ディケンズ (1812-1870) の「荒涼館」(1852-1853) を読んで 第2回「本論」

(その1から続く)

(©︎Wikipedia, Bleak House, Cover of first serial, March 1852)

さて本論。
まずは、ハロルド・スキンポールなる登場人物。
僕に言わせれば、彼はスノッブの一風変わった変態種のようなもので、ちょっとここでやっつけておきたい気持ちも強いのですが、僕が個人的にとても気になったのは、スキンポールはディケンズの全くの創造上の人物なのでしょうか、それとも知人の中に誰かこの手の人間がいて、そこから着想を得たのでしょうか?
つまりは、僕が関心をもったことは、後者であればよいのですが、仮に前者であったとしますと、ディケンズの中にこのスキンポールなる人物の原型が潜んでいたことになります。
まあもちろん、その両者の混合による造形ということも、十分にあり得るでしょうが、いずれにいたしましても、この人物は自己完結することによって自らを保存、維持しているとでも言いますか、本人に悪の意識がありませんので、他人の意見を聞き入れることができないため人間性の向上は望めず、非常に厄介な存在になります。
そして、ここがすごくディケンズの現代性を感じるところなのですが、今現在、この手のスノッブが確実に増えてきているように思います。

さて、物語全体を通して随一のとでも言いますか、最も善良なる人物はと言えば、それはやっぱり客観的にみて、ジョン・ジャーンダイスではないかと思うのですが、ジャーンダイスはスキンポールを他愛のない子供なのだとして、その残酷なまでに無責任な本質を見抜けていないですよね、それでスキンポールの死後に伝記が出版された時に、ジャーンダイスは痛烈に罵倒までされている (第4巻、p.351)、ここのところ。
間抜けとまでは言いませんけれども、それはいくらなんでも言い過ぎだとは思いますけれども、ディケンズが意図的にそのような設定にしてきていることは明らかであると思います。

なにかどうも、ディケンズは、ジャーンダイスにしても、エスターにしても、善良なる人物には特段の知性を与えていないですよね。
もう一人、真っ直ぐな気質のエイダやジョージはちょっとおいておいて、この物語の中には、もう一人善良なる人物がいて、それは破滅しましたけれども、実はリチャードですよね。
これも格別の知性は持ち合わせていないために、ジャーンダイス訴訟に巻き込まれて死ぬ。

反対にどうなんでしょうか、悪の方、タルキングホーン、それからリチャードの弁護士のヴォールズ、彼なんか相当悪いですよね、口を開けば「三人のむすめをかかえております」だとか、「トーントン渓谷で父親をやしなっております」(例えば第3巻、p.190) だとか、さも真人間のようなことを言っていますが、これはもちろんディケンズが故意にそのように言わせているのでしょうが、要は武器を扱わないだけの死の商人ですよね。
このヴォールズなどは、それでもまだスキンポールなどよりはまだまし?で、本人の心の中に悪事をはたらいている意識がありますので、それでよく言えば、自らの精神的なバランスをとろうとしてとでも言いますか、心の中の己の悪をとりあえず表面的にでも溶解するために、または心の中の悪を己に得心させるために、口を開けば決まり文句の善が、口を衝いて出てくるのだと思います。

昔「モンパルナスの灯」という映画で、モディリアーニが亡くなった直後に、すぐに作品にすり寄って来た画商を、思わず思い出しました。
つまりは、僕が言いたいのは、世の中の悪や不正というものには、実は非常に具合の悪いことに、えてして知性を伴うよということを、ディケンズは警告しているのではないだろうか。
それも作品を通して一読すると世間に対して訴えかけているようではありますが、おそらくは無意識下において作家本人に対しての自戒として。

これは結局、どういうことなのかと言うと、僕には書き手としての、制作者側としてのディケンズが、自らの心の中の善と悪のバランスを、登場人物たちを通して必死にとろうとしているのではないだろうかと、どうもそのように思えて仕方がないのですが、違いますでしょうか。

さらに言えば、交互に繰り返されてくる「エスターの物語」ですよね。
これは通常、ナラティブ「語り手」の問題として解釈されているようですが、僕にはこれも制作者側としてのディケンズが、性のバランスをとろうとしているように、なんだか必死に性的な中立を保とうとしているように思えて仕方がないのですが、これも違いますでしょうか。

さて、読んでいて途中から非常に気になったのですが、僕の究極の疑問は、次の一行に集約されます。
「ディケンズは、なにゆえ主人公エスターの容貌をこれほどまでに醜くする必要があったのか?」

え〜と、これはやっぱりどうみても尋常ではありませんよね。
ある特定の一人の女性の顔について、まあ一、二回触れるのでしたらともかくとして、エスターが病後の回復期にボイソーンの屋敷で化粧テーブルのうえにある鏡で初めて自分の顔を見た時の、
「わたしの顔はすっかりさまがわりしていましたーああ、すっかり、すっかりかわっていました。はじめ、その顔はとてもじぶんのものとはおもえませんでした」(第3巻、p.119)
から始まって、
「じぶんのかわりはてたすがた」(第3巻、p.148)
「わたしのかわりはてた顔」(第3巻、p.151)
「わたしの容姿がもうすこしまともだったとき」(第3巻、p.355)
「むかしの顔が消えさり、わたしになんの魅力がなくなっても、外見がまだましだった日々」(第3巻、p.355)
「わたしのみにくさ」(第3巻、p.355)
「わたしのさまがわりした顔」(第3巻、p.356)
「ねえ、不器量なあなた」(第3巻、p.357)
・・・と、このあたりでやめておきますが、ラストシーンの
「わたしの器量なんてたかが知れてますけれど、むかしのじぶんの顔のこと」
「たとえあれがあのままだったとしても」(いずれも第4巻、p.456)
に至るまで、ディケンズはいったい何回繰り返しているのでしょうか。

これはやはり作者と同じ男としての立場からみても、これだけ何度も一人の女の顔が醜くなったと強調するのは、ちょっとなにか異様な感じがしますと言いますか、端的に言って非常に残酷ですよね。

あとこれは、同じ重い病気 (一応、一般的には天然痘であると解釈されているようですが、実はどこにも具体的な病名への言及はありませんでした) が、要はジョー→チャーリー→エスターと感染している訳で、チャーリーのかわいらしい顔にはなにも変化が起こらないという非常に不可解な点があります、これはなんでなのでしょうか?辻褄がまるで合いません。

この疑問を解決するべく、インターネットで読める限りの日本語と英語の論文を手当たり次第にいろいろと読んでみましたが、専門の研究者の方はそういう考え方をするんだなとか、例えば、感染というものを通して誰々がジョーと見えない糸でつながっているとか、たくさん勉強にはなりましたが、問題の解決には結局至りませんでした。(*下記後日記1参照)

う〜ん、このディケンズの意図は難しいな、ディケンズがここに明らかに意図的に設定してきている真意が、僕にはわからない。
ラストではないな、エスターが玄関にすわって月を観てうんぬんのラストではないな、夫アランの「ならわかるだろ。きみはまえよりもきれいだよ」(第4巻、p.457) ではない気がする。
そんなことを書くために延延と何度もエスターが醜くなったなんて繰り返してこなくてもよい気がする。
しかしこれはあれですよね、これだけの力量の大作家のラストとしては、なにかちょっと物足りないなあ。

あとは考えられるのは、レディー・デッドロックとエスターの親子関係が、周囲にそれと知られないための予防線とでも言いますか、そのためのエスターの容貌の変化、両者の差別化を徹底してはかるため、これも弱いな。

なにか直感的に、これは聖書の内容と関連している気がしますが、その根拠が出せません。
聖書の中に「大切なものを失う者は、より豊かになる、より富める者になる」とでもいうような記述がなにかあるのでしょうか?

これは、あれでしょうか、ディケンズ自身もエスターにかなり残酷なことをしているなという意識は、執筆しながら当然強くあって、それで最後に「このしあわせな七年間」(第4巻、p.449) で始まるエスターの回想録をもってきた、要はハッピーエンドですよね、そのような構成にしてきたことは、誰でも容易に推察できると思うのですけれども、エスターだけを醜くしたその真意ですよね、必要性ですよね、ここがわからない、かなり難しい。

例えば、これはディケンズの身近に同じ重い病気にかかり容貌が変化した女性が実際に存在した、そしてその女性は、残念ながらその後幸せになることはできなかったと仮定したらどうなるだろう?
だから、エスターにはどうしても幸せになって欲しかった→これも違うな。

つまりは、僕が言いたいことは、エスターって、馬車に揺られてロンドンに向かうまだうら若い時から、厳しい代母 (実は母の姉である伯母) に育てられたため愛を求めてはいたけれども、たしかに愛を探してすごく求めてはいたけれども、ここが肝心なところなのですが、「グリーンリーフではしずかでしあわせな六年をおくりました」(第1巻、p.70) とありますが、その後には、エスターはすでに心根が善良であり正直でしっかりとしていますよね。
容貌が醜くなったことで、エスターの精神的な成長が、その後かなりの程度、エスター本人にもたらされたという感じが読んでいてあまりしない、伝わってこない。

(©︎BBC, Bleak House, 2005, Esther Summerson)

逆に、ディケンズがここは絶対に一歩も譲らなかった、「ハッピーエンド?そんなものになる訳がないだろ!」でもってきた感じがするところは、哀れなジョーの死ですよね。
そのためディケンズが、この場面では直接前に出て来て強く宣言して訴えています。
「御臨終です、女王陛下。御臨終です、貴族ならびに紳士の皆様。御臨終です、あらゆる有徳、無徳の聖職者の皆様。御臨終です、天与の憐情を心に宿す皆様。こうして我々のまわりで毎日、人は死んでいくのであります。」(第3巻、p.437)

これを初めて読んだ時は、かなりびっくりしました。
こんなことを言えるのは、書けるのは、これはもうディケンズしかいない、これは例えば、ドストエフスキーには書けない。

しかし、なにかが心に引っかかるのですが、逆に言えば、ちょっと風刺画的だな。
舞台、芝居、演劇、俳優、脚本、台詞・・・、なにかそうした感じのものにつながるようなエンターテインメント系の匂いが、印刷された紙の奥からかすかに漂ってくる気がするのですが、皆様は僕の意見をどのように思われますか。

(その3に続く)

2024年9月9日
和田 健

後日記1:
え〜と、見えない糸関連ということでしたら、僕は個人的には、レディー・デッドロックに焦点を当てて、いつもつんととりすましていますがと言いますか、正確にはなんとしてでもプライドを保って秘密を守り、いわく言い難い印象を人に与えつつ、たえずとりすましていなければならず、心の奥底をのぞくことなどまるでできませんが、
エスターの純真=内に秘めたるレディー・デッドロックの純真
であり、さらには、人間の苦悩にもちろん簡単に優劣などつけられませんが、親子関係という極めて特殊な観点から掘り下げた場合、
エスターの苦悩<レディー・デッドロックの苦悩
ではないかと思うのですが。
レディー・デッドロック、よかったですね。
生涯にただ一度だけ、一日の内のほんの短い間だけ、「チェズニー・ウォルドの緑地の森」の娘の「お気に入りの場所」(いずれも第3巻、p.126) で解放されて。
その後、解放されたのが死ではあんまりではないでしょうか。
別に悪事をはたらいた訳ではなく、結婚前にホードン大尉 (ネモ) と恋愛していた訳ですから。
これは、あれでしょうか、レディー・デッドロックのサー・レスターとの結婚は、父親のような保護者的な男性を求めてというような解釈なのでしょうか。
それで、ディケンズは、当初、エスターに同じく父親のような保護者的な男性を求めて、ジョン・ジャーンダイスなのでしょうか。

2024年9月13日
和田 健

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