「天職」発見の物語であるマルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み終えて ー途中経過その8 最終回その2  第13巻「見出された時 Ⅰ」から、第14巻「見出された時Ⅱ」までー

Posted in Essay 2012-2025 with tags , , , , , , , on 2 September 2025 by kenwada

(途中経過その7から続く)

さてさて、いよいよこの「転職」発見の長大な物語も最終第14巻に突入し、語り手である「私」の「時」をめぐる極めて興味深い考察が続きます。
これなどは、小学校の同窓会にでも出席すれば、すごく実感するのだろうなあ。
おお!来年3月で小学校を卒業してちょうど50年だ、すごいぞ〜、みんなの顔がわかるかな〜、第14巻で繰り返されるところの「二十年」の比ではない。

しかしそれにしましても、第13巻のシャルリュス氏の「○○死んだ!○○死んだ!」の六連呼 (13の422) とは意味合いが異なり、「時」をめぐる興味深い考察と言ってしまえばそれまでですけれども、これは同時に老いの問題も扱っているわけで、プルーストも最後の最後にいたってよりによって禁断のとまでは言いませんが、ずいぶんとシビアでデリケートな領域に踏み込んできたなというのが僕の率直な感想です。
やっぱり、これにはなにかこのプルーストという人間の大変繊細ではあるのだけれども、同時におそらくは育ちのよさからくるなにか溌剌とした無邪気さも同居しているのではないかという僕の感触にもつながります。

ここで、一度状況を確認しますと、最終編「見出された時」の目玉である「ゲルマント大公邸の午後のパーティー」は、1925年頃と推定されているわけですよね。

プルーストもここはせっかくですから「二十年」なんて言っていないで、もう少し期間をあけて「ゲルマント大公邸の午後のパーティー」を描いてもよかったのかもしれませんね。
ゲルマント大公妃って、要はあの「少数精鋭」の元のヴェルデュラン夫人ですよね、なんだかとてもお元気そうですし、あと数年後でも大丈夫そうです、まあ、オデットは3年と経たないうちに、ということは、1928年頃にはすでに「少々耄碌」(14の90) してしまうようですが、このシーンは元「粋筋の女」であっただけに、なんだか身につまされますね。
アルジャンクール氏も「これは実際、アルジャンクールが自分の身体を御すことのできた最終の極限状態であり」(14の29) とありますから、このあとのパーティーには、おそらくですがもう顔を見せますまい。

仮に二十五年の期間をあけて、「ゲルマント大公邸の午後のパーティー」を、1930年頃の設定にでもしましたら、ゲルマント公爵夫人なんて、お得意の「才気」ももはや完全にきらめきを失い、もう誰も誰だかわかりゃしない、でもよろしいでしょうか、もう誰も誰だかわかりゃしないというところに、本物の愛があるわけですよね、本当の愛が。
つまりは、僕の言いたいことは、愛する人の面影があるのでしたら、そんなのは誰でも多かれ少なかれ愛せるでしょということ、だって、その方の面影が、姿・形が、現にそこにはあるのですから。

プルーストがそこまで描くとよかったのかどうかは非常に難しい問題ですし、また「二十」年後の変化なんてどこか中途半端だとまでは思いませんが、「私」がアルジャンクール氏を「この度外れな老いぼれを前にして、私は大笑いした。」(14の30) のはよくない、実によくない、これは全14巻を通して一番よくない表現なのではないでしょうか。
氏の描写に「手足はぶるぶる震え、(中略) 顔の目鼻立ちも今やたるんで、魔の抜けた恍惚のていでたえず微笑んでいる。」(14の29) とありますが、人は誰でも老いて、腰も曲がり、足元がフラフラするのですから。

もちろんこれは、プルーストは老醜を曝けだして「この午後のパーティーの紛れもない呼びもの」(14の28) になってでも、なおも社交界にしがみつこうとするアルジャンクール氏の言わば奴隷根性を指摘しているのではないかとは思いますが、その彼を見て大笑いするというは、どういうものなのでしょうか?
せめてもの表現として、例えば、失笑を禁じえなかった、だとか。

さて、物語は第14巻の終わりへと近づき、ここで「ジルベルトのかたわらにいる十六歳ぐらいの少女を見て」(14の266) 語り手である「私」が呆気にとられたサン=ルー嬢の登場です!
「途中経過その7」にも書きましたが、要するに彼女はオデットとスワンの孫であり、ジルベルトとサン=ルーの娘なわけです。

しかしそれにしましても、プルーストの「そもそもこの娘は、(中略) 森のなかにおいて、まるで異なる地点からやって来たさまざまな道が集まる「放射状 (étoile)」の交差点のようなものではないか?」(14の260) は、うまいたとえだなあ〜。

ジルベルトが「少し考えたあと、(中略) 私にはとうてい想いも寄らない大胆な解決策をとり出して」(14の258) 自分の娘を「私」に紹介してくるところもなかなか突拍子もなくて、ぶっ飛んでいて洒落ています。
このサン=ルー嬢に対しては、プルーストはもう自分の人生の残り時間が少ないことを自覚してか、「ずっとのちに娘が夫として選んだのは、名もない一介の文士だった。娘にはスノビスムのかけらもなかったからだろう。」(14の259) と、結論を先回りして書いてきています。

ああ、オデット、スワン、ジルベルトと親子2代して積み上げてきた「スワン家のほう」の上昇志向も、これにて万事休す、一巻の終わりもまたおおいに結構!なのですが、この「名もない一介の文士」が非常に気になります、ここだけプルーストは力みましたね、肩に力が入ったのでしょうか、あっ、リズムが違うなと思いました。

もうすっかり慣れましたが、プルーストは書き方が両性的であるとでも言いますか、なにごともなかったかのようにあっさりと構成し、なんでもなかったかのようにさりげなく書いてきますので、読解に非常に集中力が要りますよね、なのでここは要注意です。
小説家が要は同業者ですよね、同業者のことを書くときには、通常、気を使うのではないでしょうか。
これはおそらくですが、「名もない一介の文士」は「本能」で自らの「才能の実体」を掘り当てた、いまだ世に認められていない無名の天才で、プルーストは3代目の孫の代にいたり、ようやく「スノビスムのかけら」もない真の人生をサン=ルー嬢がその夫とともに生きたことを暗に祝福しているのではないだろうか、その示唆であれば、唐突に結論を先回りして書いてきたことも頷けます。

まあ、通常ですと、これはサン=ルーとの結婚により、れっきとした「ゲルマントのほう」の一員となったジルベルトの凋落と解釈されるのでしょうけれども、それではなにかあざけりのようで面白くもなんともないですし、それであればここは「名もない一介のプチ・ブルジョワ」できたように思うのです。

結局、こうしてみてきますと、要するに高級娼婦オデットとユダヤ人スワンの「スワン家のほう」が「ゲルマントのほう」をいかにも凌駕したかにみえますけれども、僕からみますとどちらも負けです。
まさしく、「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」そのものですね。

(ただし、ここで非常に気になるのが、言わば未完の構想とでも言いますか、プルーストが書きかけのまま放置している二点の短い言及についてなんですよね。
その一点目とは、ジルベルトが、
「やがて、あとで見るように、ゲルマント公爵夫人になる」(12の566) ことで、これには驚きました。
そしてその二点目とは、サン=ルーが、
「その後もジルベルトにつぎつぎ子供をつくらせることになる」(12の591) ことです。
いずれの言及にも、プルーストの事後報告が、まったくありませんので、読者にはこのあとどのようになったのかが不明ですが、いずれにせよ、プルーストがこのような構想を視野に入れていたことは、漠然とではあっても伝わってきます。
つまりは、「私」が「十六歳ぐらい」(14の266) のサン=ルー嬢に初めて会ったときには、すでにサン=ルーは戦死していたわけであり、なおかつ、サン=ルー嬢は第一子ですから、その時点でサン=ルー嬢には、弟たちか妹たち、もしくはそのどちらもがいたことになります。)

そしてここでもまた、「私」はサン=ルー嬢を前にして、いよいよ作品にとりかかる決意をするみたいな世間に流布しているようなイメージとは違い、「私」はサン=ルー嬢とは一言も会話を交わしていないじゃないですか!
すべては、このあと、鬼気迫るようなほぼ独白に近い形で、迫りくる死の脅威と自分の作品、書物に対する思いを、「私」が一人で語っていくではないですか!
やっぱり、なにごとも自分で読まないとだめだな。

ここから始まって、それこそ最終ページの最後の1行にいたるまで、すごいですよね、この独白は圧巻です!
恐ろしいほど真剣なのだけれども、同時になにかあれだなあ〜、プルーストは初めて少し解放されて楽になったような感じもいたします。
僕がそのことを感じたのは、いわばスーパー秘書役としてフランソワーズを出してきますよね、ここでフランソワーズできたか〜、プルーストもずいぶん粋なことをするなあ、この「紙切れ (papelard)」のフランソワーズの会話は最高です、正確にはフランソワーズがそのように言ったのではなく、彼女なら間違いなくこう言うであろうというプルーストの確信なわけですが。

ここは僕でしたら、祖母の夢三部作ではないですけれども、夢シリーズの締めくくりとして、祖母を出してきます。
その方が、物語の余韻のようなものが、確実に深まるように思うからです。
すなわち、最初の夢が、
①「私」がバルベックのホテルの部屋で、父親の先導のもとに見た祖母の夢でした。(8の359から)
そして、次の夢が、
②「私」がバルベックの「砂浜のなかの起伏のかげ」(8の399) で見た、やはりこれにも父親が登場してくる祖母の夢でした。(8の400から)

ここで少し脱線いたしますが、しかしそれにしましても、この父親は全14巻を通して、存在感が希薄でしたね。
下手をすれば、アドルフ大叔父などよりも、もっと少なかったかもしれませんね。
小説家の方は、書き終わったあとに、あくまでも結果として出てきてしまう登場人物たちの存在感のアンバランスの問題に対して、どのように対処しているのでしょうか、個人的に非常に興味があります。
プルーストは、死を目前にしていましたから、もう時間がなくて細部を絵画で言えば消してきていませんよね、そのまま消しあとが残ってしまった部分が感じられます、逆にそこに未完の魅力がありますね、未完成の魅力が。

そして、プルーストのこんな言葉も出てきます。
「このような偉大な書物には、建築家の構想自体が壮大であるがゆえに、下書きしか用意する余裕がなく、おそらくけっして仕上がらない部分がいくつも残るだろう。なんと多くの大聖堂が未完成のままになっていることか!」(14の268)
また、これとは矛盾するようですが、このような言葉もあります。
「というのも私は、(中略) なにも大聖堂を築くようになどと大それたことは言わず、ただ単に一着のドレスをつくるように自分の書物をつくることになるからだ。」(14の270)

これを小説家が逐一、アンバランスを矯正しようとして、登場人物たちの頭の高さを調整してきたら、魅力が半減します。
そういう意味で、プルーストは、Cy Twombly にすごく似ているとは思いませんか?

「私」が見た祖母の夢の話に戻りますが、夢シリーズの締めくくりに、三回目の最後の夢として、
③あんなに孫を心配して愛していた祖母が、ここへきてようやく仕事を始められた「加筆した紙片をあちこちにピンで留めながら仕事をする」(14の270) 「私」を前にして、満足そうにうれしそうに微笑む祖母の夢、ただし、今回の夢に父親は出てこないのはどうでしょうか。
それを描いておいて、夢が覚めて、さっと現実に戻し「私」は独白を続ける、プルーストの力量でしたらわけもないでしょうに。

ですので、これはプルーストは、長年付き添ってくれた、親身になって身の回りの世話をしてくれた我が家の老女中に、最後にありがとうと花を持たしたのかな〜。
もしくはあの諧謔に満ちた台詞である、
「すっかり虫食いになりましたね、ほら、ひどいもんです、このページの端なんか、もうまるでレースみたいですよ。」
「このページは修理できそうにもありません、もうだめですね。残念です、もしかすると旦那さまのいちばん立派なお考えが書いてあるところでしょうに。」(いずれも14の273)
が先にありきで、どうしてもこの挿話をここへ入れたかったのであろうか?
この言葉は、どこからどうみても到底祖母には言えませんから、これはフランソワーズにしか言えない。

「見出された時」の出版は、単純に年数を引き算すると、プルーストの死後5年が経過してからですが、いずれにいたしましても、この独白がプルーストから私たちへのラストメッセージなわけですね。

そのなかでも、僕の心のなかに一番食い込んできた言葉は、
「そんなふうに感じられる今、私にとって人生はなんといっそう生きるに値するものと思われることだろう!そんな書物を書くことのできる人はなんと幸せなことだろう!と私は考えた。だがその人には、なんと辛い仕事が待っていることだろう!(中略) なぜならその書物の作家は、ひとりひとりの人物を描くにも、その人物の立体感を出すために、そもそも当人の相反する面を浮かびあがらせようとするから、自分の書物を、まるで攻撃の準備でもするように部隊をたえず再編成しながら綿密に準備しなければならず、まるで疲労に耐えるように耐え忍ばなければならず、まるで規則のように受け入れなければならず、まるで教会のように築かなければならず、まるで食餌療法のように従わなければならず、まるで障害のように乗り越えなければならず、まるで友情のように獲得しなければならず、まるで子供のように充分すぎる栄養を与えなければならず、まるで世界のように創造しなければならず、おまけに、おそらくべつの世界でしか説明されることのない神秘、その予感こそ人生と芸術においてわれわれを最も感動させるあの神秘をも、なおざりにしてはいけないからである。」(14の268)

➡︎う〜ん、プルーストは持ってきましたね〜、引っ張ってきましたね〜、まさしくこれだよこれ!っていう感じの表現ですね、この「まるで・・・・・ならず」の九連打は、限りなく美しい!

「なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。」(14の269)

➡︎これに似た言及は、すでに第13巻でもみられました。

「なぜならどんなに大きな心配も、どんなに大きな希望と同じく、われわれの力量を超えたものではなく、われわれはついにはそうした心配を克服することができるし、そうした希望を実現することもできるからである。」(14の274)

➡︎本当にそうですね、乗り越えられないものなどないのかもしれない、僕もこの年になって、ようやく少しそう思えるようになりました、それはプルーストの言う「時」の概念ですね。

「人間は、まるで歳月のなかに投げこまれた巨人のように、さまざまな時期に同時に触れているのだから、そして人間が生きてきたさまざまな時期はたがいに遠く離れており、そのあいだには多くの日々が配置されているのだから、人間の占める場所はかぎりなく伸び広がっているのだ──果てしない「時」のなかに。」(14の303)

➡︎ただし、大前提として自殺さえしなければの話ですが。
若者よ、どんなに辛く悲しいことがあっても、プルーストを読むことによっても感じとれるように、「長い歳月」が苦悩に満ちた「時」を、今のあなたの切羽詰まった、追い詰められた、崖っ縁の刹那的な気持ちを少しずつ変形し溶解してくれるので、絶対に自殺だけはしないでください!
そのための対策の一つとして、意外と見落とされがちなのですが、お年寄りと、それも中途半端な高齢者などではなく、かなりの年齢の老人と、話したり接したりすることは、非常に有効なのではないでしょうか。
「時」がもたらす「長い歳月」を、お年寄りの方たちは、すでにたくさん穏やかに身につけていますから。
これに対して、同じ職場の方たちや、同じ世代の方たちとばかりいつも話すことは、有効であるとはあまり言えないような感じがいたします。

「私は山道を登る画家のように生きてきた」(14の274)

➡︎う〜ん。

「さきに書斎で構想したように、さまざまな印象を深く掘りさげることにあり、その印象をまずは記憶によって再創造することにあった。ところがその記憶がもう衰えているのだ。(中略) 私の年齢からすればまだ数年は猶予があるだろうと思えるが、死期は数分後に迫るかもしれないのだ。」(14の275)
「自分のためにではなく、私の書物のために死を恐れるのである。その書物の開花のためには少なくともしばらくのあいだ、多くの危険に脅かされているこの生命がどうしても必要なのだ。」(14の281)
「ところが私は執筆に邁進することなく、怠惰な放蕩三昧にふけり、病気や憂慮や妄想のために生きてきたので、作家としての修練も積まぬまま、死の間際になって自分の著作にとりかかるありさまだ。」(14の288)

➡︎プルーストの死の脅威、ああ、もう少し早く勤勉に仕事を始めていたら、ただし、物事はすべてコインの裏表ですから、同時に「怠惰が安易に書き流すことを防いでくれた」(14の294) のですね、いわば怠惰が身を守ってくれた。

➡︎そして、この直後に続く「草上の昼食」(14の281) はすごい!
まるで、T. S. Eliot の「East Coker」のなかに出てくる輪になった踊りそのものではないですか、あえて先祖たちの盆踊りと言ってもいい、あなたが今憩うその下に、古代人たちの、先人たちの屍が眠っている。

「しかし私にその鉱脈を採掘する時間があるのだろうか?それができるのは私だけだ。それにはふたつの理由があり、私の死とともに、その鉱石を掘りだすことのできるただひとりの鉱夫が消えてしまうばかりか、その鉱脈自体もまた消えてしまうからである。」(14の278)

➡︎これもその通りですね、死んだらその人が生前になにを考えていたか、もう永久にわからない。
こうしてプルーストのように芸術作品に昇華しておかない限りは。
しかし、そんなことは普通は無理なので、せめてもの慰めとして日記でもつけておかない限り、死とともに消滅する、なんとなれば唯一の鉱夫がいなくなるから。

「かつて出かけていたご招待の晩餐会と呼ばれる野蛮人の饗宴」(14の284)
「ご招待の晩餐に出席したことのある几帳面な野蛮人ならひとり残らずそうするように」(14の286)

➡︎死期を前にしたプルーストにとって、かつてあんなにもせっせと交流した社交人士たちは、もはやすべて「野蛮人」と成り果てました。
この「野蛮人」なる表現なのですが、ここまで言う以上、プルーストは、長らく社交界にいたことを、死を目前にして、後悔しているととらえられてもいたしかたありますまい。

「やがて私は下書きの一部を人に見せることができた。ところがだれひとりなにも理解してくれなかった。」(14の287)

➡︎このあとに続く、「私」が使ったのは、「顕微鏡」ではなく「望遠鏡」なのだの比喩は面白い!

「私が現代のエリートたちから讃辞を得ることに無関心なのは、自分の死後にこの作品が賞讃されるのを見込んでいるからではない。私の死後にエリートたちがどう考えるかなどその人たちの自由であって、私にはどうでもいい。」(14の288、289)

「書くのにも長い時間を必要とする。昼間は、せいぜい眠ることにしよう。仕事をするのは、夜だけになるだろう。それでも多くの夜が、もしかすると百の夜が、もしかすると千の夜が、必要になるだろう。」(14の292)

「私が書くのは、もしかすると『千夜一夜物語』と同じほど長い本になるかもしれないけれど、まったくべつの本になるだろう。」(14の293)

「だが私はまだ間に合うのか?もう遅すぎることはないのか?(中略) 「私はそうできる状態にあるのだろうか?」と思案した。」(14の294)

「なぜなら「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」からである。(中略) 病いはその怠惰に陥ることを防いでくれるかもしれない。」(14の294)

➡︎ここにいたって、ついに「ヨハネによる福音書」の一節の登場、プルーストの信仰が顔をのぞかせます。
第13巻の「マタイによる福音書」を踏まえた表現 (13の430) とは違い直接的です。

「私はある種の人たちを外側から描くのではなく、その人たちのきわめて些細な行為さえが致命的動揺をひき起こしかねないわれわれの内面から描くべきであり」(14の297)

「感受性の気圧」(14の297)

「せめて私はその転写において、かならずや人間を、その身体の長さではなく歳月の長さを備えた存在として、つまり、場所を移動するときにはわが身のあとに膨大な歳月をひきずってゆかなければならず、ますます巨大になりついにはそれに打ち負かされてしまう、そんな重荷を備えた存在として描こうとするだろう。」(14の298)

➡︎このあとに続く、第1巻のコンブレーの庭の門扉の呼び鈴の響きを、ゲルマント大公邸において「私」がまたしても聞く描写は限りなく美しい、圧倒的です!
最後は「そして「あの弾むような、鉄分をふくんだ、尽きることのない、けたたましい、ひんやりする、小さな呼び鈴の響き」(14の299) に収斂させてきましたね、この「鉄分をふくんだ」がすごい!

「まわりの仮面の人たちの交わすおしゃべりの声を聞かぬよう努めなければならなかったからである。あの呼び鈴の音をもっとよく聞くためには、私は自分自身の内部へふたたびおりてゆかなければならなかった。ということは、あの音はつねに私の内部に存在していたのだ。」(14の300)

➡︎つまりは、知性をふりかざす「野蛮人」たちのおしゃべりや、「うわべの流儀」の変装に目を向けるなということ。
そんなことをしている暇があるのなら、自分自身の内部へと深くおりていく辛い仕事をしなさいというプルーストからのラストメッセージ。

結局、こうして「コンブレーのプチ・ブルジョワにすぎなかった」(14の214) 語り手である「私」の要するにこの長大な物語は「遍歴談」(14の338) ですよね、その全14巻を読み終えて僕が思うことは、子どもでもわかる簡単な言葉であり、拍子抜けするような意外な感想かもしれませんが、このプルーストという人間は、実に正直な人ですね。
この人の真面目さが、いかにも聖人君子然としているような人はこの際おいておいて、自分の身の回りの自分が一番信頼できる誠実な人よりも、仮に上回っていたとしたら、われわれはどうするのだろうか?

人間って本当に難しいですよね、プルーストの説く「うわべの流儀」で、いくらでも変装することができる、ごまかすことができる、人生は仮面舞踏会の総合劇場のようなものだ、それは少し違うか(笑)、いや、実は違わないのではないだろうか。

でも、プルーストのように、なにしろ14巻も書いてきましたら、人間の本性は伝わりますよね、もうごまかせませんよ、いわゆる地が出ますからね、いくらなんでも、それは。
これもプルーストの説くところの「才能の実体」なるものですが、女好きの「私」の方が、仮に正直で、真面目で、誠実であったとしたら、その場合はわれわれはどうするのだろうか?

祖母に芸術家としての芽が出るように、プレゼントの本や絵の選択にまで実に細かな配慮をされ、愛され、期待もされ、母に心配されながら育んだ「才能の実体」なるもの、本人がなかなか自信をもって踏みだすことができずに、回り道を繰り返したところのもの。
ジルベルトへの切ない初恋、ゲルマント公爵夫人への狂おしいまでの恋焦がれ、そしてアルベルチーヌとの人生をかけた大恋愛。

やっぱり、ある意味、究極のところ、プルーストは謙虚なのではないでしょうか?
よくアルベルチーヌにあそこまで苦しみ抜きましたね、普通ならとっくに途中で投げ出していることでしょうに。

それから、どうしてアルベルチーヌにあんなに酷い死に方を、プルーストはさせたのでしょうか?
2013年に「小林秀雄全集」(新潮社) を読んでいたときに、別巻のなかで、石原慎太郎さんが、省線の吊り革につかまりながら、小林秀雄さんに訊ねる場面がありましたが、
「どうして、ランボーは詩作をやめてしまったのでしょうね。」
ちらっと石原さんをみた小林さんが、
「そうだな、彼は勤勉だったからね。」
というような問答であったと記憶しています。
これを読んだときの衝撃はいまだに忘れられませんが、プルーストはその勤勉さゆえに、アゴスチネリという愛する友であり恋人のためにも、アルベルチーヌのあのような死に方しか、プルーストには他に選択のしようがなかったのではないでしょうか。
(ちなみに、同じく別巻のなかの小林さんの「門を出ると、おつかさんといふ螢が飛んでいた」は生涯忘れられません。)

つまりは、「失われた時を求めて」全14巻の結論は、特技は限られた人しかもたないかもしれませんが、「才能の実体」なるものは、実はまったくもって驚くべきことに、誰もがプルーストの言う「時」という「長い歳月」を過ごすなかで、その程度の差こそあれ、本来所有しているものなのではないか、それを自分の内部へと深く深くおりていき「本能」で掘りだせるか否かという辛い作業をできるかどうかということに、もしかしたら尽きるのかもしれません。

そのときに「無意志的記憶」が手助けをしてくれる、活躍してくれる、でもそれはあくまでも補助であり、介助であり、手助けであり、ヒントであり、きっかけであり、入り口であり、そこから自分自身の内部へと深くおりていかなければならない、う〜ん、なにかすごくユングに通じるな。

結局、人間というものは、幼少期から形成されたところの「才能の実体」なるものを求めて、あまりにも回り道をし、時には道に迷い、さまよい、ある時は後戻りもし、迂回もしつつ、なんとか自分なりのよりよい人生を求めて、「本能」で必死に探りだしては失敗し、また懲りずに「本能」で探りだす。
と書いていて、今思わずダンテの「神曲」の冒頭部分、「人生の半ばにて、暗い森のなかで道に迷う」を思い出しました。

あくまでもその結果として、ある人の場合には、若いころはちゃらちゃらしていたただの女好きだったのが、年齢を重ねるにつれて、まあ、少しはまともな人間になり、別のある人の場合には、若いころは素晴らしかったのに、なまじ知性があったがために、余計なテクニック的なことばかりが身につき、それは社交や弁舌であったり、派閥やグループであったり、上司や部下の操作や操縦であったり、出世や上昇志向やそれに伴う転勤であったりと、そうした小手先のことにかけては極めて巧みになり、それぞれの経済状態に合わせて大なり小なり隙のないスノッブとして完成し、人生の後半から晩年にかけて急速に輝きを失っていく、なんとならば、それではプルーストの言うところの真の人生を生きたことにはならないから。
まあ、最初からちゃらちゃらしていて、そのまま軸がぶれることもなく生涯ちゃらちゃらしている人もいますが、うん?本当か、実はそんな人は一人もいないのではないだろうか、ここのところ。

結局、プルーストからのこのラストメッセージである「見出された時」(1927年) をどのようにとらえるかなのですが、再来年でちょうど刊行100周年になりますよね、でも大変残念ながら、「うわべの流儀」はますますはびこり、勢威をふるい、もうほとんど世界中を埋めつくすような勢いとでも言いますか、現にすでに埋めつくしている感がありますが、ここから各々の「才能の実体」なるものの「本能」による採掘作業に向けて私たちは頑張っていきましょうよと、それは現在のところ、大変残念ながら極めて少数派かもしれませんけれども、極めて大切なことだから、今すごく権勢をふるっているのは、「うわべの流儀」をただ単に物真似したところのレスペクトであり、ただ単に物真似したところのジェスチャーであり、ただ単に物真似したところの所作であり、ただ単に物真似したところの旅行や外食であり、ただ単に物真似したところの家や車の所有であり、ただ単に物真似したところの独特な話し方の抑揚であり、ただ単に物真似したところの集団になってのスポーツの大応援であり、僕はすごく思うのですけれども世の中が軽くなりました。

しかしその一方では、イベントに器用に合わせて、世の中が大変盛り上がるようになりました。
これはおそらくですが、自らの「才能の実体」を「本能」で探り当てていないだけに、盛り上がっていないと、不安でいられないからではないでしょうか?
仲間やみんなと一緒に盛り上がっていれば、一時的には忘れられるという、また明日から普段の生活に戻ろうみたいな。
ここでもまた、プルーストのあの手厳しい言葉である「友人なるものは、われわれが人生の途中でとり憑かれるあの甘美な狂気においてのみ友人となっているにすぎず、(後略)」(13の449) が迫ってきます。

このラストメッセージは、こうした世の中の大勢に対してのプルーストからの最終警告であり、残り少ない命をかけた本心からの絶叫であり、コンブレーの門扉の鈴の音がプルーストにひんやりと心の奥底からはっと思い出させたものは、究極的にはそこへつながるのではないでしょうか、油断するなよと、それには小さな鈴の音一つで十分であろうと。

ここまで書いてきたことだけからでも明らかなように、やっぱりプルーストの言葉は、極めて今日性をもっていますよね、僕はそう思います、すでに死後103年も経過しているのにもかかわらず!

また、語り手である「私」の「才能の実体」に関する僕の最終的な結論といたしましては、「三本の鐘塔」(1の386、ただし鐘塔の話自体は1の384から始まります) で、まだ少年であった「私」の心のなかに、その最初の萌芽がすでに形成され始め、「三本の木」(4の177) で再びチャンスがめぐって来たものの「私」はその天啓の意味を理解することができず、ようやく最終巻のゲルマント大公邸の中庭にいたってから、啓示をつかむという流れです。

「この動きの背後に、この明るく光るものの背後に、鐘塔に含まれていながら隠されているものがある気がしたのである。」(1の384) とは、まさしく、思考や文体と同じように「うわべの流儀」である「鐘塔」の下に隠されている「才能の実体」にほかなりませんので、この「三本の鐘塔」は極めて重要な挿話です。
ところが、それを掘りだしてこなければならない肝心の「私」の「本能」の方が、まだ「ひどく面倒なこと」に思えて、「あとで考えたい気分だったのである。」(いずれも1の384)
しかし、ここで「私」は、なにしろ「才能の実体」がすでに「私」には芽生えていたわけですから、言語化できたと感じた途端、ドクター・ペルスピエに「鉛筆と紙を貸してくれるよう」(1の386) 頼みさえした上で、普通そこまでして書かないと思うのですが、僕などは家に帰ってからまた改めてゆっくりと書けばいいのにとも思いましたが、揺れる馬車の中で即興のスケッチに入りますよね、普段はそんなに猛然と書いたりしている様子は、「私」にはまったく感じられないのに、この小文の導入はいかにも唐突で不自然ですが、プルーストにはおそらくこれを証文として残しておきたい意図があり、なんとならば「私」が「本能」で初めて採掘したところの文章であり、書き終えた「私はじつに幸せな気分になり、例の鐘塔とその背後に隠されていたものから完全に自由になったように感じられた」(1の388) からです。
と、ここまでが、「才能の実体」の「本能」による採掘作業形成の第一段階。

で、まあ、それはよいのですが、問題はこの小文を父親の仲介で、よりによってあろうことか少年の「私」はノルポワ氏に見せてしまうのですよね、そして「氏はひとことも言わずにそれを私につき返した。」(3の73)、要するに才能は認められない、「私」の天才を見抜いてくれることもないどころか、このあとさらに手厳しく酷評さえされます (3の113)。
それはそうでしょうね、ノルポワ氏は、言わば「うわべの流儀」の達人であり、大家であり、大御所でもあるわけですから、要するに彼はそれで生きてきたのですから、元大使として。
ここのところで、プルーストは、二人の間をとりもった父親に対しても、芸術家としての資質がまったくなかったことを暗示しているように思います。
この父親は、「「ルヴュ・デ・ドゥー・モンド」誌 」(3の40) の方に、なんと言っても関心がおありだから。

そして次に、めぐってきたのが、祖母の女学校の学友であるヴィルパリジ侯爵夫人のまたもや今度も馬車のなかであり、この馬車、馬車できたプルーストの意図ですが、どうみてもこれはたまたまではありませんね、その意図とはおそらくは移動であり、「私」の視点のアングルの変化をスピード感をもってもたらすには馬車しかないというものなのではないでしょうか。
つまりは「私」の思考を対象から変化をもって遠ざけること、悠長に長々といつまでも「本能」を使わせないためです。
そして、ここで「三本の木」(4の177から) の極めて重要な挿話が入り、「私」は集中力と注意力の限りをつくして奮闘するものの、結論から言うと「才能の実体」をつかめず、木々から言われたように「私」が感じた一節である、
「きみは今日ぼくらから学ばなければ、このことは永久に知らずじまいになるんだよ。この道の下からきみのところまで背伸びして行ってやったのに、そのぼくらをこの下に捨ておくのなら、せっかく届けてやろうとしたきみ自身の一部は永久に無に帰してしまうよ。」(4の182)
が聞こえてきます。
残念ながら「私」は天啓をつかむことができず、それが「神に出会ったのにわからなかったような悲しい気分だった。」(4の182) につながります。
ここまでが、第二段階。

そして、三段跳びのホップ・ステップ・ジャンプではないですけれども、これと見事に符合する第三段階が第13巻のゲルマント大公邸の中庭で「私」が敷石につまずいた時であり、今回は「私」のもうあとがないという背水の陣の固い決意ですね、
「きみにまだその力があるのなら、通りかかった私をつかまえてごらん、そして私がきみに差し出している幸福の謎を解こうとしてみたまえ。」(13の432)
で、今回は無意志的記憶をたぐりよせて啓示をつかまえる、「本能」による「才能の実体」の採掘はここに終わり、一人の天才が誕生する、まあ、そんな流れでしょうか。

ここで大変気になるのが、二つの会話で、「きみ」で「私」に呼びかけてくる同一の声ですね、問題はこの声の主は誰なのか?ということが、非常に興味のある課題となり、ここではおそらくは神の声であるということにして、一応スルーしてもよいのですけれども、これは「才能の実体」を掘り起こそうとする「私」の分身の声ですよね、天才よ、目覚めよと。
これが僕が昨年「途中経過その1」のなかで考察して書きました「失われた時を求めて」には、どこか『現実的には、もちろん作家本人であるプルーストが書いている訳ですが、なにかその背後にあるもの、具体的にはおそらくはプルーストの先祖のどなたかが書いているような、時を隔てた少なくとも二人以上の人物が複合的に重なり合って書いているような感じが、僕にはどうしてもするのですが。』につながります。

それから、この「三本の鐘塔」と「三本の木」の「三」と「三」に、プルーストは明らかに意味をおいてきていますね、プルーストが、それはただ偶然に一致しただけですなんてことは絶対にしてこない、なんなのだろう、この「三」の意味するものは。
そう言えば、以前にもバルベックで一シーズンに関係した女の子の数をいやらしく数え上げる時にも、「私」は「十三」をはずしたがっていたな (8の422)、それであれば直感的には、これはやはりキリスト教の教義に関することなのであろうか?
仮にそうであるとすれば、これは別に専門家ではなくても、キリスト教で「三」であれば、解明できそうですね。
なんだろう?死と復活の物語の「三」であろうか、まだ少年の時分から、そこになにか「本能」で「才能の実体」を、新しい命と希望をすでに感じとっていたという、年少ゆえにまだ自覚できないところの希望の象徴のようなものとして。

最後になりましたが、僕のような一般市民の独学の読者にとって、このような世界に類をみない美しい長大な物語を読了できたことに対して、誰よりもなによりも、まずはこの方に御礼をお伝えしないことには、一人の人間としてこのままでは終われないように感じます。
訳者の吉川一義氏、誠にありがとうございました。
氏の詳細極まる訳註や解説、またまるで美術解説書のような豊富な図版や資料をともなう御訳業、さらには毎巻本当に楽しみにしておりました計14回にわたる「訳者あとがき」、僕にはフランス語の細かいところまではわかりませんが、容易に想像されることとして、おそらくは前人未到のような御高訳に、心からの敬意と感謝を申し上げます。
本当に心からありがとうございました。

氏の書かれたことのなかで、唯一疑問を感じましたのは、「訳者あとがき(1)」のなかで、
「長いといっても、二日の休みがあれば一冊は読める。」(1の432)
「都合三十日ほどの読書で、居ながらにして人生のすべてを体験できるのである。」(1の433)
という一節でした。
もちろん、長大で難解だと思われがちなこの作品の垣根を少しでも低くして、読者の意欲を高めようと御配慮なされたことは十二分に伝わってきましたが、そこには各々の健康状態というものもありますし、氏がこうしたことを書かれたことで、逆に、おそらくは必ずや、僕/私は二週間で完読しましたみたいな手合いが出てきて、結果として速読を煽るようなことにならないか懸念するからであります。

最終回の今回も拙い文章を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

(おしまい)

2025年9月2日初稿掲載
2025年9月5日最終加筆、修正
和田 健

付記:昨年から今年にかけて、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に関しましては、全部で9回連載いたしました。
掲載の順番は以下のようになっておりますので、ご参考までにご紹介させていただきます。
「途中経過その7」と「途中経過その8」にのみ、タイトルの冒頭に「「天職」発見の物語である」がついている理由は、「途中経過その7」の本文の最後に「お断り」として、説明させていただきました。

①マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み始めて ー途中経過その1 第1巻「スワン家のほうへ Ⅰ」から、第3巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」までー (2024年11月20日掲載)

②マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その2 第4巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」から、第6巻「ゲルマントのほう Ⅱ」までー (2025年2月14日掲載)

③マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その2の番外編 第4巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」から、第6巻「ゲルマントのほう Ⅱ」までー (2025年2月16日掲載)

④マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その3 第7巻「ゲルマントのほう Ⅲ」ー (2025年3月10日掲載)

⑤マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その4 第7巻「ゲルマントのほう Ⅲ」ー (2025年3月21日掲載)

⑥マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その5  第8巻「ソドムとゴモラ Ⅰ」から、第9巻「ソドムとゴモラ Ⅱ」までー (2025年5月11日掲載)

⑦マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その6  第10巻「囚われの女 Ⅰ」から、第12巻「消え去ったアルベルチーヌ」までー (2025年7月18日掲載)

⑧「天職」発見の物語であるマルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み終えて ー途中経過その7 最終回その1  第13巻「見出された時 Ⅰ」から、第14巻「見出された時Ⅱ」までー (2025年8月27日掲載)

⑨「天職」発見の物語であるマルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み終えて ー途中経過その8 最終回その2  第13巻「見出された時 Ⅰ」から、第14巻「見出された時Ⅱ」までー (2025年9月2日掲載)

Untitled 2025 No.15

Posted in Works 2025 with tags , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , , on 30 August 2025 by kenwada

無題 2025 No.15
2025年8月
北軽井沢 作品 No.588
画布に色鉛筆、アクリル
72.7×60.6 cm

Untitled 2025 No.15
August 2025
Kitakaruizawa Works No.588
Colored pencil and acrylic on canvas
29.0×24.0 in.

Sans Titre 2025 N°15
août 2025
Kitakaruizawa Œuvres N°588
Crayon de couleur et acrylique sur toile
72.7×60.6 cm

「天職」発見の物語であるマルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み終えて ー途中経過その7 最終回その1  第13巻「見出された時 Ⅰ」から、第14巻「見出された時Ⅱ」までー

Posted in Essay 2012-2025 with tags , , , , , , , on 27 August 2025 by kenwada

(途中経過その6から続く)

皆様、こんにちは。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) の第13巻を、2025年7月16日に読み始め、その第14巻までを、2025年8月16日に読み終わりました。
したがいまして、これをもちまして、第1巻を、2024年8月30日に読み始めてから、計352日、12ヶ月弱をかけて、ようやく「失われた時を求めて」の全巻を読了いたしました。
僕の場合は、眼病のため常に拡大鏡を使いながらの大変な遅読ですので、まあ、当初計画していた大体1ヶ月に1冊、14ヶ月で読了の予定よりは、少しだけ早かったというところでしょうか、パチパチ。
この一年間で「失われた時を求めて」を読まなかった日が、おそらく4、5日はあったように思いますが、そのような日もメモだけは、常に手元において読み返すようにしていました。
大体ですが、1日に20ページをノルマとしていて、最終巻へと向かうにつれて、特に第10巻あたりから、調子が出ればもう少し読んでいたようにも思いますが、まあ、僕の頭では、同じところを2、3回繰り返して読んだだけでは意味がとれず、4回、5回と読んだ箇所もありますので、と言いますか、ほとんどがそうでしたので、なんだか一気に再々読くらいはしたような感じがいたします (笑)、というのはあまりよくない冗談ですね。
一度、第12巻を読んでいる時に眼の具合が悪くなり、これはもうダメかなと思ったのですが、その後の眼球注射でまた少し状態がよくなりました。
その間、今回のような感想文を、「途中経過その2」だけ「番外編」があったために、これまでに計8回 (今回を含む) 掲載いたしましたので、その分、当然読了が遅くはなりましたが、メモをとったり書いたりしていかなければ、考察も深まらなかっただろうなとは思います。

さて、本題に入る前に、僕の読んだ第13巻が、2023年9月5日発行のすでに第6刷で、誤植が少し気になりましたので、一応念のためにご報告です。
訳注 (300) の (地図②参照) は、地図①参照の誤りではないでしょうか?(13の235)
図26の(Reims, 地図②参照) は、地図①参照の誤りではないでしょうか?(13の273)
もし僕が間違っていたら、これは出版社の方に大変な失礼ですね、ごめんなさい。

さて、本題です!
第13巻で、圧倒的なまでに僕の心に深く突き刺さってきたのは、もう終わりに近くなったところで、プルーストが語り手である「私」を通して展開する文学論ですね、これは衝撃的でした、いや〜、参りました、恐れ入りました、これには!
結局、全14巻を通して、プルーストのこの文学論が、僕にとっては他のどこの箇所よりも圧巻でした。
ここまで苦労しながら、毎日少しずつ読んできて本当によかったな、報われたなこれは、という感じです。

また最終第14巻では、「時」をめぐる興味深い考察が展開され、とくにサン=ルー嬢 (要するにオデットとスワンの孫ですよね、ジルベルトとサン=ルーの娘なわけです) が登場してからの、迫りくる死の脅威と自分の作品・書物に関する「私」のほぼ独白に近いような鬼気迫る記述に大変感銘を受けましたので、「途中経過その7」では主に第13巻について考えたことだけを書き、第14巻につきましては、「途中経過その8」として、次回にまた改めて書かせていただきます。

どちらも非常に印象に残った理由は、僕の仕事柄、それらが制作者側の視点に満ち溢れていたからです。
僕が思いますに、この作品は、少なくともですね、芸術関係の方たちや、これから芸術を志す方たちとっては、必読の書なのではないでしょうか?

さて、第13巻の文学論の中でも最も僕の心に深く食い込んできたのは、
「才能の実体は普遍的な財産、収穫であり、その存在はなによりも思考や文体といううわべの流儀の下に隠れているものによって確認しなければならない」(13の486)
「本能は義務を果たすよう強いるが、知性はその義務を回避するさまざまな口実を提供するからである。」(13の457)
「芸術家はいかなるときも自分の本能の声に耳を傾けるべき」(13の457)
という文章です。

ここへきて、プルースト自身の文章からこれだけの長大な作品の謎が初めて明かされ、本能で突き進んで書いてきたからなのですね、本人がそう宣言している以上、これには疑いの入れようがありません。
つまりは、類まれな構成作家でもありながら、同時に知性を排除し、非理性的で感覚的な本能に常に忠実であれと邁進してきた結果として、物語はさまざまな方向へとなんら制約を設けることもなく膨張し続け、その結果として、このような類をみない長大な作品になったと。

(ここで実際に、どのくらい制約がないかというと、これには正直なところ困惑しましたが、コンブレーって初版 (1913年) ではウール=エ=ロワール県にあったわけです、僕が住みなじんだ懐かしい思い出の県に。
でもそれが再版 (1919年) では、これは間違いなく第一次世界大戦の戦時下において、ジルベルトに当時まだ5才 (推定) のサン=ルー嬢を抱かせてドイツ軍の侵入を迎えうたせるためには、ジルベルトがもっと東部戦線にいければならないということだと思うのですが、なんとコンブレーは前線のシャンパーニュ地方へ移されているのです。
僕はもう、え〜?という感じで、さすがにこれはちょっとなあです、なにか他の解決策がなかったのでしょうか、たとえ初版の時点では、第一次世界大戦 (1914-1918年) が予期せぬできことであったにせよ。
まあ、僕の個人的なことはさておき、これは「スワン家のほう」も「ゲルマントのほう」も一緒にお引っ越しをしたということですよね。
さらに言えば、「ヴィヴォンヌ川」も一緒にお引っ越しをしている、どこの川が汽車に乗って移動しますか、そして、この川とその「水源」にはとても大切な意味が含まれていますよね。
つまりは、僕の言いたいことは、これは第12巻の旧稿の残滓である「洗濯屋の小娘」の「ニース」の件とは意味合いが異なり、長大な物語の起点そのものを動かしたということですよね。
しかもその起点であるイリエ=コンブレーは、プルーストにとって実父の出身地であり、幼少期にたびたび滞在した極めて思い出深い土地でもあるわけです。
僕は生まれて初めて物語の出発点が移動する作品に接しましたが、作家として新たな構想のためには、物語の根本的な土台である土地の場所さえも自由に変更することを自らに認めるプルーストの心の中にあるなにごとにも囚われない精神とは、一体どのようなものなのであろうか?)

要するに、プルーストの結論としては、思考や文体などというものは、あくまでうわべの流儀に過ぎず、才能の実体というものは、通常、うわべの流儀の下にひっそりと静かに存在しているもので、それを探り当てて、引き摺りだしてくるものが、本能であるということですよね。

この文体の部分なのですが、プルーストによるゴンクールの「文体模写 (pastiche)」が、第13巻に出てきますよね、僕は生まれて初めて「文体模写」というものを読みましたが、要するに物真似の類いという理解でよろしいのでしょうか。
プルーストはさまざまな作家の文体模写をしていますよね、それらを通じていかに文体などというものがうわべの流儀に過ぎないものか、その作家の思考と合わせて実感したのではないでしょうか。
物真似できるという時点で、やはりそれは一種の技芸であり、才能の実体なるものとは違う、才能の実体なるものは本人にしかない、物真似などの対象にはならないということですね。

つまりは、これを僕の仕事に当てはめて確認してみますと、思考や文体 (形や色) などというものは、あくまでもうわべの流儀にしか過ぎないということです、う〜ん、この認識はすごいな、そして同時に僕にとってこれはかなり手厳しい認識でもあります、わかったか (というのは自分に対してですが)。
思考や形や色などというものは、あくまでもうわべの流儀に過ぎないのだ、その下に才能の実体が潜んでいる!
うん、そうかもしれないな、などと簡単に書いていますが、これを実感するのに、僕はなん日もかかりました。

そして、その時に障害となるものは、実は知性だということですよね、さまざまな口実を設けてくるから。
つまりは、端的に言うと、知性は多弁であり饒舌であり、要するにおしゃべりだということですよね、知性は放っておいても自ずとしゃべり出すということです。

つまりは、僕がもう10年以上も前から標榜してきた「言葉によらない絵画」は、目指す方向として、それほど大きく踏み外してはいなかった、間違いではなかったというところでしょうか。
僕は普段からいつも一人で活動していますから、それを単独で探り当ててきたのは、僕の本能であり、それは僕の直感や嗅覚でもあったのでしょう、おそらく。
「私がそのことを確信したのは、写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは (後略)」(13の460、461)
「それゆえ「さまざまな事物を描写する」だけに甘んじ、その事物の輪郭や外観の貧弱な一覧を提供するだけの文学は、写実主義と呼ばれているにもかかわらず、現実から最も遠い文学であり、われわれを最も貧しく最も悲しくする文学である。」(13の468)
というプルーストの言葉もあります。

う〜ん、まさかこの年になって、プルーストから個人的に励まされているように感じられるとは、まったくもって思いもよりませんでした。

そして、この才能の実体の部分なのですが、これについて深く掘り下げて考えてみますと、人間は誰もが回り道をしながら、それでもなんとか少しでも自分の人生をよりよいものにしようと頑張っているわけですが、うわべの流儀の下に隠れているこの才能の実体なるものは、実は幼少期にほぼ形成されていて、具体的には小学校を終えるころまでにはすでに固まって存在しているのではないでしょうか?
本人やまわりがそのことに気づかないだけで。
仮にそうであるとしますと、これはプルーストの話と見事に符合し、「私」が子どものころにお母さんのキスがないと眠れないだとか、ジョルジュ・サンドの『フランソワ・ル・シャンピ』を読んでもらうだとか、そうした体験の中に才能の実体がすでに育まれていて、プルーストはそれを伝えようとしたのではないか?
僕が「途中経過その6」のなかで書いた、親族の優しさや懐かしさにくるまれたいがためだというのは少し認識が甘くて、そのことを物語の出発点にもってきたかったのではないのだろうか?

つまりは僕の言いたいことは、親がああしろ、こうしろと、例えばですが、英語を習いなさい、スポーツのこれこれをしなさい、ピアノを習いなさい、いわゆるお受験などもそうですね、こうしたものは親が一緒にやってくれたのであればまた別ですが、えてして才能にはならずにそれは特技となり、本人もまわりや先生から上手だね、勉強ができるねなんて言われるものですから、次第にその気になって才能があるのだと思うようになり、やがて成長した段階のどこかの時点で、実はそれは特技であって才能ではなかったことに気づき愕然となり、そこから今度は本能で自らの才能をプルーストの言うところの「時」のなかから引き摺りだしてこないとならない、その時になって初めて本人が自覚することは、実は才能の実体の形成は幼少期にあったのだということです、それは本人はもとより親でさえもがおそらくはまったく思いもよらなかったような才能の形として。

つまりは、親が「この子は才能があるんだ」なんてしばしば言ったりしますが、それは才能があるのではなくて特技が形成されたのであり、まだ幼少期にある子どもが自らの才能を見抜くことなどは、まず常識的に考えて不可能であり、まわりの大人でさえもが看破することはかなり難しく、人は「あの人、才能があっていいわねえ」などとよく口にしますが、人が羨みやすいものは目立ちやすい特技であり、才能を羨むことなど実はそれほど実際にはあまりないのではないでしょうか?
とどのつまり、思考や文体と同じく、特技もうわべの流儀に属するのではないでしょうか?
僕の考えたことが、少しでも構いませんので、皆様に伝わりましたでしょうか?

さて、「万事休すと思われた瞬間、ある前兆がおとずれ、われわれを救ってくれる。」(13の430)


この言葉は、素晴らしいですね!

つまりは、人生が底を打ち、もうこれ以上落ちるところがなくなった時になって初めて、神の唯一にして一度限り(人生に啓示は一回のみなのではないでしょうか、二回目はないのではないでしょうか) の啓示が訪れ、マタイによる福音書「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」の出番となります。
人間、落ちるところまで落ちないと、門をたたいても、なにも開かれませんし、別にこれといった啓示も授かりませんから。

(この啓示の問題につきましては、落ちぶれてもうまったく構えというものが必要なくなり、心のふたがとれて、無意識の最下層にある、まるで屍のようにそれまで打ち捨てられ忘れられていたものが、浮上してくるという捉え方を僕はしています。)

さあ、ここから反転攻勢ですっていう感じで、プルーストは一気呵成に集約してきます、ここはプルーストは完全にまとめに入ってきたな、結論にもってきたなという感じです。

そして、例によって実にあっさりと設置されたその踏み切り板とは、第13巻の430ページの6行目と判断しましたが、僕の理解でよろしいのでしょうか?
なにしろですね、ここまでの12巻分の蓄積があり、実に長い長い助走をしてきましたので、プルーストはここでもう準備万端の大ジャンプを見せます。

そして問題は、まさしくこの踏み切り板の直前の部分にあるわけですよね。
なにゆえ語り手である「私」は人生の底まで落ちたのか、その謎を解く鍵は、三度にわたる「療養所」に関する記述以外のなにものでもないように感じます。
繰り返しになりますが、問題は実にここのところにあるのではないでしょうか。
「療養所」に関する一度目の記述は、
「そもそもこのあいだ私は、書くことを完全にあきらめ、治療のためにパリから遠く離れた療養所ですごしたのだが、一九一六年のはじめには、もはや療養所に医療スタッフがいなくなった。」(13の102)
とあり、二度目の記述は、
「もっとも私はパリには長くとどまらず、早々に療養所へ舞い戻った。そこの医師は原則として患者たちを世間から隔離して治療していたが、(後略)」(13の167)
と続き、そして三度目の最後の記述が、
「私があらたにひきこもった療養所も、最初の療養所と同じく、私を快癒させるには至らなかった。そして多くの歳月が経過し、ようやく私はその療養所を出た。」(13の404)
となっています。

つまりは、「私」は「快癒」したいがために、二箇所の「療養所」に入所して「治療」を受けていたということですよね、残念ながらその願いはかなわなかったけれども。
そして、次は当然、「私」はいったいなんの病気だったのかという素朴な疑問がわいてきますが、プルーストはこの肝心な件について、一切触れてきませんよね。
そこで読者は憶測するしかないわけですが、まあ、ここは普通に考えまして、容易に想像されることですが、僕は当初は精神的な疾患なのではないかと考えていましたが、ただし、このあとに、
「私の病状を伝え聞いたある人が、いま流行中のインフルエンザにかからないか心配ではないかと訊ねてくれたとき」(14の43、44)
というのが出てきますので、う〜ん、呼吸器系なのかな、プルーストは生涯喘息の発作に大変苦しめられたようですから。
また、「パリから遠く離れた療養所」で、プルーストはそんなことわかるだろう、ちゃんと示唆しておいただろうと、伝えてきている感じがいたします。
これの意味するところは、おそらくは転地療養であり、空気がよいということですよね、そうしますとこれは極言すれば結核なのかもしれない。
この病名につきましては、専門家にお訊きましたら、即答してくれることと思いますが、答えを聞いてああそうですかで、それではまったく面白くもなんともない、自分で考えないと。

いずれにいたしましても、ジルベルトに恋をし、次はゲルマント公爵夫人に恋焦がれ、さらにはアルベルチーヌとの恋愛で疲れはてたあげくにアルベルチーヌは不慮の事故で死んでしまい、「私」は精神または肺や気管支を病み、療養所暮らしを送ったものの全快せず、パリへ帰る
「汽車が野原のただなかに停まったとき」(13の405)、
「線路沿いに一列につづく木々の幹のなかばあたりまで夕日が照らしだしていた」(13の405)、
ここから「木々よ」で続く「私」の独白は美しい、圧倒的なまでに美しい!

そして、告白はこう続きます。
「もし私に正真正銘の芸術家魂が存在するのなら、夕日に映えるこの木々の幕を前にして、また車両の昇降台に届くほど背伸びしている土手の可憐な花々を前にして、どうして歓びを覚えないはずがあろう?」(13の406)
「失われた時を求めて」全巻は、ここへきて、もうこの文章に極まれりという感じですね!
ちなみに、土手に咲く可憐な花々が、おそらくは名もないような野草であることに注意です。
ここでプルーストは、野草を「芸術家魂」と、枯渇した「私」の生命力に対して「背伸びしている」で溢れるばかりの雑草の生命力とを結びつけてきています、決して市販の園芸品種などを出してはこない!
さらには、この「背伸びしている土手の可憐な花々」と、以前出てきました「三本の木」(4の177) の「この道の下からきみのところまで背伸びして行ってやったのに」(4の182) が結びついていますね、ここのところ。

そして、ここからがプルーストの究極の意図なのですが、プルーストは意図的に、「療養所」内の生活については、一切記述してきません。
これはどうみてもプルーストは、明らかに書かないと決めてきている感じがいたします。
他のことについては、これだけ逐一長々と書いてきているのに、療養所内の日常や出来事については一切触れてこない、ですから、そもそも読者はなんの病気なのかさえもわからない。
これはやっぱり普通に考えて、語り手である「私」のこれまでの言動からすると、「療養所」内でも「多くの歳月」の間に、恋愛を繰り返したように感じるのです、例えば新たな入所者の女性だとかに対して。
これはなぜなのか、なにゆえプルーストの「本能」が、「療養所」内の記述をとめたのか?
なにゆえプルーストは、「私」の凋落や枯渇を書かずに、再生を書いたのか?
それは、エネルギーなのではないでしょうか、もう残り少ない人生だというエネルギーがそうさせたのではないでしょうか、おそらくですが。
これだけなにもかも詳細な「失われた時を求めて」なのですから、「消え去ったアルベルチーヌ」と「見出された時」の間に、「療養所」篇があってもなにもおかしくはありません。

プルースト自身が大変な病弱ではあったけれども、これだけの長期にわたり療養所に入所していたという事実が確認されていないのであれば、確認されていないですよね?
第1巻の巻末の「プルースト略年譜」を読むと、母を亡くし悲嘆に暮れたプルーストが、1905年12月3日から1906年1月末までパリ郊外のサナトリウムに入院していることがわかりますが、それにしても2ヶ月弱です。
いずれにしても、プルーストは、語り手である「私」の人生は、ここで一旦絶望的となり底を打ち、その後に反転すると構想してきたことは、どうみても明白であるように思いますが、それにしても、「私」が1916年に第二の療養所に入ってから、ラストのゲルマント大公邸における午後のパーティーが、1925年頃と推定されているのであれば、この間の9年間は病気の療養としては長いなあ〜、実に長い!
さらにはこれに加えて、第一の療養所時代も当然含まれるわけですから、相当に長い治療期間になります。

これは一笑にふされる荒唐無稽な意見なのですが、え〜と、荒唐無稽な意見を書いていかないと脳が伸びないんです、本能を引き摺りだせないんです。
これはあれじゃないのかなあ〜、プルーストは後世の作家に、ここの「療養所」のところを書いて欲しい、もう時間がないから端折ってバトンタッチするけれども、なにゆえ野原のただなかの木々を美しく思えなくなったのか、あの場面はこれ以上ないくらい美しい、上述しました「三本の木」もこれに付随しますよね、そこで、大変唐突なのですが、トーマス・マンの「魔の山」(1924年出版) が、どうしても僕にはここで思い出されるのです。
ただし、「見出された時」の刊行は、プルーストの死後の1927年ですから、時系列的には不可能であり矛盾するのですが、それは確かにそうなのですけれども、なにか「失われた時を求めて」と「魔の山」の類似性、類縁性が、僕には非常に気になるのです。

1871年生まれのプルーストと1875年生まれのマンという、フランスとドイツの同時代人の偉大な作家が、相前後して「療養所」をキーワードにしている。
サン=ルーの第一次世界大戦のあっけない「部下の退却を掩護」(13の387) した戦死にしても、「魔の山」のラストシーンでカストルプが同じく第一次世界大戦の戦場であっけなく死ぬことが暗示されますよね、それが僕にはなにかとても自然に思い起こされるのです。

マンは「失われた時を求めて」の少なくともプルーストの生前刊行部分は当然読んだことであろうから (これは「トーマス・マン日記」(紀伊國屋書店) にあたれば調べられます)、プルーストの記述から、なにかひらめいたのではないだろうか、芸術は先人からの継承ですから。
マンは、旧約聖書のあの部分に親しんで、ここをふくらませれば一つの大きな物語になると考えて「ヨゼフとその兄弟たち」を構想してきていますよね。
まあ、一笑にふしてくださいとか書いていないで、疑問があるのなら自分で調べてみたらということで、早速少し調べてみましたら、やはりマンは、当時ドイツではまったく無名だったプルーストを友人のアネッテ・コルプという小説家に1920年に教えられて初めて注目し、その後は1935年1月の旅行にも二冊持っていくなどかなり読んでいますね。
このあたりの経緯は、「トーマス・マン日記 1935-1936」の巻に詳しいです。
反対に、これだけ詳細な「失われた時を求めて」全14巻の記述のなかにマンの名前が一度も出てきませんので、おそらくですがプルーストはマンを読んではいない。
このプルースト⇄マンの両者の関係性は、非常に興味のある研究テーマになりそうですので、おそらくもうずいぶん研究が進んでいるのかもしれません。
例えばですが、「1935年7月28日 日曜日。」の日記には、「きのう『ゲルマント公爵夫人』を読み始めた。」とあり、「1935年11月28日 木曜日」の日記には、「きのうまた寝るのが一時半になり、なお『ゲルマント公爵夫人』を終わりまで読んだ。」とありますので (うん?あのマンでさえ、『ゲルマント公爵夫人』を読み終わるのにちょうど4ヶ月か、まあ、もちろん忙しさの桁が違うのでしょうけれども、それにしてもあえて速読はしてこないな)、ああ!マンがゲルマント公爵夫人の「才気」をどう思ったかについて、書簡かなにかで、たとえ1行でも2行でもいいから書いていてくれたら、どれほど助かることだろうか、なんと言っても、そこはマンですから!
そして、とても興味深いことに、マンはこの頃「エジプトのヨゼフ」の章を書いていたのですね。
さらに興味深いことには、マンは「1936年1月13日 月曜日」に「ついで『スワン』を読んだ。」とありますが、順番が逆だな。
(お断り:「トーマス・マン日記」の原文では、日付はすべて漢数字が使われています。例えば、三五年七月二十八日のように。)

ところで「本能」の話に戻りますが、絵画は文学以上に実は本能を使うのではないでしょうか?
言い方を変えれば、より原始的、原初的であるとでもいうような。
このことは我が家に来る親戚や友人の幼児を見ていればよくわかります、小さな子どもは字を書くよりも、まず先に絵を描きますから。
つまりは、小説家の方が画家よりも、思考や文体などのうわべの流儀を駆使しやすい、うわべの流儀におちいりやすい面が、少なからずあるのではないでしょうか?
うん?そんなことはないか、画家も用心して脇をしめていないと、かなりおちいりやすいな。

それから、世間で流布されているようなゲルマント大公邸で語り手である「私」が、参列者を眺めながら文学に目覚め云々な感じではないじゃないですか、全然イメージが違うじゃないですか。

まだサロンに入る前に、ゲルマント大公邸の書斎にいる段階で、すでに「かくして私はすでに結論に到達していた。」(13の460) ではないですか!
それはなぜかと言えば、語り手である「私」自身がすでに何度も触れているように、「私」は一人でないとものを考えられないし、一人でないとものをみれないからです。
サロンでは、「私」の「時」をめぐる考察により、その肉付けがなされ強化される感じなのではないでしょうか。

最後になりましたが、プルーストが語り手である「私」を通して繰り広げる第13巻の文学論のなかで、特に印象的だった他の言葉を、いくつかご紹介させていただいて終わりにいたします。

「それというのも真の楽園は、失われた楽園だからである。」(13の439)

「なんらかの類推の奇跡」(13の441)

「この人間にとって「死」という語はもはや意味を持たないことが理解できる。時間の埒外にある人間であれば、未来のなにを怖れることがあろう?」(13の444)

「ところが私に美しく見えたのは、つねに敗れた場所のほうであった。」(13の447)

「ただひとつ実り豊かな正真正銘の喜び」(13の448)

「ほかの喜びが私たちを満足させることはできないという点である。たとえば社交の喜びが与えてくれるのは、せいぜい卑しいものを食べて消化不良をおこしたときのような不快感にすぎないし、また友情なるものも見せかけにすぎない。(中略) 友人と一時間のおしゃべりをするために一時間の仕事を犠牲にする芸術家は、実在しないもののためにひとつの実在を犠牲にしていることを知るからである」(13の449)

「こうした表徴の背後には、(中略) 判読できない象形文字のように、その表徴の表現するなんらかの想念が隠れているのかもしれないと感じながら、(中略) その解読はたしかに困難なものであったが、しかしその解読だけがなんらかの真実を読みとらせてくれるものだった。」(13の454、455)

「ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは、芸術作品をつくること以外のなにであろう?」(13の455)

「その表徴を解読するのに、いかなる形であれ私を手伝ってくれる者はひとりもなく、その解読は、だれに代わってもらうこともできずだれかに協力してもらうことさえできない、創造行為なのである。それゆえいかに多くの人がそのような書物を書くことから離れてしまうことだろう!人が多くの責務を引き受けるのは、この責務を避けるためではないか!」(13の457)

「同時に、現実がわれわれに書きとらせた唯一の書物」(13の458)

「われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。(13の458)

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある。(中略) われわれの内部にあって他人の知らない暗闇からわれわれ自身がとり出すものだけが、われわれのものなのだ。」(13の458、459)

「大衆芸術という考えも、愛国主義の芸術という考えと同じく、たとえ危険ではなかったとしても、私には滑稽千万なものに思われた。(中略) 私は社交人士ともよくつき合っているので、ほんとうに教養がないのは社交人士であって、電気工ではないことを承知している。」(13の474)

「作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである。」(13の480)

「かくしてどれほど多くの人が、芸術の独身者として、自分の印象からなにひとつとり出せないまま、役にも立たず、満足することもなく、年老いていくことだろう!(中略) この人たちは、芸術作品のことになると、本当の芸術家よりも昂奮する。なぜならその昂奮は、この人たちにとって、深く掘り下げる辛い仕事の対象ではなく、外に拡散してその会話を熱くさせ、その顔を紅潮させる昂奮だからである。」(13の482)

「実際この愛好家たちは、芸術において真に栄養となるものを消化吸収しないから、いわば過食症に悩まされてつねに芸術的歓喜を必要とし、けっして満足することがない。」(13の484)

「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である。」(13の490)

「作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題だからである。」(13の490、491)

「深淵への回帰」(13の492)

「真の書物は、真昼の光とおしゃべりから生まれるのではなく、暗闇と沈黙から生まれるものでなくてはならない。」(13の495)

「祖母が断末魔の苦しみにあえいで死んでゆくのを、私はそばでなんと平然と眺めていたことだろう!ああ、そんな私など、作品が完成した暁には、その償いとして手の施しようもなく傷つき、長きにわたって苦しみ、みなから見捨てられて死んでゆけばいいのだ!」(13の504)

「私はいっときたりともアルベルチーヌの愛を信じたことはないのに、そのアルベルチーヌのために何度も自殺しようと思い、財産を使い果たし、健康を損ねた。」(13の519)

「実際には、ひとりひとりの読者は、本を読んでいるときには自分自身の読者なのである。」(13の521)

おしまいにひとりごとです。
・男娼館におけるシャルリュス男爵の有名な鞭打ちの場面 (13の319から) ですが、これは専門家にはどのように解釈されているのでしょうか?
僕は、これはプルースト一流のアイロニーであり、作家として俯瞰的な見地から読者を選別している、言わば踏み絵の類いなのではないかと直感いたしましたが。

・プルーストが、ジュピアンの姪のことをジュピアンの娘だと、しばしば混同するのが非常に気になりました。
作家として登場人物が姪なのか娘なのかは、通常間違えないと思いますので、これはなにかの病気の初期的な兆候なのでしょうか?
それとも、ただ単に時間に追われていただけの混乱なのでしょうか?
僕にはわかりません。

・僕の仕事柄、画家エルスチールが誰なのかは、やはりかなり気になりました。
一応、何人かの画家をモデルとした上での総体なのかなというのが僕の感触ですが、一度英文の資料を読んでいて、モデルは「モネ」と出てきた時には、えっ?と、かなりびっくりしました。

・同様に、大作家ベルゴットは誰なのかも気になりましたが、「作家の語っているのはだれのことかを突きとめようとする研究が空しい理由のひとつはここにある。」(13の515) のところで、考え直させられました。

・「療養所」の記述を読んだ時、フランス時代にフランス人の大切な友人が精神を病み、妻とパリ郊外の療養所を見舞いに訪れた時のことを突然思い出しました。

拙い文章を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

(途中経過その8に続く)

2025年8月27日初稿掲載
2025年9月1日最終加筆、修正
和田 健

お断り:今回の「途中経過その7」からタイトルの冒頭に、「「天職」発見の物語である」をつけ加えさせていただきました。
これは、プルーストの本文中では二回にわたり、
「その結果、この書物がものがたる目に見えない天職が明らかになるまでの長い歳月」(7の127)
「この日までの私の全生涯は、「天職」という表題にまとめることができるかもしれない」(13の498)
と出てきますが、さらには、吉川氏の「訳者あとがき(14)」の中でも、二度にわたり、
「天職発見の物語」(14の310)
「「天職」発見の物語」(14の338)
として出てくる言葉があまりにも素晴らしく、お借りさせていただきました。

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Colored pencil and acrylic on canvas, 29.0×24.0 in. (72.7×60.6 cm)

この方がいいな、問題はどこを抜くかだな。
というわけで、このあとに逆に加えていってみました、引く感触をつかむために足す、そんな感じです。

わかった、結局、シンメトリーはカオスを作り出すことにあるんだな。
庭の千々に咲き乱れる花々とまったく同じです。
この年になっても、日々新たな気づきがあります。

2025年8月24日
和田 健

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アトリエの写真

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2025年8月9日、パリ時代の知人の写真家のHさんが来宅。
僕のアトリエの隅の机のところが特に気に入られて、モノクロームの写真を撮って送ってくださいました。
遠いところからお越しくださり、大変ありがとうございました。

2025年8月13日
和田 健

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