生きていたみんなだれもが生きていた
(結局、みんな生きていたという事実、この事実だけは変わらないですよね。それでしたら、もう少し人の人生を尊重しましょう。金持ちも貧乏人も、有名になった人も無名のまま終わった人も、成功者も挫折した人も、努力が報われた人も苦労が報われなかった人も、幸せだった人も不幸だった人も、いつも笑顔だった人も暗い顔をして生きていた人も、気が強かった人も人前では話せなかった人も、金にだらしなかった人も吝嗇だった人も、結婚した人も独身だった人も、子どもがいた人も生まなかった人も・・・・・、みんな誰もが生きていた、そして全員亡くなったという事実だけは変わりありません。)
幾千の幾千万の記憶逝く
彼の人が語りし記憶無名人(びと)
あのよから百年たちし我家みる
▶︎「家族の思い出」
祖父母いてちちはは生まれわれ生まれ
なつかしや祖母と母屋の掘炬燵
(懐かしいなあ、世田谷区代田時代の母屋は昭和6年築の旧日本家屋で、もちろん平家でした。その茶の間には掘り炬燵があって、窓の下には横に細長い箒の掃き出し口がありました。今では珍しいお手伝いさん部屋や、祖父のための応接間もありました。僕の父方の祖父は、1901(明治34)年、祖母は1905(明治38)年の生まれです。この旧日本家屋の家で暮らしたことが、僕の情緒の形成にかなり大きな役目を果たしたように思います。そして、僕は祖父を今日に至るまで他の誰よりも尊敬して育ちました。季語:掘炬燵、冬。)
駒込の磯辺つくりし火鉢かな
(これも非常に懐かしい思い出です。僕の母は日本橋で生まれて神田で育ちました。母の実家はその後田端の家を経て駒込に移り、この駒込の家から母は父のところにお嫁に行きました。駒込の家には玄関を入ったすぐのところに火鉢があり、この火鉢で祖母が正月などによく餅を焼いてくれました。祖母からは「磯辺がいいか、安倍川にするか」を訊かれました。祖母は姉と僕の二人の孫をとても可愛がってくれて、駒込から松戸の団地まで月に一度必ず会いに来てくれました。僕の母方の祖父は、1892(明治25)年、祖母は1900(明治33)年の生まれで、母が20才の時に祖父が亡くなり、その一回忌が終わるのを待ってから、母は21才の時に父と結婚しました。季語:火鉢、冬。)
なつかしき着物の匂いひざの上
手をひかれ五香までのお供かな
蔵前のしろめし旨き相撲かな
(これも非常に懐かしい思い出です。松戸の団地に住んでいた一家四人の僕の家族は決して裕福な家庭ではありませんでしたが、祖父が切符を手配してくれたお陰で、当時の蔵前国技館の枡席で大相撲を観戦するという我が家の経済状態からみたら考えられない機会に何度か恵まれました。枡席ですと弁当がつくのですが、この白米を初めて食べた時の驚きと言ったら、世の中にこんなにうまいものがあるのかと思いました。今の若い人には何を言っているのかわからないと思いますが、当時の蔵前国技館には土俵の外の四隅にまだ柱が立っていて、勝負所になると柱の陰の席の人は右や左に身を乗り出すようにして見ていました。昭和の相撲には、出世するにつれて役に見合うように体が少しずつできてくる情緒がありました。僕は全盛期に突然亡くなった横綱玉の海がまだ玉乃島の四股名の頃からの大ファンでした。今は幕下の取的の頃から巨体と巨体がぶつかり合って風情も何もあったものではありません。)
半ドンの父が帰りて野球する
(「半ドン」という言葉は、今ではほとんど聞かれなくなりましたね。当時、土曜日になると父が「今日は半ドンだから」と言って、日本橋の会社から午後三時ごろには松戸の団地に帰って来て、そこから二人の野球が始まります。この話は「小中学校時代の思い出ー野球のことなどー」の中で詳しく連載させていただきました。)
▶︎「母の介護、母の思い出」
最愛の手をにぎりしめ食べさせる
(来月で妻と協力しながら、母の在宅介護をして丸15年になります。
また、母が寝た切りになってから、すでにもう2年以上が経過しました。
ところで「母」という文字こそは情緒の王者、季語の中の季語なのではないでしょうか?
そして、そう思えるということは、とても幸せなことでもありますよね。
母のことだけは思い出したくもないという方もおられることでしょうから。
在宅介護をする時、その人の手を握ってあげると1.2倍食べます。
これは毎日の介護の実践から得たまさに事実そのものですね。
つまりは、10食べるところを12食べます。
この一食ごとの2の差は大きいです、これを毎食毎食2ずつコツコツと積み重ねていきます。
人はいくつになっても手を握ってもらうと安心するんですよね、特に高齢になると心細くなりますので、その分、心強さも増すのではないでしょうか。)
最愛の母を見つめてつかれたり

介護してふるき写真をかざりたり
一ヶ月お宮まいりの母わかし
冬むかえ母に問いかけこたえなし
介護とは妻のおかげの三六五(さんろくご)
こうぶつをそろえし妻に感謝する
介護してパリとフランス遠ざかり
あしたはねゆっくりねてね日曜日
(大変残念ながら、もう今の母には曜日はわからないのですが、これは毎週末必ず言います。)
いちどだけ言ってみたいよ会社行く
(これも介護の現場の実感そのものですね。亡父がずっと会社員をしていましたので、僕ももちろん会社に行けばもっとずっと大変なことがいろいろと待ち受けていることはよくわかりますが、タイムとでも言いますか、一旦介護という目の前の現実から離れられるじゃないですか。ですので、僕も一度だけ言ってみたいんですよね、「俺は今忙しいんだよ、会社行くぞ、仕事だよ、仕事、遊びじゃないんだよ!」
まあ、在宅の仕事の身ではそれもかなわぬことだなあ。)
せのびして母とみあげた飾り棚
ゆくすえを暗示したのか飾り棚
(僕の母は手先が器用な人で、松戸の団地時代には長い間、内職として和裁の先生をしていました。ある時、母が縫った着物が仕上がり、当時、五香駅の近くにあった和服店のショーウィンドーに飾られているというので、母に手を引かれながら観に行った幼い日の思い出です。2005年にパリで初めての個展をしました時に、ギャラリーのショーウィンドーに飾られた自分の絵を観た時に、突然、この時の母との思い出がしきりによみがえりました。中七「暗示」は「案じ」に言い掛ける。初案は中七「語っていたのか」。)
梨もぎやぐるぐるまわし楽しけれ
(当時、松戸市常盤平のさくら通りの近くに梨園があり、母と何度か梨捥ぎに行きました。当時のことですから大らかなもので、地面に落ちている梨は拾って食べてもよくて、それをテーブルに備え付けの鉛筆削りのような鉄製のぐるぐる回す機械に刺して皮を剥いて食べるのです。みんながたくさん使うのでハンドルのところがゆるんでいたことを覚えていますが、あれは実においしかったなあ。季語:梨、秋。)
家計簿にそろばんはじくゆうべかな
(僕の母は非常に几帳面な人で、得意だった算盤を使って、毎日夕方になると決まって家計簿をつけていました。だらしないのが嫌いな人でしたので、それこそ1円でも合わないと、真剣な表情でずっとやっていたことを鮮明に覚えています。合わないのなら、もう合うまでとことんやるという感じでした。さらに年末になるとその一年の収支を計算していました。親が厳しく言ったことが子どもの身につくのかどうかは僕にはわかりませんが、例えば毎朝のお経ですとか、親が黙々と精を出していたことは、子どもも必ず同じことをしますね。僕も今年で日々の簡単な家計簿をつけるようになって28年目になります。)
川むこう赤々と燃えて怖かった
(僕の母は、千代田区立今川小学校(当時は東京市今川国民学校)の時に、埼玉県行田市の東福寺に担任の先生と級友たちと集団疎開しました。母から聞いたその当時の思い出を僕が俳句にしてみました。この後、母は親戚を頼って長野県長野市川中島領家に一家で疎開します。疎開中は親子で味噌蔵の二階に住まわせてもらっていたそうです。神田の実家は東京大空襲で全焼し、焼け跡に母の父が六畳二間のバラック小屋を建て、そこで家族五人の生活を始めました。僕は父、母から戦時中の話をだいぶ聞いて育ちましたが、もしかすると僕の世代が戦争の話を聞いて育った最後の世代になるのかもしれないですね。僕の一つ下の世代ですと、親自身がもう戦後生まれですから。親戚の誰に訊いても、これは意見が一致しているのですが、母はとにかくおとなしかった、おとなしい子だったそうです。)
焼け野原ひとつ残りし龍角散
(神田は何もかも、どこもかしこも焼けてあたり一面の焼け野原になってしまったので、母はそれほど悲しくはなかったと言っていました。おそらく僕が想像しますに、まだ10才だった女の子にとって、あまりの惨状に茫然自失してしまったのでしょう、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまったのでしょう。龍角散の本社ビルだけがコンクリート製であったために、家の近所でただ一つだけ焼け残っていたのが、とても印象的だったそうです。調べてみましたら、この龍角散の本社の建物は、現在も神田の同じ場所にあるのですね。戦後は学校から帰っても遊ぶものも何もないので、大工さんが墨付けをしているのを見たりして過ごしていたそうです。)
川にすむ友だち訪ねたおさなき日
(これも母から聞いた話を僕が勝手に俳句にしてみました。子供の頃、友達から遊びに来てねと言われて、訪ねて行ったら、川に浮かぶ船が家だったという思い出です。僕も年をとりましたので、今でしたらよくわかるのですが、この方はきっとうれしかったでしょうね。今日は友達が訪ねてくるというので、キャラメルやお煎餅くらいは精一杯用意して、準備をされたかもしれませんね。地理的に川は神田川でしょうか、隅田川でしょうか。)
▶︎「その他」
真っさおな真っさおな秋湯のはたけ
(2025年11月に草津温泉の湯畑を妻の姪と訪れた時の思い出を詠みました。我が家から湯畑まで車で40分程です。)
政治家のウィンウィン言うは要注意
姪の子にのんでもよいといわれたり
(これは一応、その場では「ああ、そう」とかってカッコつけておきましたが、これには笑いました、心から笑いました。もしかしたら、僕の62年の人生で一番笑ったかもしれません。もう一昨年の夏になるのですが、我が家に来た当時まだ3才だった姪(姉の長女)の女の子が、当時61才だった僕に向かって絶妙なタイミングで「健おじさん、今日はお酒飲んでもいいよ」と言ったのです。毎日、こんなに苦しんでいる酒に、61にもなって3才の女の子から言われるのかと思ったら、もうおかしくて、おかしくて、今でも思い出すたびに笑えます。)
五年ぶり五年年記の五段あく
(日記をつけ始めて今年で28年目になります。ああ、また五年ぶりに五年日記が五段ともきれいに空いていることよ、また一段目からだなあ。)
ラジオきくテレビないからラジオきく
対角に三遊間の優勝旗
(僕が小学校5年生の時に、銚子商業が夏の甲子園の決勝戦で防府商業に勝って全国優勝して、もう千葉県中がわーっと熱狂して、僕はスコアブック(現存)をつけながら、テレビの前で「やったぞー!」と叫んで、ここからは僕の記憶に間違いがなければの話なのですが、防府商の最後のバッターが三遊間にゴロを打ったんですよね、それを当時まだ二年生で四番サードだった元巨人の篠塚さんが対角線に走り出てきて、カバーに回り込んだショートのキャプテンの宮内さんのだいぶ前でゴロを捌いてカットしてファーストに送り、そのままゲームセット!ピッチャーは中日に入団した大エースの土屋さんでした。)
人の世は補欠補欠の徳俵
2026年1月1日元旦、大安吉日
和田 健
追伸:このあと、第5回俳句は「真冬の句」の掲載を予定しております。