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今朝の一枚

Posted in Essay 2012-2021 with tags , , , , , , , on 24 April 2021 by kenwada

Walter Rosenblum, Girl on a Swing, Pitt Street, 1938, gelatin silver print, 5 3/4 by 7 1/3 inches.
©NAOMI ROSENBLUM

素晴らしいですね。美しい!
朝から思わずハッとするような一枚の写真に出会うと、何か一日の始まりに得をしたような、気持ちのよい一日の始まりになります。
Pitt Street というのは、マンハッタンの Lower East Side にある通りです。
後ろに見えるのは、マンハッタン橋で、おそらくエスケープへの暗示でしょう。
あるいは、少し深読みすれば、移民、すなわち流入してくる逆方向のベクトルの暗示もあり得るかと思います。
いずれに致しましても、少しガチンと硬質と言いますか、構図的に橋が面積を取りすぎている感じはしますが、その分重量感が濃厚に出ています。人生に立ちはだかる巨大な壁、建造物、その重苦しさや威圧感。
それとは対照的なまだあどけない、いたいけな感じの口を開けている主人公の女の子は、解放感の象徴で、このブランコの柵の中から、さらには自分が生まれ育った環境から外に飛び出していきたいという対比を強く感じます。
ポイントは、ほとんど水平方向までこいでしまっているブランコで、女の子の足先が結ぶ画面中央上の三角形は美しい!ここで、頂点を切ってきているのがポイントです。
Henri Cartier-Bresson、フランス、1908-2004 なら、女の子のブランコが下の柵と平行になるまで狙ってくるかもしれない。でもそうすると、三角形がきつくなって、橋が下から上に向かって圧力がかけられて、時計と反対回りにひっくり返るな。
試しに定規を当ててみてください。
つまり、このたるみ、ズレのようなものがよいのであって、これがそのまますぐに絵画に活かせるのです。
個人的に僕が、「すっぽ抜けている」と呼んでいるあの感覚です。「キチキチ詰めているんじゃない、絵画はピキッとしているとつまらない」と、自分に対していつも言っているあの感覚です。
この女の子のブランコを一本の横線、一つの描画としてとらえれば、すなわち、書道の漢字にもっていけますし、それはそのまま Franz Kline、アメリカ、1910-1962 の世界へと入って行きます。
でもそれでとらえられるのであれば、別に書道でなくても、それこそ後ろのマンハッタン橋でもよいし、東京タワーでも何でもよい訳です。
また、こうした人工的建築物からインスピレーションしているのであれば、自然にはかないません。
特に森の樹木にはかないません。全く考えられないところから、全く考えられない方向へと線を引いてきますから。
自然は厳しい反面、すべてを受け入れますから。受容です、自由なのです。
そして冷静に考えて、こうした写真では、顔真卿の「祭姪文稿」には勝てません。何故なら、丸みがとれないからです。
こうした写真は、大局的にとらえてすべて oblique(斜線)で勝負しています。究極的に斜線の勝負です。いかにして斜線に品をもたせるか、どのようにして品のよい斜線を生み出すか、そこに苦心しています。僕はそう思います。
それからもう一つ、写真ではミステイクがとれません。「ミステイクがとれない」と言うのは、日本語としては変ですが、顔真卿がやるあの丸書いてグルグルペッ!です。日本では井上有一さんが、作品にとり入れています。あれができない。
では逆に何ができるかと言うと、一瞬を切り取ることができる、それこそ、ブレッソンの「決定的瞬間」です。これは絵画や書道ではできない。
おそらく勝手な推測になりますが、この写真は写真家が何枚か撮った中から一枚選んだのではないでしょうか?
もしそうであれば、少し女の子の足先にゆるみがあることで、三角形が安定し、上から下向きの縦軸を自然と意識することができる、すなわち女の子はフワッと宙に浮いているけれども、重力が感じられる、まさにこうした点が、優れた写真を観て実に絵画の勉強になるところなのです。

ところで、僕は昔の写真を観ると決まってすぐに、「この人は今何才くらいかな?生きているかな?」とほぼ条件反射的に考えてしまうのですが、これは僕だけでしょうか。例えば、この写真の場合ですと、仮にこの女の子が10才だとすると、今年93才になります。大変残念ながら、もう亡くなっているかもしれません。でもお孫さんが生きていて、このブランコに乗っているお転婆な女の子は、私の祖母です、祖母はこの後、小さい頃からの望みを遂げて実際に、Pitt Street から外の世界へと出て行き・・・。

ともかく、写真は素晴らしいですね。
僕は、フランス時代にパリの本屋で偶然 Robert Doisneau、フランス、1912-1994 の本を手にした時から、本格的に写真の勉強を始めました。
通っていたアカデミーが唯一お休みの日曜日に、ドアノーのその本を手に、パリの写真の撮影の現場巡りをすることが楽しみで、一時期それに熱中していました。東京ですと、そんなことはまず考えられませんが、パリだと、当時の写真の現場が今もそのまま残っていたりして、「ここだ、ここだ!」と言いながら、本の写真と見比べたりして楽しかったな。
ドアノーのパリで開催された個展にも行きました。ちょうど日本のテレビ番組の収録に、俳優の小林薫さんがいらしていて、その収録の現場に鉢合わせしました。取材が終わると、仲間のスタッフの方?と三人で、すぐに外に出ていかれたことを覚えています。(ところで何故ドワノーではなく、ドアノーと表記するのだろう?)
Henri Cartier-Bresson は、Alberto Giacometti とのパリで行われたコラボ展に行きました。彼のデッサン(確か fusain、木炭画だったと思う)があまりに上手くて非常に印象に残りました。
帰国間際に、コペンハーゲンのデンマーク国立美術図書館(この美術書関連専門の図書館は本当にすごかった!)で、Gerhard Richter、ドイツ、1932- の Atlas に出会い、即、市内観光はやめにして、開館時間から閉館時間まで二日間通って観ていました。確か、二泊三日の日程だったな。最後の日に、図書館を出る時に、「ああ、あと一日あればなあ」と思ったのをよく覚えていますから。
その後、高かったけれどやっぱりどうしても欲しくて購入して、一時期この本ばかり観て様々なことを学びました。

帰国後は、主に2013年に写真を一度きちんとまとめて研究しておこうと思い、以下の作家の作品を中心に徹底して観ながら勉強しました。
Eugène Atget、フランス、1857-1927
Lewis W. Hine、アメリカ、1874-1940
Andre Kertesz、ハンガリー、アメリカ、1894-1985
Dorothea Lange、アメリカ、1895-1965
Helen Levitt、アメリカ、1913-2009
Diane Arbus、アメリカ、1923-1971
Robert Frank、スイス、アメリカ、1924-2019
Garry Winogrand、アメリカ、1928-1984
Lee Friedlander、アメリカ、1934-
Josef Koudelka、チェコ、1938-

ニューヨークに行くようになってからは、ギャラリーで直接その作品を観た、
Ellsworth Kelly、アメリカ、1923-2015、の絵画はもちろん当然なのですが、あまりに美しい白と黒のコントラストの写真、
Brend and Hilla Becher、ドイツ、1931-2007、1934-2015、の作品に強い感銘を受けました。

当たり前のことですが、写真を学ぶことは、構図や明暗をとらえる観点から、絵画の勉強に直結します。
特に白黒の写真において、そのままダイレクトに役立ちますので、絵画を制作する人には、同時に写真を研究する人がとても多いのです。

2021年4月24日
和田 健

母 5

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 9 February 2021 by kenwada

母 5
母の写経「佛説摩訶般若波羅蜜多心経」
2010年5月

My Mother 5
My Mother’s Sutra Copy
May 2010

Ma Mère 5
Le Sutra de Ma Mère
mai 2010

Sonoko WADA, 2010, India ink on Japanese paper, 24.2×33.0 cm

This is a sutra copy written by my mother on May 24, 2010.
My mother always copied sutras with Indian ink and an ink brush every morning after chanting sutras and housework.
Every morning!
This is a Buddhist training of copying Buddhist scriptures to another paper.
Then, when 50 or 100 sutras used Japanese calligraphy were collected, she took them to the temple of the WADA family in Takao, Tokyo.
And the chief priest of the temple burned them as a Buddhist tradition.
Then, the next day, my mother would start copying sutras from the first one again.
My mother always finished one piece a day.
And after another 50 or 100 days, my mother took them to the temple.
She continued to copy sutras every day until she collapsed in February 2011 due to subarachnoid hemorrhage.
Every day!
It’s been exactly 10 years since then this month.
She now has dementia, but she is well and lives calmly in a wheelchair with my family at home.
She is 86 years old this year.
Although my mother didn’t say anything to me about hand-copying sutras, she taught me a lot of important spirits and hearts that I need as an artist.

February 9. 2021
Ken WADA

母 4

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 1 May 2020 by kenwada

母 4
松戸市常盤平団地の自宅前の集会所にて
1966年9月
撮影者: 父
母、姉と僕

My Mother 4
September 1966
Photographer: my father
my mother, my sister and me

Ma Mère 4
septembre 1966
Photographe: mon père
ma mère, ma sœur et moi

僕にとっては何よりも大切な写真です。
あの頃の母のすべてがこの一枚の写真に凝縮されているように思います。

姉 2

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 27 April 2020 by kenwada

姉 2
松戸市常盤平団地の自宅のベランダにて
1970年6月
撮影者: 母
姉と僕

My Sister 2
June 1970
Photographer: my mother
my sister and me

Ma Sœur 2
juin 1970
Photographe: ma mère
ma sœur et moi

姉、松戸市立常盤平中学校1年生。
僕、松戸市立常盤平第2小学校1年生。
朝の登校前、7時半頃だと思いますが、この時間には父はもう出勤していましたので、撮影者は間違いなく母です。
この小さなベランダにはたくさんの思い出があります。
カナブンをとってきて足に縫い糸を結んでベランダから放して遊びました。これは当時の男の子たちがごく普通にやっていた遊びでした。また春先になると千駄堀の畑まで歩いて行き、よくカエルやどじょう、ザリガニをつかまえて遊びました。僕はざるでどじょうをすくうのがうまかったですね。あの頃の子どもたちにとって憧れはマッカチと言っていましたが、ザリガニの非常に大きいやつでこれはさきいかを持って行って紐で吊るして釣らないといけない。ザリガニを160匹だかとってこのベランダに持って帰り、母を困らせました。当時はお百姓さんも大らかなもので田植え前の田んぼに子どもたちを入れてくれました。一度どじょうをすくっていてあまりに夢中になって片方の靴を畑の泥土の中に失くしてしまい、裸足で帰ったこともありました。写真の後ろの物置にカブトムシの幼虫を越冬させておいて、春先に羽化させたり、本棚の引き出しにカマキリの卵を入れておいて、翌年300匹だか床にぞろぞろ這い出してきて、うあ〜、カマキリの赤ちゃんて生まれた時からもうカマキリの形をしている〜、という僕の感動とは別に、母を困らせました。そうですね、カブトムシはあの頃の男の子にとって、もう何て言うか黄金の宝物でしたね。カブトムシ対ノコギリクワガタの千秋楽結びの一番とかやって盛り上がっていました。これにはちょっと組み合わせるときにコツが要るんです。まともにやるとカブトムシが圧勝しますから。相撲と言えば、全盛期に盲腸炎で突然亡くなった横綱玉の海関の大ファンで自分で母からもらった白い布に墨で頑張れ、玉の海と書いて応援旗を作り、テレビの前で熱心に振っていました。これには中学校から帰って来た姉も笑っていたな。小学校2年生の時、横綱が亡くなって、その翌日からピタッと相撲を観なくなりました。そうそうそれから、大切に飼っていた僕の亀がケースから逃げ出しこの4階のベランダから落ちてしまい、探しに行ったこともありました。ちゃんと無事に見つかって亀って丈夫だなあと感心したり、ベランダの鳥籠で飼っていた十姉妹が増えすぎちゃって大変なことになり、これも母を困らせました。
僕はとにかく手がつけられないほど腕白で、別に何か悪いことをする訳ではないのですが、毎日外を走り回っていないと気の済まない子でした。小学校から帰ると、ただいま〜、行ってきま〜す、と玄関にランドセルを放り出し、そのまま家には一歩も入らずに、暗くなるまで外でたくさんの友だちと遊びました。春・夏・秋は主に野球、冬はサッカー、小学校時代を通じて人の3倍は遊んだなという妙な自負があります。勉強なんてのは体が弱かったり、何か事情があったりして家にいなければいけない子がやるもんだと、かなり長い間真剣に思っていました。おやつなんか食べる子もどうかしている、おやつを食べる時間がもったいない、その分遊べなくなるじゃないかと思っていました。毎日走り回っていたので長距離走が速くなり、小学校3,4年生の時、校内の学年のマラソン大会で確か開校以来初の2連覇をしました。当時は1学年8学級もありましたので、すごくうれしかったです。休み時間に学校の図書館でオリンピックの本を見て、ザトペック選手の写真を見たりしてモチベーションを高め、さらに走っていました。子どもの頃に思う存分自然に触れ、野原を駆け回ったことが僕の絵にどのような影響を与えているのかについてはわかりませんが、あの頃は、自分がまさか将来、毎日森の中のアトリエで絵を描いたり本を読んだりして暮らすようになるとは、人間は勉強以外では絶対に向上できないと考えるようになるとは、夢にも思いませんでした。人間、得意なことと好きなことの区別はなかなかできないものです。子どもはもちろんですが、大人になってからもこれはかなり難しいことなのではないでしょうか。
「姉」というタイトルなのに、自分のことばかり長々と書いて失礼いたしました。
この写真からちょうど50年が経ちましたね。
姉はその後、娘時代に洗礼を受けクリスチャンになり、子どもたちの明るい優しい母親になりました。子どもたちも皆独立し、子育ても終わりました。
姉とは今日までもめ事や喧嘩の類は一切なく、何か困ったことがあれば話し合い協力して乗り越えながら何とかこれまで生きてきました。
姉には本当に感謝しています。

後日記
僕の人生においても、そしておそらくは誰の人生においてもそうだと思いますが、この後、いろいろとつらいことや悲しいこと、挫折や苦しい病気のこと、さらには地獄の底のような大きな絶望が続きました。当たり前のことですが、人生は子どもの頃に野原を駆け回っていたようにはいかない。でもあの頃はそんなことはわからなかったな、このままずっと走り続けて行けるような気がしていた。上述のような小さなエピソードならあと50や100は書けると思いますが、何故か重要だなと思うことをあと2つだけ、僕は子どものころ授業中クラスのみんなを笑わせることがとても好きな子どもだったということ、小学校6年間ほとんど毎時間これに熱中していました。あともう一つは非常に神経質な子どもだったということ、これは自分で自分は神経質だなあと子どもながらによく感じていました。

姉 1

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 25 April 2020 by kenwada

姉 1
姉の春休みに松戸市常盤平団地の自宅前の芝生にて
1967年3月
撮影者: 母
姉と僕

My Sister 1
March 1967
Photographer: my mother
my sister and me

Ma Sœur 1
mars 1967
Photographe: ma mère
ma sœur et moi

姉9才、僕3才。
姉はとにかく真面目でおとなしい人でした。
小学校から帰ると真っ先に宿題を済ませ、その後は本を読んでいました。
夕方になると毎日決まってピアノの練習をかなりの長時間熱心にしていました。
そんな素晴らしい6才上の姉に対して、僕にはどうやってコミュニケーションをとればよいのかわからない、何か気恥ずかしさや照れ臭さのようなものがあったのだと思います。
姉が練習している時、ピアノの隅っこの鍵盤をよく思いっきりボーンとたたいたり、姉が結んだ髪の毛をしょっちゅう後ろにぐっと引っ張ったりしていましたが、優しい姉はついに一度も怒りませんでした。
僕にとっては今日に至るまで、いつでも信頼できる敬愛する大切な姉ですが、こんな弟では話し相手にもならないし、姉にとってはさぞかし物足りなかっただろうと思います。
お話にならないと思ったのか、兄弟喧嘩らしい喧嘩もほとんどといってよいほどありませんでした。

母 3

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 20 April 2020 by kenwada

母 3
松戸市常盤平団地の自宅近くの熊野神社にて
1963年6月23日
撮影者: 父
母、姉と僕

My Mother 3
June 23, 1963
Photographer: my father
my mother, my sister and me

Ma Mère 3
23 juin 1963
Photographe: mon père
ma mère, ma sœur et moi

Mother

My first memory about you was when I was two or three.
I looked up at you in front of the closet.

You always wore your handmade clothes.
You always put on your makeup with cheap cream.
You always tied your hair with a rubber band.

You made homemade food for my sister and me every day,
so she and I never ate frozen food.

You always ate a little.
I was a child, but I knew well you would eat a little for your children.

We lived in a small housing complex, but there was nothing wrong with it for me.
For a long time, there was no vacuum cleaner in our house, but the house was always clean and tidy.

Everyone was still asleep on Sunday morning, but you baked me a fried egg.
I ate it and ran to the calligraphy class.

It is my tiny life’s pride that I was raised by a person like you.

あなたについての最初の記憶は僕が2才か3才の時だった。
僕は押し入れの前であなたを見上げていた。

あなたはいつも手作りの服を着ていた。
あなたはいつも100円のクリームでお化粧をしていた。
あなたはいつも輪ゴムで髪を縛っていた。

あなたは毎日姉と僕に手作りの料理を作ってくれた、
それで姉も僕も冷凍食品を一度も食べたことがなかった。

あなたはいつも少ししか食べなかった。
子供だったけれど、僕にはあなたが少ししか食べないのは子供たちのためなのだとよくわかった。

みんなで小さな団地に住んでいたけれど、それで僕には何の不自由もなかった。
長い間、家には掃除機がなかったけれども、家の中はいつも清潔できれいだった。

日曜日の朝まだみんなは眠っていたけれども、あなたは僕に卵を焼いてくれた。
僕はそれを食べて書道教室に駆け出して行った。

あなたのような人間に育てられたことは僕の小さな生涯の誇りです。

母 2

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 19 April 2020 by kenwada

母 2
河口湖遠足、千代田区立今川中学校1年生の時
1948年秋
撮影者: 不明
向かって右から左へ: 母、お友だちの M.I. さん

My Mother 2
Autumn 1948
Photographer: unknown
from right to left: my mother, classmate

Ma Mère 2
Automne 1948
Photographe: inconnu
de droite à gauche: ma mère, camarade de classe

僕の母は、日本橋で生まれて、神田で育ちました。
戦時中は埼玉県行田市の東福寺に集団疎開し、その後家族で長野県長野市川中島領家の親戚を頼って疎開し終戦をそこで迎えました。
1945年3月10日の東京大空襲で神田の家は全焼し、
焼け跡に母の父が6畳二間のバラック小屋を建て家族で生活しました。
お皿やお茶碗は花街の焼け跡を母親と掘って見つけました。
中学校を卒業すると、母は御茶ノ水にあった専門学校に進学し午前は英語を午後はタイプを2年間学びました。
どちらも成績は一番で在学中から校長先生に少し仕事を回してもらっていました。
卒業後はすぐに東京駅の丸ビルの貿易会社で英文タイピストとして働きました。
もらったお給料で夜はYMCAで英語を、アテネ・フランセでフランス語を学びました。また会社内のサークルでドイツ語も学びました。
回ってきた原稿をそのまま(abcで)打つのではなく、意味がわかるようになりたかったから、とよく言っていました。
日本橋の商事会社に英文タイピストとして移った後、21才で5才上の父と職場結婚し家庭に入り、牛乳配達や眼科の受付、保育園のお手伝い、
特に一番長くやっていた和裁の先生などの内職をしながら、姉と僕の二人の子どもに無限の愛情を注いで、懸命になって育ててくれました。
今は母は体調を崩し、いろいろなことができなくなりましたが、僕の小さな人生において、母の子どもに生まれたことは最大の幸運であり幸福です。

母 1

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , , , , , on 18 April 2020 by kenwada

母 1
懐かしい代田の母屋の縁側で
1964年頃
撮影者: 父
向かって右から左へ: 母、僕、祖母、二人のおじ

My Mother 1
c. 1964
Photographer: my father
from right to left: my mother, me, my grandmother, my two uncles

Ma Mère 1
c. 1964
Photographe: mon père
de droite à gauche: ma mère, moi, ma grand-mère, mes deux oncles

無題 No.43

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , on 28 October 2015 by kenwada

無題 No.43、2015年10月
撮影地:浅間家畜育成牧場
北軽井沢 作品 No.236
7枚の写真

Untitled No.43, October 2015
Kitakaruizawa No.236
7 photos

Sans titre N°43, octobre 2015
Kitakaruizawa N°236
7 photos

Untitled No.43 -5

Untitled No.43 -6

Untitled No.43 -8

Untitled No.43 -2

Untitled No.43 -3

Untitled No.43 -4

Untitled No.43 -1

無題 No.42

Posted in Photos 2011-2021 with tags , , , on 25 October 2015 by kenwada

無題 No.42、2015年10月
撮影地:浅間家畜育成牧場
北軽井沢 作品 No.235
7枚の写真

Untitled No.42, October 2015
Kitakaruizawa No.235
7 photos

Sans titre N°42, octobre 2015
Kitakaruizawa N°235
7 photos

Untitled No.42 -1-

Untitled No.42 -4

Untitled No.42 -2

Untitled No.42 -5

Untitled No.42 -3

Untitled No.42 -7

Untitled No.42 -6