Archive for February, 2022

STOP THE WAR!

Posted in Essay 2012-2024 with tags , , , , , on 28 February 2022 by kenwada

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僕の癖は、はたしてリハビリテーションプログラムになり得るか!?

Posted in Essay 2012-2024 with tags , , , , , on 19 February 2022 by kenwada

時々、自分の見ている風景は、もう決して以前のようには戻らないのかもしれないと感じると、そして、あと何十年も、このままゆがんだ失われた世界の中で、僕は生きていくのかと思うと絶望的になり、うまく説明することができませんが、何か実際に肺が喉の方へ突き上がってしまうような感覚になり、呼吸が深く自然にできなくなってしまい、ただ息を吐き出すだけの感じが続いて、言いようのない恐怖に襲われます。

そこで、たとえどんなに気休めではあっても、自分の生活を律するためにも、加齢黄斑変性からの心のケアも含めたリハビリテーションプログラムを、自分で新たに編み出して、毎日、続けていかなければいけないと思いました。

そうしないと、何の希望もなく、ただ悲しいだけの日々になってしまい、気持ちがさらにずるずると落ち込んでしまうような感じがしたからです。
そうなった時にはもう、自分で手を差し伸べても、自分を井戸の底から、引っ張り上げることが、とても深すぎてできない感じがするのです。

「人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた。」
(新潮文庫版、p.116)
“Maman disait souvent qu’on n’est jamais tout à fait malheureux.”
(Édition Gallimard、p.172)
これは、アルベール・カミュの言葉で、作品「異邦人」の中で、主人公ムルソーの母親の言葉として出てきます。
おそらく想像するに、この言葉は、作家本人の言葉ではなく、家族の誰かが実際に繰り返し話していた言葉なのではないでしょうか。
その根拠は、souvent という一語で、日常的な強い生活の匂いのようなものを感じます。
それはともかくとして、最初に読んだ時から、この箇所は、何故か非常に印象に残りましたが、病気になった今再び、この言葉が、心の中に強くよみがえってきました。

そこで先日来、自分で考案した4つのリハビリテーションプログラムを、毎日続けているのですが、その一つが絵画に関することで、F40号のキャンバス2枚に、白や黒をはじめ、様々な色の絵の具を塗っています。
これは、文字通りキャンバス全面に、ただ塗っているだけです。
そして、塗りながらキャンバス上の対象物を認識できるか確認しています。
今のところできませんので、落ち込む日が多くて、そういう日には、こんなことはいっそのことやめた方がいいとも思いますが、これがこんな眼の状態でも、どうしても描いてしまうのです。
もう、言わば本能ですね。
塗りたくってしょうがないんです。
楽しくって、うずうずしてしまう。
色に遊んでもらっている感じです。

それともう一つは、絵画はあくまで五感ですので、毎日、筆や刷毛を持ち、絵の具をつけ、滴り落ちる絵の具の水分量を把握し、絵の具の匂いを嗅ぎながら塗りあとを味わい、キャンバスのざらざらした肌触りを指で確かめ、最後に使った筆や刷毛をいつものようにきれいに洗って終わると、感覚が鈍りません

奇跡的に、いつの日か視力が戻るかもしれないじゃないですか。
その時に、こうした基本的な反復練習をコツコツと毎日継続していれば、すぐに元に戻れます。
基本的なことさえ、繰り返して準備していれば、そうしてブランクを作らなければ、すぐに絵画の中に入れます。
おそらくどのような分野でも同じでしょうけれど、基礎基本というのは、常に地道に繰り返し、繰り返し、細かく、細かくです。
大雑把であったり、派手な人目を引くような基礎基本というものはありません。

僕にはこういう風に、あまり意味もない、取るに足りない小さなことを毎日続ける癖のようなものがあって、今年で、日記を書くようになって23年目になります。
また毎日簡単な家計簿をつけるようになって、これも今年で23年目になります。
それから毎朝仏教のお経をするようになって、こちらは今年で22年目になります。
これらは何も僕に根気があるとかそういうことでは全くなくて、ただ単に習慣のようなもので、フランスにいようが、ニューヨークにいようが、どこにいようが毎日絶対にやります。
たとえばホテルに泊まっている時は、部屋の中のこの辺がご仏壇とか、自分で勝手に決めて、そこへ向かってお経をします。
ですので、F40号2枚の色塗りも、毎日続けられるように思います。

絵画というのは、どこまでも実践の仕事であり、頭の中の理論や理念ばかりで行動に移さず、ロジックでひたすら考えていても描けないと思います。
それは何故かと言うと、人間の脳は、色と形だけは実際にキャンバス上で観て確認するまでは、把握できないからです。
経験から予想はできるのですが、それはあくまでも予想であって、色と形だけは、実際に紙やキャンバスに置いてみないと、どうしても認識できないのです。

2022年2月16日
和田 健

部位

Posted in Essay 2012-2024 with tags , , , , , on 5 February 2022 by kenwada

眼を悪くして、つらい毎日が続きます。
今年2回目の硝子体注射を、2月1日に受けました。
その時の診察で、右眼の視力が、裸眼で0.03、矯正で0.06でした。
1月4日の治療開始時点よりもさらに悪くなっており、ショックでした。

「部位が眼でさえなければなあ」と、毎日のように思います。
実際に、僕には2011年以来、他にもヘルニアの持病があって、8年間、腸の痛みと戦いながら、苦しみ抜いた末に、結局、最後は嵌頓(かんとん)になり、救急車で運ばれて、2019年に緊急手術を受けたことがありました。
その時、手術してくださった先生に「何で8年間も我慢していたんだ」と叱られました。
朝からヘルニアが起きた日は、キャンバスに集中するのが、かなり大変でしたが、それでも、眼ほど制作に直接的な影響はなかったように思います。

それともう一つ感じることは、腸ですと、たとえ医学的に正しいことではなくても、根性だとか気合いだとかで頑張れる部分が少しはあるのですが、眼ですとそういった精神力で何とかカバーできる部分がないことです。
眼の病気というのは、何か物理的な現象のようなものです。
歪んで見えるものが、気力では元には戻りません。
つまり、何もなす術がない。
でも、何もなす術がなく、人生をいきなり理不尽にもぎ取られることは、世の中でたびたび起こることですし、そうしたまるで悪魔のような圧倒的な暴力や、不条理に耐えながら、残りの人生を静かに生きている人もたくさんいます。
だから、僕も自暴自棄になどなったりせずに、治療を続けようと思います。

病気になってよいことなどは、本当に何一つとしてありませんが、唯一、この病気の特徴は「誰にも迷惑はかけない」ということです。
つまり、眼が勝手に病気になって、ものが歪んで見えて、視力が落ちて、仕事ができなくなり、収入の道が完全に途絶える・・・。
これらはすべて自分の中で起こることです。
自分が沈んで行くのを、自分で静かに見ているという感じです。
誰にも迷惑はかけていません。
僕の今のこの心境については、ちょっとこれ以上は、言葉では上手く説明できません。

2022年2月5日
和田 健

追伸:悲しい時は、三姉妹の義理の姪の写真をみています。
先月、真ん中の子が成人式を迎え、三人で撮った写真をもらいました。
どういう訳か三人とも、幼い頃最初に会ったその日から、僕に懐いてくれ、とても優しい子どもたちです。
それにしても、みんな大きくなりました。

パリ時代の思い出「アカデミー」

Posted in Essay 2012-2024 with tags , , , , , on 1 February 2022 by kenwada

パリのアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールで。
恩師のアルトソウル教授と。2004年7月22日。

With Prof. ARTOZOUL.
Académie de la Grande Chaumière, Paris, FRANCE, July 22, 2004.

僕がこれまで絵を続けてこられたのは、先生のお陰です。
先生は、初心者の僕に対して、そんなこともできないのか、といったような横柄な態度をとられたり、馬鹿にされたりするようなことは、一度もありませんでした。
どんな時でも威張るようなことはなく、親身になって絵を観ながら、ポケットからごく普通の黒いボールペンを取り出しては、一つ一つ丁寧に全体のバランスや調和について、また色のハーモニーについて、根気強く教えてくださいました。
怒鳴ったり、大きな声を出したりするようなことは、ついに一度もなく、その指導は常に誠実でした。
そして、いつでもその生徒の長所を伸ばそうとしてくださいました。
これは少しでも人にものを教えた経験のある方であれば、よくわかることなのですが、すぐに成果が出ませんので、根気や我慢強さをはじめ、頑丈な精神力を必要とする大変なことなのです。
人にものを教える時に、最も短期間で成果の上がることは、自分の得意な必勝の指導パターンに、引き込んでしまう、押さえ込んでしまうことなのです。
そうするとすぐに成果が出ますので、みんなから「いい先生だね〜」と言われ、本人も次第にその気になるのです。
先生はこれを一度たりともされませんでした。皆無でした。
ラスパイユ通りで先生が個展をされた時に、僕もオープニングに伺わせていただいて、今日くらいは、さすがに先生もワイシャツを着て来られるのかなと思っていたのですが、いつもの穴の開いたチョッキを着て来られ、何人ものマダムたちに囲まれて、穏やかに談笑されている先生を見て、改めてすごい人だなあと思いました。
何一つ媚を売ることなどのない、実に堂々たるものでした。
ちょっと成功したくらいで、奇抜なファションをしているような輩とは、先生は人間としての風格や品位がまるで違いました。
亡くなられた奥様を描かれた大きな作品が、あまりに素晴らしくて、今でも非常に印象に残っています。
そうした先生の言動を通して、僕らはフランス文化の奥深さや底力のようなものを肌身に感じながら学んでいきました。
先生は、アカデミーの近くの芸術家がたくさん住んでいたカンパーニュ・プルミエール通りに住んでおられて、むく毛の黒い犬を連れて、近所を散歩されている姿をよくお見かけしました。
先生、本当にありがとうございました。
感謝しかありません。

7年間暮らしたフランスは偉大な国でした。
僕のような無名の駆け出しの新人も受け入れてくれて、分け隔てなく教えてくれて、それこそ浴びるほど多くの教育の機会や実践の場を与えてくれました。
そして、日本にいることを思えば、それらが、あり得ないくらいの、ちょっと信じられないくらいの低料金で学べました。
あの頃、アカデミーの友達が、パリ大学に進学しましたが、年間の授業料が全込みで、確か150ユーロくらいでした。
当時のレートで、日本円で2万円弱でした。
しかもその150ユーロに対して、月賦払いの制度がありました。
どんなに貧乏でも本人にやる気さえあれば、勉強して這い上がることができる、これは国の根幹をなす極めて大事なことで、そういう国は、決してつぶれないと思います。

同アカデミーにて。2004年7月22日。

The training period when I was just concentrated every day.
Académie de la Grande Chaumière, Paris, FRANCE, July 22, 2004.

自分を追い込んで、ひたすら集中していた修行時代。
欠席はおろか、一度も遅刻もしませんでした。
多国籍からなるアトリエの実力者たちに囲まれて、
「自分に負けてメソメソしているくらいなら、明日の午前中には、荷物をまとめて完全帰国する」と、いつも自分に言い聞かせていました。
頭の中には、どんな時も日本に一人残してきた母のことがありました。

写真の足下を少しご覧ください。
当時は、月曜日の朝にアトリエに行くと、その一週間を通して自分が描く位置を裸体モデルのまわりに決め、月曜日の終わりになると三脚の足下に、白チョークで印をつけておくのが決まりでした。
「ここは一週間、僕の場所ですよ、他の人は明日からここは使えませんからね」という感じでした。
そのため短くなった白チョークをいつも大事に持って歩いていました。
僕は三角形を描いて、よくその真ん中に、ケンなのでKと書いていたな。

新米の頃は自分のロッカーも持てなくて、でもみんながよくやっていたように、ステージの下に荷物を入れて帰るのが嫌で、山が大好きだった亡父の形見の大きな登山リュックに、画材の重たい荷物を全部入れて背負っては、毎日持って帰って往復していました。
日本にもう帰国するからと、先輩のOさんが、「ここを使いなさい」って、番号2のロッカーをご自分の錠ごとくださった時は、初めて自分のロッカーを持てて、すごくうれしかった!
そのロッカーの錠は、大切な思い出として、今でもアトリエにしまってあります。

1904年創立のアカデミーに入る戸口のところに、歴史の重みですり減った石段があって、毎朝そこを踏む度に、「ああ、ここをジャコメッティが、バルテュスが、・・・・あの錚錚たるメンバーが、みんな通っていったんだな」と、いつも胸がドキドキしました。

アカデミーのあるグランド・ショミエール通りに、かつてゴーギャンとモジリアーニのアトリエがあって、彼らを記念するプレートを見上げながら、「ここだ、ここだぞ」って、「映画「モンパルナスの灯」のアトリエもここなのかな」と叫んでいました。

同じ通りにセヌリエの兄弟店もあって、絵の具が足りなくなると、休憩時間とかに、本当によく買いに行ったな。
それから、「ドガが使っていた有名なパステルはこれか!」って、ちょっと日本では見たこともないような木製の家具の、とても大きな引き出しを開けた時の、色彩別に並んだあのパステルたちの輝きは忘れられない!
お金がなかったので、いつも一回二本までとか決めて買っていました。

初めて個展をすることになって、自分もいつかはここにと思っていたアカデミーの廊下の掲示板に、個展のお知らせを初めて貼った時の、少し緊張した気恥ずかしいような喜び。

みんな祖国から出て来て、明日を求めて必死だから、いつもいつも綺麗事とはいかなくて、時には場所の取り合いとかの些細なことでいざこざが始まり、アトリエの雰囲気が殺伐としてしまうことがあって、その争いがたとえ自分のことではなくても、とても悲しい気持ちになってしまい、そんな時は休憩時間に中庭に出て、パリのアパルトマンをよく見上げていた。
そうしたら鳩がいつも鳴いていて(パリには鳩が本当にたくさんいたな、そしてシックなパリの街に鳩ほど似合うものは他になかった!)、それを聞いて気持ちを静めたり・・・、「僕は人間関係の勉強を、改めてもう一度するために、わざわざフランスまで来たんじゃない。勉強以外のことは、たとえ1分たりとも絶対にしない!」と、いつも自分に言い聞かせていた。
前職時代の15年間に貯えた預貯金を取り崩しながら、何もかもすべてを賄っていたから、やっぱり、そういう気持ちは、誰よりも強かったと思います。
身銭を切っての留学でしたから、もう本当に必死な毎日でした。

本当に心からお世話になったアトリエのシェフのカトリーヌさんのこと、亡くなられた先輩画家のTさんのこと、その他、国籍も様々な数々の先輩たち、後輩たち、仲間たち・・・。
アカデミー時代の思い出はあまりにも多くて、ちょっとここでは、とても書き切れません!

僕は遅く絵を始めて、まわりの若い人たちからみたら、もう青春と呼べるような年齢では全くなかったけれども、あの時、全力で挑戦しておいて、本気で勝負しておいて、本当によかった!
悔いは、何もありません。

追伸:
眼を悪くして、今は絵の制作ができませんので、この機会に、昔の思い出などを少し書いてみようと思いました。
僕は仕事はいつも眼のために、アップルのデスクトップの一番大きいパソコンでしていますが、その中の Pages で、まず巨大文字で原稿を作り、それをこのサイトに貼り付ける方法で、何とか、まあ何とか書きました。
非常にゆっくりとしかできませんでした。

2022年2月1日
和田 健