
Canvas No.1

Canvas No.4
Today’s Drawing Two Photos on July 18, 2024
Acrylic on canvas, Each canvas 17.9×20.9 in. (45.5×53.0 cm)

Ken WADA, My Painting when I was 6 years old, Crayon on paper
和田 健、幼稚園時代の僕の絵、1970 (昭和45) 年1月17日、6才、紙にクレヨン
14.2×10.0 in. (36.1×25.5 cm)
(その3から続く)
さておしまいは、明るくいきましょう (笑)!
幼稚園時代のこの子の作品です。
いいですねえ〜、これ。
なんだか楽しくて明るくて、同時にとてもユーモラスでもあり、観ていると不思議に元気が出てきますので、先日来、アトリエの壁に貼っています (笑)。
「だいすきな ともだち こにしくん わだけん」
これを書いてくださった担任のM先生のことは、大好きな先生でしたので、とてもよく覚えています。
今回の「母からの贈り物」のその1からその4までに加えまして、先日連載しました「小中学校時代の思い出」のその1からその3までをも合わせて振り返る中で、自分史を通して、遅く絵を始めることになった自分の人生の摩訶不思議さについて、実に様々なことを深く考えさせられました。
そして、僕の人生の象徴的な出来事である恩師のアルトソウル先生にフランスで出会うことに至るまでの、一つの結論のようなものにたどり着きましたが、それはとても長くなりますので、ここでは割愛させていただいて、自分の心の中にそっと大切に秘めさせていただき、これからも静かに描き続けていきます。
最後にもう一度、絵を大切に保管しておいてくれた母に、ここで改めて感謝いたします。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
2024年5月29日
和田 健
追伸:今から2年前の2022年2月に、アルトソウル先生の思い出を書きました。
その時の記事はこちらになります↓
https://kenwada2.com/2022/02/01/パリ時代の思い出-1/

Ken WADA, My Painting When I was 7 years old, Watercolor and crayon on paper
和田 健、小学校時代の僕の絵画作品、1970年、7才、紙に水彩、クレヨン
21.3×15.0 in. (54.0×38.0 cm)
(その2から続く)
う〜ん、これにはちょっと驚いたなあ、この子は色にすでに反応していますね。
その1に書きましたが、押し入れにあった緑色の箱の中に、母が整理してくれていた絵の順番の関係から、これはおそらくこの子の小一の時の作品ですね。
結局、あれですよね、三原色や補色の関係も学んでいない訳ですから、この子はただ天然で自然に描いているだけな訳ですよね。
それであれば、この子は色にすでに反応していますね。
この配色の取り合わせは、普通なかなかもってこないです。
ましてや当時のあの粗末な画材で、おそらくクラスの誰もが水彩の12色セットだったと思いますが、まあ色は少ない方が覚えるのですが、それはまだもう少し大きくなってからの先の話で、混色させながら、よくこの配色をもってきているな。
そして、半世紀以上も経ってから取り出されたにしては、色落ちや紙の焼けもなく、絵の保存状態が大変よいですね。
しかしそれにしても実に不思議な絵ですね。
これはあれでしょうか、みんなで縄跳びでもしているのでしょうか。
まず、構図が非常に特異ですね。
左下の「わ田」の隅のところがあいて間が抜けるので、よく上半身の男の子を入れてきたな。
ここの上半身だけがポイントです。
絵を観ている人の視線なり意識が、ストンと紙の下 (枠外) に落ちますから。
右下の男の子の右半身を少し切ってきているのも効いています。
そのため、パッと一目観た時には、誰もがまずは右上の緑色の男の子に目がいくと思うのですが、そのあとに右下から二人目の黄色の服を着た男の子に移って、さらに後ろ向きの唯一の女の子の方に視点が流れる構成になっています。
この子は、きっとこの女の子が好きか、少なくとも気にはなっていたんだろうな、だから男の子の心理で後ろ向き。
そして、それでもまだ恥ずかしいので、まわりの男の子みんなが、この女の子を好きなみたいな構図に無意識のうちにしている。
ごまかせないぞ、画家の眼は (笑)。
それからこの人間の全面を緑色で塗るというような、面積 (区画) で割って塗ってくるという考えを、この子はどこから思いついたのだろう。
普通、子どもでしたら、上着は何色、半ズボンは何色と、まずは決めてかかってから塗るのではないでしょうか。
結果として、とてもモダンな絵になっていますね。
61才の僕は、7才のこの子と、ちょっとだけでも話がしてみたいのですが、母もほとほと困りはてていましたが、この子はいったん外に逃したら最後、暗くなるまで外を駆け回っていて、捕まえるのはもう並大抵なことではありませんでしたので、この子と会話の機会を得ることは、実際にはかなり難しいように思います。
まあそうは言いましても、阪神タイガースの田淵さんのベースボールカードでも持っていれば、すぐにでもなんなく捕まえられますが (笑)。
(その4に続く)
2024年5月27日
和田 健

Ken WADA, My Plant Drawing from Elementary School Days, India ink and pencil on paper
和田 健、小学校時代の僕の植物のデッサン、紙に墨、鉛筆、21.3×15.0 in. (54.0×38.0 cm)
(その1から続く)
いいなあ〜、この子のデッサン。
この子は、これはなにを使って墨で描いているのだろうか、なにか割り箸か、母から使い古した菜箸でももらったのだろうか。
なかなかここまで小学生が、まるで歯ぎしりでもするみたいに、神経質にぎしぎし、ガシガシと、硬質に線を「散らせ」ないでしょう、線を「飛ばせ」ないでしょう。
とげとげしくて、痛々しくてまるでなにか有刺鉄線みたいだ。
普通、どうなんでしょう、子どもだったら、もう少し楕円形の葉っぱだとか、よくあるわかりやすい形をイメージして描くのではないだろうか。
または絵のうまい子でしたら、いかにも美術部ですというような、均整のとれたサラサラっとした感じのデッサンであったり。
おそらくこの子は、そのようなイメージが、いかにも嘘くさくて嫌だったんだろうな。
このデッサンの中に、この子の素直さと同時に、ある種の反骨心のようなものを感じます。
たどたどしいけれども、対象をよく観て無心で描こうとしているなあ。
結果として、ある意味子どもらしくないデッサンになっていますね。
思わずニューヨークでたくさん観た Ellsworth Kelly の植物のドローイングを咄嗟に思い出しました。
まわりの大人が、せめてたった一人でもよいから、日頃の図画工作の成績などには関係なく、この子の中に眠っている資質を見抜いて、「君は将来絵の勉強をして、本格的に絵を描いてみたらどう?」と言ってあげてもよかったかもしれませんね。
と言いますのは、いい加減なことを言っているのではなく、僕でしたらこの子に「おじさんが絵の基礎基本だけきちんと教えてあげるから、少しだけでも始めてみたら」と言ってあげたいと思うからです。
でもこの子はきっと「おじさん、僕は今とっても忙しいんだよ。これからやまぶき公園 (実在した公園です) にみんなで集まって野球の試合をするんだからね。絵を教えたいんだったら他の子にきいてね、上手い子がたくさんいるから」と言ってバットとグローブを持って一目散に駆け出して行ったことでしょう。
走り去って行くその後ろ姿がまるで目に浮かぶようです。
(その3へ続く)
2024年5月25日
和田 健

Ken WADA, My Prints from Elementary School Days
和田 健、小学校時代の僕の版画作品、20.5×14.2 in. (52.0×36.0 cm)
いやもう、これはちょっと驚いたなんてものではありません。
はっきり言うて (というのは阪神タイガースの岡田監督の口癖です)、そりゃもう、びっくりしたわ。
先日、押し入れの中を整理していたら、母が緑色の箱の中に僕の幼稚園時代、小学校時代の絵画を大量に保管していてくれて、それらが一度にどっと出てきたのです。
そして、僕は今月61才になりましたので、それらの作品と半世紀以上ぶりの「ご対面」となりました。
いや〜、これには本当に驚きました、どうぞ僕の気持ちもちょっと察してあげてください。
母は、毎日外を駆けずり回って遊んでいる僕の例えばですが、幼い頃の野球帽ですとか、最初に使った小さなグローブですとか、そういうものを記念にとっておいてくれたのならまだわかるのですが、なぜ僕の絵を保管しておいてくれたのだろう?
僕は幼い頃から絵を誰かに褒められたりしたとか、認められたりしたとかいう記憶は、ほとんどありません。
現在は高齢になり、体調を崩して寝た切りになった母の在宅での介護をしておりますので、もうちょっと今となっては、大変残念ながらその理由を母に訊けませんね。
さて、上の写真ですが、僕の小学校時代の版画作品です。
大変申し訳ありませんが、まったく本人に記憶がありません (笑)。
したがいまして、もし母がこれを残しておいてくれなかったら、まったくわからなくなってしまった訳ですよね。
母に感謝です、そして、先日のこの押し入れの「一件」と言うよりかは、押し入れの「事件」とでも思わず個人的には呼びたくなるような出来事以来、自分史とでも言いますか、人生の摩訶不思議さについてとても考えさせられました。
え〜と、この版画を制作した子ですが、まあそれはもちろん僕のことなのですが、なにかあまりにもタイムスリップしてしまい、61才の初老の男が、50年以上前のまったく知らない子に、かなりの距離をおいて、第三者としての立場から客観的に話しかけるという感じに、ここはどうしてもなってしまうのですが・・・、
①この子は、まず集中力がありますね、一目観てぱっとそう思いました。
現役の画家が言っているのですから、一応、間違いありません (笑)。
集中力だけは教えられませんから、それはないよりはあった方がいいです。
これは野球で言えば、足が速くて、肩が強いことに相当します。
これだけは教えられませんので、劣っている場合はどうするかと言いますと、繰り返し鍛えて平均的なレベルにまでなんとかもっていき、チームに穴をあけないようにする訳です。
②この子は、余計なものを削ぎ落として、モデルの中のなにかを探り出そう、なにかの真実を子供なりに見つけ出そうとしていますね、これも観てぱっとそう思いました。
そう言えば、この子は、テレビドラマで女優さんが泣いていると、よくテレビの前で「この女優さんの涙は本物か嘘か!」と決まってテレビに向かって大きな声で言う変わった子でした。
③この子は、シンメトリーですね、左右対称の面白さにすでに気づいていて、かなり神経質なまでにそれに引き込まれていますね。
でもまあこの話は、実はそれだけでは終わらなかったんです (笑)。
(その2に続く)
2024年5月23日
和田 健

さて、東京に引っ越して来て、世田谷区立北沢中学校に入学すると、最初は、田舎から来たからとか、顔が変だからとかで、からかわれいじめられました。
別に不登校になったりとかはありませんでしたが、それでも容姿のことは、このことから、その後も長い間コンプレックスになって残りました。
中学校に入ると、当たり前のように野球部に入部しました。
入部して間もなく、三年生が春の世田谷区大会で優勝されて、その決勝戦を見学して強烈な印象を受け、同時に大きな憧れを抱きましたが、あまりにも新入部員の僕とは立場が違い過ぎて、三年生と親しくお話しできるという感じは、当時は全くありませんでした。
そして、三年間顧問だった恩師のY先生に見出され、中学校に入ってから初めてピッチャーを始めました。
中一の夏休みの野球部の練習は羽根木公園の野球場であり、その成果を試すために初登板初先発した町田市立南中学校で行われた練習試合のことは、今でもよく覚えています。
8月24日のものすごく暑い日で、3対2で完投して勝つことができて、試合後、水飲み場のところで、一学年上のキャッチャーだったWさんが「お前、絶対にレギュラーになれる!」と言ってくださったことが懐かしいです。
「なんだか暑いな暑いな」と思いながら投げていて、家に帰って夕刊を見たら当時としては記録的な37℃だったことを今でもよく覚えています。
ただし、その後はストライクが入らなくなり、ずいぶん僕も苦しみ、チームにもだいぶ迷惑をかけました。
当時は、一学年上のエースだったAさんが、とにかくみんなが唖然とするくらいとんでもなく速い球を投げていて、ピッチングのことをいろいろとたくさん教えていただいて、本当に心からお世話になりました。
同学年では、サードのNくんやショートのWくんが上手くて、一年生の秋からもうしっかりとレギュラーになりました。
ようやく、中二の新人戦が始まる直前の練習試合の頃から、ピッチングフォームを少しサイドスロー気味に変えたところ、ポンポンと面白いようにストライクが取れるようになり、秋の新人戦では、一回戦教育大附属駒場中に5回コールド7対0で勝って波に乗り、二回戦玉川中に6対0、準々決勝上祖師谷中に5回コールド8対1、準決勝で駒場東邦中学校に4対0で勝って、世田谷区の決勝戦まで勝ち進みました。
準決勝までの4試合で、失点は1点のみでした。
決勝では芦花中学校に負けましたが、僕の学年はとにかく芦花中学校が一番強かったです。
もちろん全試合完投しましたが、それが当たり前の時代でした。
当時の世田谷区の中学校の野球大会は、参加校が多くて、区立と私立、国立の中学校を合わせて32学校でしたか、33学校でしたか参加していて、5回勝たないと優勝できませんでした。
そのため、世田谷区だけ特別に2校、秋の新人戦の都大会に進めて、4番のMくんの逆転満塁ホームランで武蔵村山市立第一中に一回戦を6対4で勝って、青梅市立第三中との二回戦は2回までに6点とられ、後半1点ずつ追い上げたのですが、序盤の失点が大きく響き、追撃も及ばず4対6で負けました。
後輩のTくんがつけてくれていたこの試合のスコアブックが今でも残っていて、僕は148球も投げていたのですね。
これは今でしたら、中学生としてはちょっと多い球数ですが、当時は特に疲れなどはありませんでした。
(高二の夏に城西高校との練習試合で、180球投げた時には、さすがに最後、足にきていましたが(笑))
当時の都大会の会場は、上井草グラウンドでした。
世田谷区大会と都大会を合わせて、この秋の僕の打率はちょうど5割でした。
またこの秋には、最終回の2アウトまでが1回、最終回の1アウトまでが1回と、2回ノーヒット・ノーランのチャンスがありましたが、どちらも最後に打たれて達成できませんでした。
さて、上の写真ですが、この日もかなり暑い日で、とてもよく覚えています。
母が観に来てくれた前日の池尻中学校との夏の大会の一回戦を3対0で完封して迎えた二回戦のこの日、みんなで懸命に頑張りましたが、相手の駒留中学校の圧力のようなものがすごくて、点の取り合いのような感じになりましたが、僕のピッチングも踏ん張り切れず、押し出されるような形で、結局、この試合が中学校生活最後の試合になりました。
駒留中学校は、この試合の一、二年生で、秋の新人戦で都大会で優勝しましたので、やはり相当強かったのだと思います。
よく練習はしていましたが、たいしたピッチャーでもなかった僕を、いつも必死に守って盛り立ててくれたキャッチャーのTくん、ファーストのMくん、セカンドのKくんとTくん、サードのNくん、ショートのWくん、レフトのIくん、センターのTくん、ライトのYくん、それから当時はものすごく部員数が多くて、ベンチで応援してくれた3年生の部員には感謝しかありません。
僕は勉強も頑張っていて、中三の9月の実力テストで、初めて学年で一番になりました。
10月の実力テストでは学年で二番でした。
得意だった科目は数学で、中二の時に一月期の中間、期末、二学期の中間、期末、三学期の期末兼実力テストで五回連続100点を取り、中二の時は数学は一問も間違えませんでした。
そう言えば、中二の芦花中学校との決勝戦の日は、ちょうど二学期の中間テストの数学の当日だったことを、午前中に試験を終えて、その日の午後に投げたことを今突然思い出しました (笑)。
野球部を引退した後の中三の頃は、テストの時は、よく午前3時ごろまで勉強していたことを思い出します。
また、それまでは将来は高校野球の指導者になろうと考えていたのですが、北沢中学校で恩師のY先生に出会えたことで、高校野球はやはりセレクションを開催したり、スカウトして集めてくる選手によって結果が大きく違ってくるし、それであれば中学校は学区から集まる子供たちだけでお互いに試合をするので、その方がフェアだなと思い、将来はY先生のように中学校の先生になって、中学校の野球部の監督になろうと決めたのもこの頃です。
さてこの後、僕は当時有数の進学校だった東京都立戸山高校に進学し、野球 (ピッチャー) を続けますが、そこではやることなすことなにもかもが上手くいかず、苦闘と暗黒のまるで茨の道のような、青春などと言う言葉とはまるで無縁の三年間が始まります。
やはり今思い出しても、この三年間が僕の十代で一番苦しかったですが、よく自分を笑わずに最後まで頑張りました。
大学を卒業後は、公立中学校の教員になり、科目まで恩師のY先生と同じ理科でしたが、体を壊して教師を断念するまでの15年間、中学校の野球部の監督として、土日祭日などはなく生徒たちと共に野球に全力で打ち込みました。
そこまでが、僕の第一の人生で、その後、39才でゼロから絵を始めて今日に至るまでが、僕の第二の人生です。
2024年5月9日
和田 健

1975(昭和50)年春、ソフトボール部練習試合風景、松戸市立常盤平第二小学校グラウンド、小学校六年、手前の背番号1番はエースのNくん

さて六年生になり、今度はソフトボール部のファーストのレギュラーになり、背番号3をもらいました。
この時、キャプテンだったのが背番号4のSくんで、ポジションは僕の隣のセカンドでした。
僕の野球人生で、結局、このSくんが、守備が一番上手かったです。
とにかくグローブさばきが、ずば抜けていて、体は小さくて細かったのですが、ヒラヒラとグローブを舞わせながら、バウンドのタイミングを合わせて捕ってしまう。
このSくんのプレーをいつも真横で見ていたので、その後の野球人生で出会った誰の守備を見ても、それほど上手いなと思わなくなりました。
一度、練習中にSくんが「ケン、もっと(一塁)ベースに詰めておかないと抜かれるぞ」とセカンドから声をかけてきたのですが、僕は一塁ベースまでの距離を見て、そんなにあいていないし、「ふん、こんなところをそんなに簡単に抜かれるか」と思ったのですが、その直後に、バッターの打った打球が飛んで来て、僕と一塁ベースの間をパッと抜かれました。
Sくんが近づいて来て「ほらっ」って言ったのが、まるで昨日のことのように思い出されます。
あの時、子供心にもSくんにはつくづくかなわないなと思いました。
野球を本当によく知っているんだなあと。
外野手のTくんやSくんも、すごく上手かったです。
結局、この年の大会も常盤平第三小学校や、まだ当時開校したばかりの牧野原小学校には勝ったのですが、隣の常盤平第一小学校に負けました。
負けた後、Sくんが「今朝、せっかくおいなりさん食べてきたのになあ」と言っていたのをよく覚えています。
今の若い人たちには、なにを言っているのか意味がわからないと思いますが、おいなりさんは当時、ご馳走でしたので普段は食べられず、今日は特別の日でしたので、せっかく朝からおいしいものを食べて、しっかりと栄養をつけてきたのになあ、くらいの意味です。
六年生の時には、スポーツテストでしたか、体力テストでしたか、正式な名前はもう忘れてしまいましたが、僕はソフトボール投げで61m投げて特級になり、松戸市から認定証のようなものをもらったことを覚えています。
この記録は今の子供たちに比べて、どのようなものなのでしょうか?
それから僕は、クラブ活動でサッカークラブにも入っていて、ポジションは左のサイドバックでレギュラーで大会にも出ました。
僕の学年で、ソフトボールとサッカーとどちらも学校代表で出場したのは、たしか僕一人ではなかったかなと思います。
この大会では、今ではもうはっきりとそのプレーの内容を覚えていないのですが、僕のちょっとしたミスで自殺点のような形で相手に得点を与えてしまい、試合後、みんなに申し訳なくて、ベンチで一人で泣いていたことを思い出します。
まだオウンゴールなどという言葉のない時代でした。
その時、当時まだ新卒だった指導者のT先生がそばに来られて「和田はよくやったぞ」と励ましてくださいました。
この先生は高校生の頃、エースストライカーとしてお正月の国立競技場の全国大会にも出たすごい方でした。
それから、僕は松戸市の陸上競技大会にも、走り幅跳びで出場しました。
そんな感じで、スポーツに明け暮れ、授業中クラスではいつも面白いことを言ってみんなを笑わせていた割には、女の子にはさっぱりモテず、また僕自身もあまり関心がなく、そんなことよりは男の子でたくさん集まっていつもわいわい遊んでいました。
当時の愛読書はなんと言っても、ちばあきおさんの「キャプテン」で、谷口くんやイガラシくんに憧れ、よし中学校へ行ったら、墨谷二中のようにやるぞ〜とか、本気で思っていました。
「トムソーヤの冒険」や「ヴィーチャと学校友だち」も愛読書で、今思えば要するに男の子たちの世界の話が好きで、何度も何度も繰り返して読んでいました。
それから、五年生、六年生の時に同じクラスだったAくんの影響で、大和球士さんの本をよく読むようになり、プロ野球ならぬ職業野球黎明期の方たち、若林さんとか、景浦さんとか、松木さん、苅田さん、水原さん、三原さん、千葉さん、川上さん、吉原さんなど、とにかくどんどん昔の方たちの逸話を吸収していきました。
当時の僕にとっては、小学校四年生の時の昭和48年の江川さんが表紙だったアサヒグラフの夏の甲子園の特集号 (今も大切に持っています) に、カラーの一面広告が載っていたローリングスのグローブが夢のまた夢で、ためつすがめつそのページを眺めては、いつか欲しいなとため息をつき、下町の南千住にあった東京球場にロッテオリオンズの試合を観に、父が二十回か三十回は連れて行ってくれたのが、もう球場に入るとパッと照明が明るくて、まるで夢の舞台のようで、あの頃のパリーグの試合をたくさん観ました。

今の若い人たちにはまったく信じられないでしょうけれども、あの頃のパリーグの試合では観客が500人とか、そのくらいのことがよくあり、東映には張本さんとか白さんとかすごくこわい人がいて、この人たちはいったいなにをしに球場へ来ているんだろうなと思い、子供心にも張本さんはまったく守る気がなく、南海にはもちろん野村さんがいて、内野ゴロを打つと一塁まで全力疾走なされず、ロッテオリオンズは監督は濃人さんで、小山さん、木樽さん、成田さんの投手三本柱がフル回転していて、僕はセンターの池辺さんのファンで、オリオンズの帽子の横に黒い34の縫い取りを母にしてもらい、でもとにかくアルトマンがすごかったなあ。
チームでは、西本監督の阪急がなんと言っても強かった。
セリーグでは、村山さん、江夏さん、田淵さんの阪神タイガースのファンで、もうなんとかしてとにかく強い巨人をやっつけようぜという感じでしたが、こちらは球場ではなくテレビ中継を通しての熱烈な応援でした。
それから元旦のサッカーの天皇杯の決勝に父が国立競技場まで何度か連れて行ってくれて、ヤンマーディーゼルの釜本さんは負けると、表彰式で首にかけてもらった銀メダルを、その場ではずして短パンのポケットにすぐに入れてしまって、観ているまわりの大人がお決まりのように「釜本、ちゃんとかけろ!」とそれを野次る、そんな時代でした。
なんだか昭和感満載になってしまいましたが、僕はこの後、生まれ育った思い出の地を離れ、常盤平第二小学校を卒業した春休みに、東京都世田谷区代田に家族で引っ越し、世田谷区立北沢中学校に入学します。
(その3に続く)
2024年5月7日
和田 健


1974(昭和49)年5月5日、ソフトボール部練習風景その1、その2、松戸市立常盤平第二小学校校庭、小学校五年
2008年にこのサイトを始めて以来、これまで16年間一度も書きませんでしたが、僕は、小学校中学校高校大学とずっと野球部でした。
大学では、それまでの真剣な感じの野球とは違い、半分趣味のようなサークル活動でしたが、幸いよいメンバーにも恵まれ、まだできたばかりのサークルでしたので、自分たちで他大学との新しいリーグ戦を立ち上げたりと楽しかったです。
野球は幼稚園の年長組の時に、まったく野球経験のない父と二人で始め、松戸市立常盤平第二小学校五年生の時に、五年生から入れる学校のソフトボール部に入りました。
松戸市内の小学校は当時はソフトボールが盛んで、軟式野球のチームはなく、ましてや今のようにやれリトルだ、シニアだ、ボーイズだなどはまったくなく、野球をやりたければ、誰でもそれはイコール、ソフトボールをやるというのが当たり前という感じでした。
今となっては、どうしていきなりサードを守ることになったのか、もうちょっと思い出せないのですが、とにかく僕の野球のスタートはサードでした。
ソフトボールは塁間が短いため、ましてやサードですから、ピッチャーの次にバッターに近いため、最初は先生のノックのボールがなかなか捕れず、守備が下手でした。
父と団地の家の近くの「はなみずき公園」に行き、至近距離からノックをしてもらい、何度も何度も守備の練習をしました。
その時、塁間よりも距離をやや短くして練習したことをよく覚えています。
特訓の甲斐があって、五年生の後半から少しずつゴロが捕れるようになりましたが、五年生の時はレギュラーにはなれず、六年生の選手の控えのサードでした。
それでも僕の守備は、この五年生の時に、だいぶ上達したように思います。
それから、とにかく目の前のゴロを捕るのにもう必死で、ずいぶん集中力もついたように思います。
僕の父は、大変な子煩悩で、日本橋の会社から当時は半ドンと呼んでいましたが、土曜日の午後に帰ってくると、土曜日の午後全部と、日曜日は一日全部、僕と野球やサッカーをしたり、姉とバドミントンをしたりしてくれました。
そのパターンは完全に決まっていて、土曜日の午後は上記しましたようにスポーツ、日曜日の午前は僕は8時から書道教室に通い、父は姉に勉強を教える、僕が帰宅した後の午前中は父と将棋を指し、日曜日の午後はまたスポーツで、これが雨でも降らなければ一年中続けられましたので、僕が野球やサッカーができるようになり、今日に至るまで毎日運動する習慣が身についたのは、これはもう完全に父のお陰です。
今思い出しても、例えば平日の仕事で今日は疲れているので少し休みたいとか、僕が思うことはあっても、父がそのように言い出すことはなく、父が土日は子供たちと一緒に運動し体を動かしたいという熱意と言いますか、体力と言いますか、ちょっとこれは驚異的だったなと思います。
父は祖父の転勤で家族と過ごした戦時中の和歌山県新宮時代に、米軍の空襲で左肘を貫通する重症を負い、左腕の腕力や握力があまりなかったものですから、運動経験がありませんでした。
運動が得意ではなかったのに、子供たちと一緒になって遊んでくれたその子煩悩ぶりは、おそらく当時、近所でもかなり有名だったのではないでしょうか。
さて、上の写真ですが、あれから今日でちょうど50年になるのですね、なんと半世紀です!
隣のショートを守っているのが、一学年上のKさんでキャプテンでした。
結局、小中高大と僕の野球人生を通じて、このKさんがNo.1のキャプテンでした。
素晴らしい統率力と言いますか、キャプテンシーで、守備がずば抜けて上手く、明るくきびきびしていて、声が大きく、いつもスッと姿勢がよかった。
隣のサードの僕がこんなに守れないのに、ダメだとか呆れたりとか、一度も暴言や暴力の類いはありませんでした。
いつも「ケン、ケン」って言って声をかけてくださいました。
Kさんからしてみれば、「こいつは守れないけれど、まだこんなんだから、まあ一生懸命にやっているし、しょうがないか」という感じだったのでしょうか。
それからエースだった六年生のAさんに、とても仲よくしてもらいました。
なにしろ、常盤平団地の四階に僕の家があったのですが、Aさんの家はその真下の三階でしたので、一学年先輩でしたがもう本当にいつも遊んでもらって、野球もたくさん教えてもらい、生まれた時からまるで幼なじみのようにして育ちました。
結局、この年の大会は隣の常盤平第一小学校に負けました。
小雨まじりの中、負けた試合後の先生との最後のミーティングを、先輩たちと聞いていたことをよく覚えています。
男の子の世界ですから、あの先輩は泣くかとか、ああやっぱり負けた時でも泣かないんだなとか、そんなことを気にしていたように思います。
その試合で、常盤平第一小学校のエースで投げていた六年生の方がWさんで、のちに阪神タイガースの監督にまでなりました。
僕も一打席だけ練習試合でWさんと対戦させていただきましたが、三振した記憶があります。
僕が小学校六年生の時に、常盤平第二小学校の五学年先輩のSさんが、まだ高校二年生でしたが夏の甲子園の決勝戦でサヨナラヒットを打って全国優勝されて、当然のことながら男の子たちの大英雄になり、当時の松戸市のソフトボールのレベルは相当高く、上手い子がたくさんいて、僕などは全然という感じだったように思います。
僕は「野球スコアのつけ方」という本を買って来て自分で勉強して、小学校四年生の時にはスコアブックをつけられるようになっていましたので、今でもこの小学校六年生の時の決勝戦のスコアが残っています。
また、小学校四年生の時に夏の甲子園の決勝戦をテレビで観ていて、広島商業の大利選手が最後代打で出てきて、サヨナラスクイズを決めて静岡高校に3対2で勝った瞬間に、雷に打たれたような衝撃を受け、ここがすごく摩訶不思議なところなのですけれども、将来は選手として甲子園を目指すのではなく、絶対に高校野球の指導者になろうと決心したのでした。
今はこういう時代ですから、ホームページですぐに常盤平第二小学校の写真とか見れるのですね。
びっくりしてしまいましたが、半世紀前の当時とグラウンドや三階建ての校舎の様子が、ほとんど変わっていないのですね。
外壁の大きな丸時計までが、今でもまったく同じ場所にかけてあって。
現地に行きたいか?いや、行きたくはないです。
現地に行けば、いろいろな思い出がこみ上げてきて、間違いなくすぐに泣くような気がしますから。
今思えば、みんなが同じような狭い間取りの団地住まいで、家族と濃密に接しながら暮らし、生活水準にもこれといったような違いもなく、お金持ちの子供など生まれてから見たこともなく、また特に見たくもなく、いつも男の子同士でたくさん集まっては野原を駆け回り、一年中遊ぶ中で育ってきた、そしてソフトボールを通していろいろな先輩や同級生を知ったことは、今の僕にかなり大きな影響を与えているなと思います。
(その2へ続く)
2024年5月5日
和田 健