小中学校時代の思い出その2 ー野球のことなどー

1975(昭和50)年春、ソフトボール部練習試合風景、松戸市立常盤平第二小学校グラウンド、小学校六年、手前の背番号1番はエースのNくん

1975(昭和50)年春、ソフトボール部、松戸市立常盤平第二小学校グラウンド、小学校六年、手前の背番号4番がキャプテンのSくん、7番がレフトのTくん

さて六年生になり、今度はソフトボール部のファーストのレギュラーになり、背番号3をもらいました。
この時、キャプテンだったのが背番号4のSくんで、ポジションは僕の隣のセカンドでした。
僕の野球人生で、結局、このSくんが、守備が一番上手かったです。
とにかくグローブさばきが、ずば抜けていて、体は小さくて細かったのですが、ヒラヒラとグローブを舞わせながら、バウンドのタイミングを合わせて捕ってしまう。
このSくんのプレーをいつも真横で見ていたので、その後の野球人生で出会った誰の守備を見ても、それほど上手いなと思わなくなりました。
一度、練習中にSくんが「ケン、もっと(一塁)ベースに詰めておかないと抜かれるぞ」とセカンドから声をかけてきたのですが、僕は一塁ベースまでの距離を見て、そんなにあいていないし、「ふん、こんなところをそんなに簡単に抜かれるか」と思ったのですが、その直後に、バッターの打った打球が飛んで来て、僕と一塁ベースの間をパッと抜かれました。
Sくんが近づいて来て「ほらっ」って言ったのが、まるで昨日のことのように思い出されます。
あの時、子供心にもSくんにはつくづくかなわないなと思いました。
野球を本当によく知っているんだなあと。
外野手のTくんやSくんも、すごく上手かったです。
結局、この年の大会も常盤平第三小学校や、まだ当時開校したばかりの牧野原小学校には勝ったのですが、隣の常盤平第一小学校に負けました。
負けた後、Sくんが「今朝、せっかくおいなりさん食べてきたのになあ」と言っていたのをよく覚えています。
今の若い人たちには、なにを言っているのか意味がわからないと思いますが、おいなりさんは当時、ご馳走でしたので普段は食べられず、今日は特別の日でしたので、せっかく朝からおいしいものを食べて、しっかりと栄養をつけてきたのになあ、くらいの意味です。

六年生の時には、スポーツテストでしたか、体力テストでしたか、正式な名前はもう忘れてしまいましたが、僕はソフトボール投げで61m投げて特級になり、松戸市から認定証のようなものをもらったことを覚えています。
この記録は今の子供たちに比べて、どのようなものなのでしょうか?

それから僕は、クラブ活動でサッカークラブにも入っていて、ポジションは左のサイドバックでレギュラーで大会にも出ました。
僕の学年で、ソフトボールとサッカーとどちらも学校代表で出場したのは、たしか僕一人ではなかったかなと思います。
この大会では、今ではもうはっきりとそのプレーの内容を覚えていないのですが、僕のちょっとしたミスで自殺点のような形で相手に得点を与えてしまい、試合後、みんなに申し訳なくて、ベンチで一人で泣いていたことを思い出します。
まだオウンゴールなどという言葉のない時代でした。
その時、当時まだ新卒だった指導者のT先生がそばに来られて「和田はよくやったぞ」と励ましてくださいました。
この先生は高校生の頃、エースストライカーとしてお正月の国立競技場の全国大会にも出たすごい方でした。

それから、僕は松戸市の陸上競技大会にも、走り幅跳びで出場しました。

そんな感じで、スポーツに明け暮れ、授業中クラスではいつも面白いことを言ってみんなを笑わせていた割には、女の子にはさっぱりモテず、また僕自身もあまり関心がなく、そんなことよりは男の子でたくさん集まっていつもわいわい遊んでいました。
当時の愛読書はなんと言っても、ちばあきおさんの「キャプテン」で、谷口くんやイガラシくんに憧れ、よし中学校へ行ったら、墨谷二中のようにやるぞ〜とか、本気で思っていました。
「トムソーヤの冒険」や「ヴィーチャと学校友だち」も愛読書で、今思えば要するに男の子たちの世界の話が好きで、何度も何度も繰り返して読んでいました。
それから、五年生、六年生の時に同じクラスだったAくんの影響で、大和球士さんの本をよく読むようになり、プロ野球ならぬ職業野球黎明期の方たち、若林さんとか、景浦さんとか、松木さん、苅田さん、水原さん、三原さん、千葉さん、川上さん、吉原さんなど、とにかくどんどん昔の方たちの逸話を吸収していきました。

当時の僕にとっては、小学校四年生の時の昭和48年の江川さんが表紙だったアサヒグラフの夏の甲子園の特集号 (今も大切に持っています) に、カラーの一面広告が載っていたローリングスのグローブが夢のまた夢で、ためつすがめつそのページを眺めては、いつか欲しいなとため息をつき、下町の南千住にあった東京球場にロッテオリオンズの試合を観に、父が二十回か三十回は連れて行ってくれたのが、もう球場に入るとパッと照明が明るくて、まるで夢の舞台のようで、あの頃のパリーグの試合をたくさん観ました。

1971(昭和46)8月、東京球場にて、ロッテオリオンズ戦を真剣な表情で見つめる、帽子に池辺さんの34番、小学校二年

今の若い人たちにはまったく信じられないでしょうけれども、あの頃のパリーグの試合では観客が500人とか、そのくらいのことがよくあり、東映には張本さんとか白さんとかすごくこわい人がいて、この人たちはいったいなにをしに球場へ来ているんだろうなと思い、子供心にも張本さんはまったく守る気がなく、南海にはもちろん野村さんがいて、内野ゴロを打つと一塁まで全力疾走なされず、ロッテオリオンズは監督は濃人さんで、小山さん、木樽さん、成田さんの投手三本柱がフル回転していて、僕はセンターの池辺さんのファンで、オリオンズの帽子の横に黒い34の縫い取りを母にしてもらい、でもとにかくアルトマンがすごかったなあ。
チームでは、西本監督の阪急がなんと言っても強かった。
セリーグでは、村山さん、江夏さん、田淵さんの阪神タイガースのファンで、もうなんとかしてとにかく強い巨人をやっつけようぜという感じでしたが、こちらは球場ではなくテレビ中継を通しての熱烈な応援でした。

それから元旦のサッカーの天皇杯の決勝に父が国立競技場まで何度か連れて行ってくれて、ヤンマーディーゼルの釜本さんは負けると、表彰式で首にかけてもらった銀メダルを、その場ではずして短パンのポケットにすぐに入れてしまって、観ているまわりの大人がお決まりのように「釜本、ちゃんとかけろ!」とそれを野次る、そんな時代でした。

なんだか昭和感満載になってしまいましたが、僕はこの後、生まれ育った思い出の地を離れ、常盤平第二小学校を卒業した春休みに、東京都世田谷区代田に家族で引っ越し、世田谷区立北沢中学校に入学します。

(その3に続く)

2024年5月7日
和田 健

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