ドストエフスキー(1821-1881)の「未成年」(1875)を読んで 最終回「ヴェルシーロフに神はいない!」

(第三回から続く)

さてさて、いよいよ大詰めの最終回ですが、この「未成年」という物語の全体の構造ですよね、この最も基本的な構造についての根本的な理解そのものに、まずは非常に苦しむのです、僕の足りない頭では。

え〜とですね、この記録を書き起こしながら語っていく一人称の「わたし」ことアルカージイ・マカーロヴィチ・ドルゴルーキーですが、まあ、要するにこの物語の主人公ですよね、「わたしは──中学校を終えた男で、もう二十一になろうとしている。」(上の9) とあり、「わたしはこの記録を去年の九月十九日から書きおこすことにする」(上の7) とあります。
そして、この九月十九日は「わたし」にとって、老公爵から「はじめての俸給をもらう日」(上の42) であり、五十ルーブリをもらいます。
次に、「この十九日にわたしはもう一つの『一歩』をふみだした。」(上の89) とあり、要は競売に行き「家庭用アルバム」(上の92) を競り落とします、と言いますか、競争相手もなく買うわけです。
さらに、「わたしはこの日エフィム・ズヴェレフに会うことになっていた。」(上の98) とありますから、ズヴェレフに会ったのも九月十九日です。
そして、「ズヴェレフに (彼も十九歳だった) わたしは、彼が一時身を寄せていた彼の伯母の家の庭で出会った。」(上の98) とありますので、去年の九月十九日に「わたし」ことアルカージイは十九歳だと読者は当然のごとく判断します、いいですよね、ここまで僕の言うことは辻褄が合っていますよね、で、わけがわからないことになります、なんで去年の九月十九日に十九歳だった青年が、今年「もう二十一になろうとしている」のか、まずは出だしからまったく骨格がつかめない。

話を進めます。
読者にとっては明らかなように、第二部に入りますと「ここで二カ月ほど先へとぶことになるが、(中略) 十一月十五日という日をここにはっきりと記しておこう」(上の430) とあり、物語は去年の九月十九日から十一月十五日へと変わります。
それでまあ、様々なことが錯綜して起こる訳ですが、「わたし」がアンナ・アンドレーエヴナを訪ねた時に「もっとも、彼女はもう二十三歳になっていた。」(上の513) とあります、ここは要注意です、と言いますのは、「もう一人は──アンナ・アンドレーエヴナ・ヴェルシーロワといって、ヴェルシーロフの娘で、わたしより三つ年上」(上の78) とあるからです。
二人は異母兄弟であるわけですが、ここから小学校一年生の算数になりますが、23-3=20で「わたし」ことアルカージイは二十歳になります。

さらに、物語は進んで進んで、マカール老が死んだことを伝えに走った「わたし」が、タチヤナ・パーヴロヴナの部屋でカテリーナと会話しますよね、その時、カテリーナが「だって、あなたはまだ二十歳ですもの。」(下の369) と「わたし」に言います。

最後に、物語の終わりに来て「今はこの事件からもうほとんど半年がすぎた」(下の587) とありますので、去年の十一月に半年を足して、おそらく今年の五月だなと見当をつけますと、これが当たっていて「わたしがこの手記を書いている今は──戸外は春、五月のなかばで、きれいに晴れわたった日で、家の窓はすっかりあけ放されている。」(下の590) とあります。

結局、この記録は「わたし」が今年の五月のなかばに、去年の九月十九日と十一月十五日を、二つの起点として書いていたということが、ようやくですね、ようやく最後も最後の「エピローグ」(下の587から) になってから読者にはわかるということですよね、いくらなんでも遅いよ!

それから、「わたし」の年齢の問題ですよね、もうこれは、僕なりの必殺技?で、最初の「彼も十九歳だった」を読まなかったことにするしか解決策がないですよね、だから、もうこれは、「わたし」は二十歳、もうまもなく二十一歳、もうそうしちゃいましょう、他にない!
自分でも笑っちゃう解決方法ですけれども、他にどうしようもないですよね。

それで肝心の全体構造の問題なのですけれども、これはどうみましても、ドストエフスキーは明らかに意図的にこの骨組みを組み立ててきたと思います。
ドストエフスキーが故意にこの設定を入念に準備してきたところに、「未成年」という作品を読み解く重要な鍵があるように思います。
すなわち、二十歳の青年が二十歳の時に起きた事件を半年後に回想しているという構造ですね、従いまして、流動的な未確定の部分が常にある訳です、全編至る所に未だにどう判断してよいかわからないが出てきます、わかる訳がないですよね、二十歳の青年が半年後に回想して、これがもし「わたし」が四十歳や五十歳の設定であり、二十歳の時の事件を回想するのであれば、そこには当然のことながら熟成されたところの断定が必要になる、でも断定が要らない、二十歳が二十歳を回想する、「未成年」のアルカージイをその中に置きたかった、その中で言わば泳がせておきたかったというドストエフスキーの実験的な枠組みですね、繰り返しになりますが、これがこの物語を解読する鍵になっていると思います。
つまりは、ドストエフスキーは、あくまでも二十歳が二十歳を書くという土俵で、作品を作り上げたかったわけですね。
その二十歳の最たるエピソードが「このいたずらが八日ほどつづいた。」(上の197) なのではないでしょうか、これって、今で言ったら初犯の時点で逮捕ですよね。
それでも「わたしは彼のばかが見ぬけなかったのである。」(上の196) とあります、二十歳の青年の愚かさが、実によく書けているなあと感じました。

話を進めます。
結局ですね、この「未成年」という作品を読み解く鍵になってくる主要人物は、以下、すべて主人公である「わたし」ことアルカージイからみた続柄で書きますが、まずは実父であるヴェルシーロフと、その息子でありこの「記録」の一人称の書き手であるアルカージイ本人、そして「戸籍上の父」(上の9) であるマカール・イワーノヴッチ・ドルゴルーキー (以下簡単にマカール老にします) しかいない、実はこの三人だけなのではないでしょうか?

と言いますのは、その他の登場人物たちは、例えば老公爵と若公爵ですとか、アンナですとか、カテリーナですとか、かわいそうな妹のリーザですとか、物語の進行においてさまざまに交錯する伏線として、それぞれに重要な役割を果たし、実際にかなり目立ちもしますし、その存在感に興味を引きつけられもしますが、実は注意深く読んでいるとわかるのですが、別に格段の思想の持ち主でもありませんし、物語の進行に伴って、それぞれの思想に深みや進展もみられませんし、ここで改めて特記するほどのこともそれほど別にないように思います。
つまりはですね、母であるソーニャをのぞけば、と言いますのは、彼女には神があるからですが (ちなみに、ドストエフスキーの作品でソーニャときましたら、もうこれは献身や良心です、これはやはり亡くされた愛娘の名前からきているのでしょうか)、あとははっきり言ってどうでもいいような人物たち、繰り返しになりますが、アンナ、カテリーナ、リーザ、ラムベルト、アルフォンシーヌ、デルガチョフ、クラフト、ワーシン、家主のピョートル・イッポリトヴィチやその妻などなどですね。

それでですね、いよいよ結論に入りますが、僕が最初に見抜く目をもっていればよかったのですが、一種の推理小説風の物語の筋を理解する方に頭がいってしまい、思わず見失いましたが (僕はこれはドストエフスキーはある種のカムフラージュとして、故意に筋を錯綜させているのではないかと感じていますが、なにしろそこはドストエフスキーですから、そのくらいのことは十二分にやってきます!)、あまりにもくどくど、べたべたとしたヴェルシーロフのちょっと尋常ではない恋愛遍歴なども、神が不在であることを暗に示唆しているように思いますし、去年の九月十九日から十一月十五日にわたるアルカージイの急変ですね、ロスチャイルドになる「理想」(上の164) などはどこかへ置き去りにした、その放蕩ぶりもまた彼の「分身」がなせる行為であるわけです。
とどのつまりは、ドストエフスキーはヴェルシーロフを無神論者として描いているのではないでしょうか、したがいまして、その息子でありヴェルシーロフの「分身」におびえるアルカージイもこれまた無神論者です。

その最大の根拠はですね、僕が思うに、今回の「未成年」を通してドストエフスキーから送られてきた最大の箴言である、
「それなら、無神論者というものがないのかというと、そうでもない。ほんとうの無神論者といえる連中もいる。ただそれがもっともっと恐ろしいのだよ。というのはそういう連中はしょっちゅう神の名を口にするからだよ。(中略) そういうのがいるのだよ、うん、きっといるはずだと、わしも思うな」(下の187)
というマカール老の言葉ですよね、この箴言こそが最大のポイントです。
そしてすぐさま、これにヴェルシーロフが反応します。
「『いますよ、マカール・イワーノヴィチ』と不意にヴェルシーロフが相槌をうった、『そういうのがいるし、またきっといるはずですよ』」(下の187)
さらに、アルカージイが「『ぜったいにいますよ、そしてきっといるはずですよ!』わたしはこらえきれなくなって、思わず熱っぽく口走った。」(下の187)
と即座に続き、「『きっといるはずだ』という言葉にふくまれたある思想に魅せられたものらしい。」(下の187) とあります。

これですよね、問題はこの「ある思想」ですよね、これこそはドストエフスキーが繰り返してくるところの暗示、示唆、ほのめかしの究極の一つですよね、ちゃんと示唆しておいただろう、わかるだろうという裏の読み取り、僕が思うにおそらくこれは「ロシア人には心理の無垢と魂の広い包容力があり、西欧のすべての思想を総括するという思想」(訳者あとがき、下の618) を指しているのではないでしょうか、すなわちヴェルシーロフが熱くアルカージイに語る「千人」(下の389、395、396、403、405) の思想ですよね、パリ・コミューンに幻滅したところの。
ですので、ヴェルシーロフ自身がまずはその選ばれし「千人」のうちの一人であるのに、急所をピンポイントでつかれて過激に熱くなってしまう父と子、異様な熱気の連鎖、まあ、ありていに言えば動揺。
ここへきて、この「千人」には神はいないとドストエフスキーは考えているのではないでしょうか、「しょっちゅう神の名を口にする」けれども、「ロシアの根本思想」(下の397) はもつが、神は不在であると。
「ロシア人だけが、(中略) すでに、もっともヨーロッパ人になりきるときにのみ、もっともロシア人になりきるという能力を取得したのだよ。」(下の397) というヴェルシーロフの思想の核心に含まれているものを、ドストエフスキーは自らのヨーロッパ体験から看破している、と言うことは、そういう人物として、ドストエフスキーはヴェルシーロフを創造しているわけです。
繰り返しになりますが、「未成年」の核心は実にここのところだけであるように感じます。

よろしいでしょうか、そうしますとですね、貴族の出自であり高度な知識をもち「わしはひどく神を愛している」(下の591) と広言するヴェルシーロフには神がいないわけであり、本当にやたらとよく叫ぶ二十歳の「若人」(下の208) であるアルカージイにも神は不在です。
これに対して、「無教養」(下の203) であり、「農奴出の老人」(下の203) であり、「まったくの無学」(下の214) であるマカール老には神がいるわけです、有神論の立場。
したがいまして、ヴェルシーロフとアルカージイ対マカール老というまったく対照的な構図。
要は「未成年」の物語の核になっているのは、ヴェルシーロフとアルカージイのところに、マカール老が加わるだけのことなのですけれども。
そうしますとですね、結論として、これはヴェルシーロフが無神論者だからこそ、その「分身」がいたということになる、ここのところですね。

そして、なんと言いましても、そこはドストエフスキーですからね、ヴェルシーロフを使って無神論者を暴き立てている、無神論者のむなしさを訴えているのかもしれませんね。
やっぱり、「未成年」の全体を通して、ドストエフスキーが創造した最大の人物はヴェルシーロフです、決してよく叫ぶ主人公のアルカージイなどではなくてですね、僕はそう思います。
最後には、「以前のヴェルシーロフの半身」(下の590) にすぎなくなって、聖なる母 (ヴェルシーロフからすれば結婚はしていないが妻) ソーニャの胸に抱かれて充足しているような人間なのだと。それで、聖母の胸 (と言うのはロシアの大地ですね) に抱かれたような、今や「半身」のヴェルシーロフはとなるわけですね。

そうだとしましたら、これはやっぱりドストエフスキーはすごいことですよね!
つまりは神の不在ゆえに、人は「分身」を生じるのだと、仮に、ドストエフスキーが考えていたとしたらどうしますか?
つまりは実験や検証の材料として、ヴェルシーロフをドストエフスキーが創造してきたとしたら。

「分身」が世界を壊す、その「予感」(下の256、257) が「くも」(下の197、199、278) であり、「予言」(下の194) であり、アルカージイが見た実にいやらしい「夢」(下の194から196) なわけです。
この「くも」は要注意ですね、「悪霊」でも「スタヴローギンの告白」の中で「小っちゃな赤い蜘蛛」(岩波文庫版第三巻、p.186) が出てきます、それとの関連。
これにつきましては、ロシアにはなにか「くも」にまつわる不吉な民間信仰のようなものがあるのか、ないですね、ロシアの民間信仰や伝承について少し調べてみましたが、「くも」は常に幸運や富や吉兆をもたらす存在であるはずですから、これをドストエフスキーが単独で象徴として反転させてきた理由ですね、う〜ん、これはかなり難しいな、自分への宿題としてこれから考えてみます。
日本で言いましたら、白蛇や家守の類いですよね、それを不吉の象徴として180度、真逆の思考をしてくるところ。
例えば、日本人作家が白蛇は不吉な象徴であるとして小説を書き、それを日本人の読者が読んだら、う〜ん、違和感があるなんてものではないでしょ、変でしょ、はっきり言って。

いずれにいたしましても、ドストエフスキーはヴェルシーロフに代表されるような無神論者は聖像を二つにたたきわることになるというような、未来への予言、警告を発しているのではないでしょうか?
ドストエフスキーはそのような暗示やほのめかしをしているのではないでしょうか?
人類に対して、未来の子どもたちに対して!
「しょっちゅう神の名を口にする」者に気をつけなさいと!

やっぱり、ドストエフスキーのこの未来を予感してくる、予知してくる力には、並外れたものすごいものがありますね、これは(2026-1875=)151年後の現代においても、どこかの国の大統領ではないですけれども、当てはまりますよね。
「神の名」をよく口にしてくる者に気をつけなさい、そいつは聖像を二つに叩き割るぞと。
これはやはり、ドストエフスキーが直感で考えているからでしょうね、理屈でロジックで考えていたら、こういう予見であり予示はなかなかできないと思います。

それですから、アルカージイはヴェルシーロフの「分身」に、同族の我が身の将来を見る思いがしておびえているわけですね。
巻末のやや唐突にして異質なニコライ・セミョーノヴッチの手紙の抜き書きの中でも触れられていますように、おそらくアルカージイはこのあと、タチヤナ・パーヴロヴナに学資を出してもらい、大学生になり学業を終えることになるのでしょうが、果たして彼は将来的に神をもつのであろうか?

この問いをドストエフスキーは投げかけているのではないかと思いますが、おそらくですが、僕はドストエフスキーは、アルカージイはヴェルシーロフ同様、高度な知識をもつだけで、神はもたないとみているのでないでしょうか。
つまりは、ドストエフスキーはロシアのインテリゲンチャの未来に不安を感じている。
それでもなんとかして、ドストエフスキーは「未成年」であるアルカージイの将来にロシアの希望を見出そうとしている、それは彼が、「貴族と百姓の混血」(訳者あとがき、下の620) であり、「偶然の家庭の一員」(下の612) であるからです。
それに対して、ヴェルシーロフは、名門貴族の生まれの言わば純血であり、必然の家庭の一員であるので、「神の名」をよく口にするけれども神はもたない。

ここへきて、「しょっちゅう神の名を口にする」者の具体的な対象として、僕は当初は腐敗、堕落した教会関係者ですね、司祭や聖職者をドストエフスキーは念頭においているのかなと考えていたのですが、農奴解放以前の貴族という考えが、具体的な対象の中に含まれているのではないかと思うようになりました。

これは、やっぱりドストエフスキーはすごく深淵なテーマ、主題に触れていると思います。
知識、教養と神をもつもたないの間の分離された問題ですよね、151年経った現代においても、「分身」のなせる犯罪行為は決して少なくはないですよね。
僕が言う、病んでいない人間にこれまでに会ったことがない、にも通じますが、それは誰にでも「分身」がいる、「分身」のいない人間なんてこの世にいない、それでも、「分身」のなした犯罪は本人の犯罪です。

このドストエフスキーの驚異的な創造力の源ですが、やっぱり①思い込みでしょうね、それと②直感力、さらには③尋常ではないレベルの集中力。
制作者側の視点でみますと、幅広い教養も大切でしょうが、それよりはむしろ、これまでの考察でも明らかなように締め切りに追われて、十分な推敲もままならないままに書き進めていますから、常日頃心の中にためていた思想の表出!浮き上がってくるもの、あふれ出てくるもの、それらの表出、キャッチ、言語化、文章化、まあ、普通の人からすると魔法のように、もしかしたらドストエフスキー本人にとってさえもスラスラと魔法のように、その時がくれば書けちゃうのでしょうね、おそらくは、僕の想像ですけれども。
それを霊感などと呼んでもいいのですけれども、もっと普通に心の中で考えていたことでよいのではないでしょうか。
これは本人にとっては楽しいでしょうね、それは楽しいでしょう!
本人にしかできないことは、それはなんといっても楽しいのです。

まあ、僕は文学のことはまるでわかりませんけれども、これが小説であり、これが小説家なのでしょうね。
やっぱり、ドストエフスキーには様々な問題があるけれども、率直に言って、すごいなと思います。
つまりは、僕は「未成年」における二十歳が二十歳を書くという、ドストエフスキーの実験的な構想がある程度成功していると感じています。
ドストエフスキーの他の作品に比べて、「未成年」は難解で敬遠されているようですが、これはやっぱり非常に高度に作られていますね、レベルがかなり高いと思います!
さすがに、「カラマーゾフの兄弟」の一つ前の最晩年の円熟期に書かれた作品なだけありますね、どうみましても。
こういう作品を読みますと、やっぱり本を読んだなあという気がいたします!

今回も拙い文章を四回にわたり最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。
これで終わります。

2026年9月30日
和田 健

これで終わりますとか書いておきながら、大変申し訳ありませんが、これで終わりません (笑)。
なにしろ、今や時代の先端をゆくAI使用皆無のまとまりのない文章に加えて、元々僕の頭が足りないことも大いに手伝って、やたらと思考が長くなります (笑)。
上述の「くも」についての反転された象徴についての考えを深めていて、これはやはり確かだなと思ったのですが、ドストエフスキーは、二十歳が二十歳を半年後に書くという「未成年」の骨格を定めた時に、制作者側の視点からみて、なにしろ、二十歳が二十歳を書くのであれば、自ずとそこに限界が生じるなということは、やはり考えたと思うのですよね、なんと言っても、これだけの大作家ですから、そこは。
そこで、物語の軸になるヴェルシーロフの思想を表すにも、語り手が二十歳のアルカージイでは、善悪に敏感に反応し、やたらと叫び飛ばすにしても、そこにはやはり限界があるだろうな、それほどの深掘りはできないだろうな、まあ、これにマカール老の神を加えても、やはり作品として貧弱な手薄なものになるだろうなと考えたと思うのですよね。
そこで、この三人、ヴェルシーロフ、アルカージイ、マカール老を物語の仮に縦軸とするなら、それに対抗する物語の言わば横軸となる要素として、アンナとカテリーナの女の物語を組み込んできて、言わば縦糸と横糸で「未成年」という一つの物語を編み上げようとしたのではないでしょうか?
結果として、それを僕が上述しましたように、ドストエフスキーがカムフラージュとして仕組んできたというのは、多少誇張であるにしても、当たらずとも遠からずというところなのではないのかなあ。
このアンナ対カテリーナのドラマですけれども、どうしても一行で書け、一行でと言われれば、それは「老公爵の遺産をめぐる女同士の骨肉の争い」ということですよね (骨肉って、アンナとカテリーナには血のつながりはありませんが、一応念のため)。
あくまで制作者側の視点からみますと、ドストエフスキーはこんなものを書いていても、三文作家じゃあるまいし、小説家として別に面白くもなかったと思うのですよね、少なくとも、マカール老を描写するような楽しさ、生き生きとした感じは、まるでなかったと思います。
どうも物語の性質上、仕方がないから、やむを得ないから書いていた感じがするのですよね、なにか直感的にどうしてもそのような感じがする、ええ、僕も結構、直感と思い込みの人間ですから (笑)。
ドストエフスキーに訊いてみたい、この横軸はどのようなお気持ちで書かれていたのですか?

または、同時にこういうことも考えられると思うのですが、ドストエフスキーはアンナvs.カテリーナで横糸を縫い上げていったけれども、所詮は神につながるような深い思想の表れでもなんでもなく、安っぽい通俗的なものになってしまったので、つまりは物語の横軸が貧弱なものになってしまったという自覚があり、そのことに対して自身のうちになにか煮え切らない思いを抱えていたのかもしれない、そこで自身に対するフラストレーションの言わば弁済的な行為として、物語を最後の最後まで引っ張ったのかもしれない、ドストエフスキー自身の心の中の裏返しとして。
それは、「祖国雑誌」に連載していく上での読者に対してか、まあ、もちろんそれはあったでしょうけれども、主に自身に対してではないのかなあ、その両者の比率まではわかりませんけれども。
なにを根拠にそんなことを書くのかと問われれば、直感です。
ドストエフスキーは現代のわれわれにいつも「直感を忘れた人々へ」というサブタイトルを投げかけている気がします。
つまりは、『「未成年」──直感を忘れた人々へ──』のような感じで。

今度こそ、本当に終わりです?、たぶん。

Leave a comment