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書の勉強について

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 3 October 2019 by kenwada

最近、良寛さまの「書簡 貞心尼宛 先日は眼病の」と「雜詩巻」の書を観て「ああいいなあ」と思い、書の勉強のスイッチがまた入りました。この機会にこれまでの書の勉強について整理してまとめておくのも後年になって何かの役にたつかもしれない、誰の役にもたちませんが、まあ少なくとも自分の役にはたつかな、一つの資料として、くらいの気持ちでこれまでの経緯を日記や手帳、絵画日々のメモ(ノート)などからまとめてみました。

僕が書の勉強を始めたのは、フランスから帰国して間もなくの頃、確かどなたかの書を観て、この空間美、構成の美しさは絵画にすぐに取り入れられる、さらに中国の書家の作品であっても同じ東洋人として漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸となり得る、事実、Franz Kline や Pierre Alechinsky のように日本に来て書道を学んだりした大芸術家たちもいましたし、Joan Mitchell の絵画の中にも漢字的な要素をすごく感じます。そのようなことがあり、これは書の研究をきちんと一度やっておいた方がいい、プラスになることはあってもマイナスになることなど何もないと思って始めた思い出があります。

そうは言っても取っ掛かりがつかめませんでしたので、とりあえず世田谷区立梅丘図書館に行って、そこにあった平凡社の「書道全集」を5,6冊ずつ借りてきては全ページ観ました。確か全部で20何巻かあったと思います。全ページ読んだとは言えませんが、全ページ観て全体の流れを頭に入れました。その後は、例によって尊敬する福澤諭吉先生が「福翁自伝」で説かれている自身自力の研究、自分の絵画に直的に役立ちそうだと思ったところから始めて、最初に熱中したのは北魏時代の「龍門二十品」でした。二玄社から上下本を取り寄せ観入りました。

その後、時代順に言いますと王羲之、王献之、欧陽詢、虞世南、褚遂良、太宗、張旭(生没年不詳)、顔真卿、懐素の「自叙帖」でぶっ飛び、黄庭堅、王鐸の連綿草にも強いインスピレーションを得ました。最初はまずは作家の名前自体が読めませんでしたので名前の読み方から始めました。王羲之は2013年1月に上野の東京国立博物館で、王鐸も同展で観た思い出があります。それら中国の書家についてまとめたメモが手帳の中の2013年1月のところにありますので、遅くとも2012年には書の勉強を始めていたんだなと思います。

日本の書家ではこれも時代順に空海、白隠、良寛、三輪田米山、井上有一の作品に強い感化を受けました。空海は2011年9月に東京国立博物館の「空海と密教美術展」で「聾瞽指帰」の直筆を初めて観ました。白隠は2013年1月に渋谷のBunkamura で観て「南無地獄大菩薩」に感動し、井上有一は2015年4月に菊池寛実記念 智美術館で「ブッコウ国師げ」に感銘し、群馬県立近代美術館で2015年8月にようやく念願の「噫横川國民學校」を観ることができ、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも2016年4月に作品を観ました。これだけの禅画や書を遺した白隠は独学であり、良寛研究者の方に是非ご教示願いたいのですが、良寛が本格的に書を始めたのは48才の頃と考えて一応よろしいのでしょうか。

昨日は午前中で制作の区切りがついたため、午後は顔真卿の「祭姪文稿」と黄庭堅の「伏波神祠詩巻」を観て過ごしました。何なんでしょうね、この圧倒的なまでの宇宙美は、もちろん宇宙美などという言葉があるとして、すごい!考えられないですね、この余白の使い方は、最後ダァーと右に流れて来るのもたまらないし、う〜ん、すごく「祭姪文稿」を観ていて思ったのですが、これは稿ですよね、草稿や原稿の方が美しい、所々丸でぐるぐるっと、そしてでんと太字、美しい、あり得ないくらい美しい、結局小説家の場合も同じですが印刷されたものよりも手書きの草稿や原稿の方がはるかに美しい、団体の美術展とか観に行って1年に1回のこの展覧会のためにいかにも仕上げました、清書しましたみたいな退屈な絵画よりもよほど美しい、ドキドキする、結局、人間性の発露なのでしょうね、絵画に草稿の要素を盛り込めたらあるいはさらに絵画自体が原稿であったら、そこに新しい方向性が必ず存在すると思います。これからも断続的にではあっても書の勉強を続けていきます。これだけの類を見ない偉大な芸術がお隣の国に仮に甲骨文の殷の時代からとしても約3600年以上も続いていて、我が国にも脈々と受け継がれていて、これを勉強しない研究しないという手はないですね、どこからどう見ても。

良寛さまの「貞心尼宛」のラストの「八月十八日」には参りました、特に最初の八の傾きの突飛さ、ユニークさと続く小さな十との絶妙のバランスや全体を流れる温かさ、漢字そのものは小学生にでも読めますよね、ここに全宇宙があると思いました。
ロケットなんか飛ばすより遥かに遠くまで行けるのに。

2019年10月1日記
和田 健

追伸 張旭が剣器を舞わすのを見て、懐素が夏雲の風にたなびくのを見て、黄庭堅が船頭が船を漕ぐのを見て、それぞれ悟りを得たという逸話に心を惹かれました。今読んでいる岡潔さんの数学上の発見の瞬間とあまりに酷似していますね。つまり究極の集中力を使い果たした者が、ふっとその場を離れ脳が対象から離れた時に「発見のするどい喜び」が起きる。僕にはもちろんそんなことはできないけれども、せめて手元に集中力をまとめておく、置いておくことは努力や心がけの部分だからできる、だから常にプリントアウトしたものを手元に持っていること、「祭姪文稿」を観て、ニワトリの動きを観る、ニワトリの動きを観て「祭姪文稿」を観る、これが実に面白い、何かの動きがマッチングする、そこに新しい発見がある、書を観てテーブルに指で描く、地面に棒で描く、空間に指で描く、それらは僕に最上のデッサンの練習をもたらしてくれる、別に書家になる訳でもなし、書の勉強は隙間時間を活用できる、そのために絶えずプリントアウトしたものを身につけていること、要は僕の怠慢。