかりで大西洋を乗りきるように。」(下線筆者、p.344)
マンは、1875年6月6日生まれですので、この乗船の時点で、58才ですね。
「トーマス・マン日記」(紀伊國屋書店)を読むと、とてもよく伝わってきますが、時間というものに対して、非常に厳格なマンですので、ここで大体(ほぼ)59才です、なんていい加減なことを言うと、とてもしかられそうですので、ここはきっちり、誕生日前なので58才。
まあ、前後の文意を汲み取れば、いろいろな部分部分を、これまで繰り返し何度も読んできたけれども、全体を通して読んだことは一度もなかったという意味だとわかりますので、60才にして全くの初読の僕とは、全然意味合いが異なりますが、でも、これには、ちょっと驚きました。

次なのですが、僕が7月に書いた内容と、マンが述べていることとは、大方のところ一致している感触を得られましたので、とても励まされ、勇気づけられもしたのですが、一つ決定的に、僕が考えていたことと異なっていたことがありました。
以下、混同を避けるために、セルバンテス本人が書いたものは、前篇、後篇とし、偽作者が書いた後篇のことは続篇としてあります。
それは、例の後篇冒頭の「読者への序文」、これを僕は「これがすごいですね。なにか批判の文章は、このように書くものだという一つのお手本のようにさえなっています」と、7月に書いたのですが、つまりはですね、僕は、セルバンテスは、「読者への序文」を書いたことで、憎むべき愚劣なる続篇の作者に対して、一応、気持ちの整理をつけ、後篇の執筆を継続し、後篇におけるサンチョの爆発的なおしゃべりは、あくまで前篇執筆後の年月に、最高傑作であるサンチョを創造したという自負や自覚から、後篇では会話をもっと多くしてもよいかなという考えから展開したのだととらえたのですが、マンの解釈はどうも違うようです。
マンは、あくまで「愚劣なる擬作続篇「ドン・キホーテ」」(擬の字、原文ママ、p.347)、「『ドン・キホーテ」のすさまじいばかりの評判を見て誘惑された当てこみの能なし文士の手になった続篇」(p.347)、「かかる原作卑俗化に向けられた侮蔑に満ちみちた、そして嫉妬心をたたえた抗議」(p.347) などとありますように、愚作続篇の偽作者に対する「復讐欲、抑え難い憤怒、猛烈な憎悪」(p.347)、これらのものが土台となって続篇が書かれ、その結果として、サンチョがしゃべりまくるという、すなわち、サンチョが、しゃべればしゃべるほど、当たり前ですが、サンチョの台詞を展開していかなければならず、それは「能なし」作家には、とてもではないができない相談であり、そういった偽作との差別化の方向に進んだと、そして、その結果として、皮肉なことに、この後篇が前篇に比べて、
「第二部の方も、もしその製作に際して自作を模倣作と区別しようという名誉心がはたらいていなかったならば、あれほどにヒューマニズムや学識めいたものや無味乾燥の筆づかいなどによって害われるようなこともなかっただろう。」(害の字、原文ママ、p.348) とありますように、つまらないものになってしまったと、大局的には、どうもそのようにとらえているようですね。
「たしかにこの第二部は、前作の成功の名誉回復を計り、その台なしになった成功の詩的威厳を救済しようとしたものらしかった。しかしそこにはもう前作に見られたような新鮮さと妙を得た無邪気さとがない。」(p.348) ともあります。

人は憎悪や憤怒にかられて、例えば、短い声明文などを書くことはあるでしょうが、「ドン・キホーテ」の後篇などという長い物語 (たしかに長いですよね) を書くということが、果たしてできるのでしょうか?
僕には、サンチョという素晴らしい色と形を十分に使いきれなかったというセルバンテス本人の思いが、前篇執筆後の年月の間に熟成して、後篇の爆発的なサンチョのおしゃべりへとつながったと感じられるのですが。
しかし、それにしましても、後篇のサンチョは、いくらなんでもちょっとしゃべり過ぎているな。
やはり、マンのとらえ方を、根底に激怒ありきを、あくまで基軸にすべきなのかな?
それとも、これにはなにか国民性のようなものが関連しているのでしょうか?
すなわち、セルバンテスのスペイン人としての、マンのドイツ人としての、われわれの日本人としての国民性のようなものが。
ちなみに、マンが、ルートヴィヒ・ティータという方のドイツ語の訳文を、「「ドン・キホーテ」にその第二の正しい面を、すなわちドイツ的な面を与えた」(p.359) と、高く評価しているところ、実に素晴らしいですね。

次です、非常に勉強になりましたので、いくつかの印象に残った文章を、そのまま列挙してみます。
「『ドン・キホーテ』は、世界の書である。」(p.344)
「比類なき記念碑ではないか!」(p.346)
「この作品の堂々としたユーモラスな様式に接すると」(p.346)
「この「大規模にして注目すべき物語」全体を、あるアラビアの原典を注釈づきで校訂翻訳したものだと触れこむ悪戯からしてもう浪漫的・諧謔的な様式手段である。」(p.346)
僕が、7月の記事で、A→B→Cと記したところですね、マンは、悪戯だとしています。
「また、内容を要約して読者に吹聴するところの、章の標題の文句が実にユーモラスである。」(p.346)
これは、僕も感じました。マンは、二つほどその例をあげていますが、僕は、後篇第九章の「ここでは、この章で明らかになることが語られる」が、一番笑えました。そりゃ、そうだろう、どんな章もその章で明らかになることが語られるのですから。これぞ、セルバンテスの諧謔!
「残念ながら老セルバンテスの静かな叡智が窺われるとはいい難い。」(p.347)
う〜ん、こういう一文に出会うために、ひたすら毎日、読書をしている訳です、素晴らしい、なんという知性!
また、前篇が世間でベストセラーになって、後篇の登場人物が、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのことをすでに知っているというくだんの立体構成につきましては、マンは、このように述べています。
「全く斬新で、前代未聞である。世界の文学中、小説の主人公がそんなふうに、いわば自己の評判の評判によって、自己の大衆性によって生きているような作品はまずこれ以外には見当るまい。」(p.353)
僕が、セルバンテスは、最初から文学的な金字塔を打ち建てたいというような、そんな野望をもってスタートしたのではないのではと書いた件に関しては、
「もとよりこれは、詩人その人も初めの間はそうはっきりと意識していなかったのである。自分が考え出した滑稽人物に対する作者の尊敬は、話が進むにつれて、次第に増大するー (中略) すなわち、この作品は元来どぎつい諷刺的な冗談として、大した野心もなく構想されたものであって、主人公の形姿がどういう象徴的・人間的位階へと成長して行く運命にあったかは初め少しも予想されていなかったのだ。」(p.356) とあります。
「そしてセルバンテスの思いきった残酷さを訝る。」(p.359)
「こういう着想のうちには、何か苦苦しいもの、そして諧謔的な粗暴な趣きがある。」(p.359)
カマーチョの婚礼や、驢馬の鳴きまねの冒険のことなど、まだまだご紹介したいマンの分析がたくさんあるのですが・・・。

おしまいに、僕は加齢黄斑変性症ですので、眼の事情が許せばですが、次は、ジャン・カナヴァジオの「セルバンテス」(法政大学出版局) に見当をつけましたので、それを読んでみようかなと思います。
フランスのトップクラスの知性が、著書の中でどのような主張を展開しているのか、是非知りたいからです。

拙い文章を最後まで、お読みいただき、ありがとうございました。

2023年8月5日
和田 健

追伸 1:これは、やはり、根底に激怒ありきのマンの後篇説は、間違っているのではないでしょうか?
そのことによって、この文学作品の価値が、たとえわずかでも下がるような類いのものでは、まったくないと思いますが。
その後の「ドン・キホーテ」や、セルバンテス研究の進展等の要素も多多関与したと思います。
と言いますのは、その根拠として、「一六一四年、おそらくセルバンテスが「後篇」の第五十九章あたりを書いていたとき、タラゴーナ市で、偽作『ドン・キホーテ 続篇』が出版された。」(「ドン・キホーテ」岩波文庫、後篇第一巻、訳注、p.428) とあるからです。
つまり、偽作が出版された時、セルバンテスは後篇 (後篇は第七十四章まであります) のすでに終盤である第五十九章あたりを書いていた訳ですから、偽作者に対する憎悪や憤怒にかられて、後篇を書き続けていたということは成り立ちません。
それでは、後篇のサンチョの爆発的なおしゃべりは、前篇執筆後の熟成期間に・・・、という僕の後篇説が正しいものであるかどうかは、今のところ、なんとも判明しませんが、少なくとも否定する要素は一応ないように思います。
いずれにいたしましても、僕がわかっていなかったことは、作者セルバンテスは、後篇を書き続けてきて、第五十九章あたりになって、偽作続篇の出版を知り、おそらくは激怒し、そのあとで、後篇冒頭の「読者への序文」を書き、さらに続きの第六十章あたりから終わりまでを書いていったという順序と言いますか、流れになります。
この時、セルバンテスの心を深く傷つけたことは、マンが指摘していますように、この愚作続篇が、大衆に受け入れられたことで、これはちょっと立ち直れないと言いますか、ひいては、世間や大衆というものの愚かさ加減について、セルバンテスは、実際にかなり屈折した思いを抱くようになったのではないでしょうか。
マンは、このように書いています。
「セルバンテスは、彼の作品の続篇だと称する駄作が、彼の作同様に「世間に流布し」、熱心に読まれたことを知った。擬作は原作の好評を博した諸特徴を粗悪に真似た。すなわち打ちのめされる愚かさと百姓風の大食とのおかし味である。それが擬作の内容のすべてだった。原作のもっていた誠実、文辞、憂愁、人間的な深さ、こういうものは擬作に求められなかった。そして怖るべきことには、世間はこれを不問に付して恬としていた。どうやら世間はそういう点に頓着しなかったのだ。これは詩人の心を無残に打ちひしがずにはおかぬ。」(擬の字、原文ママ、p.347、348)

追伸 2:昨日、追伸 1 を書いたあとに、いろいろと考えていたのですが、追伸 1 に、マンが間違っていたと冒頭に書きましたが、間違えていたと言うよりは、おそらくですが、マンは知らなかったのではないでしょうか?
つまり、「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」は、一応、1934年の航海日誌の形式をとっていますが、やはり文学としての一作品ですので、その前後にわたって手を入れてきていると思います。
例えばですが、翌年の1935年にも少し文章に手を加え、最終的な仕上げをしてきたとか。
でも、まあ、仮に、ここでは1934年に原稿を書いたとしましょう。
その時点で、「ドン・キホーテ」の後篇は、1615年の出版ですから、1934-1615=319年、つまり、後篇が出版されてから、マンは319年してこれを読んでいる訳です。
ちなみに、僕は、今年2023-1615=408年して読んでいる訳です。
そうしたら、これ、わかりませんよ。
やっぱり、前篇ができて、偽作続篇が出版されて、頭にきて、後篇冒頭の「読者への序文」を書いて、後篇本文を書いていったと、通常誰でも考えますよ、流れ的に。
そんな、実は、後篇の第五十九章あたりを書いている時に、愚作続篇が発表されて、それも世間に大いに受けてしまって、激怒して「読者への序文」を書いて、また引き返してきて、残りの後篇を書いたなんて、そんなこと普通思いつきませんよ。
そこでですね、このことからわかることとして、僕は以下のようなことを考えました。
①読書の自由さです。
マンほどの知性の持ち主でも、知らないことについては、考えていくことが、ずれていく訳です。
つまり、文学でも絵画でも同じだことだと思いますが、原作からずれていく訳です。
以前、このエッセイ欄に何度も書きましたが、脳がズレを喜ぶからです。
脳が束縛を解かれ、生き生きと踊り出すからです。
これが何かを創造する、生み出す側の制作者にとっては、何よりも大切なことだと、本能的に感じるからです。
イメージとしては、紙の上に大きな円を描いてみてください。例えば、半径5cmとか、これが原作です。
その右横に、今度は少しずらして同じく半径5cmの円を描きます、これが多少ずれてとらえた自分だけの原作+(まあ、原作+αとか呼び方はなんでもよいですが)です。
そうして最初の円を白色で、その横の円を黒色で塗ります。
当たり前ですが、左から順に、白色、灰色、黒色になります。
その黒色の部分を脳が喜ぶ感じです。
これを、ラウル・デュフィは、そのまま絵画に応用して、例えば葉の表現とかに、見事なまでに使い切っています。
②なぜ、マンは、たとえ一度でもよいので、偽作続篇が出版された時点で、セルバンテスが、すでに後篇を書き始めていたかもしれない、その可能性もあるなということを考えなかったのだろうか?
わかりません。これほどの知性が、たとえ一瞬でもそのことに思いが及ばなかった、チェックしなかった理由は、僕にはわかりません。
僕などは、自然に、上記の前篇を書いた→偽作続篇が出版された→愚作者に「読者への序文」を書いて静かに抗議した→後篇を書いて完成させた、と思ってしまいましたが、だってテキストがその順番になっているから。
でも、そこはなんといってもマンですからね。
わかりません。
やっぱり、あれかな、脳がすでに創造者の脳になっているからかな、なにかその近辺にたぐり寄せることのできる解答があるような気がします。
つまりは、日々の積み重ねであり、日常の習慣の蓄積がもたらすところの脳の変化。

2023年8月6日、戦後78回目の原爆の日に
今朝、生まれた姪孫へ
大叔父である僕は、君が生まれた日の朝、まさにその同じ時刻に、このようなことを考えて書いていたんだよ。
今日から始まる君の人生が、どうか素晴らしい、実り豊かなものとなりますように!
和田 健

追伸 3:追伸 1 、追伸 2 と考察してきたこの問題を、ここで整理したいと思います。
その手がかりとなるのは、追伸 1 の終わりに引用したマンの文章で、ここで再度ご紹介したいと思います。
「セルバンテスは、彼の作品の続篇だと称する駄作が、彼の作同様に「世間に流布し」、熱心に読まれたことを知った。擬作は原作の好評を博した諸特徴を粗悪に真似た。すなわち打ちのめされる愚かさと百姓風の大食とのおかし味である。それが擬作の内容のすべてだった。原作のもっていた誠実、文辞、憂愁、人間的な深さ、こういうものは擬作に求められなかった。そして怖るべきことには、世間はこれを不問に付して恬としていた。どうやら世間はそういう点に頓着しなかったのだ。これは詩人の心を無残に打ちひしがずにはおかぬ。」(擬の字、原文ママ、p.347、348)
さて、この文章を一読する限りでは、マンが実際にこの偽作続篇をいかにも読んだかのような印象を受けます。
この場合、考えられるケースとしましては、
①マンは、実際にこの偽作続篇を読んだ。
②マンは、この偽作続篇を読んでおらず、上記の文章に書かれている内容は、なんらかの方法によって、例えば、誰かの論文等を読むことによって、または、文学的な会話の中で、間接的に知り得た事実であり、情報に基づくものである。
③マンは、①②ともに行った。
ここで、①②ともに行わなかったことはあり得ない以上、一応、想定されるケースとしましては、この3つでよろしいでしょうか。
なにゆえに、そんな枝葉末節にこだわるのかというと、このことが、大きな事実と結びつくように思われるからです。
それでは、順にみていきます。
①マンが実際にこの偽作続篇を読んだのであれば、読書人の常として、出版年を確認すると思います。
その段階で、これまでみてきたような認識の誤りは起こり得ず、「ほう、偽作続篇は1614年に出ていたのか、確かセルバンテスの後篇は、1615年の出版だったよな、それであれば、セルバンテスは、偽作続篇が出る前に、すでに間違いなく後篇を書き始めていたな、それもおそらくはだいぶ書き進めていたであろうな」と、同じ作家という仕事をしているマンは、すぐに考えたのではないでしょうか。
マンが、偽作続篇を読んで直に印象を得た上で、明記されていた1614年の出版年を、思わず失念したという可能性は、ほとんどないように思います。
②間接的に知り得た場合ですが、誰かの論文等にも、1614年の出版は明記されていたが、マンが失念したという可能性はあります。
もしくは、文化的なサロンのような場所で知り得た場合、そもそも出版年(1614)のことなど、会話にのぼらなかったのかもしれません。
したがいまして、マンが実際にこの偽作続篇を読んだのか、あるいは間接的にその内容を知り得たのかが、この問題を考える上での核心になってくるように思います。
駄作だ愚作だと世間で評されているものを、わざわざあえて読むような時間は、マンにはまったくないでしょうから、これはあくまで僕の推測の域を出ませんが、マンは、実際にはこの偽作続篇を読んではおらず、間接的に知り得た情報であり、それもおそらくは、会話によるものであったのではないでしょうか。
マンが作品制作のために集める文献や資料というのは、ものすごい桁外れの量なんですよね。
ですから、マンが論文等によって間接的に知ったのであれば、徹底的にその資料を探し出してきて、調べ上げたのではないかと思うのです。
以上より整理しますと、これまで追伸 1 、追伸 2 で考察してきたような、根底に激怒ありきのマンの後篇説は、会話によって、偽作続篇の内容を知ったがゆえに、その情報不足による誤った認識のもとに、マンが、「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」の中で展開したのではないかというのが、僕に考えられる推測です。

2023年8月10日
和田 健

追伸 4:後篇の第七十一章まできました。
もうあとは、残りの四章を楽しみながらゆっくりと読んで、この雄大な物語の全篇の読書を終えようと思います。
そこで、たとえ一人でもこの文章を読んでくださる方がいるのであれば、その方に対して、僕は、きちんと訂正すべきことはしなければいけないと思いました。
僕が、追伸 3 で考察したことは、間違えたのかもしれません。
すなわち、追伸 3 で引用した文章に対する可能性として、僕は、①②③の場合をあげましたが、そのいずれでもないケースが考えられるのです。
そのケースとはどのようなものかと言いますと、もしかすると、マンは、後篇第五十九章の本文から、偽作続篇の内容を間接的に知ったのかもしれないということです。
後篇のテキストそのものから偽作続篇の中身を知る、この可能性は正直、僕には思いつきませんでした。
と言いますのも、それ以前は、後篇冒頭の「読者への序文」をのぞいて、偽作続篇については特に触れられず、第五十九章にいたって、セルバンテスが、ここまであからさまに、突如として偽作続篇についての憤懣をぶちまけてくるとは思いもしませんでした。
その後、第六十二章のバルセローナの印刷所や、第七十章の悪魔たちのテニスにも、この偽作続篇への憤懣がぶちまけられていますが、う〜ん、さらに謎が深くなってしまいましたが、それであればなおさら、なぜマンは、セルバンテスが偽作続篇の出版を知ったのは、おそらく第五十九章の時点ではないのかと考えなかったのだろう?
この突然の変調から、なにゆえマンは、公爵夫妻の物語、そして第五十八章の似非楽園の人びとまでは、セルバンテスは、偽作続篇の存在を知らずに書いてきたなと判断しなかったのだろう?

やっぱり、結論として、セルバンテスが、後篇冒頭に「読者への序文」を置いたことが、こうした時系列の混乱をまねき、この序文を起点とした一連の認識の誤りのようなものを、結果としてもたらしたのではないでしょうか。
セルバンテスは、後篇冒頭から、偽作者への怒りをもって、書いているぞみたいな感じの混乱。

もしくは、さらに考えますと、セルバンテスが意図的にこの仕掛けを仕組んできている可能性も考えられます。だって、セルバンテスからしてみると、後篇の第五十八章まで書いてきて、突然、偽作続篇の存在を知り、いまさら、第一章に戻って書き直しもできないし、もうどうにもしようがない。
それであれば、後篇冒頭に「読者への序文」を入れておいて、色眼鏡ではないですけれど、このフィルターを通して最初から読んでくれよ、僕はとっても怒っているのだからね、みたいな。
その思惑に後世の読書人たちが、まんまともののみごとに、次々に乗っかってしまったということも考えられます。
セルバンテスの機知からして、その可能性は、少なからずあるように思います。

2023年8月22日
和田 健

追伸 5:えーと、これは、おそらくですが、セルバンテスは、偽作続編の登場に、かなり動揺したのではないかなと思います。
それこそどこにも「僕は実は動揺しました」なんて、意地でもそんなことは書いてはありませんが、明らかに大きな動揺がみてとれるように思います。
第五十九章で偽作続篇への憤懣を初めてぶちまけて以来、第六十二章、七十章、七十一章、七十二章と、いくらなんでも立て続けに、偽作続篇へのやり切れない思いがめんめんと続き、なんだかもう爆発している感じがします。
つまり、マンが主張するところの後篇が偽作との差別化の方向に進んだのは、サラゴサ行きをバルセローナに変更した件もしかりですが、むしろこの第五十九章から俄然顕著になってきます。
特に、いくら物語の中とはいえ、第七十二章の村長の前での法的な措置、宣言書の作成、ここに僕はセルバンテスの深い動揺がみてとれるように思うのですが、いかがでしょうか?
つまり、ここにいるドン・キホーテとサンチョ・パンサこそが本物だという精神的な安心を得たいがための衝動に突き動かされている。
そして同時にそれに対して、実に情けない二人だなというセルバンテス一流の皮肉が混じり、それが「ドン・キホーテとサンチョはすこぶる御満悦で、その様子といったらまるで、こうしたお上のお墨付きがぜひとも必要であって、自分たちの言動だけでは二人のドン・キホーテの相違を、また二人のサンチョの相違を明らかに証明することができないとでもいうかのようであった。」(「ドン・キホーテ」岩波文庫、後篇第三巻、p.384, 385)につながるように思うのですが、この一文の解釈は、ちょっと難しいです。
つまり、セルバンテスは、動揺している自分に対して、そのように思っているのかもしれません。
ここにはなにか、滑稽な二人の言動に託した上での、セルバンテスの自虐的な笑いが感じられるように思います。

さらに、引用した上記の文章ですが、これではまるでいかにもこれから第三部が書かれるかのようではありませんか。
つまりは、テレビドラマの水戸黄門の印籠ではありませんが、この公正証書のようなものを持って、また二人で、各地の冒険をめぐる旅に出るという。
それと、敗北を喫して、すっかり憔悴したドン・キホーテがバルセローナからの帰路、なんかやたらと熱を帯びて話す向こう一年間の牧人生活や羊飼いへの憧れ。
これは、偽作者の登場による人間不信からくる反動の現れであり、それに、キリスト者としての傷つけられた魂の救いを求める自然な気持ちが重なっているのではないでしょうか。
さらには、第六十九章で展開されるアルティシドーラの復活、これはいくらなんでも明らかに奇異ですよね。
もう公爵夫妻は出てこなくてもいいのに、再登場した上、なにか無理矢理、場面設定している感がある。
「あっ、これは伏線を設けているな」と、咄嗟に感じました。
これと新約聖書のラザロの復活との関連。

もう大体、これからのテーマが見えてきたようです。
①セルバンテスは、どこの時点でドン・キホーテの「死」を構想したのだろうか?
とどのつまり、究極のポイントになるのは、後篇第五十八章までは、考えていなかったのかどうか。
この問題を考える上でも、例の「読者への序文」が「後篇においてわたしは、後日のドン・キホーテの言動を縷々述べたうえ、最後には彼の死と埋葬にまで言及していますが、それは彼の生涯に関して新たな証言をしようなどという気が何人にも起こらないようにするためです。」(「ドン・キホーテ」岩波文庫、後篇第一巻、p.18)と、またしてもフィルターをかけてきて、その思惑に計画通りに、思わず乗りそうになりますが、これまでにもう何度も確認してきましたように、この序文は、後日に書かれたものです。
②1615年に後篇が出版され、翌1616年にセルバンテスは亡くなるわけですが、その間、ドン・キホーテを死なせたことについて、一作家として、どのような感慨をもっていたのだろうか?
まずは、単純に、後悔しているとか、いや、あれはあれでよかったのだとか、または、今は「ペルシーレス」ですか、そちらの方の執筆に忙しく、それどころではないとか、そのあたりから始めて。
③セルバンテスの空間認識能力の高さと、従軍したレパントの海戦との関連。
この問題を考える上で、今読んでいる「セルバンテス」(法政大学出版局)が、とても参考になります。
このあたりになります。

2023年8月23日
和田 健

追伸 6:今朝方、「ドン・キホーテ」(岩波文庫全六巻)を読了しました。
う〜ん、率直に言いまして、これはというのはラストの後篇第七十四章のことですが、蓋をしてきたな、物語を終わらせよう、店仕舞いしようとしてきたな、店をたたもうとしてきたなと思いました。
これはセルバンテスの本音で書いているのだろうか、文面通りに受け取ってよいのだろうか。
う〜ん、これは、400年間様々な議論を巻き起こしてきただろうな、このラストは、彼の本心なのだろうか。
ドン・キホーテが亡くなって、まわりの登場人物たちは、皆泣くわけですが、なにかあまり悲しくないですよね、究極的に。
あの偉大なる狂人ドン・キホーテが亡くなったわりには、荘厳さが感じられない。
別に比較するような問題ではありませんが、マンの「ヨゼフとその兄弟たち」におけるヤコブの「臨終の集い」にみられるような威厳や厳粛さが全く感じられない。
まあ、善人アロンソ・キハーノに戻って死んだのであるから、荘厳な感じなどしなくてもよいのだという反論は成り立ちやすいと言いますか、当然あるでしょうけれども。
でも、これではまるでラ・マンチャの一村民の普通の死ではないでしょうか。
ここのところ。
少し考えてみます。

昨日来、ずっと考えていたのですが、これはというのは再び「ドン・キホーテ」のラスト、終わり方のことですが、これはやっぱり、完全に防御ですよね、守りに入っている。
もちろん、作家が自分の作品を守ろうとする権利はありますし、とても自然な反応でもあると思います。
でも、なんかちょっとな〜、物足りない。
なんかとってつけた感がぬぐえません。
「ドン・キホーテ」の物語を終わらせるためには、一度負ける必要がある→《銀月の騎士》に決定的に敗北する→約束通り郷里の村に帰る→狂気から正気に戻り、狂人ドン・キホーテは、善人アロンソ・キハーノとなる→遺言状を作成して死ぬ。
理屈としてはわかるのだけれども、なんか割り切れないなあ。
つまりは、筋が通り過ぎている。
このかくも唐突に、狂気から正気に戻ったということにも、非常にいろいろなことを考えさせられます。
善人アロンソ・キハーノなんて、いったい誰が愛するのだろう?

これはやっぱり、現在の私たちからは、およそ想像もつかないほどまでに、セルバンテスは、偽作続篇の出版によって心を深く傷つけられ、身にしみてこたえてしまったのかな、決して立ち直れないほどに。
なんか、セルバンテスの「本音を言えば、本当はもう少し書きたかったんだけれどもよ、ろくでもない偽作者が出てきて、こんなことになってしまったから、もうそろそろこのへんで、おしまいにして、この問題にけりをつけようぜ、ちぇ、またしても人間の横槍かよ、面白くもなんともねえや」という感じが伝わってくるのです。

最後に、僕に一つだけ言えることは、この壮大な物語の究極の核心は、つまりは、セルバンテスの呻きが一番ストレートに伝わってくるのは、なんのことはない、ずっーと読み進めたところの、実は結局、ラストのこの後篇第七十四章にあるように思います。

2023年8月24日
和田 健

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 3, 2023

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , on 4 August 2023 by kenwada

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 3, 2023
Acrylic, gouache, watercolor and multi-talented pencil on paper, 30.7×22.4 in. (78.0×57.0 cm)

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 2, 2023

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , on 2 August 2023 by kenwada

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 2, 2023
Watercolor, gouache, acrylic and multi-talented pencil on paper, 30.7×22.4 in. (78.0×57.0 cm)

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 1st, 2023

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , on 1 August 2023 by kenwada

Today’s Drawing Work “Ichi-go ichi-e” for August 1st, 2023
Watercolor, gouache and acrylic on paper, 30.7×22.4 in. (78.0×57.0 cm)