(第四回から続く)
皆様、こんにちは。
最終回は、実に味わい深い「キリーロフとお茶」です。
はじめに、ドストエフスキーの作品の中には、実際にさまざまな問題点があると思うのですが、例えば、この「悪霊」の中でも、ピストルを売りに行ったシャートフが、リャームシンに向かって言いますよね、「なんだ、折紙つきのユダヤ人のくせに。」(四の232)
また、懲役人のフェージカが、ピョートルに対して「お前さんは偶像崇拝者 (でくおがみ、と読み仮名がふってあります) だ、だから、ダッタン人やモルドヴァ人と同列なんだ。」(四の186) などなど。
こういうのを読むと、具体的に名指しされたこれらの民族の現代に生きる人たちは、要するに子孫の方たちですね、はたしてどのような感情をもって、ドストエフスキーの作品を読むのだろうかと思います。
これらの剥き出しの民族感情の問題 (これはナショナリストとしての一面の言わばコインの表と裏ですね) は、ここで一旦別にしまして、ドストエフスキーの天才としての能力が、ちょっと超弩級と言いますか、前代未聞レベルにあることも同様にまた事実であると思います。
そして、小説家として物語全体を構成してくる比類なきその能力を、如実に示しているのが、これからご紹介する「キリーロフとお茶」なのではないでしょうか。
え〜と、まず、結論から言ってしまいますと、僕は機織りのことは残念ながらよくわかりませんが、これは、お茶という実に味わい深い小道具をキリーロフに用意させることによって、物語全体に横糸をはりめぐらせておきながら、今度は縦糸で、新約聖書の「ヨハネの黙示録」(以下、単に黙示録にします) へと、その一つ一つの場面を掘り下げていく、そのようにして、横糸と縦糸を交互に織り込みながら、作品という一枚の布を編み上げてきていますね。
(機織りに詳しい方で、横糸と縦糸の言葉の使い方に、違和感がありましたらごめんなさい。)
つまりは、最終的に黙示録の「なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし」(三の166、167、四の351) に集約したいがために、ドストエフスキーが温度の加減を調節できるお茶という飲み物をここに持ち出してきたことは明白で、これが例えば本文中に実際に出てくる他の飲み物である、シャンパン (一の18と45)、ウォートカ (一の68他複数)、赤ぶどう酒 (三の48)、ぶどう酒 (三の49)、コニャック (三の109)、ビール (四の172) などではだめな訳です。
もちろん改めて言うまでもなく、キリーロフが、シャートフのように、特になにも飲まないという設定では、どこへも織り込んでいけません。
ドストエフスキーが、これほどしつこく何度も「キリーロフとお茶」をセットしてきている以上、そこに示唆、暗示、ほのめかしがあることは明らかであると思いますし、特にドストエフスキーの場合は、第三回の「カルマジーノフ氏への徹底批判」にもみられますように、執拗に何度も繰り返してきたら要注意です。
それを踏まえた上でも、なおかつただ単に「キリーロフってよっぽどのお茶好きなんだね」っていうのは、僕はちょっと読み込みとしては若干甘いような感じを受けます。
これは、気づいてみますと、別にどうってことはないと言いますか、ドストエフスキーはなにも奇抜な突拍子もないことを考え出してきた訳ではないのですが、まずは制作者側としてのこの日常生活に非常に密接した「茶」を用いるという発想ですよね、ここに並外れたものを感じますし、また、当然と言いますか、それを努める役はキリーロフをおいて他にいないだろうという、この役者の選択、人選ですね。
これは僕の仕事である絵画の分野で言いますと、りんご一つでパリ中を驚かせてみせるというセザンヌの発想にとてもよく似ています。
そんなもん、お茶で十分だろ、お茶で十分に黙示録にもっていけるというドストエフスキーの感覚です。
そこで決定的な問題になるのは、お茶の必然性ですね、どうしてお茶の場面をたびたび挿入してくるのか、別になければないで構わないのではないのか、必要ないのではないのか、なにも困らないのではないのか、単発的に黙示録を時折はさみこんでくればそれでよいのではないのか、という疑問に対する答えですね。
問題は、まさしくここのところ、この一点ですね。
これなのですが、上記の横糸と縦糸の関係で、縦糸 (黙示録) だけですと、ドストエフスキーはやはり物語の複合体としての重厚さに欠けるとでも言いますか、縦糸だけのバッサリした布地=作品になってしまい、物語としてのつや、光沢、輝き、面白み、味わい、奥深さなどといったような複合的な魅力に欠けると判断したのではないでしょうか。
ですので、横糸 (お茶) が、どうしても必要であると。
他にどのような理由が考えられるのだろう。
まさか、ノンアルコールでないと、キリーロフが人神論を展開するのに都合が悪い、そんな理由ではないでしょう。
それでは、順にみていきたいと思います。
1. Gによるキリーロフのお茶訪問
(略してジキリ茶、すみません、つまらない遊びです)
まずは、第一ラウンド、カーン!
お茶が出てくる非常に印象的な最初の場面 (キリーロフが出てくる最初の場面ではありません) ですが、わたしことGが、キリーロフの住む離れの部屋を訪れますよね、この場面のGの描写が大変素晴らしいので、そのままここに引用いたします。
『「僕は茶でもなにされるかと思っていました。」と彼は言った。「僕、茶を買ったです。おいや?」
私は辞退しなかった。間もなく古女房が茶を持って来た。というのは、熱い湯の入った素晴らしく大きな土瓶と、ふんだんに茶を入れた急須と、俗な模様のついた無骨な茶碗二つと、大きな丸パンと、皿いっぱい盛った割り砂糖とであった。
「僕は茶が好きです」と彼が言った。「夜ね、やたらに歩いては飲むんです。夜が明けるまで。外国にいると、夜の茶は都合が悪いですね。」
「あなたは夜明けにお休みになるんですか?」
「ええ、いつも。僕はあまり物を食べないで、茶ばかり飲むんです。リプーチンは狡猾だけれど、せっかちですね。」』(一の192)
Gが辞退しなくてよかったですね、辞退していれば、物語がここで終わってしまいますので (笑)。
余談になりますが、ロシアの茶の歴史について少し調べてみましたが、これはおそらく紅茶のことですね。
また「割り砂糖」のところで、思わずゴーゴリの「死せる魂」の中の鮮やかな一場面 (第一部第一章の女中頭と蠅のところ) を、咄嗟に思い出しました。
それから、この後、二度ほど出てきますので、最後は病院に入る (三の66) この「古女房」に注意です。
ドストエフスキーは、この最初のお茶の場面で、キリーロフが大変なお茶好きであるという前提を、読者にしっかりとイメージさせようと、その定着を図ってきているように思います。
それは、「ほとんど乞食のような貧しい境涯にいる」(二の54) キリーロフなのに、大変なお茶好きであるということを読者に馴染ませるためには、どうしても必要不可欠であると。
そして、そのためには最初の訪問者は、第三者的なこの物語の説話者であるGをおいて他にはいないと。
ここで、Gがキリーロフの部屋に入ったのは、まあ、これは「偶然にもキリーロフ氏に行き会った。」(一の191 ) のですが、夜の七時過ぎです。
ですので、これは僕の推測ですが、「僕、茶を買ったです。」の茶を買った日は、おそらく当日のことではないかと思われます。
最初、このあまりにも唐突な「僕、茶を買ったです。」の意味が、僕にはすぐにわかりませんでした。
第一回にも書きましたように、ドストエフスキーの場合は、常に台詞の裏の意味を推し量ってこなければなりませんので、「乞食のような貧しい境涯にいる」キリーロフが大好きな「茶を買った」ということは、いつもは気難しいキリーロフだけれども、この日はまず大変機嫌がよかったと解釈すべきです。
さらには、もう一点、ドストエフスキーが含ませている意味が感じとられて、貧しいキリーロフが茶を買えたということは、なにがしかの臨時収入があったのではないかということをも、ほのめかしているのではないでしょうか?
それであれば、それはいったいなんの収入なのか?
額面通り「建築技師」(一の152) としての収入として受け取ってよいのか?
よくないですね、違うと思います、と言いますのは、リプーチンの言葉「今度こちらへ見えたのは、ここの鉄橋架設工事に口が見つかるという、確かな当てがあったからなんですよ。目下さきの返答を待っておられるのです。」(一の154) とありますように、実際にはまだ働いていないからです。
そして、ここが肝心なところですが、熱い、ぬるい、冷たいなどの茶の温度の加減については、まだこの最初の段階では、ほとんど言及されていないことです。
ドストエフスキーは意図的に、この最初の場面では、茶の温度には、あえて触れてきていないように感じます。
まずは、その前に、しっかりと土台作り、基礎を固めてからとでもいったところでしょうか。
立ち上がって、帽子を取り、部屋を出て行こうとするGに向かって、キリーロフの『「あなたは僕の兄に似ていらっしゃる、非常に、大変」(中略)「七年前に死にました、兄貴です。非常に、非常によく似てらっしゃる。」』(一の199) も味わい深いです。
つまりは、七年前に兄が亡くなって、その後、キリーロフは「外国に四年」(一の154) だか、「外国に五年」(一の199) だか滞在しているのですね、ここのところ。
2. ニコライによるキリーロフのお茶訪問
(略してニコキリ茶)
さて、いよいよ第二ラウンド、カーン!
ここでドストエフスキーは、第一ラウンドで前提になる条件は整えておいたぞとばかりに、茶の温度の加減を連発してきます、当初からの全体構想通りだぞと、まるで言わんばかりです。
夜の九時半から着替えを始めたニコライが、ボゴヤーヴレンスカヤ街の「黒く古びたフィリッポフの持ち家の、閉め切った門の外へ立ち止まった時は、すでに十時を過ぎていた。」(二の47, 48) から始まって、
『「スタヴローギン君?」手に毱を持って、床から起きあがりながら、いささかも驚く色なくキリーロフはこう言った。「お茶を飲みますか?」(中略)
「結構ですね、もし冷たくなかったら」とニコライは言った。(中略)
「温いです、いや、熱いくらいです」とキリーロフは得意そうに引き取った。(中略)
ニコライは席に着いた。なみなみとついだ茶碗を、ほとんど一息に飲み干した。
「まだ?」とキリーロフがきいた。
「ありがとう。」』(いずれも二の49, 50)
うまいなあ〜、読書の極上の魅力、ここに極まれり!という感じですね。
もちろん、キリーロフのこの「得意そうに引き取った。」に注意です。
さて、これだけを読みますと、茶の温度がどうだとか、そんなことばかり話しているような印象を受けますが、そこはなんと言ってもドストエフスキーですからね、これら一連の会話の裏の意味の読み取りに、黙示録を暗示してきているように感じます。
ちょうど僕の仕事である絵画の場合で言いますと、補色の関係に非常によく似ています。
これが、生涯基礎基本、原理原則を貫いたような天才アンリ・マティスのような場合ですと、赤色系のそばに緑色系をおいてきてくれますので、比較的わかりやすいのですが、ドストエフスキーは、どちらかと言うと、同じ天才でもピエール・ボナールのタイプです。
つまりは、赤色系からやや離れたところに緑色系をおいてくるので、両者の関係の読み取りに一瞬まごつくのです。
赤はわかった、それで、緑はどこだどこだという感じになるのです。
この場合も、やや離れた会話のところで、ニコライが突然キリーロフに尋ねます。
「黙示録の中で、一人の天使が、時はもはやなかるべし、と誓っていますがね。」
「知っています。あれは全く非常に正確な言葉です。明晰で的確です。完全な一個の人間が幸福を獲得した場合、時はもはやなくなってしまいます。必要がないですものね。非常に正確な思想です。」(二の57)
ドストエフスキーにしてみれば、これだけほのめかしておけば、茶の会話の裏の意味の読み取りはできるだろうと、わかったか、ちゃんと示唆しておいたよな、という感じなのでしょう。
ただし、ここのところがすごくドストエフスキー的なのですが、いきなり「なんじラオデキヤの教会の使者に書おくるべし」のところは出してこない。
ドストエフスキーは、黙示録の中の別の箇所を出してくる。
それはまだ先だよ、「ラオデキヤ」の登場は、でも、もうわかるだろう、ああ、これは確実に裏をとってつなげて来るだろうなっていうことが!とでもいうところでしょうか。
ここで少し余談になりますが、このキリーロフという「建築技師」は、男からみると、すごくいい奴ですね。
自らの思想に殉じて、「まだ二十七かそこいらの若い男」(一の153) なのに、勝手に死んでしまいましたが。
「生後一年半ばかりの赤ん坊」(二の49) と、「ハンブルグで買った」(二の56) 「大きな赤いゴム毬」(二の49) で遊んであげて。
この赤いゴム毬の場面 (名場面ですね) は、キリーロフが幼い子供と遊ぶ姿を通じて、ドストエフスキーはそれを見つめるニコライに、どれだけ生活を愛する心がまだあるのかを、逆に問いかけている気がします。
そのことが、ニコライのキリーロフへの「じゃ、君は生活も愛してますね?」(二の56) の問いにつながります。
「キリーロフ君、君は非常に幸福らしいですね?」
「ええ、非常に幸福です。」(いずれも二の57)
(ここでさらなる余談になりますが、この「赤いゴム毬」の赤なのですが、ドストエフスキーは、「未発表の章」の『スタヴローギンより』(三の172) の中に出てくる「小っちゃな赤い蜘蛛」(三の186)、「小さな赤い蜘蛛」(三の194) の赤と掛け合わせてきていますね。
つまりは、時系列に整理しますと、ニコライは、まずペテルブルクで赤い蜘蛛を見て、次にキリーロフのこの家で赤いゴム毬を見る、ここで象徴としての赤をオーバーラップさせておいて、今度はキリーロフの「ほら、蜘蛛が壁を這ってるでしょう。」(二の60) で色を抜く、赤い蜘蛛→赤いゴム毬→色の指定なしの蜘蛛。
うまいなあ〜!やっぱり、この辺りが天才の天才たるところだな。
キリーロフの蜘蛛に色をつけなかった理由は、おそらくですが、ここでもう一度赤い蜘蛛と書くと、読者がその点と点のつながりを容易に察知してしまう恐れがあるからで、絵画で言えば、ドストエフスキーとしては、うっすらと見えるか見えないかくらいの斜線を、ここに密かに引きたかったのではないでしょうか。
この赤いゴム毬は、最後、図々しいピョートルがもらうのですよね (三の68)。
この場面のリズムの不自然さ、ドストエフスキーは、確実になにかのメッセージをここにこめてきています。
なんだろう、この意図は?
なぜピョートルがだしぬけに赤いゴム毬をもらい受けるのであろうか?
ここを額面通りに、ピョートルの「僕も体操がしたいんですよ。」(三の68) と受け取ると単純過ぎるように思います。
う〜ん、ここは非常に難しい、元に返しているのであろうか、元の赤い蜘蛛に、逃亡するピョートル、海外に高飛びするピョートルに赤い蜘蛛。
その意図は元に返して、このピョートルはまずは赤い蜘蛛のペテルブルクに逃げるぞ、その後、今度は赤いゴム毬を買ったハンブルグ、すなわち、どこだたわからないけれども海外へと高飛びするぞ、赤いゴム毬を追え!ではありませんが、逃亡者のシンボルとして、ピョートルにくっつけておいてやろうという暗示です。
さらにこの後、ピョートルが自殺したキリーロフの死体を見るために、「マッチの赤い大きな箱」(四の303) で、「ろうそくの燃え残りに火をつける」(四の304) 場面も出てきますね。
最初は、赤い蜘蛛の箇所ですから、ドストエフスキーはニコライの少女凌辱の一節との関連を、ピョートルになにか重ね合わせようとしてきているのかなと考えていたのですが、そうではなくて、単に逃亡や追跡の象徴くらいの意味であれば、ここでさらに大きな問題が出てきて、今までは「悪霊」の執筆開始時からの構成であったと普通に考えていたのですが、ドストエフスキーはいったいどこの時点で、最終的にピョートルだけは逃亡させると決めてきたのであろうか?)
ニコライは、介添人になることを頼むくらいですから、当然そうなのでしょうけれども、キリーロフに対しては、一目置いていますね。
全篇を通じて、ニコライが敬意を払っている相手は、チーホン僧正を別にすれば、まずキリーロフくらいなものではないでしょうか。
「あなたは強者じゃありません。お茶でも飲みにいらっしゃい。」(二の155) という決闘後のニコライに対するキリーロフの対等な言葉もいいですね。
そして、キリーロフと同様に、シャートフもやはり生活を愛していますね。
身籠ったのはニコライの子なのに、マリイのお産の時のちょっと尋常ではないはしゃぎぶりや、『「エルケリ君、可憐なる好少年!」とシャートフは叫んだ。「君はいつか幸福だったことがあるかね!」』(四の252) などからも、そのことがありありと滲み出ています。
でも、ニコライには、それが感じられない。
そこで、ドストエフスキーは、この三者の年齢を二十代後半に大体そろえることによって、ある程度、比較対照しやすいように設定してきている感じがします。
まあ、リプーチンのように「もう中年の県庁役人」(一の45) では、ちょっとやりにくい。
ちなみに、参考までに、キリーロフが上記しましたように「二十七かそこいら」、
シャートフが「二十七か八」(一の47)、
ニコライはGが「四年前はじめて見た時と同じように」(一の316) で、はじめて会った時は「年のころ二十五ばかり」(一の67) なので、二十九くらい。
ちなみに、ピョートルもやっぱり「年のころ二十七かそこいらの若者」(一の312) です。
長くなりましたので、第三ラウンド以降は、また次回にいたします。
2024年3月27日
和田 健