マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み進めて ー途中経過その2の番外編 第4巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅱ」から、第6巻「ゲルマントのほう Ⅱ」までー

(途中経過その2から続く)

Ken WADA, The bell tower on the square Sainte-Catherine, October 2009
Honfleur, Watercolor on paper, 17.8×12.7cm

「途中経過その2」の番外編です。
番外編なのですから、本当はもう少し無礼講で書きたかったのですが、なんだか書いているうちに、どんどん集中していってしまい・・・、結局、文章ってつくづく書いている本人 (この場合は和田健) のものにしかならないのですね。
まあ、そういう意味では、プルーストの書いている文章は、これはどうしてもプルースト本人にしかならないわけで、プルーストさんの気持ちもほんの少しだけですがわかります (笑)。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。



Round 1、カーン!

「同性愛」

やっぱり、「私」のジルベルトやアルベルチーヌへの恋愛や、ゲルマント公爵夫人への激しいまでの恋い焦がれ、サン=ルーの愛人ラシェルへの恋愛と、恋愛が非常に奇妙だよね、病的だよね、神経症的に変だよね、偏執、固執、かたよった執着のようなものを感じます、はっきり言って。



皆さんはこのような恋愛を本当にしてきましたか?



まあ、スワンのオデットに対する病的なまでの神経症的な恋や、サン=ルーの愛人への嫉妬にのたうち回る恋は大人がしていることなのですから、この際放っておくとして、「私」のジルベルトに対する恋愛の時、語り手である「私」はまだ本当に男の子でしたよね、僕は中学生の時に好きだった女の子のことを、その一点に気持ちを集中して (笑)、久しぶりに思い出してみたのだけれども、やっぱり同じ男として、その一挙手一投足が気になる気持ちはわからないわけではないけれども、わからないでもないけれども、なんて言うのか、男の子って、男の子同士でいたいんですよね。
いくらなんでも、こんなに、「ジルベルト、ジルベルト!」ってならない、そこがなんか変です、特殊。



これは、フランス語で言うところのまさしくガマン (gamin) ですよね。

この年頃の男の子って、女の子のことは恥ずかしくて、いつもなんか気の合う男の子同士で、特にたいした用もないのに、ダラダラと一緒にたむろしているとでも言いますか、こんなに積極的にきびきびと (笑)、女の子に惹かれないのではないでしょうか?

そこが語り手の「私」は変です。
それとも、それはあくまで僕の場合なのかな〜?


問題は、その少し変なところを、さすがに年老いた祖母はわかっている、見抜いているはずであるのに、そこが今一つ書かれていない。

孫が病気であり病弱でもあることを、とても気にして心配しているけれども、孫の性の傾向についての祖母の見解なり杞憂なりが出てこない、書かれていない。

なんで?



まあ、この考え方を深めて進めていきますと、プルースト=「私」には結論として「禁欲」や「ストイック」という観念が少ない、少なくとも決して多くはないのではないでしょうか?

もう少し思春期特有の男の子らしいストイックさがあってもいいんじゃないかなとも思います。


または、こうした思春期や青年期に特徴的なシャイなところであったり、はにかむところであったりと、そうしたいかにも男の子らしいところが書かれていない。

それはなぜか?出自でしょう。

まあなんてきれいな男の子と、具体的には「男の子とは思えないくらいきれい」(2の487) と言われ続けてきた「私」の人生でしょう。

基本的に目当ての女の子に紹介さえしてもらえば、向こうは自分のことを好きになると、「私」はこれはもう完全に思っていますよね。

自らの魅力を決して「私」は疑わないわけです。

そこのところになにか非常に違和感があります。

つまりは、この年代に特有な誰もが多かれ少なかれもつであろうところの劣等感、コンプレックスが書かれていない。



結局ですね、突如として海辺に登場したこの華やかな5、6人のまだうら若い乙女たちは、同性愛者であるプルーストにとっては、ガマンなわけです。

やっぱり、ここのところの不自然さは、それでしか解明できない。

僕は女の子のことまではわかりませんけれども、でも現に女の子側は5、6人でいるわけではないですか。

それで同性愛者であるプルーストにとっては接近できたわけで、オクターヴとかの脇役の男の子がたとえいるにしても。

普通、ずかずかと5、6人の女の子に、男の子が1人で接近できませんよ、いやですよ、そんなの。

第一、まわりの男の子たちからひやかされますよ、からかわれますよ、そんなことをしたらね。

通常であれば、作家として、この場面設定はしてこないと思うのです、これは無理があるよな、不自然だよなと。

それを「イタチまわし」ごっこだとか、思春期になっていやですよ、変。

それが普通にできるということは・・・。



つまりは、僕が言いたいことは、これがもし相手が5、6人の男の子であれば、同性愛者であるプルーストにとっては、僕にとって相手が5、6人の女の子である場合と同じでハードルが高かったわけで、相手が5、6人の女子であったがために、プルーストにとっては、ハードルが低かった、少なくともそれほど高くはなかったのではないでしょうか、ということです。



ただしですね、もし仮にそうであるとしますと、これは同性愛者でないとわからない、いろいろな微妙な細部が理解できない小説ということになってしまいますよね?

そこのところを専門の研究者は、現在、どのように考えて捉えているのだろう?

つまりは、「同性愛者でない人がプルーストの作品を読んで理解できる限界点は、大体このあたりのところですよ」というような見解についてです。

2027年で最終篇が出版されてから、ちょうど100年になりますので、この問題についての専門家の見解についてぜひ学びたいです。


Round 2、カーン!「絵画と彫刻」

このプルーストという人は、もうここまで絵画や彫刻に造詣が深いと言うか、ちょっと尋常ではないこのレベルまでいくと、そこから逆に、文章というものの多面性について、その危険性をも含めて、おそらく十二分に理解していたのではないでしょうか。


「失われた時を求めて」は、これはもうほとんどある意味、美術解説書ですよね?

最初、なんでスワンが、僕は少しイライラしましたが、いちいち絵画上の誰それの人物に似ているとか、当てはめてくるのか、今や、よ〜くわかりました (笑)。


プルーストは、文章を書いている時に自らが損われていくような欠損の感覚を覚えて、おそらくは、無意識的にか、意識したうえでかまではわかりませんけれども、絵画、絵画、絵画と、なにか心の中のバランスを補い、必死にとろうとしているのではないでしょうか。

と言いますのは、とにもかくにもこんなに絵画作品が出てくる小説って他にないですよね、なにか異様です。
まあ、常識的に考えて、ここは意識したうえでしょうね、これだけ絵画を登場させておいて、「あれ?そう言えば、ずいぶん出てきているな」と、無意識ゆえにあとあと気づくというのは、ちょっといくらなんでも考えにくいですから。
ああ、でも僕が今読んでいるのは、これまでにないくらい常識にとらわれない極めて特異であり異端な方の作品なのでしたね。

最初は、この人一流の見せびらかしのようなものかもと思ったのですが、つまりは教養のですね、でも、そうではない、絵画や彫刻への、すなわち芸術作品への飢えを感じるのです、これには。

つまりは、文学をやっていて、それで亡くなったけれども、そうではなくて、小説の一場面を絵画や彫刻として観ることへの偏向であったりとか、なにかそういうものを感じませんか?

制作者側の立場や視点からみて、すごく感じませんか?
そのため、絵画や彫刻を随時挿入していかないと、なにかやっていけなかったような渇望を感じませんか?


結論として、僕の言いたいことは、この人はなにか自分の書いた文章を一幅の魅力的な絵として愛していませんか、ということです。
さらに言うのなら、この人は自らの記憶なり心象風景なりを絵画として心の奥底の額縁の中にとどめ、それらの中から最も美しいものを手元に引き寄せてはありありと眺めることに、なにか心理的な興奮を、おそらくは性的な快感を覚えている感じがいたします。

Round 3、カーン!「様々な恋愛」

第3ラウンドは非常にシンプルです、それはこれからの課題だからです。
なぜプルーストは、これだけの様々な恋愛の組み合わせを作品の中に、小説全体の構成として取り入れたのであろうか?
ここは大事です、直感的に。

その方が、より総合的な美が高まると判断したのであろうか?
ただし、その反面、話が複雑に込み入ってわかりにくくなることは自明であり、読者の集中力は分散します、当然。

もしこれが仮に一つや二つ程度の恋愛であれば、読者は「二人の恋愛は、このあとどうなるんだろう?」と、俄然、興味をもって話の筋を追いかけやすくなりますよね。

なにゆえ、プルーストは、各々が独立した形の様々な、でもそれでいてそれらのすべてが、プルーストゆえの病的なまでの神経症的な恋愛をこの作品の中に持ちこんだのか、その必要性はプルーストにとっていったいどこにあったのであろうか?

Round 4、カーン!「神や信仰の不在」

第6巻までを読んできて、すごく気になることは、なんて言うのか、教会の場面やその描写については散見されるけれども、総じて神や信仰の問題が書かれていない。
もちろん、別に書かれていなくてもなにも構わないわけですが、そのために、人知を越えたもの、人為の及ばないものに対する「私」のおそれが感じられない。
おそれおののく震えのようなものは感じられない。

この作品の中には、もうそれこそいたるところに美が満ちあふれている感じがいたしますし、教会の外観や内部の装飾であったり、教会で出会ったゲルマント公爵夫人については詳しく語られ、究極なまでに美意識の高い作品であると思いますが、神や信仰の問題そのものにつきましては、なにも触れられていない。

え〜と、僕はフランスに7年間住んでいましたので、彼の国の人々の生活が少しはわかるのですが、日曜日になれば多くの家庭において教会に礼拝に出かけますので、その習慣の積み重ねと、プルーストの記述にはなにか乖離があるように感じられるのです。
以下のような記述にも、具体的にそのことが感じられます。
「いかにも偽善者然とした主任司祭や猫をかぶった聴罪司祭といったタイプ」(5の359)、
「聖職者には、精神科医と同じで、つねにどこかしら予審判事めいたところがある。」(6の366)

作者はプルーストであり、もちろんプルーストの記述によって語り手である「私」の行動が決定していきますので、読者である僕にとっては、「私」が別に誰とどのような恋愛をしようと、一読者として物語のあとを追っていくしかないわけですが、「私はヨセフにもなりパロにもなって自分の夢の解釈をはじめた」(3の435) にみられるように、幼少の頃より当然のごとくその物語である旧約聖書にはかなり親しんでいるはずであるのに、プルーストの記述の中には「そのような女性関係を絶え間なく続けていたら、今にきっとヨセフのように穴に落ちるよ」というような予見であり、「私」に対するいたわりが感じられない、誰とどのような恋愛をしようと勝手だろ、こわいものなんかないっていうなにか野放図な感じがする。

例えば、ジルベルトに対しても、アルべルチーヌに対しても、もう愛してなんかいなくなくなる、無関心になる、つまりは「私」の変わり身がいくらなんでも少し早過ぎる感じがする。
具体的にはですね、具体例を示すことは非常に大切ですよね、ジルベルトに対しては、「それから二年後、祖母とともにバルベックに発ったとき、私はジルベルトにはほぼ完全に無関心になっていた。」(4の25) とあり、また、アルベルチーヌに対しては、この引用はすでに2025年2月7日から読み始めている次の第7巻からになってしまいますが、「私は、もはやアルベルチーヌを愛してはいなかったばかりか、・・・(中略) ずいぶん前から私がアルベルチーヌにすっかり無関心になっていたことは疑いようもない。」(7の44) とあります、ここのところ。

それともこれはあれなのでしょうか、僕の書いていることは「失われた時を求めて」の言わばライブ中継版のようなものですので、僕の杞憂に対して、このあとの展開で劇的などんでん返しが待っているのでしょうか?

Round 5、最終ラウンド、カーン!「「私」自身の魅力の希薄さ」

これにつきましても、このあとの展開におけるどんでん返し系なのでしょうか?
え〜と、第6巻までを読んできて、この点はすごく気になりました。
結局、あれですよね、ここで改めて念のために一度再確認いたしますが、語り手である「私」は、この物語の主人公であると言ってよいですよね、これには特に異論もないように思います。
それであれば、これは極めて異様な事態で、「私」の目を通して語られ描写される、例えばですが、祖母はあまりにも当たり前過ぎて割愛するにしても、レオニ叔母 (正確には大叔母)、アドルフ大叔父、フランソワーズ、スワン、オデット、サン=ルー・・・・などなど、もうそれこそ書き切れませんが、例えば、バルベックで出会った乙女たちの一人アンドレにいたるまで、まあそれなりに、皆さん実にいきいきと活写され、新鮮で生気に満ちあふれていますが、肝心要の主人公の「私」は前に出てきているようで、実はそれほどでもないように思うのです。
つまりは、主役よりも脇役たちが前面に出てきているとでもいうような。

結局、これはどうしてなのかについて考えていきますと、「私」は仕事をなかなか始められないでいますよね、祖母もその点をすごく心配して、いつも気にかけてくれていますよね。
でも、その箇所が案外さらっと流されていて、なかなか書き始められないでいる「私」の日々の苦悩であり、焦燥であり、はたまた狂乱であったりと、そこの部分の掘り下げがない、書かれていない、この部分に端的な原因があるように僕は思うのですが、どうなのでしょうか?

そうした日々の葛藤には、さほど焦点が当てられないままに、海辺で出会った5、6人の乙女たちに夢中になったり、ゲルマント公爵夫人を追いかけ回して路上で待ち伏せしているような「私」(しかしそれにしましても、この主人公は待ち伏せが好きですね) に、一読者として感情移入したり共感したりすることには、多少無理があるように思うのですが、でもそのようなこと (というのは主人公の魅力の希薄さ、乏しさについて) は、全体構成の大家であり巨匠でもあるプルーストは当然のごとく考慮に入れているでしょうから、これはやっぱりあれなのかな〜、プルーストは故意に「私」の魅力を引き延ばしている、意図的にそこの部分を続編へと引っ張っているだけなのかもしれないな、その可能性は確かに少なからずあると思うな、というあたりで番外編を終わりにいたします。

(途中経過その3に続く)


2025年2月16日

和田 健

第7巻から第9巻までの「途中経過その3」は、僕の眼の状態にもよりますが、大体2025年5月下旬ごろを予定しております。

「途中経過その1」
https://kenwada2.com/2024/11/20/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め/
「途中経過その2」
https://kenwada2.com/2025/02/14/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-2/

Leave a comment