マルセル・プルースト (1871-1922) の「失われた時を求めて」(1913-1927) を読み始めて ー途中経過その1 第1巻「スワン家のほうへ Ⅰ」から、第3巻「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」までー

はじめに

今、「失われた時を求めて」を読了して、こうして改めて振り返ってみますと、1913年の初版の時点では、ウール=エ=ロワール県のイリエ=コンブレーをそのモデルとして、プルーストはコンブレーを書いていたのですが、1919年の再版の時点からは、プルーストはコンブレーをシャンパーニュ地方へと東方に移動させていたという事実に対する認識が、プルーストの初心者であった僕には明らかに欠けていました。

まず第一に、ほかのなによりもボース平野の特徴をとどめる記述が本文に展開されていくことに加えて、イリエ=コンブレーが、そもそもは元々イリエという土地の名であり、この作品を記念してイリエ=コンブレーという地名になったこと、イリエはプルーストの実父の出身地であり、プルーストにとってその幼少期に家族で滞在した思い出の地であること、イリエ=コンブレーの地には現在も Musée Marcel Proust があることなどから、実際に初版の時点では確かにそうであったわけですが、これは僕にとって個人的に限りなく思い出深い地であるウール=エ=ロワール県のなかのイリエ=コンブレーを起点とする物語であると、僕は完全に判断してしまいました。

僕の感触といたしましては、プルーストは再版以降、シャンパーニュ地方にコンブレーを移動させはしたけれども、本文の記述そのものは、シャンパーニュ地方に見合うものにそれほど変更してはいないのではないか、あくまでも初版のボース平野の描写をそのまま残したのではないかという感じがいたします。

また、これは容易に想像されることですが、母国語であるフランス語で読む人々にとっては、この土地の移動は当然、かなりの現実感をともなう問題であり、私たちの県の話だと6年間喜んでいたものが、6年後にはえっ、なんで?という感じで、別の地方の話にかわってしまったようなものですので、フランス人のなかには、特にウール=エ=ロワール県のなかには複雑な思いを抱いた人も少なくはなかったのではないでしょうか。
それらの人のなかには、これは知らなかったことにして、以前のままのイメージで、続きも読んでしまおうと考えた人も、おそらくはいたかもしれません。

いずれにいたしましても、僕の誤りが判明したわけですから、そのことをお詫びして訂正いたしますとともに、第一次世界大戦を作品のなかに取り入れるという新しい構想のためには、物語の出発点となる場所さえも随意に変更してくるプルーストについての僕の困惑に関しましては、「途中経過その7 最終回その1」のなかでも少し考察させていただきました。

それでは、ここから9回にわたる長い連載になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2025年9月7日
和田 健

Ken WADA, The Old Church 5, October 28, 2008
Hanches, Eure-et-Loir, Watercolour on paper, 24.2×33.3 cm

(フランス時代に、ウール=エ=ロワール県のマントノンに住んでいた僕は、この地域の古い教会や菜の花畑、青い夜などの風景を、自転車や電車で回りながらずいぶんたくさん描きました。
「失われた時を求めて」の第1巻は、その同じウール=エ=ロワール県のイリエ=コンブレーを舞台として物語が展開されます。)

僕にとって長年にわたる読書課題であり続けてきたマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」(岩波文庫版全14巻、吉川一義氏訳) を、今ごろになってようやくとでも言いますか、ここへきてついにとでも言いますか、とにもかくにも、2024年8月30日になって読み始め、その第3巻までを、2024年11月12日に読み終わりました。

最初は、ちょっとこれはなんだかなあ〜という感じだったのですが、次第に気合が入り始め (笑)、今ではこれを読み終わるまでは死ねないなというのは少し大袈裟ですが、読み終わったあとに、僕の中にどのような世界が待ち受けているのかなという感じです。

これだけの大作をその第3巻まで読んだだけで、その途中経過を書くという行為自体に、かなりの無理があるようには思いますが、なんて言うのか、ある意味非常に自由で正直な赤裸裸な作品だなと思いました。
その大前提として、読み進めるうちに自然と当然のことのように感じていましたが、これはプルースト=話者であると、すなわち、半自叙伝的な作品であると考えてよいのですよね?
いや、そうではなくて、話者を創造している面が多少でもあるのでしたら、すなわち、プルーストと話者の間にいくらかの距離があるのでしたら、それは当然のことながら内密なこともかなり書きやすくなります。

それから、これは、あれですよね、あくまで制作者側の立場から考えますと、ものすごく繊細で緻密なようでいて、枝葉末節にとらわれないとでも言いますか、
「細かいこと?そんなもん、あとからいくらでも書き直せばいいんだよ。
加筆、訂正、加筆、訂正。
なんたって、加筆、訂正ほど楽しいものはないんだからね。
記憶の底に降りては、光を当てていく行為が、そんなに次次に表出してくる訳がないだろ。」
と、プルーストは、実は叫んでいるのではないでしょうか。

プルーストの心の中に、その表現は違えどもなにかしらのそうした大きさやゆとりのようなものがないと、もしこれが一発勝負の一筆書きの世界だと、なかなかここまで大きく構えられないと思うのです。
最初の構えや入り口とでも言いますか、物語の骨格が非常に大きいですね、壮大なスケールとでも言いますか、これ、制作者側として、なかなかここまで物語の筋を冒頭から、ある意味、悠然とゆったりとは構えてこられないと思います。

剣道で言えば、大きく上段に構え相手を睨みつけている感じです。
相手がじれてがら空きの胴に飛び込んできたら、上から頭を叩き割ってやる、というような気迫を感じるのですが、同時に自由で正直な大らかさと言いますか、まるで、大海原に浮かぶ小舟のような、波に揺られながら運ばれるままに漂う小舟のような感じですので、ちょっと小舟の行き先がわからなかったりします。
普通でしたら、もう少し読者に気をつかいながら、飽きさせないようにと焦ったり、先を急いだりするのではないでしょうか。
そんな俗世間の姑息な懸念などは、プルーストの芸術の前では吹っ飛んでいる感じがいたします。
なんて言いますか、自らの極端なまでの上段の構えを、完全に自分に許可している感じがいたします。
つまりは、どの箇所を読んでいても常に感じるのは、これまでの常識に拘束されることのない真逆の思考であり、常識の対極にあるところの異端であり特異さ。
また、出自や出生からもたらされるところの、意識的にそうしているというよりかは、もう身に染みついて離れないなにか宿命のようなものが、その根底に流れているように思うのです。

結局、プルーストって、決して計算高くはないですよね、打算的ではまったくない。
もう僕の究極の結論から言えば、「失われた時を求めて」の謎を解くすべての鍵は、「スワン家のほうへ」が自費出版であることに、どうしても帰結するように思うのです。
第1巻の「プルースト略年譜」を読むと、あちこちで原稿を突き返されていますよね、没原稿になって戻ってきている。
それはそうでしょうね、出版社としては、この作品は非常に扱いにくい、第一、連載するにしてもどこで区切っていいのかまるでわからない。
普通、どうなんでしょうか、そういうこと (並みの人間にとっては失敗) を繰り返していくうちに、角がとれて丸くなるとでも言いますか、作家として次第に平均化してゆくのではないでしょうか。
こうしたら、扱いやすいだろうから掲載されやすくなるだろうなとか、やっぱり小説家として生きていきたいのなら少しは考えますよね。
でも、それはしない、断じてしない、その場の空気なんかそもそもまったくよめない。
なので作品はますます膨張を続け、ますます読みにくくなる。
これは大芸術家や天才に共通してみられる傾向です。
そして、その自己の欠損している部分をおそらくは漠然とであっても把握しているため、今度はその欠損を無意識的に補おうとし、それが一人の人間としての愛として、通常の人間の何倍もの量となって、内から外へと迸り出るのではないでしょうか。

なお、以下の引用箇所につきましては、すべて簡略に巻数とページ数のみ記してあります。
したがいまして、例えば (1の100) とありましたら、第1巻の100ページの意味です。
それでは、拙い文章ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

まず、はじめにお断りしておきますが、僕はプルーストの作品を読むのは、これが生まれて初めてで、言ってみればプルーストの超初心者です。
まあ人間、何事も最初は初心者な訳ですが、このとてつもなく長い作品を途中であきらめてしまう方が多い理由は、僕なりに読みながらとてもよく伝わってきて、冒頭部分の話者である男の子 (この話者が男であるということは、トイレの自慰の場面 (1の342) でほぼわかりましたが、なんのことはない「男の子とは思えないくらいきれい」(2の487) で、はっきりと「男」と書いてあります) がお母さんのキスがないと眠れないだとか、あとはこれ、やっぱり延延と続く通常私たちには、ほとんど馴染みのないサロンの描写ですよね (馴染みないですよね?これは「昨日は我が家に仲のいいお友達がたくさん来てくれて久しぶりに女子会をしたのよ」とかいうこととはまるで次元が違いますから)、このあたりでおそらく多くの方が、ギブアップしてしまうのではないでしょうか?

あとは、これはあれですね、なにかなんでもかんでも、これは後後重要になってくるからとか言われているような圧迫感があって、こうなんて言うのか、物語の終わりの方から始めの方へと、後ろから手前にまくり上げてくる感じがして、そこが通常の小説とはかなり異なるために、読みにくさを感じる人が決して少なくないのではないでしょうか?

僕も最初はちょっとこれは読了は難しいかな?とも思いましたが、そのような単独自力登頂が難しい場合には、やはりサポートしてくれる解説書なり参考書なりが大いに力を発揮してくれますので、まずは各巻末にある吉川一義氏による「訳者あとがき」を熟読し、次いで、ウラジーミル・ナボコフの「ナボコフの文学講義」(河出文庫下巻) の「マルセル・プルースト」の章を読み込むことで少しずつ見えてきたものがあり、第3巻の「花咲く乙女たちのかげに Ⅰ」の後半あたりから、ガツンとつかめてきて (一旦そうなりますと今度は逆に読み進めやすくなりましたが)、まあ、それらを総合しますと、これは結局あれでしょうか、超初心者の書くことですからあまり気にしないでいただきたいのですけれども、究極のところ、作者が主題としていることは、記憶の再創造、再構築であり、過去の感動、それを想い出と呼んでもよいですけれども、そうした過去の真実を、現在の真実として再び私たちの目の前に据える、なんとならば、過去と現在は、その間に無数に介在する日々を通しながらも、綿綿と続いており、すなわち過去と現在は連続しているものであり、自らが自分自身の内部に深く降りてゆくことで、その底の底まで明らかにすることで、その時を奪い返すことができる、そのためには、直接的な意識的記憶や観察だけでは不十分であり、もっと完全に過去の印象を知ることが不可欠である、とまあそんな感じなのではないでしょうか。

ここのところは、とてもよくわかるのですよね、そして非常に面白いです。
なにか以前読んだユングの「ユング自伝1、2」(みすず書房) にかなり通じるものを感じますし、僕が以前から言っている「地獄の底は上皿天秤の皿だった」も要は同じことです。
また、当サイトで、「小中学校時代の思い出」や「母からの贈り物」などの連載もしましたが、僕の心の中でもう普段からベクトルの向きとでも言いますか、すでにそのような方向に関心が寄せられており、まあ要するに僕のわずかな思考がその戸口まで来ていたとでも言いますか、それでここへ来て「失われた時を求めて」が、僕にとってジャストミートしたのではないかと思います。

それで、ここまでは一応よいとしまして、では、なぜプルーストは、記憶の再創造を、すなわち過去の奪還を自らの文学人生を賭してまで、そこまでしてでもなんとしてでも成し遂げたかったのか、端的に言って問題はここですよね。

そこで、ここが肝心なのですけれども、プルーストはそれができるのは芸術作品のみなのだと、真の芸術においてのみ、これらのことが可能になるのだと、体現できるのは芸術のみなのだと考えているのでしょうね。
芸術こそがその使命において「時」「時間」という広漠とした場所において、過去の真実を現在の真実として目の前に再び取り出せるのだと。

そのために、必然的に作品全体が、要は話者の過去の記憶のみから構成されることになり、つまりはあくまでそこの部分のみに焦点を当てれば、過去の記憶でしたら、それは誰にでもある訳で、プルーストはなにか奇想天外な奇抜なことを編み出してきた訳ではない、そこが逆に非常に新しいと、これまでの小説概念を一新し、新しい文学の地平線を切り開いたと、まあざっくり言ってしまうとそういうことなのではないでしょうか。
ナボコフの「ナボコフ の文学講義」にも「今世紀前半最大の小説、プルーストの『失われた時を求めて』」(河出文庫上巻、p.332) ともありますように、今日に至るまでその評価は極めて高いです。

え〜と、文学作品をざっくりと切り取ってしまってはいけないのかもしれませんが、なにしろこれだけ長い作品ですので、読者としてのこちら側の基本的な対抗軸とでも言いますか、気構えのようなものを打ち出していかないと、なかなか通読することが困難であるとでも言いますか、読み手としての強靭な足腰が、どうしてもここは必要になります。

(しかし、それであれば、なんでこの後、世界の文学は真逆の方向性に、すなわちストーリーテラー全盛?の時代に突入していったのだろう、または、過激な性描写の大胆な導入だとかの方向に。)

それで、ここまでもまあ一応よいとしまして、さらなる問題は、どうしてプルーストは、芸術のみが記憶の血肉化を、過去の奪還をなし得ると考えているのか、もう本当にこの一点ですね、ここを今考えているのですが非常に難しい、わからない。

え〜と、例えば会社員の方でも他の職業の方でも構いませんが、「失われた時を求めて」を読むことで、過去の感動=真実を取り戻すという戦慄を、なにしろ14巻もありますので、読みながら手法として身につけてしまえば、これはできますよね、可能です。
すなわち、プルーストの「失われた時を求めて」を読みながら、自らの「失われた時を求めて」に次第に移行してゆく訳で、実際にそのような経験をされた方も決して少なくはないと思います。

あるいは、スポーツ選手などであってみれば、直接的な意識的記憶は逆に題材としては多いかもしれませんね。
幼少期からのワンプレー、ワンプレーに魂を降ろしてゆく、その感覚さえ一度つかんでしまえば、これも可能ですね。

結局、あれなのだろうか、芸術の壮大さにあるのだろうか、真の芸術のみがなし得ると、プルーストが確信しているその信念の根拠は。
仮にそうであるとしたら、今度は真の芸術の壮大さとは、いったいどのようなものなのであろう?
そうか、そこで、このあまりにも有名な「プチット・マドレーヌ」(1の111から) のエピソードにつながるのか!
う〜ん、わかった、なにか超初心者も初めて少しつながったな (笑)。

ところで、第1巻のコンブレーで話者はレオニ叔母の家に滞在している訳ですが、正確にはこの家は祖父の従姉妹である大叔母の持ち家で、その娘がレオニ叔母ですよね (このあたりの説明は1の120)、え〜と、どうしてすべて母方の親族ばかりが登場してくるのだろう?
(ここで、本論からはそれますが、用語の使用についてちょっと気になったのですが、「祖父の従姉妹」を「私の大叔母」とは言わないですよね、祖父の妹でしたら、祖父の孫である話者からみた場合、大叔母になります。)
アドルフ大叔父、祖父、祖母、祖母の二人の姉妹だとか、大叔母、レオニ叔母と、これら全員母方の親族ですよね。
父を除いて父方は誰一人登場してこない、別になにも悪い訳ではありませんが、バランス的には変です。

変といえば、なにかすごく記述が唐突だなあと思うことが多くて、レオニ叔母が突然亡くなっていたり (1の333)、ヴァントゥイユ氏も亡くなっていたり (1の345)、読者としてはもう「あれっ、いつ亡くなったの?」という感じで、それから「娼家」の話ですよね (3の328から)、なんでこの話がここに突然挿入されているのでしょうか、なんだかおかしくて思わず笑ってしまいました。
「ねえ、あなた、ユダヤ女ですのよ、そりゃあもう天にも昇る心地ですわよ!ああ、ああ!」(3の330) なんてこの場面に要らない (笑)。
ユダヤ人であるということが、この後の伏線として必要であるのなら、ただ単に「ユダヤ女」と書けばそれでよい訳で、プルーストさんって、この人、かなり面白い人だな。
自分が変わっているのはわかっているのだけれども、どのくらい変わっているのかは、自分では実はよくわかっていないという天才にしばしば起こりやすいタイプなのでしょうか。
毎日、陰鬱なまでに自己の記憶の底に降りてゆくことに、無意志的記憶の獲得に集中している作者が、同時に無意識的な諧謔に走ることで、心の中のバランスをなんとか必死に保っている感じがいたします。

それから、端的に言って、「失われた時を求めて」は、非常に縦軸の小説ですよね。
僕はこれはもうずいぶん前からですけれども、文学作品をx軸とy軸でなんとか説明できないだろうかと、少なくともそのイメージくらいは伝えられないだろうかと考えているのですけれども、僕の感覚では「失われた時を求めて」は、完全にy軸の作品で、その値はマイナス20からプラス20くらい、ジルベルトだとかいろいろ登場してきますけれども (ここは変えられますからね、仮に話者が違う人物に恋をした場合、ここは当然変わって来ますからね、うん?そうか、わかった、これは話者の「お母さん*¹」もそうだけれども、あくまで余人をもっては補完できないということなのか!)、横軸であるx軸はマイナス3からプラス3くらい、すなわち、(x,y)=(-3,-20), (-3, +20), (+3, -20), (+3,+20) の4点を結ぶ縦に長い長方形のような、あくまでイメージとしてはそのような作品なのではないでしょうか。
ちなみに、僕でしたら、その長方形を色としては、第3巻まででしたら、ウルトラマリンディープでここは塗りたいところです。

(*¹そこで、「私の母より美人ではるかに聡明な母親がお寝みを言いに来てくれても、いっこうに嬉しくなかったにちがいない」(1の392) につながります。)

つまり、僕の言いたいことは、他の人が「失われた時を求めて」を読んだ時に、その長方形がずれると思うのですよね、いや、y軸は±30くらいはあるだろうとか、話者はジルベルトに神経症的な恋をしているんだぞ、時間列の横軸は±10くらいはあるだろうとか、そしてそのいろいろ出てきた各々の長方形のズレを楽しみながら、議論を深めていくことができると思うのですよね、それを例えばシャルル・スワンのオデットに対する「明らかに病的なまでのその時の心情はいかに」とかから入ると、議論が深まるようでいて出発点としては意外とそうでもないような感じがするのです。
結局、それを繰り返していますと、どうしても近視眼的に自説の主張やこだわりになってしまい、他者の説得に至ってしまいますよね。
この他者の説得というのは非常に厄介な問題です。
つまりは、脳のゆらぎがなくなってしまうように感じるのです。
絵画でも小説でもせっかく毎日時間をかけてしていることが、脳を揺すってくれないのなら意味がない、軸がぶれなければ意味がない、「あーあー、そうですか」ってなってしまう、「あーあー、そうですか」ってなんですかって「あーあー、そうですか」です。
つまりは、「失われた時を求めて」は、これはもう明らかにとてつもなく巨大な館のようなものですので、無数にある個々の部屋の戸口をたたいて歩くかわりに、まずは正面中央強行突破で全体の正門から入ってみる感じはいかがでしょうか?

そして、もう一点。
プルーストは、ことあるごとにあることを述べた後に、すなわちすぐ次の行に、「○○と同じである」の例えを頻繁に用いてきますね。
それを全部書き出して一覧表のようなものを作り、まあ全体で大変な数になると思いますが、これを精神科医に研究チームに入ってもらって、分析してもらったら、そこに必ずやプルーストの精神的な気質であり、なにかしらの精神的な傾向のようなものが浮かび上がってくると思うのですよね。
総じて、これだけの大作家に大変失礼ですけれども、この「○○と同じである」の比喩は、それほど切れ味鋭いという感じはあまりしないですよね。
つまり、僕が言いたいことは、逆にこの部分にこそ、プルーストの人間味やユーモアが、すなわち知性が、リラックスしている分だけ割合素直に出ているように感じられるのです。
もしかしたら、それも複数の精神科医が加わることによって、この比喩の集積の分析はすでにもう終わっているのかもしれませんね。
と言いますのは、この「○○と同じである」の繰り返しは、読んでいてかなり目につきますから。
それであれば逆に、是非読んでみたいと思いますので、どこにその所見があるのか、その所在を知りたいです。

それから、作家ベルゴットを題材として展開される「天才と変形論」(3の280から) とでも名づけるべきものですが、ちょっとこれはすごいな。
滅多に出会えない超一級品の記述であることを直感的に察知、把握いたしましたが、初読ではその深淵まで読み取れませんでした。
ここはちょっと避けては通れない必須の箇所ですので、わかるまで読み込んでみようと思います。

さてさて、僕にとっての第3巻までの圧巻は、なんと言っても「だしぬけに私はもうジルベルトに会わない決心をした。」(3の345) から始まるジルベルトとの突然の別れのくだりです。
最初は、なんて女女しいと言うか、姑息であるとでも言うか、策を弄してくるとでも言うか、要するに実に心が屈折しているなと感じていました。
具体的に3箇所引用してみますと、
「そのことばが同時に教えてくれたのは、しばらくはジルベルトに会わずにいるべきだということだった。きっと手紙を寄こして謝ってくるだろう。そうなってもすぐには会いに行かず、会わなくても生きてゆける証拠を見せつけてやらなくてはならない。それにいったん本人の手紙さえ受けとることができれば、会いたいと思ったときにいつでも会えると確信でき、ジルベルトとのつき合いをしばらく我慢することもはるかに容易になるはずだ。」(3の351)
「私は、つれなくされて意地を張っているとジルベルトに憶測されないよう、あとで相手が会いたいと日取りを言ってきてもまずは同意しておき、直前になって手紙で行けなくなった、会えないのは残念だと、会いたくなかった相手に言うように書き送ることにした。」(3の353、354)
「というのも夜になると惨めな気分になってじっと家にいることができず、愛してもいない女たちのところに出かけ、その腕に抱かれて泣いていたからである。」(3の426、427)

しかし、ところがですね、読み進めるうちに次第に、ここまで自らの心の中の苦しみであり不安を、ありのままに見つめるということは通常なかなかできない、と言うよりか全くできない。
まあ、苦痛の回避ということにかなり執着して、予防線を張ってくるなという感じがどうしても否めないなとは思いましたけれども、それも含めまして、普通でしたらどうなのでしょうか、もう少し体面を取り繕おうとしますよね、こんなにまで心の中を赤裸裸には、なかなか恥ずかしくて書けない、ここまで自らの心の中をまるで顕微鏡を覗き込むように見つめながら、時時刻刻と変化してゆく (日本語としてはおかしな表現ですが→)「苦しみの動き」のようなものと血みどろになってまで格闘しながらとらえようとはしない、だってそれは本人にとって非常につらいことだから。

また、プルーストは、こんなことも率直に書いています。
「いつか、この銀器の売却がことさらに悔やまれたり、ジルベルトの両親に礼を尽くすという無に帰するかもしれない喜びよりべつの喜びを重視したりする日が来るなどと、どうして私に想像できただろう?(中略) いつかジルベルトのもとから解き放たれてべつの存在のなかに移り住む可能性があるとは、私にはとうてい想像できなかった。」(3の334)
う〜ん、これって、年齢を経て初めてわかる (これも日本語としてはおかしな表現ですが→)「喜びの移動」ですよね。
つまりは人間が心の奥底にのみ、いつまでも横たえながら死ぬまで持ち続ける悔恨のことですよね。
これは一読すると、普通にプルーストはさらりと書いているように感じますが、少しでも心の中に障害物があると、つまりはプライドが割って入って邪魔をすると、これはなかなか書けない、人に読まれた時のことを一瞬でも想像すると書けない、そこなんですよね、そこに芸術というものに向かっていくプルーストのなにか一方通行的な、とらわれの身のような、前世からの宿命のようなものに突き動かされて書いているような感じがするのですが。

現実的には、もちろん作家本人であるプルーストが書いている訳ですが、なにかその背後にあるもの、具体的にはおそらくはプルーストの先祖のどなたかが書いているような、時を隔てた少なくとも二人以上の人物が複合的に重なり合って書いているような感じが、僕にはどうしてもするのですが。

ともかくも、このあたりを公に書けるというところに、当然ながら多くの人が読む訳ですから、まずは誰と誰が読むだろうなということは書きながら自然に頭に思い浮かぶでしょうし、あまりに見栄えがよくないとでも言いますか、お世辞にもあまり男らしいとは言えないところを人前にさらせる、開示できる、このあたりなのかなあ〜、プルーストの芸術家としての真骨頂は、今のところは、ちょっと不気味と言うか得体が知れませんが。
なんて言いますか、極めて特異であり、非常に異端ですね。
このプルーストの芸術家としての真髄の問題に関しましても、今後の展開における判明がますます楽しみになってきました。

しかし、それにしましても、僕は音楽のことまではわかりませんが、プルーストの絵画に関する造詣の深さや美術鑑賞力の高さは、これはちょっと半端なものではないですね、これまでに読んできた作家たちとは桁が違います。
そして、この岩波文庫版の「失われた時を求めて」は、注釈や図版が非常に充実していて、ある意味、完全に美術解説書のような側面を備えていますね。

第1巻のコンブレーの教会の鐘塔の描写は、男根の象徴ではないのかとか、「プチット・マドレーヌ」(1の111) の無意志的記憶と、例えば私たちがラジオから流れる懐かしい音楽を耳にした時だとか、もっと端的に言えば、卒業アルバムを開いた場合のような直接的な記憶との対比や考察とか、それから絶対にここは見落とせないところとして、祖母が「私」のために選ぶプレゼント (1の96から) の一件ですよね、ここには特筆すべき決定的な点が含まれているように思い、いろいろなメモをとっていたのですが、長くなりましたのでこのあたりでやめます。

2024年11月20日
和田 健

追伸:1ヶ月に1巻くらいのペースの非常にゆるやかな遅読ですので、途中経過のその2は、僕の眼の状態にもよりますが、おおよそ来年2月下旬くらいを予定しております。

第4巻に入りました。
いや〜、いきなりプルーストの世界、ギアが一段上がり、解放感全開できましたね!
サン=ラザール駅 (ただもう懐かしいですが、やっぱり一番は実物よりも、なんと言ってもオルセー美術館のモネの絵画です) から、ノルマンディーのバルベック (カブールがそのモデルなのですね (1の289の注)) へと向かう鉄道の中の「目の前にある窓の青い日除け」(4の49)と、特に「牛乳売りの娘」(4の57) の話、素晴らしいです、圧倒的に美しい。
こんな旅行記って他にはちょっとないでしょう!
「立派で献身的な一時二十二分の汽車」(2の431と4の36) に僕も乗りたい!
話者がパリを離れて旅に出てくれて、一番ほっとしているのは、実は読者なのかもしれませんね (笑)。

「途中経過その2」
https://kenwada2.com/2025/02/14/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-2/
「途中経過その2の番外編」
https://kenwada2.com/2025/02/16/マルセル・プルースト-1871-1922-の「失われた時を求め-3/

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