ドストエフスキー(1821-1881)の「悪霊」(1871-1872)を読んで 第三回「カルマジーノフ氏への徹底批判」、最四回「ピョートルの逃亡」
(第二回から続く)
皆様、こんにちは。
なんだかとても長くなってきました (笑) ので、第三回「カルマジーノフ氏への徹底批判」と、第四回「ピョートルの逃亡」の二回分につきましては、予定していた内容の概要だけにしまして、ここに簡単にご紹介させていただきます。
本当は、レジュメのようなものを書きたかったのですが、自分にはレジュメは書けない、なにかの会議ではあるまいし、書いていてもまったく面白くもなんともないということが、書きながら実によくわかりました (笑)。
現在は、最終回の大一番「キリーロフとお茶」に集中しています。
書きながら次第に課題がふくらんできて、この際、腰を据えてヨハネの黙示録関係を含めた新たな関連書籍も合わせて読んでみようと思い、そうなりますと書き終わるのが、もうちょっといつのことになるのやらわかりませんが、まあ、半年もしてここに掲載されていませんでしたら、「ああ、書けなかったんだな」とでも思ってください。
人間は、自分で設定したテーマに向かって、こうして関連書籍や研究書を読んでいる間は、僕のような者でも、たとえ少しずつでも成長していくことができるように感じます。
あと、もう一つ、これは自分に向かっていつも肝に銘じていることなのですが、僕がこうして書いていることは、間違っているかもしれません。
人間は、「私は/僕はこう思う」と、その時に真剣に考えたことを言ったり、または書いたりしますが、ただ、それは大変残念ながら間違っているかもしれませんよね。
と言いますか、多くの場合において、人間は真面目に話しているのだけれども、たびたび間違えるのではないでしょうか?
なにか基本的に、もうそういう生き物であるとでも言いますか。
その可能性をついうっかり見落として、「私は/僕はこう思う、よってそれは絶対に正しい」となることは、とても危険だと思います。
なにか最近、そのような人をよく見受けますので、老婆心から一応、念のため。
それでは、第三回から。
第三回「カルマジーノフ氏への徹底批判」
カルマジーノフ氏が誰のことであるのかが周知の事実であるため、これはいくらなんでもドストエフスキーは、ちょっとやり過ぎではないでしょうか?
まあ、頭にきて一度や二度くらいならわかるのですが、ほとんど全篇を通じてという感じで、あまりにもやっつけ過ぎ、これでもかというくらいの執拗なまでの波状攻撃です。
両者の間にどのような軋轢や確執があったのかは、いかにも専門家の研究テーマになりそうなことですので、そこは研究者の方におまかせして、ドストエフスキーの側からこの過剰なまでの反応の理由について、「大文豪」(一の140) をキーワードにして考える内容です。
つまりは、ドストエフスキーにとっては、過剰なる反応ではなかった訳ですから。
これを書いたら絶交、下手したら決闘になるということは十分にわかっていたはずですから。
研究者の方におまかせしてと言うわりには、自分でもすぐに調べたがるところが僕にはあって、このことにつきまして、なにか手がかりになるようなものはないかと思い、アンナ夫人の書いた「回想のドストエフスキー」(みすず書房、1、2巻) を久しぶりに読み返してみました。
しかしそれにしましても、この本はドストエフスキーの人となりを知るためには、改めて最良の基本資料ですね、素晴らしいです、などというような月並なことが言いたいのではなくて、まるでドストエフスキーの息遣いまでもが聞こえてくるような、肌のぬくもりまもでが思わず伝わってくるような、まさにそんな感じさえ受けます!
速記者として45才 (厳密には出会ったのは誕生日の前なので44才) のドストエフスキーと出会い、「賭博者」の口述筆記を始めたまだ20才のアンナ夫人は、1866年のドストエフスキーの言葉をこう記しています。
「ツルゲーネフについて、第一級の才能の持主にはちがいないが、外国生活が長いので、ロシアとロシア人のことがわからなくなってきているのが残念だと言った。」(第1巻の45ページ)
ですので、この時点では、まだそこまでは激しくなかった気持ちが、4年間の国外生活を始めた1867年に「ツルゲーネフに会い、衝突する。」(第1巻の244ページ) ことになったのですね。
両者の軋轢や衝突の細かい経緯につきましては、第1巻の230~232ページにわたる注25の中に詳しく書かれてあります。
また、「ツルゲーネフからの借金」(第2巻の126ページ) という一節もありますが、これはもう1876年の話ですから、これではありませんね。
それよりはむしろ、『「悪霊」は読書界に大きな評判を呼んだが、同時に、これによって文壇に多くの敵をつくったことも事実だった。』(第2巻の45ページ) の方がより切実です。
そりゃ、敵を作るでしょう、これだけしつこく攻撃すれば。
このこと一つをとってみても、僕が第一回、第二回でこれまでに考察してきましたように、ドストエフスキーには、小説家として体裁を取り繕ったり、変な色気を示したりすることがないということにつながるかと思います。
普通、わかるでしょ、こんなに書いたらまずいぞって、これは間違いなく身の破滅、崩壊を招くぞって。
僕はそれをドストエフスキー独自の「究極の素朴さ」であったり、「自分自身の本分に忠実」であることなどの観点から考えているのですが、いったいなんなのでしょうね、それを一時的にではなく生涯にわたってつらぬけるものって、本当にどのようなものなのでしょうか?
これはおそらく直感的に、文学に対する情熱、パッションなど・・・、まあ呼び方はなんでもよいのですが、そのようなものからきているのではないように感じます。
それよりは (癲癇の発作との関連のことまではわかりませんけれども)、むしろ負のベクトルとでも呼んだらよいのでしょうか、人間としての苦悩や悲しみであったり、なにかそうした陰鬱なものの方面から永続的にもたらされているのではないでしょうか。
この極端なまでの偏執や執着は、癲癇の発作との関連というよりは、僕はむしろ病み難い賭博への熱情に通底している感じをなにか受けるのです。
根拠ですか?根拠ねえ、根拠、根拠って、芸術活動ですからね、前提として根拠が絶対に必要である仕事は、もちろん存在するとは思いますけれども。
ちなみに「悪霊」の本文では、物語の説話者である私ことGは、「私はカルマジーノフを子供の時分から愛読していた。」(一の140、141) 云云とGの年齢をかなり若く設定していますが、実際には両者の年齢は、3才しか違わないのですよね。
ここで、カルマジーノフ氏の問題からは少し離れますが、
①ドストエフスキーが「悪霊」について、「いま『ロシア通報』のために書いている作品には、大きな望みをかけています。だが、それは芸術的な面からではなくて、傾向的な面からです。」(第1巻の208ページ) ととらえていたことや、アンナ夫人の「傾向的な小説は、おそらく肌に合わなかったのだろう。」(第1巻の209ページ)
②夫人の弟の話をもとにしてシャートフの最期の洞穴の描写が書かれたこと (第1巻の209ページ)
③「いつものように夫は自分の仕事に不満で、何度も改作し、印刷紙で十五枚ばかりも破棄したほどだった。」(第1巻の209ページ)
また「その出来ばえには不満で、まえの構想を捨てて第三篇全体を書きなおした。」(第2巻の45ページ) ことなどの証言は注目に値すると思います。
ちなみに、この①の「傾向的な」の解釈ですが、当時の無神論的な風潮の中で、ドストエフスキーが神の存在の問題を中心に展開していった観点からしますと、時流に敏感な時事問題をめずらしく主題にしてとでも言いますか、ジャーナリスティックな特質を今回の「悪霊」は備えているとでも言いますか、まあ、大体そのようなところでしょうか。
ちなみに、ドストエフスキーの思想や意識の体系につきましては、なんと言っても個人雑誌であるところの「作家の日記」(ちくま学芸文庫全6巻) が一番だと思います。
引き続きまして第四回。
第四回「ピョートルの逃亡」
これにつきましては、第一回の「豚のむれ」の後日記1の中でも触れましたが、この問題について、もう少しきちんと整理して考察していこうという試みです。
ピョートルの数々ある容疑、陰謀のなかでも、シャートフをピストルで殺害したことは、読者には紛れもない事実であり、この小説は首謀者の殺人犯が逃げたままで終わるという、非常に不可解な作品になっています。
ドストエフスキーという偉大な作家が、単にピョートルのモデルとなった人物 (セルゲイ・ネチャーエフ) が、実際に、1869年12月にスイスに亡命をしたのでという単純な理由から、そのような安易な設定にしたなどということは、僕には可能性としては、まずあり得ないように思います。
つまりは、ドストエフスキーは必ずそこに意味をおいてきますので、ただなんとなくぼんやりと、そうしたなどということは決してしてきませんので、この「ピョートルの逃亡」問題のドストエフスキーの真意ですね、ここのところ。
ちなみに、ネチャーエフは、その後、1872年8月に逮捕されていますね。
参考までに、「悪霊」の出版は、1871-1872年です。
合わせまして、懲役人のフェージカが、ものの見事に拳を頬にかまして (本文からわかることは最低でも4発はかましています!) ピョートルを気絶させた件 (四の188)、ピョートルの「あれはあの男のこの世における、ウォートカの飲み納めなんだよ。」(四の190)、フォームカによるフェージカ殺害の件も、ピョートルの差し金ではないのかという僕の考察についての内容です。
おしまいに、このピョートルという張本人にして、まだ「二十七かそこいらの若者」(一の312) である人物について、なにか逃亡問題の手がかりになるかもしれませんので、ここで一度、簡単に整理してみたいと思います。
え〜と、首領の大悪党であるピョートルですが、それでもまずは一応、プラス面の方からにして、これはなにしろ数が少ないのですぐに終わります。
まあそうは言いましても、ここに物語の中の「町の人たちのうわさ」(一の312) を書いてもあまり意味がないと思いますので、カルマジーノフの独白あたりから始めましょう。
「あの男は仲間うちでも一種の天才かもしれんて。」(三の52)
続いてキリーロフがピョートルに向かって「君には才能があるんだが、非常に多くの事物に理解を欠いてるのだ。それは、君が下劣な人間だから。」(四の181)
最後にニコライがシャートフに向かって「それに、ヴェルホーヴェンスキイは熱情家ですよ。」(二の71)、
またこの発言に関連しまして、「かつてスタヴローギンがシャートフに向って、ピョートルには感激 (エンスージアスムと振り仮名がありますので、enthusiasm、熱意、熱中、熱狂あたりでしょうか) があると言ったとき、相手はすっかりあっけに取られたものである。」(四の137)
ここで、ドストエフスキーが、意図的にはっきりと線引きとでも言いますか、ニコライとキリーロフは、一応それでも、ピョートルのよい面も少しは感じているのに対して、シャートフはピョートルのことをまったく評価していない点に注意です。
さて続きまして、罵詈雑言の嵐のようなマイナス面、こちらはあまりにも数が多くて、とても全部は書き切れませんので、登場人物をしぼり、キリーロフ→シャートフ→フェージカとリレーのバトンを渡してもらい、最後は、物語の説話者である私ことGに、アンカーとして止めを刺して?もらいましょう。
第一走者のキリーロフ
「僕は君がきらいでたまらないんですよ。」(三の61)
「僕がただ一ついやなのは、その瞬間に、君みたいなけがらわしい虫けらが、僕のそばにいるということなんだ。」(四の181)
続いて第二走者のシャートフ
「さあ、もう僕の部屋を出てくれたまえ。僕は君と一緒にすわっていたくない。」(三の72)
「さあ、行きたまえ。僕は君と一つ部屋にいられない。」(三の73)
さらに第三走者のフェージカ
「お前さんなぞは、始終あの人の靴を磨いてもいいくらいだ。」(四の184)
「なぜって、お前さんは正真正銘の悪党だからね。(中略) お前さんはまるで人間の体にくっつく、けがらわしい虱も同じこった」(四の185)
「ほんにお前さんは、なんてえ浅はかな考えを持った人だろう。」(四の187)
そして最終走者の私ことG
「このやくざ者め、それはみんな貴様の仕組んだことだ!貴様はそのために今朝いっぱいつぶしてしまったのだ。貴様がスタヴローギンの手伝いをしたんだ、貴様がその馬車に乗って来て、貴様が自分で乗せたんだ・・・・・・貴様だ、貴様だ、貴様だ!奥さん、こいつはあなたの敵ですよ、こいつはあなたの一生も台なしにしてしまいます!気をおつけなさい。」(四の77)
本来は物語の説話者として中立的な立場であるべきはずのGの大爆発じゃない、豪快なラストスパートです!
僕の結論としましては、僕は上記しました第一回の後日記1の中で、ドストエフスキーは、この「ピョートルの逃亡」問題について、罪の赦しと再生の問題としてとらえ、ピョートルよ、偉大なるものの前に跪けと、そうしないとお前ほど悪くて、お前ほど罪の意識の軽い者に最終的な救いなどはまるでないと、ドストエフスキーの意図について考察したのですが、その後になって、これはあれですね、ドストエフスキーは、人類への警告として発信したのではないかとも考え始めています。
つまりは、ピョートルが逃げているぞ、また五人組を組織し、同じようなことを繰り返すぞ、気をつけろと。
または、その両方を合わせたような感じなのかもしれません。
2024年3月19日
和田 健
後日記:この「ピョートルの逃亡」問題ですが、さらにその後になりまして、キリーロフの自殺前の台詞である「ところが、僕は自殺して、君は生き残るんだ。」(四の288) の中に、なにかヒントが秘められているように思い始めました。
また、もう一つの大きな課題として、最終回「キリーロフとお茶」の第二ラウンドの中でも触れましたが、今までは「悪霊」の執筆開始時からの構成であったと普通に考えていたのですが、ドストエフスキーはいったいどこの時点で、最終的にピョートルだけは逃亡させると決めてきたのかという問題が新たに出てきました。
2024年4月9日
和田 健
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