ヨゼフとその兄弟たち

Ancient Night Sky, Watercolor on paper, 22.0×27.3 cm, December 2021

皆様、こんにちは。
僕が住んでいる群馬県の標高1100mの森の中は、一面の銀世界となり、今朝はマイナス12℃まで冷え込みましたが、雪かきをしたお陰で体も温まり、加えてこの年末にかけて、全く個人的な読書に関することで、静かに少しずつですが、盛り上がってまいりました。
僕が、初めてトーマス・マンの「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房版全3巻)を読んだのは、今から6年前の2015年9月24日から2016年1月22日にかけてでした。
それ以来、僕のわずかな読書歴の中で、この本は現在に至るまで、僕の心の中で第一位の座を譲ることは、一度たりともありませんでした。
すなわち、僕がこれまでの人生で読んだ全ての本の中で、一番感銘を受けた本というのは、いつでも「ヨセフとその兄弟」でした。
全3巻それぞれの初版が発行されたのは、今から30年以上も前の1985年から1988年にかけてですが、この筑摩書房版の入手は、現在、お金に余裕のある方はともかくとして、大変困難な状況です。
そして初読以来、6年が経過いたしましたが、さあ、もうそろそろ再読のタイミングも熟しただろうという感覚があり、今回は、筑摩書房版よりもさらに30年も古い1958年から1960年にかけて初版が発行された新潮社版全6巻で、タイトルも「ヨセフとその兄弟」から「ヨフとその兄弟たち」に変わり、2021年11月15日から再読し始め、現在第1巻の「ヤコブ物語」を読み終わり、第2巻の「若いヨゼフ」に入ったところです。
ちなみに現在、こちらの新潮社版の入手も、同様にかなり困難な状況ですが、メルカリで全6冊を何と1400円(信じられない!)で、出品している方がいて、ご自分の蔵書の中からマン関連の他の書物3冊も一緒につけてくださった大変良心的な方でした。
これはですね、もうどうみても決して偶然などではなくて、何者かに「さあ、また読みなさい!」と、明らかに言われているようなものですね。
さて、どうしてこれほどの偉大な文化的な遺産とでもいうべき書物を、出版社の方々は、長い期間にわたって、いわば絶版状態にしているのかという、これからの日本の若い方の一般教養のためにも非常に大事な問題(え〜と、こうした点をいつまでもクリアーできないで、そのままにしていることが、現在にいたるまで、ヨーロッパの国々に、文化的な教養に関して、大きな差をつけられている象徴的な事実の一つになっている感じがいたします)は、今はひとまず、おいておいて(よい問題では、全くありませんが)、それでは早速、本題に入ります。

まず、いきなり結論から入りますが、3000年前のこの頃の人たちは、「神とは何だろう」ということについて、実によく考え抜いていたな、ということです。
再読ですので、この物語が、この後どのように展開していくのかは、もうわかっていますので、つまり、ストーリーを追う必要はありませんので、まあ再読の味わいとでも言いますか、ゆっくりと読んでいますが、「神とは何だろう」ということについて、3000年前の人たちは、実によく考え抜いているという、この素朴な事実が、改めて非常に印象的でした。
これに対して、現代の私たちは、どうでしょうか。
「神とは何だろう」なんて、通常、あまり考えないのではないでしょうか。
つまり、現代の私たちは、多くの場合において、神を信じるか信じないかですとか、あるいはまた、神はいるかいないかですとか、そういった二者択一論的な観点で、考えることがほとんどなのではないでしょうか。
または、◯◯教を信じるか信じないかですとか、あなたならどうしますかどう思いますかとか、ほとんどの場合において、そのような切り口で考えることが、多いのではないでしょうか。
しかし、アブラハムにしろ、イサクにしろ、ヤコブにしろ、彼らはそんな観点に立っては、全く一度たりとも考えていない、そんなことはまるで考えていない。
彼らは、常に、自分たちの神を創り出そうとして、自分たちにとっての神とはなんだろうと、その創造に向けて日々、ひたすら奮闘、努力している、ここのところですね。
ここに決定的な違いがある。
すでにできあがった神を信じるか信じないかではなく、自分たちの神を創造しようとしている、これは決定的な違いです。

それでは、いくつか本文中から具体的な例をあげてみます。(すべて原文ママ)
まずは、ヤコブの言葉です、
「私の先祖や私たちは、羊を飼いながら、神様とは何だろうと幾度もいくどもさんざん考えてきたんだ。私たちの子供や孫たちも私たちに倣ってこれを考え続けて行くだろう。」(第1巻「ヤコブ物語」から。以下同じです。p291)
次は、彼とはヤコブのことですが、
「自分独自の神を作ろうという彼の事業」( p.372)
とあります。
ヤコブには、またこんな印象的な言葉もあります。
自分たちの神を創造しているのですが、まだその神が小さい*1ということですね。
神が小さい、なんて素晴らしい言葉ではありませんか!
「ひとえにただその信徒たちの数がまだ少なく勢力も弱く、自分たちの神のためにそういう神殿を建てるに至らないからだけのことではないのかという疑念が混入してきた。」(p.236)
それから、こんな言葉もあります。
死にゆく、ヤコブ最愛の、心の妻ラケルの最期の言葉です、
「これからあなたは、私なしで、神さまとはどういうものかを考えて、きめていらっしゃらなければならない。どうぞ、うまくおやりになって。御機嫌よう。」(p.373)
さらに、マンはこのようにも記しています。
ヤコブがラケルが死ぬことを悟った時の言葉です、
「神よ、あなたは何ということをなさるのか。」
というヤコブの悲嘆に続いて、
「こういう場合、返事は与えられぬ。そのような黙殺に会ってもなお神の存在を疑うことなく、人間の理解を絶するものの尊厳を悟って、かかるものの存在を自分自身の生長の糧にする能力こそ人間精神の誉れといってしかるべきなのだ。」(p.372)
すごいですね、このトーマス・マンという人は、ちょっと並外れていますね。
もう何て言いますか、超弩級です。
絵画史に当てはめると、この人は、まさしくレンブラント・クラスでしょうか。
もう何て言ったらよいのでしょうか、ものが違うとでも言うのでしょうか、いわゆる世間で文豪と言われている他の方たちと比べても、傑出している感じがいたします。
例えば、序章の「地獄行」の最後のくだりです、
「では降りて行こうではないか、ためらうことなく。(中略) ほんのちょっと、三千年がところ降り下るにすぎない。(中略) 出発にあたって顔をしかめていた諸君も、さあ眼を一杯に開き給え。もうわれわれは現場に到着しているのだ。見給えー平和な丘陵地帯の上には、明るい月しろが懸かって、ものみなの影をくっきりと色濃く映しだしているではないか。触れ給えー夏にも紛う春の夜の、穏かなすがすがしい大気に。」(p.51、p.52)
として、三千年前の風景を、いとも鮮やかに私たちの目の前に広げてみせるその手腕の見事さ、スケールの大きさ。
導入部のこの記述だけで、思わず、もうこの小説の勝負はあったな!という感じがいたします。
そしてさらには、ヤコブという人間の素性に加えて、ヤコブが受けた、担った祝福そのもの自体についても、実に様々な角度から光を当てて炙り出しては、一つ一つ吟味し、考察を加えていく段階にいたっては、もうこんなこと他の誰も真似できない、マンの独壇場の感さえあります。
祝福については、
「蓋し、祝福を受けた人間の生活が幸福ずくめで、浮沈のない繁栄の連続だと考えるのは浅薄な迷信にすぎないからだ。もともと祝福というのもは、祝福を受けた人々にとってもその存在の基礎を構成するにすぎず、この祝福が時折いわば金色に洩れ光る時間以外の大部分の時間は、苦悩と試煉の闇に覆われているものなのである。」(p.318、試練は試煉になっています。)
とあります。

その他にも、ざっと全体を見渡しますと、
リベカの計略によって、エサウからヤコブが祝福を盗み取るところ。
デナの物語と、ヨゼフの兄たちのシケムの町の身の毛もよだつような殺戮と略奪。
やはり、この場面は、全体を通して、異質です。
レアの息子たちのしでかした、この事件の意図するものは、一体何なのか?
この間、幕舎内にとどまるヤコブの一連の心理の描写と言いますか、底意の照射には、すごいものがあります。(p.167 他)
「と、忽ちヤコブは、この伯父から極めてうさん臭い印象を受けた」(p.220) とありますが、 土くれから作られた畑を耕すために生まれた「太陽の男」ラバンに対して、血筋からいっても、また性格からいっても、羊飼いの素質を受けた「月の男」ヤコブという25年間の対比というよりはむしろ対決。
「そして、いうまでもないことだが、羊飼いには暇な時間がいくらもある。一日のうち少なくとも幾時間かは、いや、それどころか半日だって、何もしないでじっと瞑想に耽って暮す。」(p.254)
「牧羊生活は、上品であり瞑想的であって、神やラケルのことを考える暇を与えてくれた。」(p262、263)
という羊飼いの生活。
これだけひたすら長い間ラケルを、ひたすらラケルだけを待ち焦がれて迎えた新婚初夜に、悪魔のような残酷なぺてん男ラバンによって、レアにすり替えられたヤコブの絶望なんていう生易しいものではない錯乱状態。
また、人間というのもは、各々の寿命を感知しているという、
「けれども、時間というものはたっぷりとあることをその肉体で感知していた彼は(彼には百六年の寿命が与えられていたのだ)じっと時機を窺っていた。」(p.308)
というヤコブについての記述や、「まだら羊」(p.333) の一件も特に印象に残りました。
「わずかに四十一歳でみまかることになっていたラケル」(p.259) とありますように、かわいそうなラケルは、41才で亡くなりますからね。

さあ、この後の物語を楽しみましょう。
自惚の強いヨゼフが調子にのって、文字通り穴(=井戸)に落ちるところ、そして、ヨゼフはエジプトに売り飛ばされて・・・、さあ、そのあとが、そのあとで、また大変です。
特に、ポティファルの妻とのくだりで、ヨゼフは人生最大のピンチを迎え、またまた穴(=2度目は監獄)に落ちます。
マンの並外れた集中力は、この場面の一連の詳細な描写において、その極致に達していた感がありましたので、再読するのが楽しみです。
それにしても、以前にもこのサイトに書きましたが、旧約聖書は、ぎっしりと無意識の詰まった、いわば無意識の宝庫ですね。
そして、第1巻を読んだだけで、もうすでにこの物語は、やはりマンの作品の中で、代表作の「ブッデンブローク家の人びと」や「魔の山」を明らかにしのぐ、やはり最高の作品ではないか、無尽蔵の汲めどもく汲めども尽きることのない味わいや、それでいて、何か全編を通底している大らかな明るさや、ユーモアに富んだ賑わいのようなものを確かに感じます。
端的に言いまして、第1巻の中程あたりですでに、あと5巻しかないな、当たり前ですが読めば読むだけ、少しずつ減っていってしまうなあなどと思ったことは、生まれて初めての読書体験です。

若い方へ、公立図書館で借りて読むという無料の手があります。
是非一度、一生の間に、是非とも一度、お読みになってください。

2021年12月19日
和田 健

*1 神が小さい、ということにつきましては、群馬県の山奥で暮すようになってから、実に様々なことを感じたり、考えたりするようになりました。
これは、旅行や一時的滞在では、なかなか難しいかなと思います。
もちろん、不可能ではありませんが、何事もやはり生活しないと見えてこないものがあるように思います。
現に、僕は東京時代には、あまりそのようなことは考えませんでした。
やはり地べたをはってとでも言いますか、畑を耕したり、山登りをしたり、自転車に乗って移動したりと、まあ要は何でもよいのですが、この地域には、実に多くの小さな神社があることに気づかされます。
草深い名もない山奥の「えっ、こんなところにも!」と、これは何て言いますか、ちょっと都会の人には、実感として伝わらないくらいの数の多さです。
つまり、自分の神ですね。自分たちの小さな神です。
あるいは、土着信仰と呼んでもよいのかもしれません。
神というのは、信仰する自分にとって、あくまで信仰する自分たちにとって、ご利益がなければ意味がないですね。
以前、小林秀雄さんが、このことについて、新潮CDの講演で話されていて*2、ここのところの意味がわからず、「ふ〜ん、そんなもんか」と思っていましたが、最近、少し意味がわかりかけてきました。
これに対して、現代の私たちの神はどうでしょうか?
どの宗教の神にしても、あまりにも立派すぎて、大きすぎはしないでしょうか?
すでに出来上がった完成された神を追いかけてはいないでしょうか?
何かここのところに、この今の世界の混沌とした難しさを解く鍵が秘められているように思うのです。

*2 僕の「絵画日々のメモ」のノートにあたってみましたが、これはおそらく新潮CDの第2巻「信ずることと考えること」のCD-2ですね。
「神とは、自分との私的な関係。僕の個人の願いを聞き届けてくれなくてはいけない。救ってくれなければいけない。」と、2013年にノートしていました。
え〜と、確か講演の最後の質問コーナーのところで、学生の方が、ここのところをもう少しわかりやすくと、質問したのではなかったでしょうか?
それに対して、小林秀雄さんが、「僕は決していい加減なことを言っている訳ではないんだよ。だけど、これについては、これ以上、わかりやすくは答えられないなあ。」と言われたのが、とても印象に残っています。
・・・・・・・・・
早速、もう一度聴いてみました。
八百万の神、要するに宗教ではなくて、信仰。
僕の考える「小さな神」という解釈の流れで、まあ、大筋としては、いいのではないでしょうか。
CDを聴き直す前に、土着信仰という言葉が出てきたことは、よかったな。
そこまで、思考がたどり着いていた訳だから。
ここからまた考えてみます。

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