Archive for the Essay 2012-2022 Category

STOP THE WAR! 2

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 3 March 2022 by kenwada

関連動画:
ロシア軍の砲撃で少女が死亡 ウクライナ東部マリウポリ(AP通信) – Yahoo!ニュース
ロシア軍砲撃で6歳女児死亡 ウクライナ東部 AP通信 | ウクライナ情勢 | NHKニュース

STOP THE WAR!

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 28 February 2022 by kenwada

関連動画:

「パパはキエフに残った」 涙こらえ国境目指すウクライナの少年(字幕・28日) | ロイタービデオ
「ウクライナはいまだ滅びず」砲撃を受けても屈しないキエフ市民(字幕・26日) | ロイタービデオ

僕の癖は、はたしてリハビリテーションプログラムになり得るか!?

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 19 February 2022 by kenwada

時々、自分の見ている風景は、もう決して以前のようには戻らないのかもしれないと感じると、そして、あと何十年も、このままゆがんだ失われた世界の中で、僕は生きていくのかと思うと絶望的になり、うまく説明することができませんが、何か実際に肺が喉の方へ突き上がってしまうような感覚になり、呼吸が深く自然にできなくなってしまい、ただ息を吐き出すだけの感じが続いて、言いようのない恐怖に襲われます。

そこで、たとえどんなに気休めではあっても、自分の生活を律するためにも、加齢黄斑変性からの心のケアも含めたリハビリテーションプログラムを、自分で新たに編み出して、毎日、続けていかなければいけないと思いました。

そうしないと、何の希望もなく、ただ悲しいだけの日々になってしまい、気持ちがさらにずるずると落ち込んでしまうような感じがしたからです。
そうなった時にはもう、自分で手を差し伸べても、自分を井戸の底から、引っ張り上げることが、とても深すぎてできない感じがするのです。

「人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた。」
(新潮文庫版、p.116)
“Maman disait souvent qu’on n’est jamais tout à fait malheureux.”
(Édition Gallimard、p.172)
これは、アルベール・カミュの言葉で、作品「異邦人」の中で、主人公ムルソーの母親の言葉として出てきます。
おそらく想像するに、この言葉は、作家本人の言葉ではなく、家族の誰かが実際に繰り返し話していた言葉なのではないでしょうか。
その根拠は、souvent という一語で、日常的な強い生活の匂いのようなものを感じます。
それはともかくとして、最初に読んだ時から、この箇所は、何故か非常に印象に残りましたが、病気になった今再び、この言葉が、心の中に強くよみがえってきました。

そこで先日来、自分で考案した4つのリハビリテーションプログラムを、毎日続けているのですが、その一つが絵画に関することで、F40号のキャンバス2枚に、白や黒をはじめ、様々な色の絵の具を塗っています。
これは、文字通りキャンバス全面に、ただ塗っているだけです。
そして、塗りながらキャンバス上の対象物を認識できるか確認しています。
今のところできませんので、落ち込む日が多くて、そういう日には、こんなことはいっそのことやめた方がいいとも思いますが、これがこんな眼の状態でも、どうしても描いてしまうのです。
もう、言わば本能ですね。
塗りたくってしょうがないんです。
楽しくって、うずうずしてしまう。
色に遊んでもらっている感じです。

それともう一つは、絵画はあくまで五感ですので、毎日、筆や刷毛を持ち、絵の具をつけ、滴り落ちる絵の具の水分量を把握し、絵の具の匂いを嗅ぎながら塗りあとを味わい、キャンバスのざらざらした肌触りを指で確かめ、最後に使った筆や刷毛をいつものようにきれいに洗って終わると、感覚が鈍りません

奇跡的に、いつの日か視力が戻るかもしれないじゃないですか。
その時に、こうした基本的な反復練習をコツコツと毎日継続していれば、すぐに元に戻れます。
基本的なことさえ、繰り返して準備していれば、そうしてブランクを作らなければ、すぐに絵画の中に入れます。
おそらくどのような分野でも同じでしょうけれど、基礎基本というのは、常に地道に繰り返し、繰り返し、細かく、細かくです。
大雑把であったり、派手な人目を引くような基礎基本というものはありません。

僕にはこういう風に、あまり意味もない、取るに足りない小さなことを毎日続ける癖のようなものがあって、今年で、日記を書くようになって23年目になります。
また毎日簡単な家計簿をつけるようになって、これも今年で23年目になります。
それから毎朝仏教のお経をするようになって、こちらは今年で22年目になります。
これらは何も僕に根気があるとかそういうことでは全くなくて、ただ単に習慣のようなもので、フランスにいようが、ニューヨークにいようが、どこにいようが毎日絶対にやります。
たとえばホテルに泊まっている時は、部屋の中のこの辺がご仏壇とか、自分で勝手に決めて、そこへ向かってお経をします。
ですので、F40号2枚の色塗りも、毎日続けられるように思います。

絵画というのは、どこまでも実践の仕事であり、頭の中の理論や理念ばかりで行動に移さず、ロジックでひたすら考えていても描けないと思います。
それは何故かと言うと、人間の脳は、色と形だけは実際にキャンバス上で観て確認するまでは、把握できないからです。
経験から予想はできるのですが、それはあくまでも予想であって、色と形だけは、実際に紙やキャンバスに置いてみないと、どうしても認識できないのです。

2022年2月16日
和田 健

部位

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 5 February 2022 by kenwada

眼を悪くして、つらい毎日が続きます。
今年2回目の硝子体注射を、2月1日に受けました。
その時の診察で、右眼の視力が、裸眼で0.03、矯正で0.06でした。
1月4日の治療開始時点よりもさらに悪くなっており、ショックでした。

「部位が眼でさえなければなあ」と、毎日のように思います。
実際に、僕には2011年以来、他にもヘルニアの持病があって、8年間、腸の痛みと戦いながら、苦しみ抜いた末に、結局、最後は嵌頓(かんとん)になり、救急車で運ばれて、2019年に緊急手術を受けたことがありました。
その時、手術してくださった先生に「何で8年間も我慢していたんだ」と叱られました。
朝からヘルニアが起きた日は、キャンバスに集中するのが、かなり大変でしたが、それでも、眼ほど制作に直接的な影響はなかったように思います。

それともう一つ感じることは、腸ですと、たとえ医学的に正しいことではなくても、根性だとか気合いだとかで頑張れる部分が少しはあるのですが、眼ですとそういった精神力で何とかカバーできる部分がないことです。
眼の病気というのは、何か物理的な現象のようなものです。
歪んで見えるものが、気力では元には戻りません。
つまり、何もなす術がない。
でも、何もなす術がなく、人生をいきなり理不尽にもぎ取られることは、世の中でたびたび起こることですし、そうしたまるで悪魔のような圧倒的な暴力や、不条理に耐えながら、残りの人生を静かに生きている人もたくさんいます。
だから、僕も自暴自棄になどなったりせずに、治療を続けようと思います。

病気になってよいことなどは、本当に何一つとしてありませんが、唯一、この病気の特徴は「誰にも迷惑はかけない」ということです。
つまり、眼が勝手に病気になって、ものが歪んで見えて、視力が落ちて、仕事ができなくなり、収入の道が完全に途絶える・・・。
これらはすべて自分の中で起こることです。
自分が沈んで行くのを、自分で静かに見ているという感じです。
誰にも迷惑はかけていません。
僕の今のこの心境については、ちょっとこれ以上は、言葉では上手く説明できません。

2022年2月5日
和田 健

追伸:悲しい時は、三姉妹の義理の姪の写真をみています。
先月、真ん中の子が成人式を迎え、三人で撮った写真をもらいました。
どういう訳か三人とも、幼い頃最初に会ったその日から、僕に懐いてくれ、とても優しい子どもたちです。
それにしても、みんな大きくなりました。

パリ時代の思い出「アカデミー」

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 1 February 2022 by kenwada

パリのアカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールで。
恩師のアルトソウル教授と。2004年7月22日。

With Prof. ARTOZOUL.
Académie de la Grande Chaumière, Paris, FRANCE, July 22, 2004.

僕がこれまで絵を続けてこられたのは、先生のお陰です。
先生は、初心者の僕に対して、そんなこともできないのか、といったような横柄な態度をとられたり、馬鹿にされたりするようなことは、一度もありませんでした。
どんな時でも威張るようなことはなく、親身になって絵を観ながら、ポケットからごく普通の黒いボールペンを取り出しては、一つ一つ丁寧に全体のバランスや調和について、また色のハーモニーについて、根気強く教えてくださいました。
怒鳴ったり、大きな声を出したりするようなことは、ついに一度もなく、その指導は常に誠実でした。
そして、いつでもその生徒の長所を伸ばそうとしてくださいました。
これは少しでも人にものを教えた経験のある方であれば、よくわかることなのですが、すぐに成果が出ませんので、根気や我慢強さをはじめ、頑丈な精神力を必要とする大変なことなのです。
人にものを教える時に、最も短期間で成果の上がることは、自分の得意な必勝の指導パターンに、引き込んでしまう、押さえ込んでしまうことなのです。
そうするとすぐに成果が出ますので、みんなから「いい先生だね〜」と言われ、本人も次第にその気になるのです。
先生はこれを一度たりともされませんでした。皆無でした。
ラスパイユ通りで先生が個展をされた時に、僕もオープニングに伺わせていただいて、今日くらいは、さすがに先生もワイシャツを着て来られるのかなと思っていたのですが、いつもの穴の開いたチョッキを着て来られ、何人ものマダムたちに囲まれて、穏やかに談笑されている先生を見て、改めてすごい人だなあと思いました。
何一つ媚を売ることなどのない、実に堂々たるものでした。
ちょっと成功したくらいで、奇抜なファションをしているような輩とは、先生は人間としての風格や品位がまるで違いました。
亡くなられた奥様を描かれた大きな作品が、あまりに素晴らしくて、今でも非常に印象に残っています。
そうした先生の言動を通して、僕らはフランス文化の奥深さや底力のようなものを肌身に感じながら学んでいきました。
先生は、アカデミーの近くの芸術家がたくさん住んでいたカンパーニュ・プルミエール通りに住んでおられて、むく毛の黒い犬を連れて、近所を散歩されている姿をよくお見かけしました。
先生、本当にありがとうございました。
感謝しかありません。

7年間暮らしたフランスは偉大な国でした。
僕のような無名の駆け出しの新人も受け入れてくれて、分け隔てなく教えてくれて、それこそ浴びるほど多くの教育の機会や実践の場を与えてくれました。
そして、日本にいることを思えば、それらが、あり得ないくらいの、ちょっと信じられないくらいの低料金で学べました。
あの頃、アカデミーの友達が、パリ大学に進学しましたが、年間の授業料が全込みで、確か150ユーロくらいでした。
当時のレートで、日本円で2万円弱でした。
しかもその150ユーロに対して、月賦払いの制度がありました。
どんなに貧乏でも本人にやる気さえあれば、勉強して這い上がることができる、これは国の根幹をなす極めて大事なことで、そういう国は、決してつぶれないと思います。

同アカデミーにて。2004年7月22日。

The training period when I was just concentrated every day.
Académie de la Grande Chaumière, Paris, FRANCE, July 22, 2004.

自分を追い込んで、ひたすら集中していた修行時代。
欠席はおろか、一度も遅刻もしませんでした。
多国籍からなるアトリエの実力者たちに囲まれて、
「自分に負けてメソメソしているくらいなら、明日の午前中には、荷物をまとめて完全帰国する」と、いつも自分に言い聞かせていました。
頭の中には、どんな時も日本に一人残してきた母のことがありました。

写真の足下を少しご覧ください。
当時は、月曜日の朝にアトリエに行くと、その一週間を通して自分が描く位置を裸体モデルのまわりに決め、月曜日の終わりになると三脚の足下に、白チョークで印をつけておくのが決まりでした。
「ここは一週間、僕の場所ですよ、他の人は明日からここは使えませんからね」という感じでした。
そのため短くなった白チョークをいつも大事に持って歩いていました。
僕は三角形を描いて、よくその真ん中に、ケンなのでKと書いていたな。

新米の頃は自分のロッカーも持てなくて、でもみんながよくやっていたように、ステージの下に荷物を入れて帰るのが嫌で、山が大好きだった亡父の形見の大きな登山リュックに、画材の重たい荷物を全部入れて背負っては、毎日持って帰って往復していました。
日本にもう帰国するからと、先輩のOさんが、「ここを使いなさい」って、番号2のロッカーをご自分の錠ごとくださった時は、初めて自分のロッカーを持てて、すごくうれしかった!
そのロッカーの錠は、大切な思い出として、今でもアトリエにしまってあります。

1904年創立のアカデミーに入る戸口のところに、歴史の重みですり減った石段があって、毎朝そこを踏む度に、「ああ、ここをジャコメッティが、バルテュスが、・・・・あの錚錚たるメンバーが、みんな通っていったんだな」と、いつも胸がドキドキしました。

アカデミーのあるグランド・ショミエール通りに、かつてゴーギャンとモジリアーニのアトリエがあって、彼らを記念するプレートを見上げながら、「ここだ、ここだぞ」って、「映画「モンパルナスの灯」のアトリエもここなのかな」と叫んでいました。

同じ通りにセヌリエの兄弟店もあって、絵の具が足りなくなると、休憩時間とかに、本当によく買いに行ったな。
それから、「ドガが使っていた有名なパステルはこれか!」って、ちょっと日本では見たこともないような木製の家具の、とても大きな引き出しを開けた時の、色彩別に並んだあのパステルたちの輝きは忘れられない!
お金がなかったので、いつも一回二本までとか決めて買っていました。

初めて個展をすることになって、自分もいつかはここにと思っていたアカデミーの廊下の掲示板に、個展のお知らせを初めて貼った時の、少し緊張した気恥ずかしいような喜び。

みんな祖国から出て来て、明日を求めて必死だから、いつもいつも綺麗事とはいかなくて、時には場所の取り合いとかの些細なことでいざこざが始まり、アトリエの雰囲気が殺伐としてしまうことがあって、その争いがたとえ自分のことではなくても、とても悲しい気持ちになってしまい、そんな時は休憩時間に中庭に出て、パリのアパルトマンをよく見上げていた。
そうしたら鳩がいつも鳴いていて(パリには鳩が本当にたくさんいたな、そしてシックなパリの街に鳩ほど似合うものは他になかった!)、それを聞いて気持ちを静めたり・・・、「僕は人間関係の勉強を、改めてもう一度するために、わざわざフランスまで来たんじゃない。勉強以外のことは、たとえ1分たりとも絶対にしない!」と、いつも自分に言い聞かせていた。
前職時代の15年間に貯えた預貯金を取り崩しながら、何もかもすべてを賄っていたから、やっぱり、そういう気持ちは、誰よりも強かったと思います。
身銭を切っての留学でしたから、もう本当に必死な毎日でした。

本当に心からお世話になったアトリエのシェフのカトリーヌさんのこと、亡くなられた先輩画家のTさんのこと、その他、国籍も様々な数々の先輩たち、後輩たち、仲間たち・・・。
アカデミー時代の思い出はあまりにも多くて、ちょっとここでは、とても書き切れません!

僕は遅く絵を始めて、まわりの若い人たちからみたら、もう青春と呼べるような年齢では全くなかったけれども、あの時、全力で挑戦しておいて、本気で勝負しておいて、本当によかった!
悔いは、何もありません。

追伸:
眼を悪くして、今は絵の制作ができませんので、この機会に、昔の思い出などを少し書いてみようと思いました。
僕は仕事はいつも眼のために、アップルのデスクトップの一番大きいパソコンでしていますが、その中の Pages で、まず巨大文字で原稿を作り、それをこのサイトに貼り付ける方法で、何とか、まあ何とか書きました。
非常にゆっくりとしかできませんでした。

2022年2月1日
和田 健

非常につらい一年のスタートになりました!

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 14 January 2022 by kenwada

皆様、こんにちは。

新しい年が始まりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
今日は大変残念なご報告をしなければなりません。
以下、これまでの経緯も含めて、できるだけ簡潔に淡々と書いてみたいと思います。
簡潔に淡々と書けるかな?

実は、僕には、右眼に滲出型加齢黄斑変性の持病があって、2015年11月に最初に網膜に異常が見つかり発病して以来、一旦治ったりを繰り返しながら、次第に悪化してきました。
今まで一度もこのサイトに書かなかったのは、やはり自分の病気のことを書きたくなかったからですが、部位が眼なだけに、画家としてとてもつらいです。
2018年には、東邦大学大橋病院で硝子体手術(眼球注射)を3回し、それ以降は平癒していたのですが、3年8ヶ月ぶりに再発してしまい、昨年12月上旬から、また自覚症状が出始め、12月26日から特にひどくなり始めました。
自分でもいくらなんでもあまりにも悪化の進行が速すぎる、もうなんて言いますか、これまでの経験から言っても、信じられないくらいのスピードでした。
1月2日の夕方に、初めて失明するのではないかという恐怖に襲われました。
ちょうど年末年始にあたり、どの病院もしまっていたことも運が悪かったです。
1月4日になって、スーパードクターのいる高崎の眼科を受診し、眼底の大量出血で、即緊急手術になりました。
その時の診察で、右眼の視力は、矯正で0.15でした。
その晩は、高崎の安ホテルの部屋から一歩も出ず、廃業の絶望と、失明の恐怖で、何も食べられませんでした。
人間は極度の不安になると、本当に何も食べられないものですね。
それでもせめて何か飲まなきゃと思い、部屋にあった小さな袋入りのインスタントコーヒーを、お湯を沸かして2杯飲みました。

僕はこれまで、廃業だとか、引退だとかは、もう絵の構想も浮かばず、ボロボロになって辞めるものだと思っていましたので、制作意欲が高まっている今、引退するのは、本当に悔しいし、悲しいです。
でも、冷静に考えれば、この眼では引退でしょうね。
先生からは、10%〜20%の人は、もう一つの眼にも加齢黄斑変性が出るので、そうなった場合は、あなたは、日常生活ができなくなると言われました。
まだ認知症の親の自宅介護もしていますし、残った左眼を家族のためにも大切に守らなければいけません。

僕は絵が得意でも上手でもありませんが、絵を描くことが好きなんですよね。
本当に好きなんですよね。
一瞬にして状況が変わるそのスリリングさや、ダイナミックさ、一筆にして変化していくスピード感が、他のことでは決して得られないものがあるんですよね。
ですので、例えば車に乗っていても、これまでいつも低速運転です。
毎日、すごいスピードの乗り物に乗っているので、せめて車に乗っている時くらいは、ゆっくり運転したいという感じですね。

人間、得意なことなら、誰でも見つけられます。
得意なことは、放っておいても自然に目立つからですね。
でも好きなことは、なかなか見つけられません。
好きなことは、いつも目立たずに、ひっそりと息をひそめて、その本人の中に住んでいますから。
何か地獄のようなつらい思いをした時に、心の底から浮かび上がってこないと、なかなか気づきません。
本人でも、えっ、まさか、僕/私が、それを好きなの?という感じです。
部屋の片隅に忘れられて、もう何年も埃をかぶっている置物みたいなものです。
得意なことは、部屋の中の目立つ場所に、いつでも堂々と立っていますから、誰でもすぐに気づきます。
まわりからも上手だね〜とか、すごいねえ〜とか、小さい頃から言われたりしますしね。
スポーツでも勉強でも何でもそうです。
そして、多くの場合において、得意なことをイコール、好きなことと思い込み信じ込むようになると言いますか、自然と両者を同じものだと何も疑わなくなります。

以上、まあ大体そのような訳で、最悪のスタートのこの年始から、僕は苦しみ、悩み抜きましたが、今は辞めたくありません。
先生の治療を信頼して、もう少し粘って結論を出さずに、頑張ってみます。
それでもどうしてもだめだったら、その時は辞めます。

皆様も少しでも物のゆがみが気になりましたら、迷わずにすぐに眼科を受診してください。
お近くの眼科に行って受付の方に断れば、加齢黄斑変性のチェックシートを無料でもらえると思います。
またチェックシートなどなくても、部屋の中には、縦線や横線がたくさんありますので、升目のあるカレンダーなどあるとさらによいのですが、30cmくらい離して、チェックしてみてください。
その際、必ず片目ずつ見ることが大切です。
これが基本のキになります。
そして、もっともっと多くの方に加齢黄斑変性のことを知っていただきたいです。
本当に恐ろしい病気です。
あまりにも進行が速いです。
僕の場合は、本当に1週間で劇的に悪化しました。
さらに、加齢黄斑変性は、決して完治しません。
僕のようにならないために、このことをしっかりと認識してください。
薬の効果が切れた頃を、まるで見計らうかのように、必ず再発してきます。
治療して一旦は平癒したのだから、それはすなわち、完治したものと、とらえていたのが僕の落ち度であり、無知でした。
昨年末からの一連の経過の中で、僕は、今回、このことを身にしみて思い知らされました。

以下、これを全部英訳するのは今の眼の状態では無理ですので、要点だけ英語にしておきます。
そうしないと海外の友人や知人が読んだ時に、ケンは何を言っているのか全くわかりませんからね。
日本語を読める外国人は、あまりいませんから。
それで、これまでもでき得る限り、英語も併記してきました。
また現実問題として、欧米では加齢黄斑変性は失明原因の第1位ですので、資料を読んでいても、実用的でかつ具体的だなと思います。

それでは皆様、どうぞご自分の眼をくれぐれも大切に。
そしてまだ始まったばかりのこの一年が、皆様にとってどうぞよい年でありますように!

2022年1月14日
和田 健

Dear friends,

Very unfortunately, I have to inform you of bad news.
In fact, I have a right eye disease ; age-related macular degeneration (AMD) since 2015 and have already received three eye injections in 2018.
Do you know that there are two types of AMD?
In my case, I have wet AMD, so the disease gets worse horribly fast.

Since the end of last year, wet AMD has deteriorated badly, but because it is a Japanese custom, the hospitals were closed during the year-end and New Year holidays, so I could finally make the fourth injection in my right eye on January 4, 2022.

Right now, I’m barely in my daily life.
That’s why I can’t make a painting now, but I would like to treat it and continue my paintings’ journey.
Because I really love painting and I’m happiest when I’m painting.
I truly love its dynamism, speed of change and thrilling.
In other words, I am very happy and enjoy to be surrounded by colors and forms/shapes every day.

Everyone, AMD is a very scary disease.
The exact cause is unknown.
But currently, the following causes are mainly considered in medicine.
・Having a family history of AMD
・Being Caucasian 
・Smoking
・High blood pressure
・Being overweight

Please take good care of your eyes.

Have a nice day!

Warmest regards,
Ken WADA

I wish you a happy New Year.

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 1 January 2022 by kenwada

明けましておめでとうございます。
本日午前9時より制作を始めます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
皆様にとって、素晴らしい1年でありますように!

2022年1月1日
森の中のアトリエにて
和田 健

Dear friends,

I wish you peace and love as I look forward to a brighter 2022.
May the New Year bring much light and warmth into your life!

Warmest regards,
Ken WADA

ヨゼフとその兄弟たち

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 22 December 2021 by kenwada

Ancient Night Sky, Watercolor on paper, 22.0×27.3 cm, December 2021

皆様、こんにちは。
僕が住んでいる群馬県の標高1100mの森の中は、一面の銀世界となり、今朝はマイナス12℃まで冷え込みましたが、雪かきをしたお陰で体も温まり、加えてこの年末にかけて、全く個人的な読書に関することで、静かに少しずつですが、盛り上がってまいりました。
僕が、初めてトーマス・マンの「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房版全3巻)を読んだのは、今から6年前の2015年9月24日から2016年1月22日にかけてでした。
それ以来、僕のわずかな読書歴の中で、この本は現在に至るまで、僕の心の中で第一位の座を譲ることは、一度たりともありませんでした。
すなわち、僕がこれまでの人生で読んだ全ての本の中で、一番感銘を受けた本というのは、いつでも「ヨセフとその兄弟」でした。
全3巻それぞれの初版が発行されたのは、今から30年以上も前の1985年から1988年にかけてですが、この筑摩書房版の入手は、現在、お金に余裕のある方はともかくとして、大変困難な状況です。
そして初読以来、6年が経過いたしましたが、さあ、もうそろそろ再読のタイミングも熟しただろうという感覚があり、今回は、筑摩書房版よりもさらに30年も古い1958年から1960年にかけて初版が発行された新潮社版全6巻で、タイトルも「ヨセフとその兄弟」から「ヨフとその兄弟たち」に変わり、2021年11月15日から再読し始め、現在第1巻の「ヤコブ物語」を読み終わり、第2巻の「若いヨゼフ」に入ったところです。
ちなみに現在、こちらの新潮社版の入手も、同様にかなり困難な状況ですが、メルカリで全6冊を何と1400円(信じられない!)で、出品している方がいて、ご自分の蔵書の中からマン関連の他の書物3冊も一緒につけてくださった大変良心的な方でした。
これはですね、もうどうみても決して偶然などではなくて、何者かに「さあ、また読みなさい!」と、明らかに言われているようなものですね。
さて、どうしてこれほどの偉大な文化的な遺産とでもいうべき書物を、出版社の方々は、長い期間にわたって、いわば絶版状態にしているのかという、これからの日本の若い方の一般教養のためにも非常に大事な問題(え〜と、こうした点をいつまでもクリアーできないで、そのままにしていることが、現在にいたるまで、ヨーロッパの国々に、文化的な教養に関して、大きな差をつけられている象徴的な事実の一つになっている感じがいたします)は、今はひとまず、おいておいて(よい問題では、全くありませんが)、それでは早速、本題に入ります。

まず、いきなり結論から入りますが、3000年前のこの頃の人たちは、「神とは何だろう」ということについて、実によく考え抜いていたな、ということです。
再読ですので、この物語が、この後どのように展開していくのかは、もうわかっていますので、つまり、ストーリーを追う必要はありませんので、まあ再読の味わいとでも言いますか、ゆっくりと読んでいますが、「神とは何だろう」ということについて、3000年前の人たちは、実によく考え抜いているという、この素朴な事実が、改めて非常に印象的でした。
これに対して、現代の私たちは、どうでしょうか。
「神とは何だろう」なんて、通常、あまり考えないのではないでしょうか。
つまり、現代の私たちは、多くの場合において、神を信じるか信じないかですとか、あるいはまた、神はいるかいないかですとか、そういった二者択一論的な観点で、考えることがほとんどなのではないでしょうか。
または、◯◯教を信じるか信じないかですとか、あなたならどうしますかどう思いますかとか、ほとんどの場合において、そのような切り口で考えることが、多いのではないでしょうか。
しかし、アブラハムにしろ、イサクにしろ、ヤコブにしろ、彼らはそんな観点に立っては、全く一度たりとも考えていない、そんなことはまるで考えていない。
彼らは、常に、自分たちの神を創り出そうとして、自分たちにとっての神とはなんだろうと、その創造に向けて日々、ひたすら奮闘、努力している、ここのところですね。
ここに決定的な違いがある。
すでにできあがった神を信じるか信じないかではなく、自分たちの神を創造しようとしている、これは決定的な違いです。

それでは、いくつか本文中から具体的な例をあげてみます。(すべて原文ママ)
まずは、ヤコブの言葉です、
「私の先祖や私たちは、羊を飼いながら、神様とは何だろうと幾度もいくどもさんざん考えてきたんだ。私たちの子供や孫たちも私たちに倣ってこれを考え続けて行くだろう。」(第1巻「ヤコブ物語」から。以下同じです。p291)
次は、彼とはヤコブのことですが、
「自分独自の神を作ろうという彼の事業」( p.372)
とあります。
ヤコブには、またこんな印象的な言葉もあります。
自分たちの神を創造しているのですが、まだその神が小さい*1ということですね。
神が小さい、なんて素晴らしい言葉ではありませんか!
「ひとえにただその信徒たちの数がまだ少なく勢力も弱く、自分たちの神のためにそういう神殿を建てるに至らないからだけのことではないのかという疑念が混入してきた。」(p.236)
それから、こんな言葉もあります。
死にゆく、ヤコブ最愛の、心の妻ラケルの最期の言葉です、
「これからあなたは、私なしで、神さまとはどういうものかを考えて、きめていらっしゃらなければならない。どうぞ、うまくおやりになって。御機嫌よう。」(p.373)
さらに、マンはこのようにも記しています。
ヤコブがラケルが死ぬことを悟った時の言葉です、
「神よ、あなたは何ということをなさるのか。」
というヤコブの悲嘆に続いて、
「こういう場合、返事は与えられぬ。そのような黙殺に会ってもなお神の存在を疑うことなく、人間の理解を絶するものの尊厳を悟って、かかるものの存在を自分自身の生長の糧にする能力こそ人間精神の誉れといってしかるべきなのだ。」(p.372)
すごいですね、このトーマス・マンという人は、ちょっと並外れていますね。
もう何て言いますか、超弩級です。
絵画史に当てはめると、この人は、まさしくレンブラント・クラスでしょうか。
もう何て言ったらよいのでしょうか、ものが違うとでも言うのでしょうか、いわゆる世間で文豪と言われている他の方たちと比べても、傑出している感じがいたします。
例えば、序章の「地獄行」の最後のくだりです、
「では降りて行こうではないか、ためらうことなく。(中略) ほんのちょっと、三千年がところ降り下るにすぎない。(中略) 出発にあたって顔をしかめていた諸君も、さあ眼を一杯に開き給え。もうわれわれは現場に到着しているのだ。見給えー平和な丘陵地帯の上には、明るい月しろが懸かって、ものみなの影をくっきりと色濃く映しだしているではないか。触れ給えー夏にも紛う春の夜の、穏かなすがすがしい大気に。」(p.51、p.52)
として、三千年前の風景を、いとも鮮やかに私たちの目の前に広げてみせるその手腕の見事さ、スケールの大きさ。
導入部のこの記述だけで、思わず、もうこの小説の勝負はあったな!という感じがいたします。
そしてさらには、ヤコブという人間の素性に加えて、ヤコブが受けた、担った祝福そのもの自体についても、実に様々な角度から光を当てて炙り出しては、一つ一つ吟味し、考察を加えていく段階にいたっては、もうこんなこと他の誰も真似できない、マンの独壇場の感さえあります。
祝福については、
「蓋し、祝福を受けた人間の生活が幸福ずくめで、浮沈のない繁栄の連続だと考えるのは浅薄な迷信にすぎないからだ。もともと祝福というのもは、祝福を受けた人々にとってもその存在の基礎を構成するにすぎず、この祝福が時折いわば金色に洩れ光る時間以外の大部分の時間は、苦悩と試煉の闇に覆われているものなのである。」(p.318、試練は試煉になっています。)
とあります。

その他にも、ざっと全体を見渡しますと、
リベカの計略によって、エサウからヤコブが祝福を盗み取るところ。
デナの物語と、ヨゼフの兄たちのシケムの町の身の毛もよだつような殺戮と略奪。
やはり、この場面は、全体を通して、異質です。
レアの息子たちのしでかした、この事件の意図するものは、一体何なのか?
この間、幕舎内にとどまるヤコブの一連の心理の描写と言いますか、底意の照射には、すごいものがあります。(p.167 他)
「と、忽ちヤコブは、この伯父から極めてうさん臭い印象を受けた」(p.220) とありますが、 土くれから作られた畑を耕すために生まれた「太陽の男」ラバンに対して、血筋からいっても、また性格からいっても、羊飼いの素質を受けた「月の男」ヤコブという25年間の対比というよりはむしろ対決。
「そして、いうまでもないことだが、羊飼いには暇な時間がいくらもある。一日のうち少なくとも幾時間かは、いや、それどころか半日だって、何もしないでじっと瞑想に耽って暮す。」(p.254)
「牧羊生活は、上品であり瞑想的であって、神やラケルのことを考える暇を与えてくれた。」(p262、263)
という羊飼いの生活。
これだけひたすら長い間ラケルを、ひたすらラケルだけを待ち焦がれて迎えた新婚初夜に、悪魔のような残酷なぺてん男ラバンによって、レアにすり替えられたヤコブの絶望なんていう生易しいものではない錯乱状態。
また、人間というのもは、各々の寿命を感知しているという、
「けれども、時間というものはたっぷりとあることをその肉体で感知していた彼は(彼には百六年の寿命が与えられていたのだ)じっと時機を窺っていた。」(p.308)
というヤコブについての記述や、「まだら羊」(p.333) の一件も特に印象に残りました。
「わずかに四十一歳でみまかることになっていたラケル」(p.259) とありますように、かわいそうなラケルは、41才で亡くなりますからね。

さあ、この後の物語を楽しみましょう。
自惚の強いヨゼフが調子にのって、文字通り穴(=井戸)に落ちるところ、そして、ヨゼフはエジプトに売り飛ばされて・・・、さあ、そのあとが、そのあとで、また大変です。
特に、ポティファルの妻とのくだりで、ヨゼフは人生最大のピンチを迎え、またまた穴(=2度目は監獄)に落ちます。
マンの並外れた集中力は、この場面の一連の詳細な描写において、その極致に達していた感がありましたので、再読するのが楽しみです。
それにしても、以前にもこのサイトに書きましたが、旧約聖書は、ぎっしりと無意識の詰まった、いわば無意識の宝庫ですね。
そして、第1巻を読んだだけで、もうすでにこの物語は、やはりマンの作品の中で、代表作の「ブッデンブローク家の人びと」や「魔の山」を明らかにしのぐ、やはり最高の作品ではないか、無尽蔵の汲めどもく汲めども尽きることのない味わいや、それでいて、何か全編を通底している大らかな明るさや、ユーモアに富んだ賑わいのようなものを確かに感じます。
端的に言いまして、第1巻の中程あたりですでに、あと5巻しかないな、当たり前ですが読めば読むだけ、少しずつ減っていってしまうなあなどと思ったことは、生まれて初めての読書体験です。

若い方へ、公立図書館で借りて読むという無料の手があります。
是非一度、一生の間に、是非とも一度、お読みになってください。

2021年12月19日
和田 健

*1 神が小さい、ということにつきましては、群馬県の山奥で暮すようになってから、実に様々なことを感じたり、考えたりするようになりました。
これは、旅行や一時的滞在では、なかなか難しいかなと思います。
もちろん、不可能ではありませんが、何事もやはり生活しないと見えてこないものがあるように思います。
現に、僕は東京時代には、あまりそのようなことは考えませんでした。
やはり地べたをはってとでも言いますか、畑を耕したり、山登りをしたり、自転車に乗って移動したりと、まあ要は何でもよいのですが、この地域には、実に多くの小さな神社があることに気づかされます。
草深い名もない山奥の「えっ、こんなところにも!」と、これは何て言いますか、ちょっと都会の人には、実感として伝わらないくらいの数の多さです。
つまり、自分の神ですね。自分たちの小さな神です。
あるいは、土着信仰と呼んでもよいのかもしれません。
神というのは、信仰する自分にとって、あくまで信仰する自分たちにとって、ご利益がなければ意味がないですね。
以前、小林秀雄さんが、このことについて、新潮CDの講演で話されていて*2、ここのところの意味がわからず、「ふ〜ん、そんなもんか」と思っていましたが、最近、少し意味がわかりかけてきました。
これに対して、現代の私たちの神はどうでしょうか?
どの宗教の神にしても、あまりにも立派すぎて、大きすぎはしないでしょうか?
すでに出来上がった完成された神を追いかけてはいないでしょうか?
何かここのところに、この今の世界の混沌とした難しさを解く鍵が秘められているように思うのです。

*2 僕の「絵画日々のメモ」のノートにあたってみましたが、これはおそらく新潮CDの第2巻「信ずることと考えること」のCD-2ですね。
「神とは、自分との私的な関係。僕の個人の願いを聞き届けてくれなくてはいけない。救ってくれなければいけない。」と、2013年にノートしていました。
え〜と、確か講演の最後の質問コーナーのところで、学生の方が、ここのところをもう少しわかりやすくと、質問したのではなかったでしょうか?
それに対して、小林秀雄さんが、「僕は決していい加減なことを言っている訳ではないんだよ。だけど、これについては、これ以上、わかりやすくは答えられないなあ。」と言われたのが、とても印象に残っています。
・・・・・・・・・
早速、もう一度聴いてみました。
八百万の神、要するに宗教ではなくて、信仰。
僕の考える「小さな神」という解釈の流れで、まあ、大筋としては、いいのではないでしょうか。
CDを聴き直す前に、土着信仰という言葉が出てきたことは、よかったな。
そこまで、思考がたどり着いていた訳だから。
ここからまた考えてみます。

地域の皆様が、「ライだよ、森の童話」を置いてくださいました!

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 13 December 2021 by kenwada

皆様、こんにちは。
誠実な温かいお人柄のお二人が、ご夫婦で経営しているレストラン「アタゴオル」の素敵な雰囲気の店内に、「ライだよ、森の童話」を置いていただきました。
是非、おいしい煮込みハンバーグ定食(前菜のサラダとスープにドリンクまでセットでついています)を、どうぞ食べにいらしてください。
この他、町内の応桑にある「長野原町へき地診療所」の待合室にも、先生(往診を繰り返しながら地域医療と在宅医療に情熱を燃やされる、今時稀に見る素晴らしい方です)のご好意で本を置いていただきました。
北軽井沢のこの小さな物語が、少しずつ皆様に知られて読んでいただけるようになると、いいですね。

レストラン「アタゴオル」
群馬県吾妻郡嬬恋村大字鎌原大カイシコ1053
0279-84-3663
国道146号線沿い、浅間牧場の交差点から間もなくです。

“Breakfast”(1936) by John Steinbeck(1902-1968) を読んで

Posted in Essay 2012-2022 with tags , , , , , on 15 November 2021 by kenwada


This thing fills me with pleasure. I don’t know why, I can see it in the smallest detail. I find myself recalling it again and again, each time bringing more detail out of sunken memory, remembering brings the curious warm pleasure.

It was very early in the morning. The eastern mountains were black-blue*1, but behind them the light stood up faintly colored at the mountain rims with a washed red, growing colder, grayer and darker as it went up and overhead until, at a place near the west, it merged with pure night.

And it was cold, not painfully so, but cold enough so that I rubbed my hands and shoved them deep into my pockets, and I hunched my shoulders up and scuffled my feet on the ground. Down in the valley where I was, the earth was that lavender grey*2 of dawn. I walked along a country road and ahead of me I saw a tent that was only a little lighter grey than the ground. Beside the tent there was a flash of orange fire seeping out of the cracks of an old rusty iron stove. Grey smoke spurted up out of the stubby stovepipe, spurted up a long way before it spread out and dissipated.

I saw a young woman beside the stove, really a girl. She was dressed in a faded cotton skirt and waist. As I came close I saw that she carried a baby in a crooked arm and the baby was nursing, its head under her waist out of the cold. The mother moved about, poking the fire, shifting the rusty lids of the stove to make a greater draft, opening the oven door; and all the time the baby was nursing, but that didn’t interfere with the mother’s work, nor with the light quick gracefulness of her movements. There was something very precise and practiced in her movements. The orange fire flicked out of the cracks in the stove and threw dancing reflections on the tent.

I was close now and I could smell frying bacon and baking bread, the warmest, pleasantest odors I know. From the east the light grew swiftly. I came near to the stove and stretched my hands out to it and shivered all over when the warmth struck me. Then the tent flap jerked up and a young man came out and an older man followed him. They were dressed in new blue dungarees and in new dungaree coats with brass buttons shining. They were sharp-faced men, and they looked much alike.

The younger had a dark stubble beard and the older had a grey stubble beard. Their heads and faces were wet, their hair dripped with water, and water stood out on their stiff beards and their cheeks shone with water. Together they stood looking quietly at the lightening east; they yawned together and looked at the light on the hill rims. They turned and saw me.

“Morning,” said the older man. His face was neither friendly nor unfriendly.

“Morning, sir,” I said.

“Morning,” said the young man.

The water was slowly drying on their faces. They came to the stove and warmed their hands at it.

The girl kept to her work, her face averted and her eyes on what she was doing. Her hair was tied back out of her eyes with a string and it hung down her back and swayed as she worked. She set tin cups on a big packing box, set tin plates and knives and forks out too. Then she scooped fried bacon out of the deep grease and laid it on a big tin platter, and the bacon cricked and rustled as it grew crisp. She opened the rusty oven door and took out a square pan full of high big biscuits.

When the smell of that hot bread came out, both of the men inhaled deeply. The young man said softly, “Keerist*3!”

The elder man turned to me, “Had your breakfast?”

“No.”

“Well, sit down with us, then.”*4

That was the signal. We went to the packing case and squatted on the ground about it. The young man asked, “Picking cotton?”

“No.”

“We have twelve days’ work so far,” the young man said.

The girl spoke from the stove. “They even got new clothes.”

The two men looked down at their new dungarees and they both smiled a little.

The girl set out the platter of bacon, the brown high biscuits, a bowl of bacon gravy and a pot of coffee, and then she squatted down by the box too. The baby was still nursing, its head up under her waist out of the cold. I could hear the sucking noises it made.

We filled our plates, poured bacon gravy over our biscuits and sugared our coffee. The older man filled his mouth full and he chewed and chewed and swallowed. Then he said, “God Almighty, it’s good,” and he filled his mouth again.

The young man said, “We been eating good for twelve days.”

We all ate quickly, frantically, and refilled our plates and are quickly again until we were full and warm.*5 The hot bitter coffee scalded our throats. We threw the last little bit with the grounds in it on the earth and refilled our cups.

There was color in the light now, a reddish gleam that made the air seem colder. The two men faced the east and their faces were lighted by the dawn, and I looked up for a moment and saw the image of the mountain and the light coming over it reflected in the older man’s eyes.

Then the two men threw the grounds from their cups on the earth and they stood up together. “Got to get going,” the older man said.

The younger turned to me. “ ’Fyou*6 want to pick cotton, we could maybe get you on.”

“No. I got to go along. Thanks for breakfast.”

The older man waved his hand in a negative. “O.K. Glad to have you.” They walked away together. The air was blazing with light at the eastern skyline. And I walked away down the country road.

That’s all. I know, of course, some of the reasons why it was pleasant. But there was some element of great beauty*7 there that makes the rush of warmth when I think of it.

美しいですね、確かに美しい!
思わず、気合が入りました。
下線部*3の Keerist は、 Christ を意味するようです。
また、下線部*6の Fyou は、その後の調べで、instead of “if you” だとわかりました。

文学的には、
①下線部*7の、some element of great beauty は何か?ということになるかと思いますが、これについて考えることは楽しいですね。
やはり、great beauty の核になるのは、こんなに貧しいのに、少しでも食べ物に余裕のある時があれば、その時は、人に惜しみなく与える、ということでしょうか。
下線部*4の “Well, sit down with us, then.” いいですね、ここは。
「じゃ、一緒に座って食っていけよ。」くらいでしょうか。
ちなみに、まったく見知らぬ男に対してですからね。
baby が、母の乳を吸う音、これも間違いなく、偉大なる美の要素に入ってくると思います。(後日記1)
結局、このことについてずっと考えていくと、人は仕事(彼らの場合は綿摘み)やお金や品物などよりも、大事なものが心の中にあるよ、ということに行き着くのではないでしょうか。
小さな満足、小さな幸せ、満ち足りた感謝の思い、無い物ねだりをしないというか、無い物ねだりのしようもないことなど、等身大で、ありのままの姿でいることが、実は、心の中に無限大の富をもたらすということについて、作者は指摘いるのではないでしょうか。
いずれにいたしましても、この核心部分には、作者の新約聖書の影響を強く感じます。

②次に、この woman ならぬ、girl の年齢を、どのあたりに設定するかについては興味があります。
僕の意見は、まだ十代のように考えましたが。やはり通常、二十代の女性に対しては、girl を用いないのではないでしょうか。そこから考えて、どうみてもその夫である young man は、おそらくはまだ二十代。そうしますと、これもどうみてもその父である older man は、一読すると、かなりの年長者のような印象を受けますが、年取っていたとしても五十代、もしくはさらに若い四十代ということも考えられますが、ひげの色から四十代前半ではないように思います。
girl 十代説に異論があるとすれば、彼女の主婦業があまりに手慣れていることでしょうか。

③下線部*5の We all ate quickly, frantically, and refilled our plates and are quickly again until we were full and warm. につきましては、旧約聖書の出エジプト記12章との関連で、何か考えられるのでしょうか。
僕には、これでもう12日間も、うまいものにありついていて、さらにガツガツ食べているとは、ちょっと考えられないのですが。
えっ!それで12(日間)を暗示でもってきたのか?
この12ですが、twelve days’ work、twelve days と、2回繰り返されていますよね。
これには、明らかに作者の意図を感じます。
最初に訳した時に、12という数字に、興味をもちました。
何故、12なのだろうという関心です。普通、これで、10日間うまいものを食っているとか、2週間働いたとか、言うのではないでしょうか。
今のところ、僕に考えられることは、
1. 旧約聖書との関係。2. 獣帯の数に等しい12、すなわち黄道十二宮。3. 単に数量の単位としてのダース、dozen。
この内、3 はないように思います。

④非常に謎めいていて、興味深いのは、young man から作者(語り手)が「綿摘み?」って訊かれますよね、「いや」って答える。また、最後にこれも young man から「仕事世話してやれると思うよ。」ってオファーを受けますが、作者は断りますよね。
で、一人でまた country road を歩いて行く、ここですね。
ここで、第三者的な距離ができて、作者が一連の出来事を客観的にみているような感じがぐっと出てくる。
同時に、仕事を求めて、みんなが必死にさまよっている時に、仕事を見つけるのは難しいからと、あるいはまた自分たちだけ仕事にありついていれば、それでいいってもんじゃないよなと、救いの手を差し伸べたのに断られて、じゃ、この人はいったい何をやっているんだ、という曖昧な感じが出てきます。
つまり、よくわからない奇妙な男だなと思われる。でも作者である語り手(ジョン・スタインベック)からみれば、彼は彼で、西部の農家を作家として取材や勉強のために見て回っている訳です。
ここのところの整合性が物語の上で、少しぎくしゃくしている感があります。
しかし、older man は、”O.K. Glad to have you.” と返す。
朝食もたっぷりととらせてあげたのに、ここのところ。
粋とかではない、粋とか、ハードボイルドとかの解釈ではない、何かもっと素朴なものを感じます。
おそらくその本質は、older man がこれまで生きてきた、彼の人生に対する姿勢、そのものの中にあるのではないでしょうか。

次に絵画的には、お話ししたい事がたくさんあり、作者の非常に豊かでスケールの大きな色彩的感覚を感じます。
具体的には、下線部*1や同*2の black-blue ですとか、lavender grey などは、なかなか他の作家に出てこない色彩の表現です。
ポイントとしては、
①移ろいゆく東方の山々の景色の色を、この物語の中のどこかの場面でとらえられるか。
これにつきましては、毎日、森の中で生活している僕には、そしてもうすっかり樹木の葉が落ちた特にこれからの季節は、山の rims や、skyline は、日常的でとらえやすかったです、と言いますか、今朝も山のへりからのぼる太陽を猫と見つめましたが、問題はその色です。(後日記2)

②冒頭の作者が足をひきづりながら歩いて行く先に見えたテントの色をとらえ切れるか。

③これも冒頭の古い錆びた鉄ストーブのひびや割れ目からしみ出るオレンジの火、さらに threw dancing reflections on the tent.
このあたりでしょうか。

この業界の方でしたら、代表作「怒りの葡萄」を読んでも、「ハツカネズミと人間」や「赤い小馬」、そしてこの短編を読んでも、もう即座に連想すると思いますが、執筆された当時の西部の様子や人物描写につきましては、写真家 Dorothea Lange (1895-1965) の大恐慌時代の作品を観るに限ります。
そこで、先の文学的にはの②に戻りますが、彼女の写真を凝視すればするほど、例えば、この被写体の女性に対しては、通常、woman を用いるだろうな、とか一つ一つ具体的に考えていきますと、作者がこの短編の中で、girl と表記している以上、やはり十代なのではないだろうかと、思えてしまうのです。

さあ、ここから、転じて、”Breakfast for the girl” のタイトルで絵が描けるか?
もちろん、この女の子です。ですから、日本語からの訳出にあえてこだわるなら、”Breakfast for this girl” です。
これは、素晴らしいですね、夢がありますね。
“Breakfast for the girl” が描けたら、どんなにいいだろうかという、それはこの物語から僕が得た自分への励ましであり、勇気や希望です。

総じてこのお話は、バランスに優れていると言いますか、まとまりがあると言いますか、絵画的には、なぜか今、とっさに物語の内容や性質上から、水彩画を思い浮かべましたが、J.M.W.Turner (1775-1851)の作品を持ち出すまでもなく、絵画のもつ荘厳さにはかなわないのではないでしょうか。
別に優劣をつけるような問題ではありませんし、ただ文学と絵画の両分野をあえて比較するならという程度の意味合いですが、最初のテントが見えてきたシーンをもっとぐるぐると、思いっきりぐるぐるとふり回せば、物語のバランスも当然崩れてきますし、支離滅裂になって、面白かったのではないのかなと、思いました。
ちなみに、水彩画の本場イギリスには、ターナーと同世代に、Thomas Girtin (1775-1802) という夭折の天才がいました。
この業界の方はもちろん別にして、日本ではこうした天才もあまりと言いますか、ほとんど知られていませんね。ターナーよりも天才です。僕は実物の作品を、Tate Britain で観てはっきりとそう思いました。
ターナー自身ももしかしたら、こいつは俺よりもすごい才能だなあ、と感じていたのかもしれません。
ああ、そうか!ターナーには、それがあったのかもしれないですね。
若くして亡くなった友の分も、自分は頑張ろうという、その思いが終生彼の心の支えとなり、立ち向かう気迫や執念となり・・・。
やはりなんといっても尋常ではありませんから、年老いてまでの彼の制作ぶりは、桁が違うと言いますか、並外れています。

日本の展覧会は、「The 固定」です。
50年後に、すなわち2071年に、印象派展を開催している可能性はかなりあります。
とても素晴らしいことでもあり、同時に、やや残念なことでもありますね。

どうして、このテキストにたどり着いたのかにつきましては、長くなりますので、また別の機会にしますが、会話の部分を、必ず間を一行空けてくるスタイルには、しびれました。

2021年11月14日
和田 健

後日記1:この baby なのですが、この作品が発表されたのが、1936年ですので、まあ普通に考えて、その前年に作品が執筆されたと仮定(あくまで仮定です)すれば、1935年頃の生まれかなあ、と思います。
そうしますと、10才で第二次世界大戦の終わりを迎えていたことになり、これは、1935年生まれの僕の母の年齢とぴったり一致いたします。
そうしますと、この物語は、私 (baby) はまだ母の乳を吸っていたので、まるで記憶にないけれど、ある寒い朝、カリフォルニアの私たちの貧しいテントを訪れた行きずりの見知らぬ男が書いた、私の父と母と、その頃はまだ若かった祖父の物語を、私のちょうど子どもの世代にあたる海の向こうの一日本人が、それから85年もして読んだ、という構図になります。
この全体の構図の中の何かに、僕は異常に惹きつけられました。
この baby のその後の人生の物語は、どうなっただろうかという・・・、プラス旧約聖書の読み込み、例えばヨセフの物語などから、僕の頭の中の何かが突破できないだろうかという強い思い。

(注)その後の調べで、PENGUIN BOOKS 版の資料から、この作品は、1936年11月9日発行の the Pacific Weekly Vol. 5 に、初めて掲載されたこと、1934年の8月の終わりごろまでには、草稿が書かれていたことがわかりました。

後日記2:猫を抱いて朝日に向かいながら、試してみたのですが、猫の目に朝日がはっきりと反射して、すごく、それは本当にきれいなんですね。
そこで思ったのですが、この場面で、older man の目に光が反射するのではなくて、このシーンで、テントから飼い猫が飛び出してきて、そこいらの物の上に座り、じっと山の向こうからのぼりくる陽光を見つめる、という設定はどうでしょうか。
つまり、登場人物は、baby を入れて全部で5人ですよね、ここで一回人間以外のものに、ベクトルをふり向ける、という流れで、休憩、ふっと一回息がつけます。
その分、5人だけで展開してきた物語の緊迫感が損なわれますが、何か斜線が一本引けるように思います。
これは僕が、絵画で「間が抜けている」と呼んで大切にしているものに相当します。
その場合、作者がこれだけ色彩について、詳細に描写していますので、問題は猫の色ですね、つまりはその柄です。
僕は、咄嗟にサビかキジトラを連想しましたが、皆さんは何柄を思い浮かべましたか。
絵画的には、ロシアンブルーが入っている雑種などが登場すると、ほぼ完璧でしょうか。

2021年11月17日
和田 健

後日記3:今日になって気づいたのですが、男3人が先に食卓として使っている荷箱のところへ行って、まわりの地面に座りますよね。
その後、食事を荷箱の上に並べ終えてから、girl も来て荷箱のそばに座りますよね。
これは貧しくて椅子もないからだと、そのことを繰り返し浮かび上がらせるための強調のようなものだと、これまで単純に解釈していたのですが、違うのではないか、別の意味が隠されているのではないかと思いました。
確かに最初に訳した時に、変だなあ、いくら貧乏でも直接地面に座り込んで食事をするのかと、そのへんのバケツでもなんでもひっくり返して座ればいいじゃないかと、心に何かが引っかかるような違和感があったのですが。
確信はもてませんが、気になりますので、少し調べてみます。

2021年11月18日
和田 健

後日記4:冒頭の部分を繰り返し読めば読むほど、この物語は事実なのだと思います。
つまり、このお話は作者の創作ではなく、作者が西部の農家を回っていた時に、実際にある朝、経験した出来事なのだと思います。
そうしますと、結論と言いますか、まとめになりますが、作者は、この baby を含む親子4人を聖なるものとして、聖家族としてとらえているのではないでしょうか。
この世の中には、こんなに飾り気のない人々も現実にいるんだなあと、どちらかというと、作者は驚いた、衝撃を受けたのかもしれません。
そのことが、僕の中で、やはり後日記3 を支持する根拠として浮かび上がってくるのです。
聖なる家族が、荷箱のそばに座り込んだ時、作者は、思わず内心、声にならない喜びの声を発したのではないでしょうか?「うぉー!」と。
いろいろな英文の資料にも目を通してみましたが、これについては一様に、貧乏なので椅子もテーブルもないという観点ばかりでした。
僕は、違うのではないかと思う。これは何か旧約聖書の観点からきているのではないかと感じます。
絵画的には、この荷箱の食事のシーンに聖なる三角形を観てとることができるように思います。
すなわち、older man、young man、girl & baby なる三角形です。

また上記12の数字について触れている資料は、一つも見当たりませんでした。
つまり、誰も問題にしていませんが、僕は作者からのメッセージを明らかに感じます。
このように、作者が意図的に繰り返している時は、まず大体何かあります。
少なくとも、何かあると思って読み込んだ方が賢明です。

最後に、いろいろな物騒な事件の起きるコロナ禍の今こそ、また格差社会のこうした難しい時代にあればこそ、この作品は、是非とも読まれるべき実に貴重な温かい物語だという気がいたします。
そしてひとたび、もっとより多くの方に、この作品が知られるようになりますと、短編は誰もがすぐに読めることから、短い作品であることの強みを大いに発揮いたしますね。

以上ですが、僕の課題が、3点残りました。
1. 何故、地面に座り込んで食事をしたのか(これについては解明できる気がしています)。
2. 12の数字の意味するところ。
3. 内緒!にしておきたいところですが、僕の仕事上、もうお分かりですね。早速、制作に入りました。

2021年11月20日
和田 健

後日記5:昨日、雪かきをした後、薪ストーブの火を見つめながら、ぼんやりと考えていたのですが、この物語全体を振り返って、改めて考えてみれば、girl の台詞は、”They even got new clothes.” のたった一つしかないんですよね。
その前の young man の話を受けて、「それでね、彼らは、服を新調したのよ。」くらいでしょうか。
12日間の労働で得た賃金で、そしてこれは「怒りの葡萄」を読めばよくわかるように、明らかに日給であると思われますが、男二人は、自分たちのダンガリーのズボンと、さらには上着までをも新調している。
それに対して、彼女自身はどうかと言えば、新しい服を買ってもらうこともなく、色あせたコットンのスカートとウエストを着ているんです。
つまり、着古した服を相変わらずそのまま着ている。
でも、不幸な感じがまったくしないんですよね。
この唯一のセリフの中に、陰湿な響きは感じとれない、嫌味やとげがない。
彼女は、幸せそうですね。
そして、作者は彼女が幸せであることを、明らかに感じとっている。
ここのところに肝心なポイントが、何か秘められているように思いました。

2021年11月29日
和田 健

お断り:この短編物語につきましては、インターネット上に、細かい点で語句に違いのあるテキストが、実際に何例か見られましたので、僕としては、PENGUIN BOOKS 版に準拠して、一字一句可能な限り、チェックしました。