ドストエフスキー(1821-1881)の「悪霊」(1871-1872)を読んで 第二回「マリヤ・レビャードキナと梟」
(第一回から続く)
皆様、こんにちは。
第二回は、全篇を通じて、最も戦慄的な場面である「マリヤ・レビャードキナと梟」です。
はじめに、出版されてからすでに152年も経つ「悪霊」を今回僕が読んで、一番モダンだなと感じたのは、ピョートルが爪を切るために、「アリーナさん、あなたのところに鋏がありませんか?」(三の111) と出し抜けに訊ねる場面です。
ここのモダンさ、このリアリティはちょっと並外れてすごいな!
現在の2024年よりも、断然モダンな感じがいたします。
これはあれでしょうか、かつての思想関連のサークル時代にでも、会議かなにかの場で、実際に目の当たりにした光景をもとにして、ドストエフスキーは書いたのでしょうか?
その前のピョートルの『「なんにもないです。」彼は椅子の上で大あくびをしながら、そり返った。「ただコニャックを一杯もらいたいものですなあ。」』(三の109) には笑いました。
この「コニャックを一杯」が全篇を通じて一番笑えたな。
ここは、父親であるスチェパン氏の「シャンパン病」 (一の18) とかけあわせて、アルコール依存症?の遺伝の傾向まで裏をとらなくてもよいのではないでしょうか?
確かに「彼が惜気もなくシャンパンをふるまう時なぞ」(一の45)、また「その晩、私たちはまた一杯ひっかけた。」(一の133)、さらには「その晩わたしたちは一壜飲み干した。」(一の137) ともありますので、まあ、スチェパン氏は毎晩のように、よく飲んではいたのでしょうが。
ピョートルもカルマジーノフの家で、カツレツの朝食にぶどう酒をあおったり (三の52)、さらにはその後になって、ピョートルが料理屋でビフテキを食べた後、ビールまで注文して飲む場面 (四の172) も出てはきますが。
しかし、この料理屋の場面もかなり異様ですね、ピョートルが「肉のきれをさもうまそうにむしゃむしゃかんだり」(四の173) するのを、リプーチンは三十分以上もじっと見つめているのですから、極めて異様です。
まあ、「コニャックを一杯」は、ドストエフスキー自身もおそらく「ここは笑えるな」と思いながら書いていたのではないでしょうか?
ドストエフスキーを読んでいると、このようなくすりと笑える場面が、特に深刻な場面において、時々出てくることも隠れた魅力の一つです。
さて逆に、まったく笑えるどころではない、全篇を通じて一番恐ろしい場面だなと感じたのが、今回の「マリヤ・レビャードキナと梟」です。
この場面 (そのクライマックスは、具体的には二の132から135あたりになります) は、かなり戦慄的ですね。
まず、この場面を理解するためには、その前段の「本記録において特筆大書すべき日」である「明日の日」(いずれも一の260) の日曜日に、まあ、細かいことはいいや、要するに日曜日に、ヴァルヴァーラ夫人の客間になんと全員で12人が集結します。
これはもうどこからどうみてもドストエフスキーが構成上、ここで一度全員を顔合わせさせてきたな、顔見世興行ではないですけれども、ここを前半の山場としてセッティングして、一堂に会する場面を意図的に設定してきたなということは明らかです、これはもう完全に全員集合させてきたな〜という感じ。
ここで、客間に登場する順番に、一度きちんとメンバーを整理してみますと (括弧内は愛称です)、
①スチェパン・トロフィーモヴィッチ (スチェパン氏)
②私ことG
③シャートフ (シャートゥシカ)
*侍僕頭のアレクセイ・エゴールイチ (侍僕、原文ママ)
④ヴァルヴァーラ夫人
⑤リザヴェータ (リーザ)
⑥マリヤ・レビャードキナ
*小間使のアガーシャ (小間使の「い」なし、原文ママ)
⑦プラスコーヴィヤ夫人
⑧マヴリーキイ
⑨ダーリヤ (ダーシャ)
⓾レビャードキン大尉
⑪ピョートル (ペトルーシャ)
⑫ニコライ
と侍僕や小間使をのぞいて12人になります。
この中でかわされた様々な会話の重要さについてはちょっと書き切れませんが、両夫人 (④と⑦) の凄まじいいさかいがあるわ、③のシャートフが⑫のニコライの頬を殴るわ、最後に⑤のリーザが気絶するわで、ドストエフスキーが、この会合の中に⑥のマリヤ・レビャードキナの伏線を張ってきていることは、僕にはまったく見抜けませんでしたと言いますか、通常、初読の段階ではなかなか簡単に見抜けないのではないでしょうか、違うのかな、簡単なのかな?
でも、そうかそれでか、会合が始まる前の「どうしても一時間前へ逆戻りをして」、教会での「なみなみならぬ事件を詳しく物語らねばならない」(いずれも一の262) って、なにかすごく不自然だなあと思ったのですが。
しかし、それにしましても、ドストエフスキーは女性を書けますね。
その点、書けないのか、あえて書かないのかはともかくとして、ゴーゴリの作品には、女性は登場してきますけれども、いわゆる女の部分は出てこない。
両者の生年を単純に引き算しますと、1821-1809=12年になります、この12年間の進化たるや、実に恐るべし!
またそれに関連して、昔の (という言い方も大変曖昧ですが) 小説には、性描写が出てこないのもいいですね。
これはいつ頃からなのでしょうか、露骨な性描写の方に、文学作品が大きく舵を切るようになったのは。
文学だか思想だかの最高目的に到達するするために、過激な性描写がどのような観点から絶対に必要であると考えられるようになったのだろう?
つまり、僕の言いたいことは、ドストエフスキー作品の中に、しっかりと確かな存在感をもって女性が書かれていますということです。
さて本題。
まず、マリヤ・レビャードキナ (以下マリヤにします) ですが、本文中何度も何度も繰り返されますように「気ちがいでびっこ」(例えば一の175) です。
この表現が執拗に繰り返されますので、ちょっとどのようなものかと思うのですが、要するに障害をもった狂女ですね、このマリヤだけがニコライの真実を見抜く、看破する訳です。
つまりは、主人公のニコライが、もう真夜中になって、マリヤとレビャードキン大尉兄妹の住む川向こうの郊外の家を訪ねてくる。
ここで、これはこの晩に限ったことではないのですが、ドストエフスキーの時間配分が実に細かいので、読んでいてなんだかサスペンスもののようなスリルを思わず覚えます。
これは、あれでしょうか、ドストエフスキー以前には、ここまで細かく時間設定してくる作家というのは、どのくらいいたのでしょうか?
すごく画期的な感じがいたします。
なにかもう、ドストエフスキーが時間を書いてきたら、僕はすっかり身構えるようになりました。
侍僕のアレクセイが「九時半でございます」(二の45) で着替えを始めたニコライが、「ようやくすっかり着替えを終って帽子をかぶると」(二の45) 、
ニコライはアレクセイに「一時か一時半だ、二時より遅くはならない。」(二の46) と言い残して家を出る。
キリーロフの家に着いたのが「すでに十時を過ぎていた。」(二の48)
ニコライ、介添人のキリーロフに「朝の九時ごろ、君あすこへ行ってくれたまえ。」(二の52) と頼む。
ニコライ、次にシャートフの家に行き、「あっ、もう十一時十五分だ。」(二の72)
シャートフ「君はもう十分の時を僕にさくことができますか」(二の74)
ニコライ「さあ、どうぞ。もう三十分割愛しましょう。」(二の75)
で、今度はなにしろ川向こうの家なものだから、橋の「ほとんどまん中」(二の95) で、懲役人のフェージカに出会って、レビャードキン大尉の家に着いて時計を見る。
「十二時四十五分だね。」(二の102)
「あっ、もうマリヤのところへ行かねばならん時刻だ。」(二の119)
そして、物語はようやくマリヤの部屋へと、ドストエフスキーは明らかに、これらの一連の流れに対して、時間に関して特段の注意を意図的に払っていますね。
それとともに時間で物語に独特のリズムをつけていくのが実にうまい!
話がまったくたるまないもの。
さて、そこでいよいよ問題の場面です。
ここで、マリヤの恐ろしい看破物語が幕を切っておろされ、ニコライのおそらくは人生で初めての完全敗北へとつながります。
まずは「わたしは日曜の日にあの家で、いろんなことを見抜いてまいりました。」(二の126)
う〜ん、ここへもってきたか!
あの日曜日の12人の会合だか集会の伏線は、マリヤの見破りへとつなげてきたのか〜という感じです。
「あの時、あのひとたちはみんながかりで、思いもよらぬ方からわたしを試験しました。わたしべつに怒りはしませんけれど、あの時じっとすわったまま、とてもこのひとたちの親類にはなれないと考えました。」(二の126、127) と続きます。
つまりは、マリヤは、ヴァルヴァーラ夫人の客間に集った面々を、即座にこれは全員スノッブだと見抜いた訳です、だから、親類にはなれないと。
「仲直りはなさるけれど、真底から打ち明けて笑い合えないんですもの。あれだけお金がありながら、楽しみといったらいくらもない。」(二の127) のです。
ここで、マリヤが一人だけ違うと言います。
「ただ一人ダーシャだけは、天使のような人です。」(二の127) ここ注意ですね、つまり、前回の「豚のむれ」の中でも少し触れましたが、ここでドストエフスキーは、マリヤの言葉を通して、マリヤとダーシャは「豚のむれ」に入らず、その他の「有象無象」どもはみんな「豚のむれ」だと示唆してきている感じがします。
ちなみに、日曜日に会った時、マリヤはリーザのことを「ちょうどこういうふうな美しい方」(一の278)、さらには、この晩も「あのきれいなお嬢さん」(二の126) とも言っていますが、リーザの美貌についてもちゃんと見抜いている。
また、最初にスチェパン氏のフランス語が聞こえた時に、「ああ、フランス語だ、フランス語だ!上流の社会だってことがすぐ知れる!」(一の275) って感激もしている。
でもそんなことは、彼女にとって、人間の本質を見抜く妨げにはまるでならない。
これはあれでしょうか、ドストエフスキーは、障害がある者の方が、障害のない者よりも、真実や本質を見抜く力に優れるという、人間の有する特殊な能力の核心をついてきているのであろうか?
もう一つ、気になるのは、シャートフの愛称のシャートゥシカですね、結局、全篇を通して、シャートゥシカと呼ぶのはマリヤだけなんです。
最初のボゴヤーヴレンスカヤ街のフィリッポフの持ち家に、マリヤがまだ住んでいた時に、Gとシャートフがマリヤの部屋を訪れますよね (ここのマリヤの描写がまた素晴らしいです!)、その時「さあ、わたしがまた梳かしてあげましょう」(一の246) と、マリヤはシャートフの髪を櫛で梳かします。
こんなこと普通するか?よっぽど仲よくないとしないでしょう。
さらに気になるのは、ニコライがシャートフとの会話の中で「マリヤは処女ですからね。」(二の73)、「僕がここへ来たのは、もしできることなら、今後とてもマリヤの面倒をお頼みするためなんです。そのわけは君だけがあの女の哀れな心に、ある種の感化力を持っていられたからですよ。」(二の93、94)
う〜ん、これ、ドストエフスキーはマリヤ⇄シャートフの間で、伏線の伏線ではないですけれども、もう一つ通底させているな。
(ここで、当時の時代背景として、インテリ層や上流階級の人々が好んで話すためにというのはわかるのですが、いくらなんでも全篇を通じて、フランス語をしゃべりまくる、ちょっとしゃべり過ぎじゃないかのスチェパン氏のフランス語問題について考えてみました。
本題からはそれますので、それにつきまして長々と書くのはやめますが、これも結論としましては、僕の言うところの小説家として変な格好や色気をつけることなく、自己の本分に忠実に生きるドストエフスキーの素朴さにつながるように思います。
もう一つの課題として、これなどは専門家に訊けばすぐにわかることだと思いますが、ドストエフスキーは初版の段階で、スチェパン氏のフランス語の部分について、括弧でもしてロシア語訳を入れていたのでしょうか?
これは入れていたか、入れていないか (→その場合は、後世の編集者が親切な気持ちから入れたと仮定して) で、かなり決定的な問題になると思います。)
さてここまでは、まだほんの軽い挨拶がわりのジャブ程度なのですが、ここからいきなりジャブ抜きで、左右の重いストレートがバシバシ飛んできます。
マリヤはニコライに対して (と言いますか、二人以外には誰もいない訳ですが)、
「いったいあなたは何者です? (中略) よくもずうずうしくやって来たもんだ!(中略) いや、いや、鷹が梟になってしまうなんて、そんなことのあろうはずがない。わたしの公爵はこんな人じゃない!」(二の132)
さらに、「いったいお前は何者だ、どこから飛び出したのだ!わたしの胸は、わたしの胸はこの五年間、悪だくみを底まで感づいていた!(中略) いったいこのめくら梟がどうして入って来たやら、本当にびっくりしてしまった。」(二の133) と続きます。
ここの「わたしの胸は、わたしの胸は」の感情の高まりの繰り返しに注意です。
ちなみに、この鷹ですが、マリヤはニコライのことを「どこか山の向うの方にわたしの鷹が暮らしている、空高く飛びながら陽を仰いでいる・・・」(二の134) 鷹だと思い、「わたしの恋人は、輝くばかり立派な鷹なのだ、公爵なのだ。ところが、お前は梟だ、小商人だ!(中略) お前なんぞはシャートゥシカに (あの人は可愛い人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、頬っぺたをなぐりつけられるくらいの人間だ。(中略) お前の下司びた顔が目に入ると、まるで虫けらが胸へはい込んだような気がした。(中略) わたしの鷹は、あんな貴族の令嬢の前だって、わたしのことを恥ずかしいなどと思やしない!(中略) 白状おし、贋公爵、たくさんもらったんだろう?」(二の134)
上述したことと関連しますが、マリヤのここの「わたしの好きな懐かしい人だ」に注意です。
令嬢とは他にいませんので、リーザかダーシャか、あるいはその両人か、まあ、ダーシャは生まれが貴族ではありませんので、ここはリーザのことを指しているのでしょう。
「ニコライは歯をぎりぎり鳴らし」(二の134) くやしがり、「力任せに女を突き放し」、「女は肩と頭をうんと長椅子に打ちつけ」、要は腕力に訴えるしかなくなったところでニコライの完全敗北、最後はマリヤの「グリーシカ・オトレーピエフ!あーくーま!」の戦慄的な、そして文字通り悪魔的な「高らかな笑いを交えた甲高い声」(これら4つとも二の135) で終わります。
その直後の、「ぬかるみの中を四つん這いに這いまわりながら」(二の140) 水たまりの中に浮かぶ札を捜す懲役人フェージカの地獄絵図のような話は残念ながら割愛して、やりましたね、マリヤさん、完膚無きまでにニコライをやっつけましたね、全篇を通してニコライをこれだけボコボコに打ちのめしたのは、マリヤさん、あなただけです、お見事!
ところでマリヤさん、鷹は「輝くばかり立派」なのはわかりましたが、あなたの言われる「梟」って、いったいこれはなんですか?
梟と言いますと、我が国では、縁起物として幸福を招くようないいイメージがあるのですが、ドストエフスキーが、まあ、ここは適当に梟でいいや、そのあたりにいる鳥でいいやと書いたとは到底思えません (もし仮にですよ、仮に適当に書いていたとしたら、これだけ梟を繰り返しません) ので、この梟っていったいなんなのですか?
たしか、ヨーロッパでは「森の賢者」でしたよね?やっぱりいいイメージだな。
これは、あれですか、梟は餌となるネズミや小鳥がたくさんいる、つまりはお前 (ニコライ) は餌であるそのあたりの「有象無象」をさかんに食い物にしているけれども、お前なんかは「シャートゥシカに、頬っぺたをなぐりつけられるくらいの人間」で、「輝くばかり立派な鷹」にいずれはとって食われるんだ、くらいの意味ですか?
違うな、そんな単純なことではないだろう、おそらく。
真夜中に実は夫人である、そうなんです!マリヤはなんと実はニコライの妻なのですよね、そこへ夜も更けてから、まるでお忍びみたいにやって来たから、夜行性の梟なのかな?
うん、その方が可能性としては高いな、だから、輝くばかりの鷹は「空高く飛びながら陽を仰いでいる」、つまりは日中飛んでいる訳で、ドストエフスキーは鷹と梟を対比させる手法で、その違いを際立たせているのでしょうか。
だから、お前なんか、昼間は堂々とできない「下司びた顔をしためくら梟」であると。
ニコライは梟か、かなり強烈だな、この一言は。
2024年3月6日
和田 健
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