皆様、こんにちは。
こちら北軽井沢は雪も珍しくなくなり、完全にもう冬の季節を迎えておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
僕の方は、前回ご報告いたしました「合本俳句歳時記第四版」(角川学芸出版)の1日4ページずつの読み込みの方を続けています。
せっかくですので、この季節なのだからと、冬の部から進めていますが、読んでいますと、当然のことながらこの人の俳句はいいなあと思う人が出てきまして、最初が三好達治氏で「測量船」(講談社文芸文庫)を古本で買い読んでみましたが、この方の詩はすごいですね、知性がありますね、冒頭の「甃のうへ」でかなり驚き、二篇の「村」あたりで素晴らしいなあと思いました。
僕にとってこれまで詩と言いますと、なんと言っても断然T.S.エリオットで、その次にW.ブレークとA.ランボーが続き、さらにはW.B.イエーツ、W.H.オーデンと展開していき、彼らの作品の原文を辞書を使いながら掘り起こし解読する作業に熱中していた時期が長く続きましたが、そしてそこからインスピレーションを得て絵画化した作品もいくつかあり、特にランボーの詩を絵画にした作品は、今でもしばしばクリックされて観ていただいておりますが、大変残念ながら日本人の方の詩と言いますと、自分でもその理由はよくわかりませんが、これまであまり心に響いてきませんでしたので、ここからが勉強です。
三好氏の次が、久保田万太郎氏で、ご存知の方も多いと思いますが、と言いますか、知らなかったのは浅学の僕くらいなものでしょうが、
「湯豆腐やいのちの果てのうすあかり」
には驚きましたね。
皆様はこの句をどう思われますか、完璧ですね。
なにしろ今度は英語やフランス語ではありませんので、日本人が日本語を読むわけですから、解説は決して必要ないわけではありませんが、まずはともかくも読むことだけは、誰にでもすぐにできるわけです。
しかし、ちょっと完璧過ぎる感じがするなあ、あと、初めて読んだ時、直感的にこの「湯豆腐」は料理屋の「湯豆腐」だなと、つまりは外食だなあと感じたのですが、実際はどうなのでしょうか、直感です、その根拠は?なんて訊かれても僕にはありません。
そこで、「久保田万太郎俳句集」(岩波文庫)を、こちらは新品で買いましたので、これから読んでみようと思います。
さてさて、肝心の蕪村の方ですが、「郷愁の詩人 与謝蕪村」(萩原朔太郎著、岩波文庫)の再読は終わりました。
そこで、もう少し蕪村を研究してみようと思い、「蕪村俳句集」(岩波文庫)と、「與謝蕪村集」(新潮社)の二冊を古本で買い読み始めました。
この「與謝蕪村集」はすごいですね、世の中にこんなに詳しい解説付きの本があるのかと思いました。
そして、そうこうしているうちに、俳句のトレーニング方法を一つ思いつきましたので、ご紹介させていただきます。
まあ、僕が思いついたくらいですから、こんなのは俳句教室とかに行けば、ごく普通にどこででもやっているのかもしれませんね、もしかしたらそれは「◯◯練習方式」とか言われていて、すでに固有名詞さえついているのかもしれませんね、僕には全くわかりませんが。
え〜と、例えば、蕪村の
「冬ざれや北の家陰の韮を刈る」
で、これを本家本元と僕は呼んでいるのですが、これに対して例えば「韮」を同じく二音の「葱」に変えるのです、そうするとどのくらい本家本元に対して落ち度があるのか、落差はどのくらいあるのか、どのくらいだめになるのか、またなんで「葱」ではどこがどういけないのか、なんて考えていますと結構、これは練習になります。
また、例えば、同じく「葱」でいきましょう、
「葱買て枯木の中を帰りけり」
素晴らしいですね、この「枯木」を同じく三音の例えば「畑」に変えます、いいじゃないですか、収穫の終わった冬枯れの畑、実に美しいじゃないですか、で、なんで「枯木」できたのか、「畑」だとどのくらい味わいがなくなるのかと考えるわけです。
ところで、トレーニング方法とは関係ないのですが、この句を初めて読みました時に、まず僕が疑問に思いましたことは、「あれ?なんで韮は庭の片隅で育てているのに、葱は買いに行くのかな?」ということでした。
そこで、少し調べてみたのですが蕪村の江戸時代には確かに大名に献上するような例えば下仁田葱などは高級品だったようですが、普通の葱はやはり庶民の食べ物であり、僕はどちらも家庭菜園で作りましたが、葱は土寄せさえしっかりやっておけばできるわけで、なんで庭で韮は作って葱は作らないのかな、なんでわざわざ買ってきたのかな、ここのところがわからない。
もう一つは、「買て」(かうて)の部分の方言ですね、蕪村は京都に住んでいましたから、大阪も含めまして、この「買て」は生っ粋の関西人でないと、本当のところの関西文化のリズム感がちょっとわからない。
専門の俳人の方は、俳句の中に方言が含まれていた場合に、どのように対処されているのでしょうか?
僕にはなにか葱を買って思わず(実際にはしなかったでしょうが)スキップをするような、小躍りするような弾むような喜びの気持ちが伝わってくるのですが。
これはやっぱりあれですね、おそらくは困窮のなかに蕪村に臨時収入があって、それで葱を買った(買えた)のではないでしょうか?
葱の鮮やかな緑色と枯木との色の対比でもってきたのでしたら、庭で作っている葱であっても中七と下五を「葱のうしろの冬木立」とかなんとか、いくらでも作ってこれる感じがいたします。
蕪村は画家ですからね、赤色系でしたらともかくといたしまして、今の北軽井沢の森そのままの枯木の色では対比させてこないのではないでしょうか?
一応、家のまわりの森を改めて眺めてみましたが、赤松の樹皮の淡いオレンジ色くらいかなあ、赤系統は。
それからもう一つ、森の中に住んでいる身として、これはよく実感できるのですが、夏の間、緑色があった部分に冬の間、再び緑色を求めたがらないです、恋しがらないのではないでしょうか?
ここは実は色の対比ではなくて、そして、蕪村は庭でもその片隅で実際に葱を育てている、でもやっぱり、買った葱は庭で育てた葱に比べて立派なんでしょう、いかにも青青としていて。
それで、「ほら、葱買うたで」「見てみい、葱買うたんやで」ってなんか子どものように清貧の蕪村がはしゃいでいる、それで家に帰れば妻や子が「わあ、お父さん、すごい立派な葱やねえ」と集まってくる、そしてみんなで根深汁となる、その方が僕にはストンときます。
「うぐいすや家内揃うて飯時分」
これはやっぱり「飯時分」が洒脱ですね、秀逸です、「御飯時」ですとか「朝御飯」ならよくありそうです。
「家内揃うて」の「家内」も実に効いています、「妻や子」ではこないものなあ。
「三椀の雑煮かゆるや長者ぶり」
「やぶ入りの夢や小豆の煮るうち」
すごく蕪村はいいですね、貧困だけれども仲睦まじく一家団欒、一家和楽。
家族みんなで仲よくして、貧乏だけれども温かい、そして蕪村の句にはいつもどこかに明るい生命力がある。
どこか太平でしょ、大らかですよね、こそこそしていない、堂堂としています。
世の中にはその反対の家族も少なくはありません、お金持ちなのだけれども家の中は冷え冷えとしている、家族の会話はほとんどない、みたいな感じです。
それから、話はいきなり飛びますが、いろいろな俳句を読んでいる中で、杉田久女氏の
「谺して山ほととぎすほしいまゝ」
に出会った時には驚きました。
もうこの句は、どこからどうみても、下五の「ほしいまゝ」で勝負ありですよね、完全に決着がついています。
この下五は出てこない、僕だったら、まずは思いつきそうなのは「意のまゝに」かな、あとは「独り占め」だとか「好きなだけ」だとか、「思うまゝ」くらいまでなら出そうだな、う〜ん、「ほしいまゝ」はすごいなあ。
とまあ、いろいろと思うことはありますが、あくまで趣味で勉強している俳句ですので、これからも楽しんで作句していきたいと思います!
2025年12月22日冬至
和田 健
追伸:このあと、第4回俳句は「家族の思い出の句」、第5回俳句は「真冬の句」の掲載を予定しております。