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今後の僕の課題がはっきりと見えてきました!

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 5 January 2020 by kenwada

皆様、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年末より李白(701-762)の詩を集中して読み始めました。
2019年12月25日の僕のノートのメモには、
「この年末を李白(701-762)の勉強に捧げる。あと26日ー31日の6日。非常に鋭角的で天衣無縫、線が伸び伸びしており、相互に響き合い、闊達なとてつもないスケールの天才的な絵画的・空間的要素を感じる!幾重にも重ねられた星印のような図形的なイメージがある。それでありながら作品の底流にタオ的な明るさ、おおらかさ、あたたかさをも同時に感じる。この傑出したインスピレーションは絶対に絵画の中に取り入れられる。よってこれを勉強しない手はない!
2019年12月25日(水)夜記。」
とあります。

以来、少しずつ読み進めてきて、いくつもの美しい、圧倒的に美しい詩に出会いました。具体的には、「山中にて俗人に答う」「静夜思」「内に贈る」「九日 竜山に飲む」「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」「独り敬亭山に座す」「白鷺鷥」有名な「月下獨酌」これなどは英語訳を読むと Drinking Alone by Moonlight なのか、Drinking Alone under the Moon なのか、Drinking Alone in the Moonlight なのか、いくつもの英語訳があって、そもそもタイトルからして僕なら当然最初 under だろうと思いましたが、by なのか under なのかはたまた in なのかなんて考えていると面白くて病みつきになります。「春の日に酔いより起きて志を言う」素晴らしいですね、美しい!「汪倫に贈る」あたたかい、素晴らしい!今、「長干の行」を読んでいます。素晴らしい、美しい、この詩は14歳の夫婦という設定を非常に甘美にやわらかく打ち出してきた時点で勝負あった!だけれどもこの時代にはごく普通の結婚年齢だったのかもしれないな、いやでもこの時代にあって夫が四川省まで行ってしまうというのは、ほとんど地の果てに行ってしまった感じがしただろうな、直感的に言って僕はこの詩を李白はイマジネーションで書いているなと思う、いやいやそうではなくてこれは彼の見聞に基づくもので・・・等々、先を読み進めるのが少しもったいなくなる、そんな感じ。Ezra Pound の訳がまた素晴らしく優しい、While my hair was still cut straight across my forehead う〜ん、cut straight across か、よくここまで置き替え練り上げてくるな、すごいなこの1行目。唯一五月の five months のところは意味が取れないので、ここ研究課題。(That is, Despite Ezra Pound translated August as August in line 23, why did he translate May into five months in line 17? I think that this word “five months” has changed various meanings in the poem.)

これとテレビのない我家で年末にNHKラジオの「教授の大みそか」という蓄音機&SPレコードの特集番組を聴き、最後の1930年の録音のカザルスのこの世のものとは思えないまるで神が舞い降りてきたような演奏を聴いた時に、李白とカザルスに通底するものをはっきりと感じ、年が明けてから「らじるらじる」で何度もこの演奏を繰り返し聴いて、年明け早々少し思考が進んで今後の僕の課題をつかみかけてきました。

つまり詩を書くのではなく言葉を置く感じ。音楽を演奏するのではなく、音を置く感じ。宇宙と一体となって出てくるもの、天から舞い降りてくる言葉や音をつかまえて、それをそっと紙や弦の上に put する。必要以上に自分が泣いたり感情移入したりしてはダメ。天から降りてきたものだけを詩や音楽にしている。自分を無、カラにしないと入って来ない。まわりの言葉や音が入って来ない。静寂。

これを自分にあてはめると、僕はこの2年間毎日毎日1. いい加減に、2. 無造作に、3. がさつに、4. ぶっきらぼうに、5. すっぽ抜けている、6. ぶっ飛んでいる、7. 適当に、この7項目をそれこそ金科玉条のようにして毎朝描き始める前にお経のように唱えてはこの7つの中の調和を模索してきたのですが、つまり、キチキチ詰めているんじゃない、ピキッとしていると絵画は非常につまらない、退屈になる、あくまで僕にとってはということですが、その先に思考が進めなかったものが李白とカザルスを通してわかりかけてきた。

つまり描くのではなく降りてきた色だけ形だけそっとキャンバスの上に置く感じ、自分で絵を描いたらいけない、絵を支配したらいけない、絵をコントロールしたらいけない、絵画の中に征服欲をもちこんだらいけない!
これは李白やカザルスのようなgreatestたちに率直な物言いで大変失礼だけれども直感的に感触なのだと思う。感触なんだと思います。この感触をつかんでしまえばまた前に進める。

そしてそれを大きく展開してたっぷりと自分でも表現し終えたなと思えたらやめます。
Cy Twombly が英語のインタビューの中でアトリエの窓辺で2,3時間海を見てから描き始めると答えていたけれども、この感触をはっきりとつかんでいたんだな。
僕のノートの2018年5月21日のメモに、「The dahlias sleep in the empty silence. Wait for the early owl. EAST COKER, まだ絵画はここまで到達していない、唯一これに迫れたのは全く違う方向からのアプローチでCy Twombly だと感じる。」とあります。やっぱり2018年4月に NYC の Gagosian で Twombly の Drawing を94点観て、いろいろ感じたんだろうな。

さあ環になって踊れ!Mélangez! Mélangez! Mélangez! À tout à l’heure!
無心に心穏やかに描く、マントノンの青い夜の水彩画の時のように、窓辺で。

しかしすごい時代だな、 顔真卿がいて、懐素がいて、李白がいて、杜甫がいて、日本からは空海が留学で入唐していて、・・・。
一度でいいから僕も唐に行ってみたかったな。別に都の西安(長安)でなくてもいいから。そして村人汪倫の酒を僕も飲んで、その足で僕も小舟に乗って長江を下り、望夫の台から心配そうに西方の彼方を見つめる The River-Merchant’s Wife を岸辺にふと見かける、
Alas! きっとそれはとてつもなく美しいだろうな。

2020年1月5日記。
和田 健