Archive for February, 2025

Today’s Plants Photo on February 21, 2025

Posted in Winter Plants 2024-2025 Ichi-Go Ichi-E Collection with tags , , , , , , , , , on 22 February 2025 by kenwada

Winter Plants 2024-2025 Ichi-Go Ichi-E Collection
Look 7
Plants, beehive and acrylic on paper
21.3×21.3 in.

冬の植物 2024-2025年 一期一会コレクション
ルック 7
紙に植物、蜂の巣、アクリル
54.0×54.0 cm

Today’s Drawing Photo on February 19, 2025

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 20 February 2025 by kenwada

Today’s Drawing Photo on February 19, 2025
Acrylic, gouache and colored pencil on canvas, 23.6×28.7 in. (60.0×73.0 cm)

Today’s Drawing Photo on February 13, 2025

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 18 February 2025 by kenwada

Today’s Drawing Photo on February 13, 2025
Acrylic, gouache and colored pencil on canvas, 23.6×28.7 in. (60.0×73.0 cm)

マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その2の番外編 第4巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」から、第6巻「ゲルマントのほう Ⅱ」までー

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , on 16 February 2025 by kenwada

(途中経過その2から続く)

Ken WADA, The bell tower on the square Sainte-Catherine, October 2009
Honfleur, Watercolor on paper, 17.8×12.7cm

「途中経過その2」の番外編です。
番外編なのですから、本当はもう少し無礼講で書きたかったのですが、なんだか書いているうちに、どんどん集中していってしまい・・・、結局、文章ってつくづく書いている本人 (この場合は和田健) のものにしかならないのですね。
まあ、そういう意味では、プルーストの書いている文章は、これはどうしてもプルースト本人にしかならないわけで、プルーストさんの気持ちもほんの少しだけですがわかります (笑)。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。



Round 1、カーン!

「同性愛」

やっぱり、「私」のジルベルトやアルベルチーヌへの恋愛や、ゲルマント公爵夫人への激しいまでの恋い焦がれ、サン=ルーの愛人ラシェルへの恋愛と、恋愛が非常に奇妙だよね、病的だよね、神経症的に変だよね、偏執、固執、かたよった執着のようなものを感じます、はっきり言って。



皆さんはこのような恋愛を本当にしてきましたか?



まあ、スワンのオデットに対する病的なまでの神経症的な恋や、サン=ルーの愛人への嫉妬にのたうち回る恋は大人がしていることなのですから、この際放っておくとして、「私」のジルベルトに対する恋愛の時、語り手である「私」はまだ本当に男の子でしたよね、僕は中学生の時に好きだった女の子のことを、その一点に気持ちを集中して (笑)、久しぶりに思い出してみたのだけれども、やっぱり同じ男として、その一挙手一投足が気になる気持ちはわからないわけではないけれども、わからないでもないけれども、なんて言うのか、男の子って、男の子同士でいたいんですよね。
いくらなんでも、こんなに、「ジルベルト、ジルベルト!」ってならない、そこがなんか変です、特殊。



これは、フランス語で言うところのまさしくガマン (gamin) ですよね。

この年頃の男の子って、女の子のことは恥ずかしくて、いつもなんか気の合う男の子同士で、特にたいした用もないのに、ダラダラと一緒にたむろしているとでも言いますか、こんなに積極的にきびきびと (笑)、女の子に惹かれないのではないでしょうか?

そこが語り手の「私」は変です。
それとも、それはあくまで僕の場合なのかな〜?


問題は、その少し変なところを、さすがに年老いた祖母はわかっている、見抜いているはずであるのに、そこが今一つ書かれていない。

孫が病気であり病弱でもあることを、とても気にして心配しているけれども、孫の性の傾向についての祖母の見解なり杞憂なりが出てこない、書かれていない。

なんで?



まあ、この考え方を深めて進めていきますと、プルースト=「私」には結論として「禁欲」や「ストイック」という観念が少ない、少なくとも決して多くはないのではないでしょうか?

もう少し思春期特有の男の子らしいストイックさがあってもいいんじゃないかなとも思います。


または、こうした思春期や青年期に特徴的なシャイなところであったり、はにかむところであったりと、そうしたいかにも男の子らしいところが書かれていない。

それはなぜか?出自でしょう。

まあなんてきれいな男の子と、具体的には「男の子とは思えないくらいきれい」(2の487) と言われ続けてきた「私」の人生でしょう。

基本的に目当ての女の子に紹介さえしてもらえば、向こうは自分のことを好きになると、「私」はこれはもう完全に思っていますよね。

自らの魅力を決して「私」は疑わないわけです。

そこのところになにか非常に違和感があります。

つまりは、この年代に特有な誰もが多かれ少なかれもつであろうところの劣等感、コンプレックスが書かれていない。



結局ですね、突如として海辺に登場したこの華やかな5、6人のまだうら若い乙女たちは、同性愛者であるプルーストにとっては、ガマンなわけです。

やっぱり、ここのところの不自然さは、それでしか解明できない。

僕は女の子のことまではわかりませんけれども、でも現に女の子側は5、6人でいるわけではないですか。

それで同性愛者であるプルーストにとっては接近できたわけで、オクターヴとかの脇役の男の子がたとえいるにしても。

普通、ずかずかと5、6人の女の子に、男の子が1人で接近できませんよ、いやですよ、そんなの。

第一、まわりの男の子たちからひやかされますよ、からかわれますよ、そんなことをしたらね。

通常であれば、作家として、この場面設定はしてこないと思うのです、これは無理があるよな、不自然だよなと。

それを「イタチまわし」ごっこだとか、思春期になっていやですよ、変。

それが普通にできるということは・・・。



つまりは、僕が言いたいことは、これがもし相手が5、6人の男の子であれば、同性愛者であるプルーストにとっては、僕にとって相手が5、6人の女の子である場合と同じでハードルが高かったわけで、相手が5、6人の女子であったがために、プルーストにとっては、ハードルが低かった、少なくともそれほど高くはなかったのではないでしょうか、ということです。



ただしですね、もし仮にそうであるとしますと、これは同性愛者でないとわからない、いろいろな微妙な細部が理解できない小説ということになってしまいますよね?

そこのところを専門の研究者は、現在、どのように考えて捉えているのだろう?

つまりは、「同性愛者でない人がプルーストの作品を読んで理解できる限界点は、大体このあたりのところですよ」というような見解についてです。

2027年で最終篇が出版されてから、ちょうど100年になりますので、この問題についての専門家の見解についてぜひ学びたいです。


Round 2、カーン!「絵画と彫刻」

このプルーストという人は、もうここまで絵画や彫刻に造詣が深いと言うか、ちょっと尋常ではないこのレベルまでいくと、そこから逆に、文章というものの多面性について、その危険性をも含めて、おそらく十二分に理解していたのではないでしょうか。


「失われた時を求めて」は、これはもうほとんどある意味、美術解説書ですよね?

最初、なんでスワンが、僕は少しイライラしましたが、いちいち絵画上の誰それの人物に似ているとか、当てはめてくるのか、今や、よ〜くわかりました (笑)。


プルーストは、文章を書いている時に自らが損われていくような欠損の感覚を覚えて、おそらくは、無意識的にか、意識したうえでかまではわかりませんけれども、絵画、絵画、絵画と、なにか心の中のバランスを補い、必死にとろうとしているのではないでしょうか。

と言いますのは、とにもかくにもこんなに絵画作品が出てくる小説って他にないですよね、なにか異様です。
まあ、常識的に考えて、ここは意識したうえでしょうね、これだけ絵画を登場させておいて、「あれ?そう言えば、ずいぶん出てきているな」と、無意識ゆえにあとあと気づくというのは、ちょっといくらなんでも考えにくいですから。
ああ、でも僕が今読んでいるのは、これまでにないくらい常識にとらわれない極めて特異であり異端な方の作品なのでしたね。

最初は、この人一流の見せびらかしのようなものかもと思ったのですが、つまりは教養のですね、でも、そうではない、絵画や彫刻への、すなわち芸術作品への飢えを感じるのです、これには。

つまりは、文学をやっていて、それで亡くなったけれども、そうではなくて、小説の一場面を絵画や彫刻として観ることへの偏向であったりとか、なにかそういうものを感じませんか?

制作者側の立場や視点からみて、すごく感じませんか?
そのため、絵画や彫刻を随時挿入していかないと、なにかやっていけなかったような渇望を感じませんか?


結論として、僕の言いたいことは、この人はなにか自分の書いた文章を一幅の魅力的な絵として愛していませんか、ということです。
さらに言うのなら、この人は自らの記憶なり心象風景なりを絵画として心の奥底の額縁の中にとどめ、それらの中から最も美しいものを手元に引き寄せてはありありと眺めることに、なにか心理的な興奮を、おそらくは性的な快感を覚えている感じがいたします。

Round 3、カーン!「様々な恋愛」

第3ラウンドは非常にシンプルです、それはこれからの課題だからです。
なぜプルーストは、これだけの様々な恋愛の組み合わせを作品の中に、小説全体の構成として取り入れたのであろうか?
ここは大事です、直感的に。

その方が、より総合的な美が高まると判断したのであろうか?
ただし、その反面、話が複雑に込み入ってわかりにくくなることは自明であり、読者の集中力は分散します、当然。

もしこれが仮に一つや二つ程度の恋愛であれば、読者は「二人の恋愛は、このあとどうなるんだろう?」と、俄然、興味をもって話の筋を追いかけやすくなりますよね。

なにゆえ、プルーストは、各々が独立した形の様々な、でもそれでいてそれらのすべてが、プルーストゆえの病的なまでの神経症的な恋愛をこの作品の中に持ちこんだのか、その必要性はプルーストにとっていったいどこにあったのであろうか?

Round 4、カーン!「神や信仰の不在」

第6巻までを読んできて、すごく気になることは、なんて言うのか、教会の場面やその描写については散見されるけれども、総じて神や信仰の問題が書かれていない。
もちろん、別に書かれていなくてもなにも構わないわけですが、そのために、人知を越えたもの、人為の及ばないものに対する「私」のおそれが感じられない。
おそれおののく震えのようなものは感じられない。

この作品の中には、もうそれこそいたるところに美が満ちあふれている感じがいたしますし、教会の外観や内部の装飾であったり、教会で出会ったゲルマント公爵夫人については詳しく語られ、究極なまでに美意識の高い作品であると思いますが、神や信仰の問題そのものにつきましては、なにも触れられていない。

え〜と、僕はフランスに7年間住んでいましたので、彼の国の人々の生活が少しはわかるのですが、日曜日になれば多くの家庭において教会に礼拝に出かけますので、その習慣の積み重ねと、プルーストの記述にはなにか乖離があるように感じられるのです。
以下のような記述にも、具体的にそのことが感じられます。
「いかにも偽善者然とした主任司祭や猫をかぶった聴罪司祭といったタイプ」(5の359)、
「聖職者には、精神科医と同じで、つねにどこかしら予審判事めいたところがある。」(6の366)

作者はプルーストであり、もちろんプルーストの記述によって語り手である「私」の行動が決定していきますので、読者である僕にとっては、「私」が別に誰とどのような恋愛をしようと、一読者として物語のあとを追っていくしかないわけですが、「私はヨセフにもなりパロにもなって自分の夢の解釈をはじめた」(3の435) にみられるように、幼少の頃より当然のごとくその物語である旧約聖書にはかなり親しんでいるはずであるのに、プルーストの記述の中には「そのような女性関係を絶え間なく続けていたら、今にきっとヨセフのように穴に落ちるよ」というような予見であり、「私」に対するいたわりが感じられない、誰とどのような恋愛をしようと勝手だろ、こわいものなんかないっていうなにか野放図な感じがする。

例えば、ジルベルトに対しても、アルべルチーヌに対しても、もう愛してなんかいなくなくなる、無関心になる、つまりは「私」の変わり身がいくらなんでも少し早過ぎる感じがする。
具体的にはですね、具体例を示すことは非常に大切ですよね、ジルベルトに対しては、「それから二年後、祖母とともにバルベックに発ったとき、私はジルベルトにはほぼ完全に無関心になっていた。」(4の25) とあり、また、アルベルチーヌに対しては、この引用はすでに2025年2月7日から読み始めている次の第7巻からになってしまいますが、「私は、もはやアルベルチーヌを愛してはいなかったばかりか、・・・(中略) ずいぶん前から私がアルベルチーヌにすっかり無関心になっていたことは疑いようもない。」(7の44) とあります、ここのところ。

それともこれはあれなのでしょうか、僕の書いていることは「失われた時を求めて」の言わばライブ中継版のようなものですので、僕の杞憂に対して、このあとの展開で劇的などんでん返しが待っているのでしょうか?

Round 5、最終ラウンド、カーン!「「私」自身の魅力の希薄さ」

これにつきましても、このあとの展開におけるどんでん返し系なのでしょうか?
え〜と、第6巻までを読んできて、この点はすごく気になりました。
結局、あれですよね、ここで改めて念のために一度再確認いたしますが、語り手である「私」は、この物語の主人公であると言ってよいですよね、これには特に異論もないように思います。
それであれば、これは極めて異様な事態で、「私」の目を通して語られ描写される、例えばですが、祖母はあまりにも当たり前過ぎて割愛するにしても、レオニ叔母 (正確には大叔母)、アドルフ大叔父、フランソワーズ、スワン、オデット、サン=ルー・・・・などなど、もうそれこそ書き切れませんが、例えば、バルベックで出会った乙女たちの一人アンドレにいたるまで、まあそれなりに、皆さん実にいきいきと活写され、新鮮で生気に満ちあふれていますが、肝心要の主人公の「私」は前に出てきているようで、実はそれほどでもないように思うのです。
つまりは、主役よりも脇役たちが前面に出てきているとでもいうような。

結局、これはどうしてなのかについて考えていきますと、「私」は仕事をなかなか始められないでいますよね、祖母もその点をすごく心配して、いつも気にかけてくれていますよね。
でも、その箇所が案外さらっと流されていて、なかなか書き始められないでいる「私」の日々の苦悩であり、焦燥であり、はたまた狂乱であったりと、そこの部分の掘り下げがない、書かれていない、この部分に端的な原因があるように僕は思うのですが、どうなのでしょうか?

そうした日々の葛藤には、さほど焦点が当てられないままに、海辺で出会った5、6人の乙女たちに夢中になったり、ゲルマント公爵夫人を追いかけ回して路上で待ち伏せしているような「私」(しかしそれにしましても、この主人公は待ち伏せが好きですね) に、一読者として感情移入したり共感したりすることには、多少無理があるように思うのですが、でもそのようなこと (というのは主人公の魅力の希薄さ、乏しさについて) は、全体構成の大家であり巨匠でもあるプルーストは当然のごとく考慮に入れているでしょうから、これはやっぱりあれなのかな〜、プルーストは故意に「私」の魅力を引き延ばしている、意図的にそこの部分を続編へと引っ張っているだけなのかもしれないな、その可能性は確かに少なからずあると思うな、というあたりで番外編を終わりにいたします。

(途中経過その3に続く)


2025年2月16日

和田 健

第7巻から第9巻までの「途中経過その3」は、僕の眼の状態にもよりますが、大体2025年5月下旬ごろを予定しております。

「途中経過その1」
https://kenwada2.com/2024/11/20/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め/
「途中経過その2」
https://kenwada2.com/2025/02/14/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-2/

マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その2 第4巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」から、第6巻「ゲルマントのほう Ⅱ」までー

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , on 14 February 2025 by kenwada

(途中経過その1から続く)

Ken WADA, The sea of Normandy 3, 2009
Gouville sur mer, Manche, Watercolor on paper, 31.8×41.0cm

(ここまで読んでもまだ半分までも来ていないのか、え〜と、僕は以前市民ランナーとしてフルマラソン42.195kmを (日本の市民ランナーのレベルは異常に高いですので) そのタイムは論外といたしましても、とにもかくにも2回完走したことがあるのですが、その時の経験からしますと、この「失われた時を求めて」全14巻読破をフルマラソンに例えると軽く10回分くらいはありますね、すなわち421.95km、ということは、えー、僕はまだ現在180kmくらいの地点を走っているのかな?)

マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) の第4巻を、2024年11月14日に読み始め、その第6巻までを、2025年1月30日に読み終わりました。

この第4巻から物語の舞台はやや唐突にノルマンディーの保養地バルベック (1の289の注にありますが、カブールがそのモデルなのですね) に移ります。
ノルマンディーの海、とても懐かしいです。
フランス時代に、ル・アーブルやオンフルール、ドーヴィル、カーンなどに行きました。
なんと言っても舞台が海辺のリゾートホテルですから、華やかな若い女の子もぞろぞろ?登場してきますし、まあ、あくまでそこの部分だけを切り取れば、第4巻は確かに美しいです。

ちなみに、ノルマンディーに隣接する僕の大好きなマンシュ県もルグランダンの台詞の中にほんの少しだけですが出てきます。
「私がかような大気中の植物界についてここより多彩な観察ができましたのは、マンシュ県の、ノルマンディーとブルターニュの中間あたりです。・・・・」(1の288)

さて、この唐突な場面設定についてですが、以下でも改めて触れますが、プルーストは物語の全体を構成してくる能力が極めて高いですね。
プルーストが1922年に亡くなった時点では、この岩波文庫版で言えば、第10巻以降の部分がまだ出版されていなかったことを考え合わせますと、その傑出した特異な能力が改めて伝わってきます。
もちろん、偉大な小説家であるわけですが、なにかこう小説家というよりも、なんて言うのか、偉大な彫刻家であり建築家であるとでも言うか、一読するとまるで好きなようにこれだけ長長と書きながら、家全体を建てる時の要所、要所に肝心の太い柱を打ち立ててくるのが実に上手い。
プルーストには見通せるのでしょうね、それは、①物事の先を透視するような予知能力が高いのか、②あるいはまた、書き始める前に相当な時間をおいているからなのか、③さらにはまた、一度書き上げた後の納得いくまでの加筆、修正にあるのか、どうなんでしょうね、まあ、それら全部と言ってしまえば、それは確かにそうなのでしょうけれども。

あくまでこの第4巻から第6巻に限って言えばということになりますが、まあ、ものすごくざっくり言ってしまうと、語り手である「私」が祖母とともに、バルベックへ出発して、最後は祖母の死までという内容になるわけですが、相変わらず語り手である「私」の精神のドラマが展開され、もちろんそれが物語の軸となっていきますが、でもこれはあれですよね、目立たないですけれども、派手な台詞の一つもありませんけれども、いつも影から孫である「私」をそっと優しく見守り、「私」の芸術的な気質の成長をなんとかして促そうとしている祖母という温かい人間の存在が、絶えずその根底に流れているように思います。

やっぱり「昔と変わらず、私に与えるプレゼントには相変わらず芸術的性格を付与したいと願っていた」(4の34、35) この祖母は、ちょっとただものではないように思います。
「途中経過その1」の最後でも少しだけ触れましたが、祖母が「私」の誕生日に与えるプレゼントの一件 (1の96あたりから) からして、こんな祖母はどうみても普通いないです。

ところで、僕の頭では、プルーストの文章は多くの場合一回読んだだけでは意味内容がわかりませんので、同じところを何度も繰り返して読むことになり、すなわち前に進めずに停滞するのでどうしても時間がかかります。
それは、まるでオリンピックの体操競技の選手が鉄棒や跳馬で空中で何回転もしたあと着地するかのように文章をひねり回してきますので、そりゃ文章が装飾的だと言えば確かにその通りで、今日に至るまでその評価も極めて高いようですけれども、もう少し素直に誰にとってもわかりやすく着地してもいいんじゃないかなと、ここでまたぶつぶつ、これでは僕の毎日はなかば苦行ではありませんか。

それに加えてですね、なにゆえここまで複雑に入り組んだ、込み入った、絡み合った、なおかつ僕が思うにあてこすりや皮肉、意地の悪い箇所が相当散見される上に、物語の次の場面への展開があまりにもさらりと、特に新たな章を設けるどころの話ではなく、一行さえあけることもなく何事もなかったかのようにさらさらと流れていきますからね。
こちらがかなり集中していないと、まるでどこか遠くの山の雪崩をぼーっと見ているような感じに思わずなります。

それから、このあまりに複雑極まる「縁戚関係」(6の272) や「姻戚関係」(6の273) を、これらを一読した段階でしっかりと把握できる人が本当にいるのでしょうか?
まあ、物事には何事にも例外というものがあり、世の中には頭のいい人がたくさんいますから、おそらくは一読してすぐにきちんと把握できる人もいるのでしょうね。
僕なんかは「ゲルマント一族」の唯一の家系図 (5の11) を時々見ながら、もうしょっちゅうなのですが、なんとか公爵夫人にお会いすると「ところで大変失礼ですけれども、あなた様はどちら様でしたっけ?」の毎日なのですが。

じゃ、僕はどうして毎日プルーストを読み続けているのかという問題にここはどうしてもなるのですが、これはやっぱり考えますよね、これだけ読みにくいと (笑)。
そこで僕なりの結論になるのですが、結局、プルーストが主張し展開していることは、昨日と今日の読者は違うということにつながるのではないでしょうか?
プルーストを読むことによって、昨日と今日の自分はわずかに、なにしろ読書という地道な作業ですので、この本当にわずかなところであるというのが非常に肝心なところなのですけれども違うわけです。
プルーストを読み続けるということは、昨日と今日の自分の違いにつながります。
なんだ、つまりは、プルーストに関心があるのではない。
結局、プルーストを通して読者である自分に注意が向いているのですね。

しかし、それにしましても、プルーストは小説全体の構成は、そのあまりに特異であり異端でもある宇宙的空間のような広がりを見せる彼の頭脳の中でしっかりと組み立ててきますね、ここだけは決してはずさないなあと思いました。
これ、第4巻の始まりで「あれ、おかしいな?なんで私は祖母と (正確にはさらにフランソワーズとの三人で) バルベックに出かけるのだろう?」と思いました。
それまでの第3巻までの感じからしたら、やっぱりこれは通常であれば父母と、まあその結びつきの強さから言えば、ここはどうしても本来であれば母と出発するはずですよね。
そこに「ノルポワ氏とスペインに出かけるはずの父」(4の31) で、父はスペイン旅行に出かけて、父は母に「パリの郊外に一軒の家を借りたほうがいいと考え」(4の31、34) て、 母は新しく借りた家に用事で滞在しなければならないとかなんとか、まるでなにかいかにもとってつけたような?設定をしてきて、第6巻のラストに祖母の死をもってきている。

もうこれは明らかにどうみても最初と最後に祖母で二本の太い柱を建てて、その間を「貧しい孤児」(4の538) であるアルベルチーヌや、祖母が孫に「多くの知的恩恵」(4の410) を与えるのではないかと期待する画家のエルスチール、はたまた祖母が「プルードンの沢山の自筆書簡」(4の481) をプレゼントするサン=ルーなどなど・・・、ちょっととてもすべては書き切れませんが、何人もの登場人物でつないで明らかに意図的にもってきている感じがいたします。
なにか太い頑丈な二本の柱を建て、その間を紐で結んでいろいろな色の旗を吊るして飾っているそんな感じです。
まるで子供のころ、小学校の運動会の日になると、各国の国旗が紐で結えて校庭に吊るされていた感じ、かなり古いな。

この第6巻のラストの祖母の死の描写は圧巻です、すごいなこの文章は。
冒頭の「遠い昔、両親が夫を」で一気にもってきたなと思いましたが、「私」の祖母に対する愛が完璧なまでにこの文章に凝縮されていて、ここはプルーストは作家として完全に決めに入ってきている感じがいたします。
これはあれなのでしょうか、研究者や専門家の間では、文学史上に残る名文にすでになっているのでしょうか?
最後の「中世の彫刻家のように・・・」で、思わず2016年にイタリアのベルガモでヘルマン・ヘッセのエッセーめぐりをした時に観た横たわる乙女像を思い出しました。
ただしですね、とても気になることは、両親が選んでくれた夫と、純潔と従順を旨として生涯を貫いた祖母に対して、女性関係の絶えない「私」が、横たわる祖母を前にして、自らのこれまでの人生を省みる視点が欠けているように思います。

「遠い昔、両親が夫を選んでくれたときのように、祖母の目鼻立ちには、純潔と従順によって優雅に描かれた線がよみがえり、つややかな両の頬には、長い歳月がすこしずつ破壊したはずの、汚れなき希望や、幸福の夢や、無邪気な陽気さがただよっている。生命は、立ち去るにあたり、人生の幻滅をことごとく持ち去ったのだ。ほのかな笑みが祖母の唇に浮かんでいるように見える。この弔いのベッドのうえに、死は、中世の彫刻家のように、祖母をうら若い乙女のすがたで横たえたのである。」(6の377、378)

この極めて印象的なラストと、語り手である「私」が祖母とともに、バルベックに到着して、「グランドホテル」(その名前が最初に出てくるのは4の69) の部屋の「仕切りの壁」(4の81) の三つのノックの音が、ものの見事に呼応しているように思います。
仕切りの壁をノックしても、もう決して応答はありません。
もし間違っていたらごめんなさい、ここが祖母の最も長い台詞の箇所という認識でよろしいのでしょうか?
少し長くなりますが、ここは決して読み飛ばせない箇所ですので、全文引用いたします。

「かわいい子のノックをほかの人のと間違えるはずがないでしょ!どんなにたくさんのノックの音のなかからでも、おばあさんにはあなたのノックが聞き分けられますよ。あんなにおばかさんな、熱に浮かされたようなノックが、おまけに私の目を覚ますのではないかという心配と、わかってもらえないのではないかという心配とに引き裂かれたノックが、ほかの誰にできると思うの?だって、ちょっとひっかく音を聞いただけで、すぐに私のかわいいネズミさんだとわからないわけはないでしょう。とくに私のネズミさんは風変わりで、気の毒なネズミさんですからね。しばらく前から、ベッドのなかでもじもじとためらい、もぞもぞ身動きして、あれこれ策をめぐらしているのが聞こえてましたよ。」(4の82、83)

う〜ん、すごいな、これは、この人はすぐにでも童話作家にもなれそうだな。

細かい点になりますが、なにか妙に気になったことは、庶民がこの三人だけではないのですが出てきますよね、ここは注意です。
「牛乳売りの娘」(4の57)、再び別の「牛乳売りの娘」(4の172)、さらに「美しい魚釣り娘」(4の175)、まあ要するに「村の娘」(4の175) ですね。
これは、あれでしょうか、性欲が昂じた語り手である「私」の生きる意欲であり希望であると僕はとらえましたが。
つまりは、上流社会に囚われて生きている「私」が、そこを飛び出して流浪の民となりまったく別の人生を生きる、その時にこのような「村の娘」と一緒になって生きることができたらというような、決してかなうことのない「私」の心の奥底の願望であり夢想を感じるのです。

それから、「私」が海辺で「五、六人の少女」(4の325) を目撃した事件以来、彼女たちのことを「自転車競技選手たちのきわめて若い愛人」(4の334)、さらにもう一度「自転車競技の選手やボクシングのチャンピョンの愛人」(4の439) と思い込んでいたことが、職業名を具体的に出してきたことで、なぜかとても気になりました。

最後に非常に印象に残った場面をかいつまんで4点ほど、ご紹介させていただいて終わりにいたします。

1点目は完全にこの箇所は画家の眼で観ているなとでも言いますか、さらに言えば、映像作家としてのカメラワークであるとでも言うか、「窓ガラスに明かりのともる住まいがあると、私は闇のなかに長いこと立ちつくし、入りこめない神秘的な暮らしのくり広げられる真性なる情景を見つめた。こちらで真っ赤な画面に火の精が描き出してくれるのは焼栗屋の営むカフェ・レストランで、そのなかで下士官がふたり、かたわらの椅子に軍服の革ベルトを投げ出してトランプに興じているが、」(5の205) あたりから始まって、「とある小さな古道具屋」の古い絵のレンブラント化現象、「広壮な古めかしいアパルトマン」の「なかをゆっくり泳いでいる水陸両棲の男女」、ホテルの中庭を横切る「私」のブリューゲルの「ベツレヘムでの人口調査」を想起させる一連の流れ、ここは圧巻ですね、すごいです、比類ない美しさです。
ただし、この箇所だけなにかほかのすべての部分と文章のリズムが、多少異なっているように思いとても気になるのですが。
プルーストは51歳で亡くなりましたが、もし仮に50代から映画の世界に入っていたとしても、映像作家としてのその能力もおそらくは極めて高かったのではないでしょうか?
まあ、決して比較するような問題ではないとは思いますけれども、それでもゴーゴリの天才度にはかなわないように思います、ゴーゴリは眼自体がすでに魚眼レンズになっていますから。
ゴーゴリの話が出たついでに、やっぱり、ジルベルトが出てきても、アルベルチーヌが登場しても、まるで球体が転がり出てくるようなゴーゴリ の「死せる魂」(1842) のようなリズム感、はずむような魅力、スピード感がない、これはおそらくですが直感的になにかプルーストの運動能力的なものの欠如からきているのではないでしょうか。

2点目は、これもブリューゲルの農民画の延長になりますが、「なんとかサン=ルーのテーブルのある小さな部屋にたどり着いた」(5の213) 「私」が、サン=ルーやその数人の友人と夕食をともにしますよね。
サン=ルーの戦術をめぐる長広舌には多少閉口しますが、その直後の「凍てつく夜の闇はずっと遠くまで広がり、そこからときどき聞こえてくる汽車の汽笛はこの場にいる歓びをいっそう募らせるばかりだし、・・・」(5の254)、ここはすごいな、またまたゴーゴリになってしまい大変申し訳ないのですが、今度は「外套」そのままではないでしょうか。

3点目は、ポンペイですね、「私」が祖母と最後の外出をして、ようやく家に帰り着く場面、「陽は傾いて、どこまでもつづく壁を赤々と染めていたが、辻馬車が私たちの住む通りに着く前に沿うように進んでいくその壁には、赤味を帯びた地色のうえに夕日に映し出された馬と馬車の影が黒く浮きあがり、ポンペイのテラコッタに描かれた霊柩車を想わせた。」(6の323)、これは美しい、やっぱり、映画監督だ!
これはあれでしょうか、「霊柩車」とありますので、プルーストは最愛の祖母の生前最後の外出に、そっと花を供えたのでしょうか?
控え目に目立たぬように、供花をしたのでしょうか?

最後、4点目が新進作家の一件ですね、最初はこれ、プルースト一流の皮肉で書いているのかなとも思いましたけれども、そうではないことを確信しましたので、ご紹介させていただきます。
プルーストが読みにくいという方は、まずはこれを読んでから入ると多少読みやすくなるのではないでしょうか (笑)。
なんのことはない、プルーストにとっても、新進作家は読みにくいのです、ある程度その文体に慣れるまでは。

「ところがある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には作家の書いていることがほとんど理解できなかった。」(6の339、340) と、このあとまだまだ続くのですが、赤裸裸な人だなあ〜。

わからないことを、「わからない」と公然と言えるってすごいことですよね。
以前、ピカソがプラド美術館のゴヤの「1808年5月3日、マドリード」を前にして、「二番目の光がどこからくるのかわからない」と言っているのを観て大変感銘を受けました。
これは少し考えてみてください、ピカソの立場からすれば、祖国の大先輩であるゴヤに対して「わからない」と言ってしまえば、格下に思われる懸念があるため、通常、なかなか言えないです。
「二番目の光ですね、それにはいろいろな解釈がありまして・・・」などと言える方は、そのあたりにも決して少なくはないように思いますが。

プルーストはルノアールやモネまでは実際に鑑賞しているようですので、プルーストがもし例えばですが、デ・クーニングやシャイム・スーティンを観たら、どのような感想を私たちにもたらしてくれたのでしょうか?
大変残念なことに、私たちはもう決してそれらを知ることがないわけですね。

すごくプルーストの文章はなにか生々しい、生理的な感じがします。
生理的に書いていれば、それは当然彼の文体が苦手な人も出てくるでしょうから、まあ、そういう意味では、とても正直な人であったのだろうなと思います。

長くなりましたので、手にあまる時事問題である「ドレフュス裁判」(詳しくは5の225の注) についての私見と、誰もが携帯電話をもつようになったこの現代において、非常に興味深い「私」と祖母の「電話」の一件 (5の288から) を、ご紹介できなかったのが大変残念ですが、プルーストの世界を堪能しました、楽しかったです。

(途中経過その2の番外編に続く)

2025年2月14日
和田 健

「途中経過その2の番外編」は、明後日2025年2月16日に掲載予定です。
なお、第7巻から第9巻までの「途中経過その3」は、僕の眼の状態にもよりますが、大体2025年5月下旬ごろを予定しております。

「途中経過その1」
https://kenwada2.com/2024/11/20/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め/
「途中経過その2の番外編」
https://kenwada2.com/2025/02/16/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-3/

Today’s Plants Photo on February 12, 2025

Posted in Winter Plants 2024-2025 Ichi-Go Ichi-E Collection with tags , , , , , , , , , on 12 February 2025 by kenwada

Winter Plants 2024-2025 Ichi-Go Ichi-E Collection
Look 6
Plants and acrylic on paper
21.3×21.3 in.

冬の植物 2024-2025年 一期一会コレクション
ルック 6
紙に植物、アクリル
54.0×54.0 cm

Today’s Drawing Photo on February 2, 2025

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 4 February 2025 by kenwada

Today’s Drawing Photo on February 2, 2025
Acrylic, gouache and colored pencil on canvas, 23.6×28.7 in. (60.0×73.0 cm)

Today’s Drawing Photo on January 31, 2025

Posted in Essay 2012-2026 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 1 February 2025 by kenwada

Today’s Drawing Photo on January 31, 2025
Acrylic, gouache and colored pencil on paper, 21.3×21.3 in. (54.0×54.0 cm)