いよいよ始めます、アカーキイ・アカーキエウィッチの着古した外套!
皆様、こんにちは。
以前、このサイトにも、このことは一度書きましたが、ニコライ・ゴーゴリの「外套」(1842年出版) の主人公であるアカーキイ・アカーキエウィッチの外套、これは、新調される前のすり切れた古い外套のことなのですが、この外套を抽象画で描くということが、僕の長年にわたる絵画の目標の一つなのです。
今、手元に3種類の「外套」のテキストがありますが、最初に読んだ岩波文庫版の最後に、「2004年8月8日読了」と書いてありますので、それからもう19年も経っているのですね。
その間、いくどか原作は読みましたが、ちょうど今、そのタイミングが、本人の思い及ばぬところで、ついに来たようです!
この本人の与り知らないところで、そのタイミングが来るということが、実に面白い?ところなのですが。
これ以上、引き伸ばすと、こういう物事は、そのまま立ち消えになってしまいますので、ここで思い切って小説の中に飛び込んで描いてみます。
まずは、支持体はどうしよう、紙でいくか、キャンバスでいくか、おそらく紙だろうな。
画材はどうしよう、水彩やグワッシュ系でいくか、アクリル系でがっといくか、がっといかないだろう、だってボロボロの外套だぞ。
はたして、シリーズものになるか、一点ものになるか、わからない、それは描いてみなければわからない。
と、こうやって考えていても、絵画は常になまもので、いつもこちらの構想通りにはさせてくれないから、とにかく描き出してみよう。
そうすれば、今度は絵が絵を導いてくれるからな。
絵画の実際のスタートは、ややフライング気味に、これは経験から学んだ鉄則です。
とりあえず、本文をもう一度よく読んで、改めて外套のイメージをふくらませてからだな。
これは、僕にとって(そうです、あくまで僕個人にとってです)、長年の課題であり続けただけに、非常に大きな仕事になります。
さあ、森の中に住む僕に、山の神である狼(大きな仕事)が来たぞー!
(というのは、おそらく、意味が全く通じないだろうな)
2023年9月18日
和田 健
その後、本文を2回読み返しました。
今回、改めて読んでみて、このゴーゴリ(1809-1852) という作家は天才だな。
その天才性について、これまできちんと認識してこなかったことは、実にうかつでした。
今回の絵画の制作と並行して、このゴーゴリの天才性について、徹底して研究してみよう。
よく世間では言われますよね、この芸術作品には現代に通じるものがあるとか、今日的であるとか。
でも、この「外套」は、そんなものではないでしょう、もうこれは今日そのものです、まさしく、今ですね。
これは、改めて言うまでもなくすごいことです、出版されてすでに181年も経っているのですから。
具体的な例として、例えば、アカーキイ・アカーキエウィッチが、役所でいじめられますよね、二通りのやり方で。
これは今、日本の小中学校で、現に行われているいじめとあまりにも酷似していると言いますか、それそのものですよね。
それから、2回繰り返される「わたしをそっとして置いてください、なぜ、あなた方はわたしをいじめるのですか?」(児島宏子訳、未知谷版、p.14、以下同じ) の台詞。
「心ゆくまで清書を仕上げると、彼は明日の日を空想し、微笑みながら就寝します。<明日、神様はどんな清書を持ってきて下さるのかな?>」(p.26) ここのところ。
この物語は、あれですよね、ボロを着ていても、このまま外套を新調することにさえならなければ、ゴーゴリが言うところの「そればかりか誰に助言するでもなく誰からも助言されないような孤独な人にさえ降りかかってくるさまざまな不幸がなかったならば」(p.26)、彼の穏やかな生活は続き、たとえ他人からなんと言われようとも、彼は幸せだった訳ですよね。
つまり、ボロボロだったけれども、心の中は温かかった日々の外套を、僕はこれから描くことになる訳だ。
う〜ん、これ、古い方の外套を主人公にして読むと、やっぱり、このゴーゴリという芸術家は天才だな。
帰宅したアカーキイ・アカーキエウィッチが、新調した外套をぬぎ、大事そうに壁にかけ、もう一度見とれ、見比べるために古い外套を取り出した時、
「彼はそれをちらりと見て、自分でも笑ってしまいました。それほどまでに違いは大きかったのです。」(p.76)
ここのところ、それまでは昔からの大切な仲間であったはずの古い外套なのに、新しいものを所有したとたんに、笑ってしまうという人間の心理のここのところ。
さらに言えば、この小説の一番おそろしいところは、それまでは清書がまるで結婚相手のようであったアカーキイ・アカーキエウィッチが、外套を新調するほかないと観念した時から、今度は、未来の外套への物思いが心を一杯にし、清書にとって変わる、ここのところにあるのではないでしょうか?
そのことが、「彼はなぜか生き生きとして、自分の目的を力強く持っている人のように、性格さえも強くなりました。彼の顔つきや行為からも自然に疑いや優柔不断さが、要するに、すべての動揺しがちで煮え切らない特徴が消えたのです。」(p.62) につながるように思います。
そして、最後、亡くなった彼のわずかな所持品の中に、このボロボロの着古した外套は残される。
つまり、新調した外套は、強奪されたけれども、すり切れて糸目の見える方は、遺品の中に、取り残されたのですね。
すごいですね、この天才のあり方が、絵画の世界で言うと、すごくゴッホの天才のあり方に似ている。
直球勝負なところ、実に似ている。
2023年9月20日
和田 健
その後、もう一度、平井肇訳の岩波文庫版でも、改めて読んでみました。
ただし、この版の字のサイズは、僕には、もうちょっと厳しいですので、同じ平井氏訳の青空文庫版がありましたので、そちらの方を印刷した上で (A4サイズに、全部で32ページになりましたが)、読みました。
このやり方ですと、字の大きなテキストが、いつでも手元にありますので、大変助かります。
やっぱり、テキストを少しでも手から離すと、このような種類の制作はダメですね。
つかまえようと思っても、なにかするりと逃げていってしまいます。
その後、理解をさらに深めたいと思い、「ニコライ・ゴーゴリ」(ウラジーミル・ナボコフ著、青山太郎訳、平凡社ライブラリー) を、現在読んでいますが、お伝えしたいことがたくさんあります。
どこまでもテキストに向かい、小説を読み解くという純粋な行為を、ひたすら続ける大家ナボコフから、物語の前後の文章の温度差、いわば文章のもつ体温の差で読むということを、今回この本から僕は、個人的に学びとりました。
そうか、そういう風に読めばよいのか!
それであれば、「ドン・キホーテ」の後篇第六十九章のアルティシドーラの復活は、前後の関係から極めておかしい、体温の差を明確に感じる!
そこから、僕は、この第六十九章が、もし新約聖書のラザロの復活への仄かしであるとしたら、セルバンテスが復活させたかったものとは、一体なにであったのであろうか?ということを考えています。
今のところ、その候補は3つくらいあるように思います。
それから、これは脱線になりますので、あまり深入りはしませんが、アルティシドーラが出ましたので、ついでながら、この公爵夫妻というのは、実に悪いですね。
夫も悪ければ、妻も悪い、妻も悪ければ、夫も悪い、二人そろってなお悪い!
セルバンテスが、この公爵夫妻を長々と (そうなんです、実に長々とです) 物語に登場させたのは、作品の規模、大仕掛け、スケール、まあ、そのようなものを、さらに一段階引き上げたかったがためなのではないでしょうか?
そのためには、金と暇が要る、よって、公爵夫妻の登場。
ところで、ご紹介しました「ニコライ・ゴーゴリ」の中で、ナボコフが「外套」のラストの謎解きをしているのですが、言われてみれば、子どもの頃のなぞなぞくらいに簡単なことなのですが、僕は、その前の「どこかの民家から飛び出してきた何でもない一頭の、よく肥った子豚に突き倒され」(平井肇訳) た巡査の方に目が行き、それは、どうしても目が行きますよね、巡査が子豚に突き倒されるシチュエーションって、あまりに面白いですから。
それで、ナボコフが言うように「「見当違いな」細部の奔流があまりに強力な催眠効果を発揮するので」(「ニコライ・ゴーゴリ、p.223、以下同じです)、僕は、ものの見事につまずいて、してやられました。
つまり、僕は、気づきませんでした、わかっていませんでした、これまで「外套」のこのラストを。
これって、ゴーゴリの専門家や研究者の方は、そんな調査は、とっくにもう終わっているのでしょうけれども、例えば、学生100人くらいにお願いして「外套」を読んでもらい、なにしろ、決して長いお話ではないですし、ラストの部分に気がついたかどうかのアンケートを実施したら、いったい、どのくらいのパーセンテージでわかっていたのでしょうか?
それによって、このラストの解読度のようなものがある程度、一般的な形で、可視化できるように思います。
調査結果が、具体的になんパーセントくらいであったのかを、是非とも知りたいです。
さらに、ナボコフの言う「かくて物語は完き円を描く。(ここまでは、僕にもわかります) そしてこの円は悪循環の円である。なぜならあらゆる円は、たとえそれがリンゴのふりをしようと、惑星のふりをしようと、あるいは人間の顔に見せかけようと、悪循環であることに変りはないからである。」(p.223)
おそらく、ここのところですね、非常に肝心なところは、ここが肝です。
つまりは、これは、あれでしょうか、昨夜は、中秋の名月で話題になっていましたが、はるかかなたの全然関係ないある星 (A) が輝いている中で、全くそれを知らない僕 (B) が、普通に地面を歩いているというようなことなのでしょうか?
つまり、空に A があって、斜め下に矢印、地上に B が歩いている、右か左に矢印。
でも、それだと円にはならないな、その B の右だか左だかの矢印を、A に返せれば円になる。
よく考えてみます。
セルバンテスは、実は音楽ではなく絵画でしたが、ゴーゴリは音楽ですね、奔流する音楽ですね。
同時に異次元のカメラワークでもあり、ドローン撮影を観る時のような、現在の最先端技術を思いどおりに使いこなしてくる感覚がある。
つまりは、宇宙であると思います。
作品の中に、これだけ奔流する宇宙を自在に盛り込めるというのは、およそ考えられないレベルの天才であると、僕ははっきりと感じます。
絵画でもあるのです (実際に、ゴーゴリは、サンクトペテルブルクで、週に3回「美術アカデミーへ絵を習いに出掛けます」(p.49)) が、眼がカメラですね、カメラ。
眼がと言うより、彼の脳が、最先端技術の撮影を可能にしている感じが強くします。
2023年9月30日
和田 健
上記の「ニコライ・ゴーゴリ」の第Ⅲ章「われらがミスター・チチコフ」で、ナボコフが、『死せる魂』の中のプリューシキンの庭園の描写を引用する (p.135, 136, 137) のですが、つまり、ロシアで生まれたナボコフが、ゴーゴリの原文を母国語として読み、英訳したものを、青山氏が、さらに日本語に訳されているのですが、この庭園の描写には、ちょっと度肝を抜かれました。
僕は個人的に、この文章を「画家の眼の聖書」と名づけました。
まあ、それは、個人的な呼び名にしても、この部分を序文にぜひとも使わせていただき、その後、線や色、形などの一般的な説明に入る絵画の本を作ったら、どんなに素晴らしいでしょうか!
昨日、一字一字大切に写しながら、大きな文字に変換しておきましたので、いつか、皆様にご紹介したいです。
ゴーゴリの眼が、ちょっとあり得ない展開をしますから。
やっぱり、ゴーゴリは、ゴッホに通じる。
2023年10月3日
和田 健
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