Archive for 3 March 2020

結論として我々人間は絵画=色+形には究極的に絶対に勝てないのではないだろうか?

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 3 March 2020 by kenwada

目下、“Untitled 2020 ーfrom the series Purple Paintingsー”(仮題)なるものに取り組んでいます。写真向かって右から左へそのNo.1,2,3,4。すべてまだまったくの途中です。
このPaintingがおそらく僕の究極のスタイルかもしれない、面白い、今までと面白さのが違う。ずっとこれをやっていよう。和田っていえばこれっていうような。紫と白。これは完全に目で味わう作品過程であるとともに、あとはこれは成り行きだね。静かに、静かに、ただひたすら静かに。もう絵に勝手に描いてもらう感じです。描き手の自分は存在しないで。今日はNo.3が突如として浮かび上がってきた。このくらいいい加減でいいのと、白の横抜きがあるからだと思う。絵画には本当に危険な魅力があります。うまく言えないけれども、一度始めたらもうとことんのめり込むしかない、何かそういう入っては行けたけれど、うまく出て来れなくなった、みたいなものが絵画にはあります。
2月の苦闘の後に今のこのちょっとした平穏な感覚がやってきました。
つまり、向こう(絵画)の方のが速い、めくるめくようなそのスピードに人間の脳はどうしても構造的について行くことができない。動かした色と形を認識するのにどうしても物理的に時間がかかる。
そこでどういうことになるかというと、毎日負けることになる、連日連敗、連戦連敗。
そこでどういうことが必要になるかというと、人間として精神がフラットであるということ(このことはJoe BradleyのYouTubeを観て学んだ、Thank you, Joe!)、心のギアが常にニュートラルに入っているということ、肩に力が入っていないということ、が必要になる、だって毎日負け続ける訳だから。そんなことがこの仕事を続けて行く上での鍵、コツのようなものになる。
ムキになっても意味がない、落ち込んでも弱気になってもそんなことにはまったく何の意味もない、向こうの方のが速くて強いのだから。勘違いするな。まあそういう意味での謙虚。挫折、失敗が日常であり常態です。それから、別に何の関係もないんじゃないのか。人は待って熟考してから塗っていけって言うけれど、構わずバンバン塗っていって、実は全然構わないのではないのか。絵画はとにかくまず大胆に色と形を動かしてみないと分からないから。逆に熟考すればわかるのか。それは一歩間違うと大変な不遜につながるのではないのか。例えば、モネは睡蓮の作品を現在確認されているだけで800点描いたけれども、モネが色と形を認識するのにどうしても時間がかかったために何枚も描かなければいけなかったとしたら、ピカソはゲルニカの習作を800枚描いたと言われているけれども動かしてみるまでは色と形を認識するのに気持ちの中に何かいつも引っかかるものを抱えていたと、もし仮定したらどうしますか。天才にはそんなことはないんだなどと、どういう根拠をもって言い切れるのですか。いくら何でも睡蓮ばかり普通800点も描きません。それは何故かというと、通常飽きるからです。飽きないと言うのはモネが追いかけたということです。夢中になって面白くて、色と形を追いかけてとらえるのに800枚かかった。
つまり、人間の脳は色と形を追い越すことができない、予め先回りして準備しておいて、有効ないい一手を先手として打つことができない。それは何故かと言うと、絵画には実は運動分野の能力が大きく影響しているからだと思う。そこのところを論理的分野の能力でいけるとついこれまでの日常の習慣等から人は考えてしまう。
この間、僕の心を励ましてくれたものは、インターネットのル・クレジオ氏の講演会「詩の魅力」と「青春を書く、老年を書く」です。氏の語る飾り気のない言葉や話の並列の中に含まれる何かが僕の心を強く温めてくれました。
そんなこんなで少しずつ気持ちを立て直しつつ高めてきました。一昨日「嵐」を読み始めました。
僕はこんなことを毎日考えたり感じたりしながら生きています。
そしてそれは決して普遍的なものではないけれども、僕の心の中ではほんの僅かですが小さな意味が確かにあります。
さあ人生は短い! 共に前に進みましょう!
2020年3月3日記
和田 健