Today’s Drawing Photo on October 16, 2025

Detail
Multi-talented pencil, colored pencil, gouache and acrylic on canvas
28.7×21.7 in. (73.0×55.0 cm)
ダメ!
十分に間を取ったので、こちらから先につっかけていかなかったので、今日で決まる、今日で持ち込めると思っていたから。
絵画は生きているのに、生ものなのに、つくづく、自分は馬鹿だなあ〜。
絵画だけは何年やっても、終わりなき戦いです、きれいごとでは決してすまされないから。
絵画とは、何年描いても決して一人前になれない唯一の仕事です。
言わば、自分の生きてきた年月そのものが絵画であるから。
才能の実体、ものごとの奥にひそむ真のすがた、幼少の頃。
絵画とは、絵心があるだとか、絵が得意であるとか、学生時代に美術の成績がよかっただとか、そうしたものとは違うものである感じがいたします。
なんて言いますか、それも少し違うのではなくて、そうしたものとはまるで正反対のものである感じがいたします。
絵画とは、少なくとも絵画の制作とは、それがないと生きていけないようなもの、絵心などと言うよりは、どちらかと言うと、冗談とかではなくて食べ物や水に近いもの、もっと原始的なもの、本能のようなものである感じがいたします。
ですので、例えば、女の人を見てきれいだなと思う感覚に近いです。
それもテレビなどを見て、みんながきれいだと言う人ではまったくダメで、この場合に限ってはお話にもならず、例えば、あなたが旅に出て、夏のある日、道路沿いのなんの変哲もないバス停で暑い中、バスを待っているとします。
その時、向こうからおそらくは地元の女の人がバス停にやって来る、その人はいわゆる世に言うところの美人ではない、でも「あっ、きれいだな」と思う、その感覚に非常に近いです。
そのため、絵画とは、限られた特殊な形態の、なにか出会い頭的な恋する感覚に近いです。
僕がここで思い出すのは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」のなかで、語り手である「私」の乗ったバルベックへと向かう汽車が夜明けの駅に着き、「私」が汽車の窓から見た線路沿いの番小屋から出て来る「牛乳売りの娘」、あれこそがまさしく絵画そのものなのではないでしょうか、プルーストはあの場面で、これこそが美だとかなり強調してきましたよね、僕も本当にそう思います。
つまりは、絵画や美とは、景色な訳です、幻想な訳です。
幻想、大いに結構じゃないですか、それは物語な訳ですから、幻想を仕事にできるなんて、他の分野ではまずあり得ません。
絵画とは、非常になまなましいものなのではないでしょうか。
絵画とは、のどがかわいて水を欲するように、美への飢え、渇望のようなものなのではないでしょうか。
絵画とは、絵心などで制作するものではなく、言わば本能で突き進めるものなのではないでしょうか。
そのため、どこか非常に不格好なものに、必然的になるのではないでしょうか。
ゴッホを観ても、セザンヌを観ても、モディリアーニを観ても、スーチンやクレーを観ても、みんなどこか不格好ですよね。
ゴッホの絵画を観て、スマートだなと思う人はまずいません。
それは彼らが、つまりは本当の芸術家が、世間体などというものから遠く離れて、自らの本能にどこまでも忠実だからです。
画集ではあまりわかりませんが、実物を前にすると、彼らの苦悩であり、不安や焦燥がよく伝わってきます。
彼らも人間ですから、それは誰でもどうしても迷います。
これでいいのかなと思う訳です。
それが実物から伝わってくる*1ところが、おそらくは絵画の最大の醍醐味であり、神髄なのではないでしょうか。
2025年10月16日
和田 健
*1 この「実物から伝わってくる」を、より正確に表現しますと、「実物から匂ってくる」、「実物から漂ってくる」という感覚に近いです。
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