(途中経過その2の番外編から続く)
皆様、こんにちは。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) の第7巻を、2025年2月7日に読み始め、2025年3月4日に読み終わりました。
本来でしたら、第7巻から第9巻までを読んだうえで、2025年5月下旬ごろに「途中経過その3」としてご報告をする予定でいましたが、この第7巻がとても楽しかったものですから (やっぱり文学、物語というものは実に楽しいものですね、こうなんて言いますか、非常に愉悦を感じます)、ここは急遽、予定は未定ということにさせていただいて (笑)、感想がまだ少しは新鮮?なうちに、少しだけご報告させていただきます。
①え〜と、まずは一番面白かったところから。
第7巻ももう終わろうかというところで、ゲルマント公爵夫人が召使いに言いますよね、
「「これ、お前、スワンさんのお写真のはいっていた大きな封筒だけど、」(中略)「私のかわりにその角を折ってから、今夜の十時半にモレ伯爵夫人のところに置いてきなさい。」
スワンは声をあげて笑った。」 (7の552)
ナイス!ゲルマント公爵夫人に一票!
これはうまい機知だなあ〜、スワンと一緒に僕も思わず大笑いしました。
次点には、ゲルマント公爵の「嗟歎、嗟歎って、サタンはお前だ。」(7の538) をあげておきます。
②次に、少しだけ胸のつかえがとれてすっきりしたのはよいのですが、そのあと椅子からずり落ちるくらい拍子抜けしてしまった一件について。
それは僕が「途中経過その2の番外編」の中ですでに触れていた「孫の性癖についての祖母の見解なり杞憂なりが出てこない、書かれていない」ことについてなのですが、ここへきてようやくついに「私」への叱責がありましたね、言ってくれたのは、祖母ではなくて母でした。
「ゲルマントの奥さまに会おうとして
外出するのはもうおやめなさい。あなたは建物じゅうの笑いぐさになっていますよ。第一、お祖母さまの容体がこんなときでしょ、女の人を道で待ち伏せてばかにされるよりも、あなたには実際もっと大切なことがいくらでもあるでしょ」(7の75)
う〜ん、それにしましても、お母さんの叱り方のまあなんて繊細でやさしいことでしょうか (笑)。
これはあれですよね、容易に想像されることですが、母のこの台詞が出るまでには祖母と母で、つまりは母娘でおそらくだいぶこの問題について話し合っていますよね。
と言いますのは、「私」のしつこく付け回す待ち伏せ癖は、もうこれはちょっとなんて言いますか、変質者の一歩手前くらいですから、僕は二人がどれだけ心配していたことであろうかと推察いたします。
で、問題はこのあとなのですが、「はい、わかりました」って感じで、実にあっさりと「私」はやめちゃうのですよね。
プルーストさん、いくらなんでもそれはないでしょう、思春期や青年期の男の子が親に言われて「はい、そうですか」ってならないでしょう、逆に反抗するでしょう、普通。
「出自と躾」(7の158) とでも言いますか、生まれや育ちがいいとでも言いますか、お行儀がちょっとよすぎやしませんか。
これにはさらに驚くべきことがあって (笑)、サン=ルーも母親に言われて愛人のラシェルを同様にやめちゃうのですよね (7の25)、なんだかちょっとこれには笑っちゃうなあ、えーっ、二人ともって感じです。
それともこれはあれなのかな、繊細な「私」のことだから母親から言われた時に、祖母にも心配をかけたなと察知して、これからはゲルマント公爵夫人を追いかけ回すのはやめようと断固決意したのかな・・・、違うな。
③次は、第7巻を通して、一番美しかったところのご紹介です。
これはもうなんと言っても、最初の出だしですね、もうそれこそ巻頭レジュメをのぞけば実質的な1行目なのですが、
「その日は秋の単なる日曜日にすぎなかったが、私は生まれ変わったばかりで、目の前には真っ新 (さら) な人生が広がっていた。」(7の21)
う〜ん、この書き出しはすごいな、飾りけがなく素朴にして圧倒的なまでに美しい!
その直後の
「世界とわれわれが新たに再創造されるには、天気が変わるだけで充分なのだ。」(7の21)
は、ちょっと狙ってきたな、肩に力が入っているなとでも言いますか、構え過ぎな感じがいたします。
しかし、もうだいぶ慣れてきましたが (笑)、プルーストは最初と最後 (第7巻で言えば、最後とはもちろん言うまでもなく「公爵夫人の赤い靴」ですよね) は確実に締めてきますね。
これはなにかそうした性向のようなものが、実際に本人の中にあるのではないでしょうか?
例えばですが、プルーストの食事の仕方などにも、そのような気質が垣間見えたりはしていなかったのでしょうか?
④次は、僕に実に深い印象を残した箇所についてです。
「その結果、この物語がものがたる目に見えない天職が明らかになるまでの長い歳月、私は無用のまわり道をせずにすんだかもしれない。そんな天啓が今夜訪れていたら、 (後略)」(7の127)
う〜ん、これにはすごくいろいろなことを考えさせられました。
プルーストは51才で亡くなるまでの間に、恵まれた上流社会で育ちながらも、天職というこの問題について、実に深いところで理解していたんだな、おそらくは実際にかなりつらい悲しい体験をしたのではないでしょうか。
僕は39才でゼロから絵を始めましたけれども、天職というものは長い間、目に見えないものであり、いつも静かにひっそりとしていて、決して目立とうなどとはしてこないものでもあり、その結果として、なにかの啓示を授からない限り、本人でさえ果たして自分の天職はなになのかについて、なかなか気づくことができないですよね。
その後、僕の思考はプルーストのこの文章から「好きなことと得意なこととの違い」へと、次第に展開していきました。
例えばですが、ものすごくわかりやすい例で言えば、プロ野球選手にとって、野球は一見するといかにも天職であるように思われがちですが、果たして本当に天職であるのか、それとも単に特技であるのかは、選手本人にとってもなかなか難しい問題であるように思います。
⑤次に、最も謎めいていた箇所のご紹介なのですが、「フランソワーズ付きの若い従僕」(7の489) の例の手紙ですね、なんでこの手紙がこの部分にわざわざ挿入されているのか、物語の流れ的に特に必要ないですよね、この手紙。
なにか宙にポッカリと浮いている感じがいたします。
離れ小島のような感じとでも言えばよいのでしょうか。
毎巻本文読了後の自分へのご褒美のようにして、とても楽しみに読ませていただいている吉川氏の「訳者あとがき(七)」の中で、氏が従僕のこの手紙のことに触れられていて、僕のような一般の読者などにはわからない実に貴重な理解を得ることができましたが、直感的にはなにかこの間違いだらけの手紙は、「私の書棚から詩の本を何冊も持ち出した。」(6の330) という従僕の一件が、実はプルーストの身に実際に起こった出来事であり、その従僕に対する意趣返しに、過日プルーストが多少面白おかしく書いたものが単独で別に存在していて、それに少し手を加えてアレンジした上で、以前書いたものを活用するのであれば、まあこの場所が適当な配置かなと判断し、プルーストがこの構成を選択してきたように感じるのですが、真相はどうなのでしょうか?
「私の持っていた『秋の木の葉』の刊本はフランソワーズ付きの従僕が郷里への贈りものにしてしまい、私はそれを恨みながらも一刻たりとも無駄にせず、その従僕にもう一冊買いにやらせた。」(7の454) ともありますので、このリアリティーからも、おそらくはこの従僕は実在した人物であり、かなり手を焼いていたのではないでしょうか。
⑥あととても気になったことをもう2点だけ。
1点目は「私」のシャルリュス男爵邸訪問の件なのですが、これを読んでいて先日のホワイトハウスにおけるウクライナとアメリカの両大統領の激しい口論を咄嗟に思い出しました。
この二つの会談 (前者はほぼ1898年と推定されていますので、後者との間には実に127年の歳月が流れています) には、なにか類似した要素が感じられないでしょうか?
この現象からプルーストの作品世界がもつ今日性について考えさせられました。
またそれとは別件で、「私」が「男爵の真新しいシルクハット」(7の473) に飛びかかり、ばらばらに壊し、ひき裂く暴発行為が、そのあまりの激しさゆえに、個人的には非常に気になりました。
2点目は僕には小説家の心理についてはまるでわかりませんが、通常であれば、小説家は時事問題は作品の中に極力取り入れないように配慮するのではないでしょうか?
物語の中のなにか余計なところで揚げ足を取られて、せっかくの作品自体が本末転倒に至りそうですから。
そういう点から考えると、プルーストは当時のまさに最たる時事問題であるドレフュス事件を取り入れるどころの騒ぎではない、もうどっぷりと浸かり切っていますよね。
これはなんでプルーストはこんなことをしているのかなと、僕はずっと気になって考えていたのですが、サロンに集うドレフュス支持派と反ドレフュス派の人々の世相に、多面的な角度から照射するというような通り一遍の解釈ではないような気がどうもしていたのですが、「思いがけず早めに人生の終着駅にたどり着いたスワン」(7の522) が、死を前にして結構思いの丈を率直に「私」に話しますよね。
スワンのドレフュス事件に関するゲルマント一家評ですね、僕はここになにかプルーストの真意があるように感じて思わずはっとしました。
「どうにもならぬ偏見」(7の522) や「その血のなかに千年の封建制を受け継いでいる」(7の523、524) などの言葉からなんとか解明できないものでしょうか?
⑦さてさて、それではそろそろ本題に入りましょう、そうです、ここからがようやく本題なのです (笑)。
もうこの第7巻は徹頭徹尾これ抜きでは決して語れないですよね。
それは、僕がここで改めて力説するまでもなく「ゲルマント公爵夫人の才気」です。
そしてこれはかなり面倒で厄介な難問ですが、もう長くなりましたので、「ゲルマント公爵夫人の才気」につきましては、もちろん「公爵夫人の赤い靴」も含めまして、また次回とさせていただきます。
最後までお読みいただき、大変ありがとうございました。
(途中経過その4に続く)
2025年3月10日
和田 健
「途中経過その2」
https://kenwada2.com/2025/02/14/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-2/
「途中経過その2の番外編」
https://kenwada2.com/2025/02/16/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-3/