Archive for the Essay Category

I finished the series; “After an artist died, the ten blue poems left in the forest”!

Posted in Essay with tags , , , on 13 July 2017 by kenwada

Hello, everyone!
Today I finished the series; “After an artist died, the ten blue poems left in the forest”.
In this series I attempted an impossible combination of the image and inspiration that begins to rise from the original text of the poetry, such as T. S. Eliot and W. B. Yeats, and the oriental base that I repeat Buddhist sutra towards the Buddhist altar every morning.
And I also challenged one attempt to express it in English into a painting rather than in Japanese.
I probably felt that one new expression would be born at the end of this unlikely join.
The initial feeling became convincing when I saw several stray cats which rested to the ancient shrine when I visited Rome in June, 2017.
(Do you know that the ancient shrine; Largo Di Torre Argentina where Julius Caesar was assassinated is now a protection center for stray cats and abandoned cats?)
A new expression born from unlikely combination.
abcde+Buddhist sutra=a new fusion.
A most unexpected idea.
A challenge for that.
The sentence; “Stay hungry. Stay foolish” also appears again here.
An improbable combination of life itself that can be connected by dot and dot.
From a needlewoman to a weightlifting player.
From a weightlifter to a seamstress.

I think personally that through the series, I got the most well is No.2.
And I was convinced that a new expression was born at No.8.
By deepening this 8th expression, I strongly have a hope for my future development.
When you click on the “Watercolours” in the Categories, you can find all works through the series.

Thank you.

July 13, 2017
Ken WADA

皆様、こんにちは。
「ある芸術家が死んだ後、森の中に遺された十編の青い詩」の連作が本日終わりました。
僕はこのシリーズの中でエリオットやイエーツを初めとする英詩原文のテキストから沸き起こるイメージやインスピレーションと、毎朝仏壇に向かってお経を繰り返す自分のもつ東洋的なベースとのありえない組み合わせを、さらにはそれを作品の中に日本語ではなくむしろ英語によって表記するという一つの試みに挑戦しました。
そのあり得ない結合の末に一つの新しい表現が生まれることをたぶんに予感したからです。
その当初の予感は、2017年6月にローマを訪れ古代神殿に憩う野良猫を観た時に確信となりました。
ありえない組み合わせから生まれてくる新しい表現。
abcdeと仏教のお経との融合。
奇想天外。
そのための挑戦。
ここでもまた出現するStay hungry. Stay foolish.
ドツトとドツトでつなぐあり得ない人生自体の組み合わせ。
お針子から重量挙げ選手へと。
重量挙げ選手からお針子へと。

個人的に一番のできだと思うのは2です。
新しい表現が生まれたと確信できたのは8です。
8の表現を深め広げていくことで今後の作品展開に希望を強めています。
Categories の“Watercolours” をクリックしていただくと、シリーズを通して全作品をご覧いただけます。
今後ともよろしくお願い致します。

2017年7月13日
和田 健

 

After an artist died, the ten blue poems left in the forest 2
piece 2 -Preludes 1-
February 2017
Acrylic and pencil on paper
76.3×71.2cm

今年の終わりに

Posted in Essay with tags , , , on 31 December 2016 by kenwada

皆様、こんにちは。
今年も今日で終わりですね。
皆様にとって今年一年はどのような年でありましたか。

今日はこの一年の活動の締めくくりとして、
今年僕の心の血となり肉となった4冊の本を読了順にご紹介します。

このサイトを普段観て下さっている方は、すでにお気づきのように、
文学作品を通して得られる他では得ることのできない滋養分は、
太古の構成要素である自然から受け取る純粋直観の力とともに、
僕の創作活動の大切な源流です。

1. 「ヨセフとその兄弟」
(トーマス・マン、望月市恵、小塩節氏訳、筑摩書房全3巻)
この本については、このサイトのEssay欄にすでに書きましたので、
細かいことは省略します。圧倒的でした。(2016年1月22日読了)

2. PRUFROCK and Other Observations, T. S. Eliot, 1917
テキストには、Harcourt Brace & Company版の
T.S.ELIOT COLLECTED POEMS 1909-1962を使いました。
辞書を引きながら、この詩集に収められている12の詩を一つ一つ
たどたどしく訳してみて(もちろん拙い訳です)、
僕は三つの大切なことを学びました。

一つ目は何と言っても原文に直接触れる楽しさを学んだことです。
詩は可能な限り、直に原文にあたらなければいけませんね。
その極めて肝心なことを教えられました。

二つ目は“モダン”ということです。
僕は初めて“モダン”とは何かということを、
理屈ではなくて、体全体でつかめた気がしました。
どの詩も読みながら体がぞくぞくする程の高揚感があり、
ただひたすらどこまでも美しいのですが、
ここに収められている12の詩の世界をゆっくりと順に旅をしますと、
100年前の1917年は来る2017年よりも明らかにモダンだなと実感します。

三つ目はこの訳出という作業を通して、
詩人の言葉は、小説家の言葉よりも知力の凝縮度が高い、
ということに、今頃になってようやく気づいたことです。
遅きに失した感もありますが、後悔しているのであれば、
ここから詩の世界に親しみ没入していこうと思います。
(2016年7月24日終了)

なお、最後の詩のLa Figlia Che Piangeのanalysisに
Sam Alexanderという方がYale Universityのサイトに出している論文を
使いましたが秀逸でした。
学部生のテキストのようですが、これ一つ読めばどのように詩を
読み解いていけばよいのか基礎が全て身につくと思いました。

3. 続いてWilliam BlakeのSONGS Of INNOCENCE and Of EXPERIENCEに
入りました。
テキストには、Anchor Books, a division of Random House, Inc.版の
The Complete Poetry & Prose of William Blakeと、
Thames & Hudson版の
William Blake THE COMPLETE ILLUMINATED BOOKSの二冊を使いました。
前者のテキストを訳しながら、一つの詩を訳し終わるごとに、
自分の中の絵画的なイメージを高めた後、
後者のテキストにあるBlake自身の絵と照らし合わせるという
まるで小学生が問題集の問題を解いては、
巻末の答を見ながら答え合わせをするような作業を
46詩について繰り返しましたが、これが途中から異様に楽しくなり、
また自分の仕事に向けても大いに役立ったように思います。
やはり詩については、でき得る限り原文にあたらないといけない、
その思いを強くしました。
(2016年12月15日終了)

なお明日元日から、THE MARRIAGE of HEAVEN and HELLに入ります。
楽しみ!

4. 「神曲」(ダンテ、平川祐*¹弘氏訳、河出書房新社)
そもそもの始まりはイタリア滞在中、
フィレンツェのSanta Maria del Fioreの大聖堂内部に
Domenico di Michelinoの1465年の作品、Dante ed i tre regniが
飾られてあるのを観て、しばらくその場から動けなくなりました。
そして、これは帰国したらすぐにダンテの「神曲」にとりかかるぞ、
何が何でも読むぞという、啓示のような力を受け取りました。
ヘッセの言う「雄大な中世の精神の精髄として極致として文学の中に、
ダンテの「神曲」が生き続けている。イタリアと学者層のほかでは、
もはや少数の人にしか真剣に読まれていないが、
絶えず深い感化を放射しており、人類のもつ数冊の、
千年にわたる偉大な書物の一つである」*²この本に対して、
まだ何か言うことはできませんが、僕は地獄篇→煉獄篇→天国篇と
物語の進行につれ面白みが増してきました。
すなわち僕は天国篇が一番面白かったということです。
最後の全体の第百歌、天国篇の第三十三歌を何と表現したらよいのでしょう。
いよいよキリストそのものを歌ってくるだろうという
僕の稚拙な期待は実に見事にはずれ、思わずう〜んと唸ってしまいました。
関連本として、正宗白鳥の「ダンテについて」
(正宗白鳥集、現代日本文學大系16、筑摩書房)と、
エリオットの「ダンテ」(エリオット全集4、詩人論、中央公論社)
を読みましたが、エリオットはこの本の中で第百歌について、
「この「天国篇」の終りは、私の考えでは、詩が曾て達し得た、
又これからも達し得る最高の境地」であり、
「これ程我々の日常の現実から遠ざかったことを、
このように具体的に表現することに成功しているものはない。
・・・(中略)・・・人間の理解を超えたことを、
こうして視覚的な影像で刻々捉えて行くことが出来る巨匠の手腕に接して、
我々はただ畏怖の念に打たれるばかりである。」*³と述べています。
おそらくは一生繰り返して、そしてこれからは自分の好きな箇所や歌を
拾い出しながら読み続けていくことになる気がします。
(2016年12月27日読了)

*¹ 正しくは示す偏に右の旧字体です。
*²「世界文学をどう読むか」(ヘルマン・ヘッセ、高橋健二氏訳より抜粋)
*³  P354, p376, 377より

それでは、来る2017年が皆様にとってよいお年となりますよう!
来年もどうぞよろしくお願い致します。
(2016年12月31日記)

後日記:
これを書いた後で電車に乗っていて、
手元の訳した資料からふと目をあげた時に、
突然気づいたのですが(思わずわかった!と声を出しそうになった)、
T.S.EliotのRhapsody on a Windy Nightの中の難解な箇所である
“Regard the moon,
La lune ne garde aucune rancune,
・・・(中略)・・・
The moon has lost her memory.
は、ダンテの「神曲」煉獄篇、天国篇との関連から
読み解けるのではないでしょうか。
Eliotがこの詩集を出版したのが1917年で、
上記「ダンテ」を書いたのは1929年ですが、
「神曲」をはじめとするダンテの著作については、
膨大な勉強・研究が継続されており、
これは要するに太陽の妹*¹である月が何の恨みも抱いていない、
月は記憶を失った、
いうのは月が煉獄において魂を浄化する過程でレテ川を渡り、
過去の罪業の記憶を消し、現在は天国にいる、
天国篇の物語の中に位置しているということなのではないでしょうか。
そうであれば、Rhapsody on a Windy Nightを以前シリーズで
描いていたものが、この箇所でピタッと止まったままでいましたが
月の姿を描けると思います。
それからこの詩の中で突然現れる唯一のフランス語行の挿入は、
以下の3行をはじめとして女性形のsheやherでもっていきたいため
という理解でよいのでしょうか。
月は女性であるということを強調したいがための、太陽の妹であるから。
しかしこれ程の知の塊が、そんな単純なことだけのためにするでしょうか。
3つの韻は美しいですが、これがフランス語行挿入の理由とも思えません。
教えを請う人もいません。疑問が残ります。

*¹ 上記「神曲」煉獄篇第二十三歌、p211より
数日前、これの」
といって私は太陽を指さした、「これの
妹が円く見えた時のことだ。
(2017年1月2日記)

イタリア その2

Posted in Essay with tags , , , , , , on 6 December 2016 by kenwada

今回のイタリア滞在では、展覧会のOpeningの前後に、
ボローニャ、フィレンツェ、ペルージャ、ヴェネツィア、ベルガモと回り、
数々の貴重な美術品、建築物、風景を観ることができました。

そこには7年間生活したフランスに比べて、
ヨーロッパの国としてもカトリックの国としてもより古いものが、
頑強に継続されながらも、素朴に簡素に息づいていました。
そしてそれらは旅先で出会った親切なイタリアの人々とともに、
僕に大きな感化をもたらしました。

今回のイタリア行の直接の機会を与えてくれたPaolaさん、
気持ちよく送り出してくれた妻に深く感謝しています。

以下の文章は、ベルガモについて僕が書いたものです。
ご興味がある方は、読んでみて下さい。
「」内の色字で示した文章の引用は、すべてヘルマン・ヘッセ、エッセイ全集
第5巻(島途健一氏訳、臨川書店)「ベルガモ」p187〜p192によります。

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ヘルマン・ヘッセがいなければ、そしてヘッセを読み続けてこなければ、
僕がここベルガモの地に導かれることはおそらくなかったであろう。

ケーブルカーが丘の上のCittà Altaの駅に止まり、ヘッセのエッセイ全集を胸に
僕のイタリア滞在の最終目的がいよいよ始まるのだと思った。

ヘッセが普段どのようなものに対して本物の芸術を感じているのか、
どのようなものを本当の芸術家の仕事としてみなしているのか、
彼が1913年に書いたエッセイ「ベルガモ」「サン・ヴィジーリオ」を
読み返しながらその足跡を辿り追体験することで、
その感性を五感を通して体全体でどうしても受けとめてみたかった。

彼の考える真の芸術、真の芸術家とは何なのか、
今後の自分のために、大いなる宿題として。

まずはベッキア広場、
記述通り全く変わらず、ただガリバルディの大きな記念碑は見つからない。

「実に見事な宮殿の前に立った。
一階はアーチ屋根の大きな開放空間になっており、
角ばった太い柱が外側に、それよりも軽やかな美しい柱が内側に立っている。」
「巨大な急階段が柱の上に波型瓦の屋根を乗せて図書館へ続いていた。
階段をやりすごして、期待に胸を躍らせながら開放空間を通り抜け、
バロック期の力動感あふれる詩人タッソーの立像の横を通り過ぎた。」

Essay

Torquato Tasso(1544-1595)

僕も同じようにタッソー像の横を通り過ぎる。
この辺りでこの最終目的は、はぼ余すところなく実現されるぞという
予感のようなものが体を突き抜ける。
103年後に何も変わることなく佇むイタリアの街への感謝とともに。
東京ではもちろん思いもよらないこと。
僕の住む東京の界隈では、下手をすると半年後の風景さえ
大きく変わっていることもある。
決して冗談などではなく。

「教会の玄関の前には小さく突き出した高い建物。
その六段のささやかな石の階段。
ライオンの支える二本の柱に乗ったロマネスク様式の大きなアーチ。
その上には高く大胆なゴシック様式の上部構造。
これは小さくて優美な一種のホールで、三つの小部屋に分かれ、
それぞれにおおよそロンバルディアに由来する古くて素朴な彫刻が置かれ、
真中の彫刻は馬に乗っている。
それらの上にさらにもうひとつ、尖った屋根の狭い階層。
小さな部屋になっていて、前方にふたつの明るく上品な柱が立ち、
中には三体の聖像が入っている。
これらの全体が、
世慣れていない優美さと自然のままに育まれた無邪気さをたたえて、
かの無名性の魅力を放っていた。」

Essay

「刺青のような外装にひるむことなく、礼拝堂に入ってみた。
ヴェネツィアの将軍コッレオーニが娘とともに葬られ、
今日なお、敬虔なる将軍の・・・(中略)・・・その隣の壁には、
上品に小さく、ほっそりと優美な姿で、将軍の若い娘が石に刻まれ、
石の枕に横たわっている。
そして名も知れぬ芸術家によって永遠の命を与えられ、
心を打つ美しい姿を見せながら、何も知らず、
父親と同じ永続性と名声に向かって眠り続けている。」

雷に打たれたようにハッとした、
将軍の娘が石の枕をして横たわっている像。
これなのか、真の芸術とはこれなのか、
名もない芸術家によって永遠の命を吹き込まれた像。
礼拝堂内写真禁止のため撮れず。
Giovanni Antonio Amedeo(1447-1522)の手掛けたもの。
ロンバルディア州Paviaの生まれ。彫刻家、建築家、エンジニア。

「いよいよ好奇心にせき立てられて、
柱を支えている玄関の赤褐色のライオンを尻目に大きな教会へ向かい、
中へ入った。」

Essay

Giovanni da Campione(約1320-約1375)の1351年の作。
赤いライオン像二体。
ロンバルディア州Campioneの彫刻家、父彫刻家、息子二人も彫刻家。
サンタ・マリア・マッジョーレ教会の中にも三体の彫像が置かれていた。
その形態のおおらかさ、伸びやかさに惹きつけられる。
教会の南側翼廊の二体の白いライオン像も1360年の彼の作品。

教会内陣の
「二、三十ばかりある座席の背面がどれもみな寄木作りの木工品で、
彫像が延々と続いている。」

これがどうしても見つからない、肝心なところなのに。

「さらに先へ行くと、静まりかえった小さな場所に出た。
すばらしいことにテルツィ広場という名前だった。
・・・(中略)・・・その中に等身大よりも大きな美しい婦人像が、
やわらかく優雅な様子で立っていた。おそらくケレースだろう。
そして壁全体の上には締めくくりとして装飾の列柱が並び、
両側には二体の天使像が立って、収穫を盛り込んだ角と穀物の束を手にしていた。
私は魅せられて足をとめた。これこそ最上のイタリアの一部であり、・・・」

Essay

あった、最上のイタリアの一部。
Giovanni Antonio Sanz(1702-約1771)の作。
当地ロンバルディア州Bergamoの彫刻家。

「振り返ると、婦人像の対面に大邸宅の門が開いていて、
きれいに湾曲したアーチの下に広がる中庭には植物や吊りランタンが見え、
その向こう側にエレガントな欄干と二体の大きな彫像が
青空の中にくっきり縁どられて夢のように立っていた。
そしてこの壁に囲まれた狭い広場の只中で、
私はポー平原をつつむ空間の無限の距離と広がりを予感した。」

振り返ってまさかな、それではテレビドラマの世界になってしまう。
でも開いていた、103年後も同じように大邸宅の門が、信じられないことに。

Essay

ああ、イターリア!

来年のニューヨークの展覧会のお知らせと3つの構想について

Posted in Essay with tags , , , , , , on 11 June 2016 by kenwada

来年のニューヨークの展覧会の日程が決まりましたので、
お知らせ致します。
場所や日時等の詳細につきましては、
右側の「展覧会予定 The upcoming exhibitions」を
クリックしてご覧下さい。

今年は初めてのNYCでしたので、いろいろと勝手がわかりませんでしたが、
来年へ向けて頑張っていこうと思います。

4月にNYCから戻って以来、以下の3つの構想の下に日々の仕事を進めてきました。

1. 私が従来より考え展開してきた「無意識絵画」を推し進めていったところ
今現在最終的にたどり着いた形であるように考えている、
「落書き・しみ・汚れペインティング」と総称するものについて。
英語表記は一応、Scribbling & Stains Paintings にしようかと考えています。
これを現在F100号に油彩で展開しています。
1枚目がほぼできて、現在2枚目を制作中です。
あわせて画用液についても、もう一度学習し直しています。

2. Yukichi Paintings のシリーズを油彩で続けてきました。
昨日、小さなToileの3枚目が完成し、これで一先ず終わろうと思います。

3. 最近、詩の原文にあたり辞書を引きながら、たどたどしい訳文を作るのが
密かな楽しみとなりました。
エリオットのRhapsody on a Windy Night のシリーズにみられるように、
そこから沸き起こってくるイメージを絵画にしています。
これはもう完全に自分の楽しみとして、トレーニングの一環として制作しています。
もちろん我々日本人には、「俳句」という強力な対抗手段がありますが、
俳句ですと、個人的に少しきつ過ぎるというか、キンキン響きすぎるというか、
情操や情感を膨らませるイメージ訓練には、詩の方が適しているように思います。
このイメージ訓練は、フランス時代に自分で思いついて始めました。
当時ランボーの詩を絵画にした作品は、
La Galerie de Ken Wada 1 の中で、今でも幸いなことに多くの人に観ていただいています。

Rhapsody on a Windy Night の中の
Midnaight shakes the memory
As a madman shakes a dead geranium.
にはしびれますね。
上の行については、探せば表現できる人がもしかしたらいるかもしれませんが、
続く下の行には、何かとてつもないもの、才能があるとか、
センスがあるとかではない、何かもっと堂々たる普遍的なもの、
想像を絶する知力の凝縮のようなものを感じました。
この下の行の中に少しでも比喩の才能や言葉選びのセンスを感じたら、
この詩に対してここまで引きずりこまれることはなかったと思います。
後半に出てくるdry geraniums との関連から、個人的にdead は「死んだ」と訳しました。
ここはやはり死んだゼラニウムを狂人が揺すらないとだめですね。
もちろん一般的には「枯れた」だと思いますが、枯れたぐらいの迫力ではね。

さて有名な詩ですので、ご存知の方も多いかと思いますが、後半の月のシーンで、
The moon has lost her memory.
というまたしても凄まじいまでの知力の凝縮が出てきます。
ここでパタッと筆が止まってしまい、現在に至っています。
何とか絵にできるでしょうか。
私には無理でしょうか。
楽しみつつ挑戦していこうと思います。

ヨセフとその兄弟

Posted in Essay with tags , , , on 22 January 2016 by kenwada

皆様、こんにちは。
いかがお過ごしでしょうか。

僕の方は、年明け早々から家族の病気が再発し、厳しい新年の
スタートとなりました。

苦しい中、僕の心をいつも温め力づけてくれたのは、昨年9月24日に
読み始めたトーマス・マンの「ヨセフとその兄弟」*¹で、旧約聖書と
照らし合わせながら少しづつ読み進め、ようやく今日になって全巻を
読み終わりました。

2度穴に落ちたヨセフが、異国エジプトの地で国王パロに頭を高められ、
10人の兄たちを初めて迎える場面がありますが、
そこでヨセフが執事長マイ・サクメに語る言葉、

「・・・というのも、友よ、朗らかさと抜目のないいたずらとは、
神の我らへの賜物のなかで最も貴重なものであって、
複雑怪奇でいかがわしい人生に対する最も心のこもった回答なのだ。
神がそれらをわたしたちの精神に与えてくださったのは、
わたしたちがこのきびしい人生というこれをさえ微笑させるためなのだ。
兄たちはわたしの服を引裂き、わたしを古井戸のなかに投げこんだが、
こんどは兄たちがわたしの前に立たなくてはならない。
人生とはそういうものだ。
そして行為は結果から評価すべきであるのか、
悪い行為も、立派な結果が生まれるのには必要であったのだから
善とされるべきであるのか、こういう疑問も人生である。
こういう疑問は人生がわたしたちに向けて問いかけてくる疑問である。
そういう疑問には、真面目だけでは答えられないだろう。
人間の精神は明るく朗らかであることによってのみこういう疑問の上に
立てるのであって、おそらく人間精神は、答えられない疑問に対しては
心からのユーモアを持つことで、答えを与えてくれない巨大な存在である
神さえも、微笑させることになるであろう」*²

この言葉が僕の心と体をどれだけ励ましてくれたことでしょうか。

明るく朗らかな抜目のないいたずら心をもって、
人生に対して微笑していくことができれば・・・、
その方向性を示してくれたこと、
この不可解・不条理な人生に対して。

次は、兄たちが末弟のベニヤミンを連れて2度目にやってきた時のヨセフの言葉、

「ちび助も一緒なのだ!神のこの物語はしばらくのあいだ足踏みをしていた、
わたしたちは待っていなくてはならなかった。
でも物語になるような出来事らしい出来事もないように見えていても、
事件はたえず起こりつづけており、日輪の影は静かに動いている。
人は時の流れに心安らかに身をゆだねつつ、
時の流れをほとんど気にしないようにしていなくてはいけない
(中略)時の流れがきっと自然に変化をもたらし、すべてを運んできてくれる」*³

僕が今、どのような状態にあっても人生は進んでいます。

旧約聖書というのは、汲めども尽きることのない無意識の宝庫ですね。
神のプラン(御計画)という名の。

*¹「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房、望月市恵、小塩節氏訳、全3巻)
*²第3巻、みんながやってくる、p.311,312より原文のまま。
*³第3巻、銀の高杯、p.361より原文のまま。

2016年1月22日
和田 健

てんでばらばら

Posted in Essay with tags , , , , , , , , , on 23 July 2015 by kenwada

後ろの筋雲、手前の樹木A、さらにその手前の樹木B。
反転による組み合わせ。
自然の現物は、collage そのもの。
(ちなみに筋雲には、縦の筋雲、横の筋雲、斜めの
筋雲が用意されている。)

後ろの筋雲は、手前の樹木Aに合わせようとしてこない、
現に今朝は快晴、雲一つない、筋雲に対する樹木A、
樹木Aに対する樹木B、以下すべて同様。

これを体でつかめば、森全体もまた同じであることが、
理屈ではなく、はっきりとわかる。

ところで、「切り(取り)」の問題をどう考えるのか?
そこでまず試しにカメラで切ってみる。
何がわかるか。
「切り」の問題をどう扱ったらよいのか?
裏から切るか?
表から意図的にきれいに切るか?
表から目隠しして切るか?
いっそのこと切らないか?
切る「頻度」をどうするか?

切る時は、大胆に切る、躊躇しない。
大胆に躊躇せずに切るためには、現実にしがみつかないこと。
縦・横で切らない、斜めに枠をとる。
回転で切る。
そしてcollage でよい所を隠す。
これらはすべてつまらないコツのようなもの。

Drawing 1 for Untitled No.21
(制作風景1、紙に墨、水彩)
Drawing 2 for Untitled No.21
(制作風景2、紙に墨、水彩)
Drawing 3 for Untitled No.21
(制作風景3、紙に墨、水彩)
Drawing 4 for Untitled No.21
(制作風景4、紙に墨、水彩)
Drawing 5 for Untitled No.21
(制作風景5、紙に墨、水彩)

次に、「組み合わせ」の問題が来る。
そこで切ったもの(断片)を、無作為に床の上に並べる。
これが難しい、少しでも気を緩めると、
すぐにまとまりをもたせて、きれいに並べたくなる。
これを四方を回りながら、回転で観ると新しい気づきがある。
その際、右回り、左回りで観る。
要は、右利きの絵と、左利きの絵があるということ。

Cut papers for Untitled No.21

さらに、「きれいなものにやがて目が慣れる」という問題が出て来る。

*樹木A は樹木B に・・・・樹木Z に「一緒に調子を合わせて
枝葉を伸ばし、全体としての調和を目指そうよ。」などと、
決して話しかけたりしない。
つまり、自然(森)の原理は、てんでばらばら。
・いかに人と違っているかを誇る→フランス人。
・どのようにして列をはみ出さないか→日本人。
・風変りであることを認める文化→イギリス人。
・ヘルマン・ヘッセが、その圧倒的なまでに美しい叙事詩
「庭でのひととき」の中で触れている巨大なサボテンと
小びとのクローバーの例は、そこにあまりの「体格差」が
あったからだと思う。
おかしみのある程の体格差が。
てんでばらばら。

再び絵画日々のメモより

Posted in Essay with tags , , , on 9 July 2015 by kenwada

The trees in front of my studio
(アトリエの窓から見た風景)

このノートは、A4大。
1冊目の表紙に、
「一枚紛失したのを機に、すべてこのノートに整理・保管することにした。
なぐり書きでよいので、すべてここに書きなさい。」
とある。

1 緑と青のみでは、薄くて回せない。

2 大胆に切ることによって、樹木は倒立して回せる。

3 一つのつまらないコツのようなものとして、collageの切り貼りの組み合わせは、いいところを隠せば決まる。

4 樹木Aは、隣りの樹木Bの①種類、②樹高や枝の張り具合などの樹形、
③葉の色や形等を意識していない(例えば楢と山桜)。
なのに、全体としては、完璧に調和している。
何故か?
それは、一本一本を見れば、ゴツゴツしていて荒々しく、
極めて不格好だからである。
個々において不細工であると、全体として調和する。
まるで美しいモデルのある種の顔のように。
ところで、逆はどうか?
一本一本の樹木が美しいと、全体として不格好なものになるのか?
それともさらに美しいものになるのか?
ただし、人工的な例えばフランス庭園のような人為の塊のようなものは除く。
でき得る限り森の中で生活すること。
都会のビルから学べることは、地震の時にどのくらい揺れるかである。

5 collageは、要は、薪割と同じである。
丸切りした丸太を割る。
どういう風に割れるかは、
どこに亀裂としての半径が描かれるかは、割るまでわからない。
割った薪を薪小屋に積む。
積んだ後で、労働の結果として、日々変化していく薪小屋の断面の集積模様を眺める。
右回転、左回転、かすれ、「ブッコウ国師げ」そのもの。
薪割程、図形的訓練の要素に満ちたものはない。
我々は、庭仕事の中で、多くの制作上の鍛錬をしている。
それは、庭仕事の中に、制作上のヒントが含まれているというようなものではない。
もっと肉体労働のようなもの、直接的な筋肉の運動に近いものを感じる。

6 今年下半期の読書の流れ(上半期分は「絵画日々のメモより」の中に記述)
ヘルマン・ヘッセ「知と愛」(新潮世界文学、高橋健二氏訳)、7月1日着手、7月16日読了。
引き続いて、「ナルツィスとゴルトムント」(ヘルマン・ヘッセ全集14巻、臨川書店、青島雅夫氏訳)、7月17日着手、8月29日読了。
同じ本を違う訳で続けて読んでみた。
その間に、「ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集6巻、臨川書店)を読む。8月23日読了。
「ニーナとの再会」、「隣人マーリオ」に強く心をうたれた。
また、アーダルベルト・シュティフターの作品の中から、
「花崗岩」「石灰石」「森ゆく人」(松籟社)を読む。
ヘルマン・ヘッセ「荒野のおおかみ」(新潮文庫、高橋健二氏訳)、8月31日着手、9月9日読了。
9月15日、フリードリッヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」(上巻、岩波文庫)を読み始める。
「ツァラトゥストラ」(上巻、ちくま学芸文庫)を参考にしながら読む。
9月24日、トーマス・マン「ヨセフとその兄弟Ⅰ」(筑摩書房、望月市恵、小塩節氏訳)を読み始める。
この膨大な長編物語全3巻を、今年中に読み終えることは難しいだろうが、圧倒的。
10月11日現在、第一部ヤコブ物語まで読了。
(6の今年下半期の読書の流れのみ、2015年10月12日に加筆)

薪小屋風景1
(薪小屋風景1)

薪小屋風景2
(薪小屋風景2)