「天職」発見の物語であるマルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み終えて ー途中経過その7 最終回その1  第13巻「見出された時 Ⅰ」から、第14巻「見出された時Ⅱ」までー

(途中経過その6から続く)

皆様、こんにちは。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) の第13巻を、2025年7月16日に読み始め、その第14巻までを、2025年8月16日に読み終わりました。
したがいまして、これをもちまして、第1巻を、2024年8月30日に読み始めてから、計352日、12ヶ月弱をかけて、ようやく「失われた時を求めて」の全巻を読了いたしました。
僕の場合は、眼病のため常に拡大鏡を使いながらの大変な遅読ですので、まあ、当初計画していた大体1ヶ月に1冊、14ヶ月で読了の予定よりは、少しだけ早かったというところでしょうか、パチパチ。
この一年間で「失われた時を求めて」を読まなかった日が、おそらく4、5日はあったように思いますが、そのような日もメモだけは、常に手元において読み返すようにしていました。
大体ですが、1日に20ページをノルマとしていて、最終巻へと向かうにつれて、特に第10巻あたりから、調子が出ればもう少し読んでいたようにも思いますが、まあ、僕の頭では、同じところを2、3回繰り返して読んだだけでは意味がとれず、4回、5回と読んだ箇所もありますので、と言いますか、ほとんどがそうでしたので、なんだか一気に再々読くらいはしたような感じがいたします (笑)、というのはあまりよくない冗談ですね。
一度、第12巻を読んでいる時に眼の具合が悪くなり、これはもうダメかなと思ったのですが、その後の眼球注射でまた少し状態がよくなりました。
その間、今回のような感想文を、「途中経過その2」だけ「番外編」があったために、これまでに計8回 (今回を含む) 掲載いたしましたので、その分、当然読了が遅くはなりましたが、メモをとったり書いたりしていかなければ、考察も深まらなかっただろうなとは思います。

さて、本題に入る前に、僕の読んだ第13巻が、2023年9月5日発行のすでに第6刷で、誤植が少し気になりましたので、一応念のためにご報告です。
訳注 (300) の (地図②参照) は、地図①参照の誤りではないでしょうか?(13の235)
図26の(Reims, 地図②参照) は、地図①参照の誤りではないでしょうか?(13の273)
もし僕が間違っていたら、これは出版社の方に大変な失礼ですね、ごめんなさい。

さて、本題です!
第13巻で、圧倒的なまでに僕の心に深く突き刺さってきたのは、もう終わりに近くなったところで、プルーストが語り手である「私」を通して展開する文学論ですね、これは衝撃的でした、いや〜、参りました、恐れ入りました、これには!
結局、全14巻を通して、プルーストのこの文学論が、僕にとっては他のどこの箇所よりも圧巻でした。
ここまで苦労しながら、毎日少しずつ読んできて本当によかったな、報われたなこれは、という感じです。

また最終第14巻では、「時」をめぐる興味深い考察が展開され、とくにサン=ルー嬢 (要するにオデットとスワンの孫ですよね、ジルベルトとサン=ルーの娘なわけです) が登場してからの、迫りくる死の脅威と自分の作品・書物に関する「私」のほぼ独白に近いような鬼気迫る記述に大変感銘を受けましたので、「途中経過その7」では主に第13巻について考えたことだけを書き、第14巻につきましては、「途中経過その8」として、次回にまた改めて書かせていただきます。

どちらも非常に印象に残った理由は、僕の仕事柄、それらが制作者側の視点に満ち溢れていたからです。
僕が思いますに、この作品は、少なくともですね、芸術関係の方たちや、これから芸術を志す方たちとっては、必読の書なのではないでしょうか?

さて、第13巻の文学論の中でも最も僕の心に深く食い込んできたのは、
「才能の実体は普遍的な財産、収穫であり、その存在はなによりも思考や文体といううわべの流儀の下に隠れているものによって確認しなければならない」(13の486)
「本能は義務を果たすよう強いるが、知性はその義務を回避するさまざまな口実を提供するからである。」(13の457)
「芸術家はいかなるときも自分の本能の声に耳を傾けるべき」(13の457)
という文章です。

ここへきて、プルースト自身の文章からこれだけの長大な作品の謎が初めて明かされ、本能で突き進んで書いてきたからなのですね、本人がそう宣言している以上、これには疑いの入れようがありません。
つまりは、類まれな構成作家でもありながら、同時に知性を排除し、非理性的で感覚的な本能に常に忠実であれと邁進してきた結果として、物語はさまざまな方向へとなんら制約を設けることもなく膨張し続け、その結果として、このような類をみない長大な作品になったと。

(ここで実際に、どのくらい制約がないかというと、これには正直なところ困惑しましたが、コンブレーって初版 (1913年) ではウール=エ=ロワール県にあったわけです、僕が住みなじんだ懐かしい思い出の県に。
でもそれが再版 (1919年) では、これは間違いなく第一次世界大戦の戦時下において、ジルベルトに当時まだ5才 (推定) のサン=ルー嬢を抱かせてドイツ軍の侵入を迎えうたせるためには、ジルベルトがもっと東部戦線にいければならないということだと思うのですが、なんとコンブレーは前線のシャンパーニュ地方へ移されているのです。
僕はもう、え〜?という感じで、さすがにこれはちょっとなあです、なにか他の解決策がなかったのでしょうか、たとえ初版の時点では、第一次世界大戦 (1914-1918年) が予期せぬできことであったにせよ。
まあ、僕の個人的なことはさておき、これは「スワン家のほう」も「ゲルマントのほう」も一緒にお引っ越しをしたということですよね。
さらに言えば、「ヴィヴォンヌ川」も一緒にお引っ越しをしている、どこの川が汽車に乗って移動しますか、そして、この川とその「水源」にはとても大切な意味が含まれていますよね。
つまりは、僕の言いたいことは、これは第12巻の旧稿の残滓である「洗濯屋の小娘」の「ニース」の件とは意味合いが異なり、長大な物語の起点そのものを動かしたということですよね。
しかもその起点であるイリエ=コンブレーは、プルーストにとって実父の出身地であり、幼少期にたびたび滞在した極めて思い出深い土地でもあるわけです。
僕は生まれて初めて物語の出発点が移動する作品に接しましたが、作家として新たな構想のためには、物語の根本的な土台である土地の場所さえも自由に変更することを自らに認めるプルーストの心の中にあるなにごとにも囚われない精神とは、一体どのようなものなのであろうか?)

要するに、プルーストの結論としては、思考や文体などというものは、あくまでうわべの流儀に過ぎず、才能の実体というものは、通常、うわべの流儀の下にひっそりと静かに存在しているもので、それを探り当てて、引き摺りだしてくるものが、本能であるということですよね。

この文体の部分なのですが、プルーストによるゴンクールの「文体模写 (pastiche)」が、第13巻に出てきますよね、僕は生まれて初めて「文体模写」というものを読みましたが、要するに物真似の類いという理解でよろしいのでしょうか。
プルーストはさまざまな作家の文体模写をしていますよね、それらを通じていかに文体などというものがうわべの流儀に過ぎないものか、その作家の思考と合わせて実感したのではないでしょうか。
物真似できるという時点で、やはりそれは一種の技芸であり、才能の実体なるものとは違う、才能の実体なるものは本人にしかない、物真似などの対象にはならないということですね。

つまりは、これを僕の仕事に当てはめて確認してみますと、思考や文体 (形や色) などというものは、あくまでもうわべの流儀にしか過ぎないということです、う〜ん、この認識はすごいな、そして同時に僕にとってこれはかなり手厳しい認識でもあります、わかったか (というのは自分に対してですが)。
思考や形や色などというものは、あくまでもうわべの流儀に過ぎないのだ、その下に才能の実体が潜んでいる!
うん、そうかもしれないな、などと簡単に書いていますが、これを実感するのに、僕はなん日もかかりました。

そして、その時に障害となるものは、実は知性だということですよね、さまざまな口実を設けてくるから。
つまりは、端的に言うと、知性は多弁であり饒舌であり、要するにおしゃべりだということですよね、知性は放っておいても自ずとしゃべり出すということです。

つまりは、僕がもう10年以上も前から標榜してきた「言葉によらない絵画」は、目指す方向として、それほど大きく踏み外してはいなかった、間違いではなかったというところでしょうか。
僕は普段からいつも一人で活動していますから、それを単独で探り当ててきたのは、僕の本能であり、それは僕の直感や嗅覚でもあったのでしょう、おそらく。
「私がそのことを確信したのは、写実主義を自称する芸術のうそ偽りによってである。この芸術が嘘八百になってしまうのは (後略)」(13の460、461)
「それゆえ「さまざまな事物を描写する」だけに甘んじ、その事物の輪郭や外観の貧弱な一覧を提供するだけの文学は、写実主義と呼ばれているにもかかわらず、現実から最も遠い文学であり、われわれを最も貧しく最も悲しくする文学である。」(13の468)
というプルーストの言葉もあります。

う〜ん、まさかこの年になって、プルーストから個人的に励まされているように感じられるとは、まったくもって思いもよりませんでした。

そして、この才能の実体の部分なのですが、これについて深く掘り下げて考えてみますと、人間は誰もが回り道をしながら、それでもなんとか少しでも自分の人生をよりよいものにしようと頑張っているわけですが、うわべの流儀の下に隠れているこの才能の実体なるものは、実は幼少期にほぼ形成されていて、具体的には小学校を終えるころまでにはすでに固まって存在しているのではないでしょうか?
本人やまわりがそのことに気づかないだけで。
仮にそうであるとしますと、これはプルーストの話と見事に符合し、「私」が子どものころにお母さんのキスがないと眠れないだとか、ジョルジュ・サンドの『フランソワ・ル・シャンピ』を読んでもらうだとか、そうした体験の中に才能の実体がすでに育まれていて、プルーストはそれを伝えようとしたのではないか?
僕が「途中経過その6」のなかで書いた、親族の優しさや懐かしさにくるまれたいがためだというのは少し認識が甘くて、そのことを物語の出発点にもってきたかったのではないのだろうか?

つまりは僕の言いたいことは、親がああしろ、こうしろと、例えばですが、英語を習いなさい、スポーツのこれこれをしなさい、ピアノを習いなさい、いわゆるお受験などもそうですね、こうしたものは親が一緒にやってくれたのであればまた別ですが、えてして才能にはならずにそれは特技となり、本人もまわりや先生から上手だね、勉強ができるねなんて言われるものですから、次第にその気になって才能があるのだと思うようになり、やがて成長した段階のどこかの時点で、実はそれは特技であって才能ではなかったことに気づき愕然となり、そこから今度は本能で自らの才能をプルーストの言うところの「時」のなかから引き摺りだしてこないとならない、その時になって初めて本人が自覚することは、実は才能の実体の形成は幼少期にあったのだということです、それは本人はもとより親でさえもがおそらくはまったく思いもよらなかったような才能の形として。

つまりは、親が「この子は才能があるんだ」なんてしばしば言ったりしますが、それは才能があるのではなくて特技が形成されたのであり、まだ幼少期にある子どもが自らの才能を見抜くことなどは、まず常識的に考えて不可能であり、まわりの大人でさえもが看破することはかなり難しく、人は「あの人、才能があっていいわねえ」などとよく口にしますが、人が羨みやすいものは目立ちやすい特技であり、才能を羨むことなど実はそれほど実際にはあまりないのではないでしょうか?
とどのつまり、思考や文体と同じく、特技もうわべの流儀に属するのではないでしょうか?
僕の考えたことが、少しでも構いませんので、皆様に伝わりましたでしょうか?

さて、「万事休すと思われた瞬間、ある前兆がおとずれ、われわれを救ってくれる。」(13の430)


この言葉は、素晴らしいですね!

つまりは、人生が底を打ち、もうこれ以上落ちるところがなくなった時になって初めて、神の唯一にして一度限り(人生に啓示は一回のみなのではないでしょうか、二回目はないのではないでしょうか) の啓示が訪れ、マタイによる福音書「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」の出番となります。
人間、落ちるところまで落ちないと、門をたたいても、なにも開かれませんし、別にこれといった啓示も授かりませんから。

(この啓示の問題につきましては、落ちぶれてもうまったく構えというものが必要なくなり、心のふたがとれて、無意識の最下層にある、まるで屍のようにそれまで打ち捨てられ忘れられていたものが、浮上してくるという捉え方を僕はしています。)

さあ、ここから反転攻勢ですっていう感じで、プルーストは一気呵成に集約してきます、ここはプルーストは完全にまとめに入ってきたな、結論にもってきたなという感じです。

そして、例によって実にあっさりと設置されたその踏み切り板とは、第13巻の430ページの6行目と判断しましたが、僕の理解でよろしいのでしょうか?
なにしろですね、ここまでの12巻分の蓄積があり、実に長い長い助走をしてきましたので、プルーストはここでもう準備万端の大ジャンプを見せます。

そして問題は、まさしくこの踏み切り板の直前の部分にあるわけですよね。
なにゆえ語り手である「私」は人生の底まで落ちたのか、その謎を解く鍵は、三度にわたる「療養所」に関する記述以外のなにものでもないように感じます。
繰り返しになりますが、問題は実にここのところにあるのではないでしょうか。
「療養所」に関する一度目の記述は、
「そもそもこのあいだ私は、書くことを完全にあきらめ、治療のためにパリから遠く離れた療養所ですごしたのだが、一九一六年のはじめには、もはや療養所に医療スタッフがいなくなった。」(13の102)
とあり、二度目の記述は、
「もっとも私はパリには長くとどまらず、早々に療養所へ舞い戻った。そこの医師は原則として患者たちを世間から隔離して治療していたが、(後略)」(13の167)
と続き、そして三度目の最後の記述が、
「私があらたにひきこもった療養所も、最初の療養所と同じく、私を快癒させるには至らなかった。そして多くの歳月が経過し、ようやく私はその療養所を出た。」(13の404)
となっています。

つまりは、「私」は「快癒」したいがために、二箇所の「療養所」に入所して「治療」を受けていたということですよね、残念ながらその願いはかなわなかったけれども。
そして、次は当然、「私」はいったいなんの病気だったのかという素朴な疑問がわいてきますが、プルーストはこの肝心な件について、一切触れてきませんよね。
そこで読者は憶測するしかないわけですが、まあ、ここは普通に考えまして、容易に想像されることですが、僕は当初は精神的な疾患なのではないかと考えていましたが、ただし、このあとに、
「私の病状を伝え聞いたある人が、いま流行中のインフルエンザにかからないか心配ではないかと訊ねてくれたとき」(14の43、44)
というのが出てきますので、う〜ん、呼吸器系なのかな、プルーストは生涯喘息の発作に大変苦しめられたようですから。
また、「パリから遠く離れた療養所」で、プルーストはそんなことわかるだろう、ちゃんと示唆しておいただろうと、伝えてきている感じがいたします。
これの意味するところは、おそらくは転地療養であり、空気がよいということですよね、そうしますとこれは極言すれば結核なのかもしれない。
この病名につきましては、専門家にお訊きましたら、即答してくれることと思いますが、答えを聞いてああそうですかで、それではまったく面白くもなんともない、自分で考えないと。

いずれにいたしましても、ジルベルトに恋をし、次はゲルマント公爵夫人に恋焦がれ、さらにはアルベルチーヌとの恋愛で疲れはてたあげくにアルベルチーヌは不慮の事故で死んでしまい、「私」は精神または肺や気管支を病み、療養所暮らしを送ったものの全快せず、パリへ帰る
「汽車が野原のただなかに停まったとき」(13の405)、
「線路沿いに一列につづく木々の幹のなかばあたりまで夕日が照らしだしていた」(13の405)、
ここから「木々よ」で続く「私」の独白は美しい、圧倒的なまでに美しい!

そして、告白はこう続きます。
「もし私に正真正銘の芸術家魂が存在するのなら、夕日に映えるこの木々の幕を前にして、また車両の昇降台に届くほど背伸びしている土手の可憐な花々を前にして、どうして歓びを覚えないはずがあろう?」(13の406)
「失われた時を求めて」全巻は、ここへきて、もうこの文章に極まれりという感じですね!
ちなみに、土手に咲く可憐な花々が、おそらくは名もないような野草であることに注意です。
ここでプルーストは、野草を「芸術家魂」と、枯渇した「私」の生命力に対して「背伸びしている」で溢れるばかりの雑草の生命力とを結びつけてきています、決して市販の園芸品種などを出してはこない!
さらには、この「背伸びしている土手の可憐な花々」と、以前出てきました「三本の木」(4の177) の「この道の下からきみのところまで背伸びして行ってやったのに」(4の182) が結びついていますね、ここのところ。

そして、ここからがプルーストの究極の意図なのですが、プルーストは意図的に、「療養所」内の生活については、一切記述してきません。
これはどうみてもプルーストは、明らかに書かないと決めてきている感じがいたします。
他のことについては、これだけ逐一長々と書いてきているのに、療養所内の日常や出来事については一切触れてこない、ですから、そもそも読者はなんの病気なのかさえもわからない。
これはやっぱり普通に考えて、語り手である「私」のこれまでの言動からすると、「療養所」内でも「多くの歳月」の間に、恋愛を繰り返したように感じるのです、例えば新たな入所者の女性だとかに対して。
これはなぜなのか、なにゆえプルーストの「本能」が、「療養所」内の記述をとめたのか?
なにゆえプルーストは、「私」の凋落や枯渇を書かずに、再生を書いたのか?
それは、エネルギーなのではないでしょうか、もう残り少ない人生だというエネルギーがそうさせたのではないでしょうか、おそらくですが。
これだけなにもかも詳細な「失われた時を求めて」なのですから、「消え去ったアルベルチーヌ」と「見出された時」の間に、「療養所」篇があってもなにもおかしくはありません。

プルースト自身が大変な病弱ではあったけれども、これだけの長期にわたり療養所に入所していたという事実が確認されていないのであれば、確認されていないですよね?
第1巻の巻末の「プルースト略年譜」を読むと、母を亡くし悲嘆に暮れたプルーストが、1905年12月3日から1906年1月末までパリ郊外のサナトリウムに入院していることがわかりますが、それにしても2ヶ月弱です。
いずれにしても、プルーストは、語り手である「私」の人生は、ここで一旦絶望的となり底を打ち、その後に反転すると構想してきたことは、どうみても明白であるように思いますが、それにしても、「私」が1916年に第二の療養所に入ってから、ラストのゲルマント大公邸における午後のパーティーが、1925年頃と推定されているのであれば、この間の9年間は病気の療養としては長いなあ〜、実に長い!
さらにはこれに加えて、第一の療養所時代も当然含まれるわけですから、相当に長い治療期間になります。

これは一笑にふされる荒唐無稽な意見なのですが、え〜と、荒唐無稽な意見を書いていかないと脳が伸びないんです、本能を引き摺りだせないんです。
これはあれじゃないのかなあ〜、プルーストは後世の作家に、ここの「療養所」のところを書いて欲しい、もう時間がないから端折ってバトンタッチするけれども、なにゆえ野原のただなかの木々を美しく思えなくなったのか、あの場面はこれ以上ないくらい美しい、上述しました「三本の木」もこれに付随しますよね、そこで、大変唐突なのですが、トーマス・マンの「魔の山」(1924年出版) が、どうしても僕にはここで思い出されるのです。
ただし、「見出された時」の刊行は、プルーストの死後の1927年ですから、時系列的には不可能であり矛盾するのですが、それは確かにそうなのですけれども、なにか「失われた時を求めて」と「魔の山」の類似性、類縁性が、僕には非常に気になるのです。

1871年生まれのプルーストと1875年生まれのマンという、フランスとドイツの同時代人の偉大な作家が、相前後して「療養所」をキーワードにしている。
サン=ルーの第一次世界大戦のあっけない「部下の退却を掩護」(13の387) した戦死にしても、「魔の山」のラストシーンでカストルプが同じく第一次世界大戦の戦場であっけなく死ぬことが暗示されますよね、それが僕にはなにかとても自然に思い起こされるのです。

マンは「失われた時を求めて」の少なくともプルーストの生前刊行部分は当然読んだことであろうから (これは「トーマス・マン日記」(紀伊國屋書店) にあたれば調べられます)、プルーストの記述から、なにかひらめいたのではないだろうか、芸術は先人からの継承ですから。
マンは、旧約聖書のあの部分に親しんで、ここをふくらませれば一つの大きな物語になると考えて「ヨゼフとその兄弟たち」を構想してきていますよね。
まあ、一笑にふしてくださいとか書いていないで、疑問があるのなら自分で調べてみたらということで、早速少し調べてみましたら、やはりマンは、当時ドイツではまったく無名だったプルーストを友人のアネッテ・コルプという小説家に1920年に教えられて初めて注目し、その後は1935年1月の旅行にも二冊持っていくなどかなり読んでいますね。
このあたりの経緯は、「トーマス・マン日記 1935-1936」の巻に詳しいです。
反対に、これだけ詳細な「失われた時を求めて」全14巻の記述のなかにマンの名前が一度も出てきませんので、おそらくですがプルーストはマンを読んではいない。
このプルースト⇄マンの両者の関係性は、非常に興味のある研究テーマになりそうですので、おそらくもうずいぶん研究が進んでいるのかもしれません。
例えばですが、「1935年7月28日 日曜日。」の日記には、「きのう『ゲルマント公爵夫人』を読み始めた。」とあり、「1935年11月28日 木曜日」の日記には、「きのうまた寝るのが一時半になり、なお『ゲルマント公爵夫人』を終わりまで読んだ。」とありますので (うん?あのマンでさえ、『ゲルマント公爵夫人』を読み終わるのにちょうど4ヶ月か、まあ、もちろん忙しさの桁が違うのでしょうけれども、それにしてもあえて速読はしてこないな)、ああ!マンがゲルマント公爵夫人の「才気」をどう思ったかについて、書簡かなにかで、たとえ1行でも2行でもいいから書いていてくれたら、どれほど助かることだろうか、なんと言っても、そこはマンですから!
そして、とても興味深いことに、マンはこの頃「エジプトのヨゼフ」の章を書いていたのですね。
さらに興味深いことには、マンは「1936年1月13日 月曜日」に「ついで『スワン』を読んだ。」とありますが、順番が逆だな。
(お断り:「トーマス・マン日記」の原文では、日付はすべて漢数字が使われています。例えば、三五年七月二十八日のように。)

ところで「本能」の話に戻りますが、絵画は文学以上に実は本能を使うのではないでしょうか?
言い方を変えれば、より原始的、原初的であるとでもいうような。
このことは我が家に来る親戚や友人の幼児を見ていればよくわかります、小さな子どもは字を書くよりも、まず先に絵を描きますから。
つまりは、小説家の方が画家よりも、思考や文体などのうわべの流儀を駆使しやすい、うわべの流儀におちいりやすい面が、少なからずあるのではないでしょうか?
うん?そんなことはないか、画家も用心して脇をしめていないと、かなりおちいりやすいな。

それから、世間で流布されているようなゲルマント大公邸で語り手である「私」が、参列者を眺めながら文学に目覚め云々な感じではないじゃないですか、全然イメージが違うじゃないですか。

まだサロンに入る前に、ゲルマント大公邸の書斎にいる段階で、すでに「かくして私はすでに結論に到達していた。」(13の460) ではないですか!
それはなぜかと言えば、語り手である「私」自身がすでに何度も触れているように、「私」は一人でないとものを考えられないし、一人でないとものをみれないからです。
サロンでは、「私」の「時」をめぐる考察により、その肉付けがなされ強化される感じなのではないでしょうか。

最後になりましたが、プルーストが語り手である「私」を通して繰り広げる第13巻の文学論のなかで、特に印象的だった他の言葉を、いくつかご紹介させていただいて終わりにいたします。

「それというのも真の楽園は、失われた楽園だからである。」(13の439)

「なんらかの類推の奇跡」(13の441)

「この人間にとって「死」という語はもはや意味を持たないことが理解できる。時間の埒外にある人間であれば、未来のなにを怖れることがあろう?」(13の444)

「ところが私に美しく見えたのは、つねに敗れた場所のほうであった。」(13の447)

「ただひとつ実り豊かな正真正銘の喜び」(13の448)

「ほかの喜びが私たちを満足させることはできないという点である。たとえば社交の喜びが与えてくれるのは、せいぜい卑しいものを食べて消化不良をおこしたときのような不快感にすぎないし、また友情なるものも見せかけにすぎない。(中略) 友人と一時間のおしゃべりをするために一時間の仕事を犠牲にする芸術家は、実在しないもののためにひとつの実在を犠牲にしていることを知るからである」(13の449)

「こうした表徴の背後には、(中略) 判読できない象形文字のように、その表徴の表現するなんらかの想念が隠れているのかもしれないと感じながら、(中略) その解読はたしかに困難なものであったが、しかしその解読だけがなんらかの真実を読みとらせてくれるものだった。」(13の454、455)

「ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは、芸術作品をつくること以外のなにであろう?」(13の455)

「その表徴を解読するのに、いかなる形であれ私を手伝ってくれる者はひとりもなく、その解読は、だれに代わってもらうこともできずだれかに協力してもらうことさえできない、創造行為なのである。それゆえいかに多くの人がそのような書物を書くことから離れてしまうことだろう!人が多くの責務を引き受けるのは、この責務を避けるためではないか!」(13の457)

「同時に、現実がわれわれに書きとらせた唯一の書物」(13の458)

「われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。(13の458)

「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある。(中略) われわれの内部にあって他人の知らない暗闇からわれわれ自身がとり出すものだけが、われわれのものなのだ。」(13の458、459)

「大衆芸術という考えも、愛国主義の芸術という考えと同じく、たとえ危険ではなかったとしても、私には滑稽千万なものに思われた。(中略) 私は社交人士ともよくつき合っているので、ほんとうに教養がないのは社交人士であって、電気工ではないことを承知している。」(13の474)

「作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである。」(13の480)

「かくしてどれほど多くの人が、芸術の独身者として、自分の印象からなにひとつとり出せないまま、役にも立たず、満足することもなく、年老いていくことだろう!(中略) この人たちは、芸術作品のことになると、本当の芸術家よりも昂奮する。なぜならその昂奮は、この人たちにとって、深く掘り下げる辛い仕事の対象ではなく、外に拡散してその会話を熱くさせ、その顔を紅潮させる昂奮だからである。」(13の482)

「実際この愛好家たちは、芸術において真に栄養となるものを消化吸収しないから、いわば過食症に悩まされてつねに芸術的歓喜を必要とし、けっして満足することがない。」(13の484)

「真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である。」(13の490)

「作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題だからである。」(13の490、491)

「深淵への回帰」(13の492)

「真の書物は、真昼の光とおしゃべりから生まれるのではなく、暗闇と沈黙から生まれるものでなくてはならない。」(13の495)

「祖母が断末魔の苦しみにあえいで死んでゆくのを、私はそばでなんと平然と眺めていたことだろう!ああ、そんな私など、作品が完成した暁には、その償いとして手の施しようもなく傷つき、長きにわたって苦しみ、みなから見捨てられて死んでゆけばいいのだ!」(13の504)

「私はいっときたりともアルベルチーヌの愛を信じたことはないのに、そのアルベルチーヌのために何度も自殺しようと思い、財産を使い果たし、健康を損ねた。」(13の519)

「実際には、ひとりひとりの読者は、本を読んでいるときには自分自身の読者なのである。」(13の521)

おしまいにひとりごとです。
・男娼館におけるシャルリュス男爵の有名な鞭打ちの場面 (13の319から) ですが、これは専門家にはどのように解釈されているのでしょうか?
僕は、これはプルースト一流のアイロニーであり、作家として俯瞰的な見地から読者を選別している、言わば踏み絵の類いなのではないかと直感いたしましたが。

・プルーストが、ジュピアンの姪のことをジュピアンの娘だと、しばしば混同するのが非常に気になりました。
作家として登場人物が姪なのか娘なのかは、通常間違えないと思いますので、これはなにかの病気の初期的な兆候なのでしょうか?
それとも、ただ単に時間に追われていただけの混乱なのでしょうか?
僕にはわかりません。

・僕の仕事柄、画家エルスチールが誰なのかは、やはりかなり気になりました。
一応、何人かの画家をモデルとした上での総体なのかなというのが僕の感触ですが、一度英文の資料を読んでいて、モデルは「モネ」と出てきた時には、えっ?と、かなりびっくりしました。

・同様に、大作家ベルゴットは誰なのかも気になりましたが、「作家の語っているのはだれのことかを突きとめようとする研究が空しい理由のひとつはここにある。」(13の515) のところで、考え直させられました。

・「療養所」の記述を読んだ時、フランス時代にフランス人の大切な友人が精神を病み、妻とパリ郊外の療養所を見舞いに訪れた時のことを突然思い出しました。

拙い文章を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

(途中経過その8に続く)

2025年8月27日初稿掲載
2025年9月1日最終加筆、修正
和田 健

お断り:今回の「途中経過その7」からタイトルの冒頭に、「「天職」発見の物語である」をつけ加えさせていただきました。
これは、プルーストの本文中では二回にわたり、
「その結果、この書物がものがたる目に見えない天職が明らかになるまでの長い歳月」(7の127)
「この日までの私の全生涯は、「天職」という表題にまとめることができるかもしれない」(13の498)
と出てきますが、さらには、吉川氏の「訳者あとがき(14)」の中でも、二度にわたり、
「天職発見の物語」(14の310)
「「天職」発見の物語」(14の338)
として出てくる言葉があまりにも素晴らしく、お借りさせていただきました。

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