マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その6  第10巻「囚われの女 Ⅰ」から、第12巻「消え去ったアルベルチーヌ」までー

(途中経過その5から続く)

(ああ、ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂!
「私がいちばんよく出かけた先はサン・マルコ大聖堂」(12の506) ともありますように、「忘却」の第三段階で非常に重要な役割を果たします。
大聖堂の向かって右手前にあるサン・マルコ洗礼堂内における母の描写 (特に12の510) は、第10巻から第12巻までの白眉ではないでしょうか。
この写真は、2016年11月27日にボローニャの展覧会のあとに、ヴェネツィアまで足をのばした時に撮ったものですが、作品を読んだ今だからこそ、できることなら、ぜひもう一度だけ訪れてみたいです。)

皆様、こんにちは。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) の第10巻を、2025年5月6日に読み始め、その第12巻までを、2025年7月15日に読み終わりました。

う〜ん、アルベルチーヌ・シモネ嬢の問題は非常に難しいですね。



結局、アルベルチーヌへの嫉妬や疑惑、苦痛を一日三食の完全なる主食として、人間であれば普通誰でも食する昼食や夕食はほんのつまみ程度の副食として生きているような語り手である「私」の心の中の震えや戦きを、読者は絶えず見つめ続けながらと言いますか、見つめ続けることを強いられながら、これはやっぱり一種の推理小説ではないですけれども、アルベルチーヌは白なのか黒なのか、黒白をつけて欲しい、すなわちゴモラの女であり極め付きの同性愛者であるのか、あるいは疑惑は晴れて潔白や貞節が証明されるのか、まあ、僕の個人的な性格もそれには多少加わっているのでしょうけれども、読者はどうしてもそのように読んでしまうのではないでしょうか、どちらなんだ、はっきりさせて欲しいと。

僕などは少数派かもしれませんが、まあ、読書という極めて個人的な行為ですので、感想は各々自由であり、なんら強制されるようなものではないと思いますが、具体的にはエメの「シャワー係の女」の手紙 (12の220) が出てくるまでは、アルベルチーヌは白だと思っていました。

すなわち、疑惑は晴れ、語り手である「私」はアルベルチーヌを疑った自身の内面をまた事細かに見つめ続けては、あぶり出していくという手法をプルーストはとってくるのではないかと予測していました。


その後、さらにエメの「洗濯屋の小娘」の手紙 (12の239) にいたって、特に「ああ!あなた、すごくいいわ」(12の241) で、ああ、これはもう完全にアルベルチーヌは黒なんだなと、ええ?アルベルチーヌはゴモラなのかと、う〜ん・・・という形で、でも僕はもうぐうの音も出ないという感じで、これはどうみても明らかに完全決着だなと考えていたのですが、いつも楽しみに読ませていただいている巻末の吉川氏の「訳者あとがき(12)」を読んでさらにまた深く考えさせられ、これはあれですね、プルーストは他人の内面は決着できないものなのだと、最終的にはわからないものなのだという形で構成してきた可能性はありますよね、とても悲しい話ですけれども。

すなわち、アルベルチーヌは灰色だと。

わかっているような気になっているのは、あくまで本人の「想いこみ」であり、実は他人を逆にあまり気にしていない場合であると。




まあ、考えてみれば、親や兄弟であっても、さらには夫婦であっても、究極のところはわからないかもしれないですよね、繰り返しになりますが、非常に悲しい話ですけれども。


ましてや、恋人同士ともなれば、わからないでしょうね、わからないからこそ、人間は好きだ好きだと言うのでしょうね、おそらくは得体の知れないものを所有したいがために。
そして、得体の知れないものに一旦馴染み出すと、逆に今度は心がそこから離れて行くということを、語り手である「私」は、何度も繰り返しているように思います。
「私」の場合は、特に女性の肌への嗜好や関心が高く、そこが常に分岐点となっている感じがいたします。
結局、ざっくり言ってしまうと、「私」にとって、その肌に馴染み出しても飽きがこなかったのは、祖母や母であり、そこに通常「失われた時を求めて」は無意志的記憶の文学であると定義されているようですが、まあ、それはもちろんそうなのでしょうけれども、僕にはなにかその根底に流れているのは、同時に変形したある種のマザーコンプレックスの物語でもあるように思います。
こんなに「私」は美少年から美青年へと成長したのにもかかわらず、そこには飽きやすく馴染めなくなったものへのどこか軽薄な劣等感が、なにかしら絶えずあるように思います。

とどのつまり、僕の言いたいことは、この長大な作品は肉親の物語であり、それには男の子らしい多少の反発心も手伝って、肉親のみの内輪の世界に留まることを潔しとせず、そこから外へと飛び出した「私」に次々に起こる他人との格闘の物語であり、最初第1巻で、なんでこんなに、まあ、祖父母までなら一応ともかくとして、大叔母や大叔父までが登場してくるのかなと思ったのですが、これはプルーストが言わば親族を総動員してまで脇を固め、肉親で「私」のまわりを厳重に包囲して土台をしっかりと固めた上で、おそらくはプルーストはなかば無意識的に、本心から自然にそのように配置した上で、ぜひとも物語を始めたかったのではないでしょうか?
物語の出発点として、安心感や懐かしさ、優しさなどにくるまれたいがために。
ですので、物語の起点を必然的に親族の多いコンブレーに設定してきたわけです。
それを「プチット・マドレーヌ」(1の111) の現象から、通常、世間では無意志的記憶と呼んでいるのでしょうけれども、その現象自体にしても大叔母の娘であるレオニ叔母に関する挿話ですので、要は肉親です。

でもすごく感じたのですけれども、アルベルチーヌは「私」のことをすごく頼っていた、貧しい孤児に生まれてこの境遇から救い出してくれるのは語り手である「私」しかいないと、なにか彼女の縋り付くような懸命さが、特に愛撫の様子などから伝わってくるのです。

それから、語り手である「私」の背後にいるプルーストが、もうことあるごとに同性愛を「悪徳」「悪癖」「悪事」だと、犯罪行為呼ばわりしながら繰り返してくるのは、なぜなのかということも非常に気になりました。

これは、やっぱりその根底にあるのはキリスト教的な観念なのでしょうか、すなわち聖書であると。

もしも仮にですね、そうであるとすれば、プルーストはカトリックへの信仰と、自らの同性愛への嗜好との間で、おそらくは筆舌に尽し難いくらい生涯にわたり苦しみ抜いたのではないでしょうか。

そして、この流れの究極のところは、やっぱりアルベルチーヌのあまりにも酷たらしい死に方ですよね。
落馬して樹木に激突して死ぬという、なにゆえプルーストはこのような残酷な設定にしたのか?

ボンタン夫人からの電報をご紹介いたしますと、即死であることがわかりますが、
「お気の毒ですが、わたしたちのかわいいアルベルチーヌはもうこの世にはおりません。(中略) アルベルチーヌは散歩の途中、乗っていた馬から投げだされ、木に激突しました。あらゆる手を尽くしましたが、あの子を蘇生させるには至りませんでした。(後略)」(12の138)
たとえ様々な悪癖があるとしても、かわいらしいアルベルチーヌのもう少し穏やかな死に方の選択が、プルーストにはなかったのであろうか?
専門家はアゴスチネリの飛行機の墜落事故死との関連を盛んに指摘しているけれども、なにゆえプルーストは飛行機を馬にかえてまで、作品の中に持ち込んだのであろうか?
つまりは、僕の言いたいことは、アゴスチネリをモデルの一人として、アルベルチーヌという一人の女性像を創造し、それを作品の中に組み込むことは、もちろん作家の優れた能力であり才能であるけれども、なにゆえその死に方まで同じように設定する必要があったのかということです。

そこに彼女の現世の行為に対する懲罰という意味合いが、仮に少しでも含まれているのであるとすれば、それはひいては同性愛者である作家自身に対しても、いずれは起こることであるというプルーストの戒め、自戒があるのか?

「忘却」の三段階は非常に面白かったです。

特に第三段階の「ヴェネツィア」!

これも「訳者あとがき(12)」の中で吉川氏から学びましたが、「私」の心が最終的に母親へと回帰したと解釈するのであれば、それはものの見事に、第1巻のお母さんのキスがないと眠れないコンブレーの子ども時代に結びつきますね。

ここへ来てようやくぐるりと一周か。



(Ken WADA、エスキース「パルヴィル!」)

もう一つ僕の中で結びついたのは、小鉄道の「パルヴィル!」(9の584) のところ、「遠ざかるアルベルチーヌが私に堪えがたい苦痛をひきおこしたので、私は追いすがり、必死に腕をとってひき戻した。」(9の585) ところ、すなわち転落の始まりと、ヴェネツィアでもうあと一歩のところで、なんて言いますかもう半ば無意識的な本能で「根強い習慣の想いも寄らぬ防御力のおかげで、つまり習慣が乱戦のいわば土壇場でいきなり奮起して投入する隠された予備軍のおかげで (中略) 私は一目散に駆けだし、駅に着いた。」(12の537) ところ、間一髪セーフ!、すなわち救出。
これもここへ来てようやく一周。

でも、あとでジルベルトのものだとわかる電文、
「友へ、きっとわたしが死んだとお思いでしょう、お赦しください、わたしはいたって元気です、(中略) 親愛の情をこめて。アルベルチーヌ。」(12の498) 

は、プルーストはちょっと念の入れ過ぎではないでしょうか?
アルベルチーヌが死んで「忘却」が始まり、その最終段階へ至って、突然今度は実は生きていることがわかり、それでも、もう簡単に言うと「私」の動揺がないというところまで、そこまで念を押す必要があるのでしょうか、率直に言わせていただいて。

僕なんかは、この電報を初めて読んだ時、なんだってぇ〜!という感じで、実際に一回バタンと本を閉じました、もう訳がわからないという、まあ、並外れた構成作家でもあるプルーストの完全なる躍動ですね。
それが「私はアルベルチーヌを愛するのを決定的にやめたのである。」(12の504) (名文ですね、これは) につながったことはよく理解できますが。

しかしそれにしましても、ドストエフスキーのような人殺しはまったく出てこないものの、嘘をつく人間があまりにも多いですね、お互いに嘘に嘘を重ねては探り合っている感じで、もう誰がなどという生易しいレベルなどではなく、まあ、その最強のトリオは、やっぱりアルベルチーヌとアンドレと「私」でしょうか。
総じて、祖母や母を除けば、語り手である「私」をも含めて、決して褒められたようなものではない。
その最たる者は、今や人気楽士で引っ張りだこのモレルでしょうか、こいつは本当に心底悪いですね、筋金入りの成り上がり者ですね、そういう意味では、プルーストは悪も実にきちんと書いていますが、「コンセルヴァトワールのプルミエ・プリの卒業証書」(9の409) や、「コンセルヴァトワールのコンクールにおいてヴァイオリン部門の審査委員長」(9の410) と具体名を出してくるところに、鋭い皮肉精神と言うよりかは、なにかプルーストのピンポイント的な異様な攻撃性、神経症的な気質を感じます。

あともう一つ非常に気になるのが、異性愛者としての「私」の性欲が、やはり客観的にみて、少し異常ではないでしょうか?
なにか、過剰人格、オーバーパーソナリティ (などという言葉はどちらもありません、一応念のため、僕の造語です) な部分があって、まあ、ひらたく言うと異常な女好きだと思うのですが、なにかこの通常とは異なる+αの部分に、プルーストのカムフラージュがかかっているような感じがします。
プルーストもこれはちょっとやり過ぎたかな、大変な女好きにしてしまったなと感じないわけがない。
なにかプルーストは、語り手である「私」を、自分から離して向こうへやろう、向こうの方へ押しやろうとしているような感じがどうしてもするのです。
それはなぜか?同性愛者としての自らを覆い隠したいがためなのか?わかりません。

結局、こうして第12巻までを読んできて思うことは意外なことで、筋はわかるんです、いわゆる語り手である「私」が展開するところのストーリーは、最初はかなり戸惑いましたけれども、錯綜しているようでいて、実はそんなに難しくない。

それから、これはあれですよね、「失われた時を求めて」は、若い頃読んでいたらもっとわからなかっただろうなと思います。

いろいろな人生経験を重ねた中高年こそが、まさに読むべき長大な作品ですよね、率直にそう感じます。

最後に、アルベルチーヌが出奔した後、語り手である「私」に届いたアルベルチーヌの手紙は全部で5通 (手紙が4通、電報が1通) ですよね、その最初の手紙を少し長くなりますが、ご紹介させていただいて終わりにいたします。
僕は、これでも一応男ですので、なんかかわいそうなんですよね、これを読んでいると、自然に涙が出てきます。

まあ、それというのは女性の気持ちのことですが、それを書けるというのもプルーストの並外れた力量なのですけれども。

「あなたへ、
これから書くことをあなたに直接お話しできず、お赦しください。あたしはとても臆病で、あなたの前でいつもびくびくしていましたので、なんとかそうしようとしても、直接お話しする勇気が出なかったのです。あなたにはこう申しあげようと思っていました。ふたりは、もういっしょに暮らしてゆけません。あなただって、このあいだの夜のいさかいで、あたしたちの仲に変化が生じたことにお気づきでしょう。あの夜はなんとか仲直りできましたが、数日もすれば取り返しのつかない事態になることでしょう。せっかく運よく仲直りできたのですから、よいお友だちとして別れたほうがいいのです。そう考えて、このお便りを差しあげます。あなたをすこし悲しませることになるかもしれませんが、あたしの悲しみがどんなに大きいかを察して、どうかお赦しください。あたしは、あなたの敵にはなりたくありません。あなたにとってあたしが、すこしずつ、でもたちまちのうちにどうでもいい女になってゆくと思うだけでも、とても辛いのです。そんなわけで、あたしの決心はもう変わりようがないので、この手紙をあなたに渡してもらう前に、フランソワーズにあたしのトランクを全部出してくれるように頼みます。さようなら、あたし自身の最良のものをあなたに残します、アルベルチーヌ。」(12の26、27)

最後までお読みいただき、大変ありがとうございました。

なお、残りの2巻を読み終えましたら、次回の「途中経過その7」を掲載いたします。

そして、「途中経過その7」をもちまして最終回といたします。

(途中経過その7の最終回に続く)

2025年7月18日 初稿掲載
2025年8月5日 最終加筆、修正
和田 健

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