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Today’s Worst Painting No.5

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 15 August 2020 by kenwada

2020年8月15日、 Each Painting 19、Total Painting 76。
今日のワースト選びは簡単です。全没だからです。4枚とも全没。お話にならない、論外、問題外、お話以前、中でもこれが一番ひどい!
原因は自分ではっきりわかっていて、いつも制作を始める前に、このことは以前当サイトに書きましたが、金科玉条のごとく、1. いい加減に、2. 無造作に、3. がさつに、4. ぶっきらぼうに、5. すっぽ抜けている、6. ぶっ飛んでいる、7. 適当に、8. 見ないで描く、(8. のみ以前に書いた記事に加わっています) の8項目を唱えてから描いているのですが、描きたい気持ちが強い時、意欲のある時によくありがちなのですが、そこにマインドをセットすることなく、つっかけて走り出してしまったからです。文字通り急に来客があって、サンダルをつっかけて応対してしまう時のあの感じです。自分で言うのも何ですが、なかなかこの8点にマインドを作り上げてくるのは大変なんです。集中して描く、一生懸命に描く、丁寧に描く、これなら本当に誰でも毎日できます。

前回の Today’s Worst Painting No.4 の記事の中で、ゲルハルト・リヒターが芸術家になる前、歯科技工士であったことに触れましたが、彼も僕の造語「お針子から重量挙げ選手に」「重量挙げ選手からお針子に」であった訳です。この象徴的な意味合いとしての造語については以前当サイトで説明させていただきました。僕がこのサイトの中で繰り返し使用している言葉は、すべて象徴的な意味合いとして使っています。例えばオリンピックの重量挙げ選手の中にオフ時間に編み物をする人は探せばむろんいると思います、そういうことです、ごめんなさい、次元が低くなりました。
それで話を前に進めます。フランスはパリ時代にモンマルトルのアパルトマンの小さな部屋で、つくづく考えたことがありました。僕はその当時彼らのことを「オール・スター」(この意味についてはまた後日)と呼んでいたのですが、どうして僕の好きな画家たちは、偉大な芸術家たちは、かくも揃ってこうも転向組が多いのだろう、具体的には以下のようにノートに矢印を書いて一心に考えていました。
一例をあげますので、皆様もいくつ正解できるかやってみてください。
ポール・ゴーギャン→株式仲買人からの転向組
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ→画商見習い、炭鉱地区の牧師等からの転向組
アンリ・マティス→法学部からの転向組
ピエール・ボナール→同じく法学部からの転向組
ワシリー・カンディンスキー→モスクワ大学医学部からの転向組
ジャン・デュビュッフェ→ワイン商からの転向組
まだまだ枚挙にいとまがありませんが、リヒターまでもがこれに加わりました。
これはどうしてかと言うと、二つの大きな理由があって、一つは偉大な芸術家になるには高い知性、知力が要るということです。
もう一つは、僕の上記の造語になりますが、異分野の業種を組み合わせることで初めてそこに大きな創造性、創造力が生まれるということです。これについては、アップルの創業者のスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学のスピーチの中で完璧に説明していて、それを聞いていてやはりなと思いました。僕はあの演説を英語の勉強のために何度も繰り返して YouTube で観ました。
今はこうして簡単に書いていますが、パリ時代にそれがわかったことは、その後の僕にとってやはりかなり大きなことでした。
それでは、また。ではなくて、本日でこのワーストの連載を終わります。
この全没状態 = nothing から絶対にもっていかないといけない。
今日は色と形に遊んでもらうあの感覚がなかったな。
絵画を支配してはいけない、コントロールしてはいけない、自分が絵画に君臨してはいけない、支配される側にいないといけない、いつもオロオロオロオロして、常にヨタヨタヨタヨタと「おお〜、おお〜、次はそう来るか」とかうめきながら、色と形に勝手に決めて進めていってもらえばいいんです。自分が描くことなんて全くないんです。自分は絵画の後ろからノロノロと追いかけていく感じで、自分が絵画の先頭切って張り切って走っちゃいけない。今日は力んで肩に力が入ってしまった、でも明日はすっぽ抜けるでしょ。

Today’s Worst Painting No.4

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 14 August 2020 by kenwada

2020年8月14日、Each Painting 18、Total Painting 72。ダメ、没。
突然「平」の字が出てきた。コロナ禍の時代なのでそれもよいかもしれない。
白でチマチマ塗り上げていくことはできるのだけれど、ここは一度 View だな。
どのタイミングで Judge するのかについては、GERHARD RICHTER の “PAINTING” という2012年にドイツで製作された DVD を何度も繰り返し観て研究しました。
つまり彼の絵画は、Plan→Paint→View→Judge→Repeat と進んでいくのですが、この中で一番難しい移行(→)を求められる View から Judge へ具体的にどのくらいの日数をかけて判断するのかについて体感しながら学ぶことができます。
当たり前ですが、現役の世界最高峰の芸術家から教わることはたくさんあります。
インタビューはドイツ語ですが英語の字幕がついています。
彼が芸術家になる前に医者になろうとしたり、歯科技工士 (dental technician) の仕事に就いたり、いろいろ上手くいかなかった話も出てきます。
今日は少し先が見えてきた Painting が一枚ありましたが、この連載はワーストなので。
没の連鎖の中で自分にこれまで観えなかった形や色が出てきた時、キャンバスに自然に食い入るように引きずり込まれてきた時が待ったをかけるタイミングです。つまりどの段階で終わりにするのかについて現時点で僕がたどり着いた結論は、「この絵画を残しておきたいかどうか」です。キーワードは「保存」です。自分に「これ保存かけるのか、どうなんだ、ええ?」とよく自問します。意外にシンプルな境地にたどり着きました。でもそれでいいんじゃないかと思う、あくまで今の時点の僕の考えですけれど。いいんじゃないかと思う、というのはつまりその考え自体も破壊してしまえばいいからです。つまり実は何も関係ないんじゃないかということです。
それでは、また。

Today’s Worst Painting No.3

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 13 August 2020 by kenwada

2020年8月13日、Each Painting 17、Total Painting 68。
ひょんなことからバランスを崩すタイミングが突然とれ始めた。
これだから Painting は面白くてやめられない、絵画はとにかくバランスを切り崩す/切り裂くことが大事、切り崩す/切り裂くというのは、人間は放っておくと自然にバランスをとろうとするから、それをはずす。
小説家だとここまで偶然の要素を取り込めないのではないか、やはり言葉を一文字一文字起こしていく仕事だから、専門外でよくわかりませんけれど。
でもジェイムズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」のあのバババダ・・・はよかったな、あの部分の文章原文では、
bababadalgharaghtakamminarronnkonnbronntonner-
ronntuonnthunntrovarrhounawnskawntoohoohoordenenthur-
nuk! *¹
となっています。あそこまでバランスを壊すことを1939年にすでにやっていたということがすごい!マルカム・ラウリーの「火山の下」の中にもジョイスの明らかな影響がみられます。バランスなんか糞でも食らえ、という感じだな。
今、条件反射的にガルシア=マルケスの「大佐に手紙は来ない」のラストを思い出しました(laugh)。
やっぱり、バランスのとれた絵画、バランスのとれた人間=現代の中高年の立派な社会人なんか観ていても話していても面白くも何ともない、それを切り崩してくれるのは、またまた話が同じところに戻ってしまうけれど、若者なんだと思う、若者しかいないんだと思う。
さあ午後はダンテの「地獄編」を続けよう。ところでフランチェスカのくだりなんだけれど、あそこを読んで日本人が即座に反応するのは難しいのではないか。あそこは欧米人は劇的に感動するところなんだろうな。それとも僕の一般教養が足りないせいだろうか。ああ、でもこれを書いていてその攻略法を見つけました。
なるほどな、その手があったか、そのアイデアで一歩一歩進めてみよう。
それでは、また。

*¹ JAMES JOYCE, Finnegans Wake, Faber and Faber, p3

Today’s Worst Painting No.2

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 12 August 2020 by kenwada

2020年8月12日、Each Painting 16、Total Painting 64。ダメ、没。

Today’s Worst Painting No.1

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 11 August 2020 by kenwada

2020年8月11日、Each Painting 15、F30号を4枚同時に制作しているので、そういう意味では Total Painting 60。ダメ、没。attraper=catch できない。
今日からその日のワースト・ペインティングを順次掲載していったらどうだろうか?その没落と下降の連載の展開の中にある種の真実が嗅ぎ出されないだろうか?
この後午後から、2016年12月以来のダンテ「神曲」の再読、今回は平川訳に加えて山川訳、SINGLETON の英訳も合わせて読み進める。
それが終わったらと言っても何ヶ月かかかるけれども、いよいよ T.S.Eliot の MURDER IN THE CATHEDRAL に入る、すでにテキストがイギリスの本屋から届いている、そもそもトマス・ベケット大司教の予習をしておこうと思って、というのはある程度予習しておかないと歯が立たない感じがしたから、それで1951年製作の同名の映画を観たらあまりにも暗くて、これをこの真夏の8月にやるのかと思ったら気が滅入って、それでダンテを始めたのでした。
何で毎日そんなことをしているのかと言うと、主な理由は二つあって、一つは自分の絵画のインスピレーションを少しでも深めかつその幅も広げたいため、もう一つはフランスに丸7年間住んで痛感したことだけれども、ヨーロッパ人はそのくらいのことは一般教養としてごく普通にクリアーしてくるため、やっておかないと全く太刀打ちできないから、もちろん彼らも人によりますが。
そんな訳で人はみんなそれぞれ戦っています。若い人には現代の中高年の立派な社会人なんかにとらわれないで、とらわれないでというのは、崇めたり、モデルケースとしたり、尊敬したりなんかしないで、あんなふうになりたいだなんて思わないで、是非創意工夫を凝らして自由にのびのびと創造性豊かな人生を築き上げて欲しいなと思います。ハングリー精神、がめつさが他国の若者に比べて少ないのが致命的な大きな欠点だけれども、今の日本は若者の方が人柄がいいと思う。
いつの時代も世の中は若者がつくるものだと思う。
若者が萎縮せずに存分に活躍できる社会であって欲しいなと切実に思う。
若者が真に崇めるべき人物は、実は同年齢の、具体的には10代、20代の他国の若者の中に存在しているのであって、天才が今世界の若者の中にたくさん生まれているという事実を SNS を使って情報を集めて欲しいと思う。例えばスウェーデンの17才の女の子が訴えていることは何なのか、パキスタン出身の23才の女性が考えていることは何なのか、それらのことをついうっかり見過ごして、今日は何を食ったとかそんな投稿ばかりしていると、若者がやがて中高年になった時に(必ずなる)、その姿は現代の中高年の立派な社会人と残念ながらほぼ似たり寄ったりのものになると思う。
それでは、また。

2020年8月11日
和田 健

The Creatures on Earth!

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 8 August 2020 by kenwada


みんな、1才の誕生日おめでとう。
イチ、ヨキ、ちい、大将、そして福・・・・。
みんなで体を寄せ合ってまだ小さかったのに真冬の厳しい寒さ、一番寒い時でマイナス18℃くらいになるのによく乗り越えたね。みんなで誕生日を迎えられなかったけれど、いつもたくさんのインスピレーションを与えてくれてありがとう!
卵だって2020年2月7日の初産から昨日8月7日までのちょうど半年間で695個も産んでくれました。お母さんはスーパーで卵を全く買わなくなりました。養鶏の世界には鶏同士の突っつきを防止するために生まれてすぐに雛の嘴を切る断嘴(だんし)という恐ろしい儀式があるけれど、お父さんはそれが嫌で孵卵場の方に頼んで特別に断嘴をしないでみんなは我家に来たんだよね、でも誰もいじめたりしないで、みんなで仲よく力を合わせて一年間過ごしてきて本当にえらいね。今はトコの具合が少し悪いからみんなでよく注意して見守ってあげてね。福がいなくなって女の子ばかりで心細いだろうけれど、特に大空を舞うノスリが襲ってきた時なんか、あいつは気は優しくて力持ちでいい男だったからなあ、いつも体をはって守ってくれていたからなあ。
お父さんの新しい作品 “Untitled ーfrom the series F Paintingsー” を待っていてください。年内には必ず仕上げるから。


Cher les amis,
Bon anniversaire, tous!
Ichi, Yoki, Chii, Taishô, et Fuku…….
Vous avez un an aujourd’hui!
Vous m’avez beaucoup donné l’inspiration pour mon travail.
Merci, les enfants!


Day was departing, and the dark air was
taking the creatures on earth from their la-
bors;*¹

例えば自然の中で猫を飼ったことのない人には、
猫が朝の敷地=縄張り内の見回りから始めて一日中どれだけ労働しているかがわからない。
例えば庭の片隅でもいい、一度でも身近に鶏を飼ったことのない人には、
鶏が夜明けとともに日が暮れるまで働き詰めで一日中どれだけ労役しているかがわからない。
それがわからなくて詩人だとか芸術家だとかはたして言えるのだろうか。
でもそんなことを知らなくても生きていくことに別に支障はないから、
現代では胸をはって立派な社会人だと声高らかに宣言することはできる。

*¹ DANTE ALIGHIERI, The Divine Comedy, CHARLES S. SINGLETON, Inferno CANTO II, line 1-3
この美しい3行の詩の肝は the creatures にあると思います。ダンテのイタリア語の原文では li animai となっていて、僕はイタリア語の古語や地方語のことがよくわからないので、これが何の複数形を指しているのかがわからない。それぞれ山川訳では「生物」、平川訳では「人や動物」となっています。それらと照らし合わせて考えると creatures と英訳した訳者の力量や気迫には凄まじいものを感じる。anima (女性形で li=gli との整合性がない) や animo (男性系だが複数形 animai との整合性がない) からの類推で、もしダンテが地上の「魂」はすべて労働すると考えていたとしたら、ダンテにとって猫や鶏が労役するのは子どもの頃からむしろ当たり前の光景であり、一日の終わりに地上のすべての「霊魂」がその労苦から解放されると実感していたとしたら、大詩人の声はあなたを現代の立派な社会人から必ずや救い出してはくれないだろうか。


2020年10月で丸12年になる当サイト始まって以来のクイズです。
母親に抱かれている後の偉大な芸術家は誰でしょう?
写真をクリックしていただくと答えがわかります。
「幼少期に鶏を見つめ続けたことと生育後の彼の分裂症的な絵画との関連性についての一考察」という論文があれば今すぐにでも飛びついて読むのですが、残念ながら現在のところ僕には見つけられていません。
「和田さん、そんなのじゃ論文のテーマにもなりませんよ」
「わからないよ、教授が天才であれば、君、今すぐにでも始めなさい」とかね。
しかし、素晴らしい写真だな。お母さんが左手でまさぐるポケットには乾燥トウモロコシの粒、右腕一本で軽々と息子を抱き抱える母親の大きな愛、それに安心してすがる子どもの絶対的な愛、母親の肩越しに幼心に動物の中に見た真実の愛は彼の終生を通して変わることがなかった、やがて訪れるアルコール依存症、破滅へとひた走る彼の生涯の不吉さの前兆が、ものの見事なまでにこの一枚の写真に凝縮されているように思います。下降。完璧なまでの美しさ。
ところで疑問、一体誰がこの写真を撮ったのだろう。庭先のスナップ写真をわざわざプロの写真家を呼んで撮らせたとは思えないので、要するにこの天才的な写真を撮ったのは家族の誰なのだろう?これだと本格的なクイズになるな。


最後に一句、
國士氏*²の 山羊は彼方へ 去りにけり

*² 岸田國士氏
くにおしの やぎはかなたへ さりにけり

2020年8月8日
和田 健

Now I’m Fighting to Create My New Series, “Green and White Paintings”!

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 10 July 2020 by kenwada

My studio photo on July 10, 2020.
Now I’m fighting to create my new series, “Green and White Paintings”!
I’ve found that the combination of green and white colors is really more elegant than I expected. I think that the one is also gorgeous at the same time! Ça m’amuse beaucoup! I do my best!
Ken WADA

今、緑と白の組み合わせをメインテーマに、脳をずらす/壊す/切り裂くペインティングを大きな課題として取り組んでいます。先日、そのための日常的に生み出す手法を思いつきました。同時にこれは顔真卿の「祭姪文稿」の要素も取り入れられる。もうここまで来たら少し先が見えてきました。取り組み初日の2020年6月19日のアトリエの写真と比べてみるとその変遷がよくわかります。何て言ったらよいのか、例えばここに車の好きな人がいて、すごく車に詳しくて、車の絵を描いたとします。でもそれを観ても何にも面白くない、自分の脳の言わば意志命令通りに忠実に描いているわけだから、お上手ですね、得意分野ですね、としか言いようがない。全然ロックじゃない、ジャズでもない、やっぱり出てきた形が自分でも、えっ、こんな形知らなかった、えっ、何この形、こんな形が僕の心の中にあったんだ、っていう衝撃がないと、脳が揺さぶられないと、それを刺激といってしまえば、あまりにありきたりの言葉になるけれど、やっぱり脳がずれていないとね、全然観ていても描いていても面白くも何ともない、どのくらいずれていると美しいと感じるものがあるかと言うと、T. S. Eliot の The Hollow Men (1925) の the first stanza の中に静かで意味のないものとして、rat’s feet over broken glass/ In our dry cellar が出てくるけれど、そのくらいずれていないとね、美しい、確かに美しい、普通そのような表現を引き合いに出してこないものな、その乾いた地下貯蔵室の “broken glass” にまたがるネズミの足を色と形にしたいんです、僕は。ここは全力でやります。
和田 健

Journey of the Magi

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 6 July 2020 by kenwada

1927
written by T. S. Eliot (1888-1965)

‘A cold coming we had of it,
Just the worst time of the year
For a journey, and such a long journey:
The ways deep and the weather sharp,
The very dead of winter.’
And the camels galled, sore-footed, refractory,
Lying down in the melting snow.
There were times we regretted
The summer palaces on slopes, the terraces,
And the silken girls bringing sherbet.
Then the camel men cursing and grumbling
And running away, and wanting their liquor and women,
And the night-fires going out, and the lack of shelters,
And the cities hostile and the towns unfriendly
And the villages dirty and charging high prices:
A hard time we had of it.
At the end we preferred to travel all night,
Sleeping in snatches,
With the voices singing in our ears, saying
That this was all folly.

Then at dawn we came down to a temperate valley,
Wet, below the snow line, smelling of vegetation,
With a running stream and a water-mill beating the darkness,
And three trees on the low sky.
And an old white horse galloped away in the meadow.
Then we came to a tavern with vine-leaves over the lintel,
Six hands at an open door dicing for pieces of silver,
And feet kicking the empty wine-skins.
But there was no information, and so we continued
And arrived at evening, not a moment too soon
Finding the place; it was (you may say) satisfactory.

All this was a long time ago, I remember,
And I would do it again, but set down
This set down
This: were we led all that way for
Birth or Death? There was a Birth, certainly,
We had evidence and no doubt. I had seen birth and death,
But had thought they were different; this Birth was
Hard and bitter agony for us, like Death, our death.
We returned to our places, these Kingdoms,
But no longer at ease here, in the old dispensation,
With an alien people clutching their gods.
I should be glad of another death.

今日は朝から何度もうなりました。
美しい、美しい、なんて美しいのだろう!
およそ人間が作ったものの中で、この詩はちょっと考えられないほど美しい!

特に the second stanza の the word “temperate”、この一語でそれまでの the first stanza の “cold” や “winter” のイメージから一気に完全に決着をつけにきている、そのおそいかかってくるタイミングというか間合いというか、そこに何か異様なものを感じる、引き続いて、
“temperate valley” と“tavern” の描写、
“water-mill” が夜明けの “the darkness” を “beat” している、
“the lintel” の上に “vine-leaves” が絡みついた “tavern”、
“hands-feet” でもってきて、銀貨をかけてのサイコロ賭博、

the final stanza でそれまでの “we” を “I” に突然切り替えてくる思わず鳥肌が立つような場面転換の鋭利な(鋭利ななどという凡庸な言葉では作家に本当に申し訳ないですが)感覚、何か性的な感覚、
そしていよいよこの詩の核心であると僕には思われる一語 “agony”を登場させての、
“this Birth was/ Hard and bitter agony for us, like Death, our death.”
このイエスの誕生は我々にとって “agony” だった、さらには、
“With an alien people clutching their gods.”、
自国の民は今や “alien people” だということ、
the final line の “I should be glad of another death.”
この詩は今の僕の心の支えです。
すごいです、これは。人間の崇高。人間の気品。人間の高貴。人間の欲望。すべてが入り乱れて一つの巨大なドラマの塔を打ち建てている。でも一番感じるのは人間の再生であり更生なのではないでしょうか。最後の一行、専門家はどう日本語に置き換えるのでしょうか?僕自身は仏教徒ですが、大学の英文学の専門家とキリスト教の牧師や司祭等の専門家と二通りの意見を是非きいてみたいです。僕個人は「(生まれ変わった)(もう一つの)別の死をこそあえて喜んで望む、受け入れる、迎えるだろう。」という感じでしょうか。(この原文にはないこそあえての感覚が大切だと思うのですが)

I started My New Works this morning!

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 22 May 2020 by kenwada

今日から新しい4作品に着手=Paint1。
珍しく初日の段階の写真を撮ってみる。
今度のテーマ=Plan は下地に白、上にピンクと黄と青。
僕の場合は絶対に最初の Plan 通りにはいかないので、今はまだどうのこうの言っているような段階では全くないので、描いていてとても楽しい。
毎日が今朝のような初日だったらいいのに。煮詰まってくると、一手一手がまるで詰将棋のようになり、とてもこうはいかない。
この段階でまず確認しておくことは、個人的に「面取り」と呼んでいるけれど、
色ごとの面積比、これをしっかり把握しておきます。
あとはこの場合だと、ピンクの色にどのピンクを使うか、つまりピンクが主要色になる予感があるから、青はどの青でいくのか、黄はまずまず決まったな、とかそういうこと。ピンクを2種類、青を2種類、試しました。
さてさてこの後、何色で塗り潰しが来るのでしょうか?
基本的には補色で来る訳だけれど、例えば最終的に Green Painting にもっていきたいのなら下地に赤を多く入れる、でもそんなことにとらわれなくていい、もうそんなことにとらわれなくていいんです、もうそんなことからは自由になりました。絵画は生き物だから、絵画は先が読めないから、絵画は展開が見えないから、だからこそ決して飽きることがないんです。色と形の変化に人間の脳が決して追いつけないからこそ絵画は楽しいのです。そこで脳のために時間を稼ぐ、猶予時間を作り出すことがどうしても必要になります。先日そのためのちょっとした施策を思いつきました。早速実行してみるつもりです。別になんてことはない手段をどうして今日まで思いつかなかったのだろう?
それからちょっと違う話になりますが、こうした日々の制作に対するモチベーションも要らない、元々が僕の生活はもうずっと以前からモチベーションなしでも必死に生きてきたようなものだから、モチベーションなんて静かな気持ちから本当に要らないんです。つまり、個展があるからとか展覧会があるからとか多くの人に観てもらえるからとか、だから意欲・動機づけになって僕は頑張れますとか、これからも毎日頑張りますとか、要らないんです。モチベーションなんてなければないで生きていけるんです、元来が余分なものなんです、本当です。要は慣れの問題なんです。腹のたるんだ贅肉とまるで同じだ、おっとこれはいけない、気をつけよう!
個人的には今日の制作で左側の2枚がピタッと繋ぎ合ったのが面白かった、これはこの配列で並べたことも含めて全くの偶然です。こういうのは終わった後、ちょっとクスッと笑えます。
2020年5月20日
和田 健

後日記
2020年5月22日 Paint2、すなわち選択は白。右から1番目上がる。右から2番目、下がる、没、ダメ。右から3番目、ごく普通、ただ一部分観るところはある。右から4番目の左角に une obrique が欲しかった。こんなのは明日刷毛で入れて即確認。であれば、右から1番目を一つのモデルケースにして全体を高められればよさそうなものだけれども、絵画はそうはいかない、ここが絵画の実に面白いところなんです。僕の人生経験から言って、他の分野の仕事であれば一つの雛形をモデルにしてもう少し何か作れる、もう少し何かある程度できる、でも絵画はそうはいかない。一点一点奔放なんです、解放なんです、一つに集約しないんです。でも人間は論理的思考によってつい集約したがる、ついまとめたがるんです。人間ってホントまとめるのが好きですよね。だから前にも何回もこのサイトに書きましたように色と形に遊んでもらう感じが大切で、色と形を支配しない、コントロールしない、征服しようとしない。解放と集約を履き違えない。この後、Paint3 はピンクで見えているので、選択は楽です、Paint1 でピンクはシェルピンクで、とりあえず行き詰まるまではシェルで確認済み。明日の朝シェル入れてまたView、さあ〜いくぞ〜って感じ。そしておそらくその後、黄、青と入れてまた白、この4色入れを3回繰り返すと思います。4回かもしれない、その時点で次のキーワード、個人的に「全取り替え」と呼んでいるものがおそらく出てくる。feeling が fade するからです。これは文字通りトランプの手札の全取り替えと同じです、全てを捨てないと何かを得られない。じゃあ、この後その通り進んでいくのかと言ったら、これが進まない。つまり絵画は手順化・法則化できない。ここがこの仕事の実に面白いところで、繰り返しになりますが他の仕事であればもう少しマニュアルというものが必然的に浮かんでくると思う。つまり絵画には熟練できないのだと思います、いつまでも一年生と言うか、あと20年続けたとしても熟練できないんだろうな、引き出しや経験が増えるだけで。そこが絵画の魅力と言うか生物(なまもの)と言うか、本当に面白いところなんです。でも熟練できない仕事でよかったな、熟練して大御所みたいになって・・・・そんな人生はまっぴらだ!
ね、モチベーションなんて要らない!

続後日記
2020年5月23日 Paint3終了。右から2番目、少し上がってきた。
ではその熟練できない絵画の、集約できない絵画の、その制作の繰り返しの日々の人生をこれからどうやって生きていくかと言うと、これが実は中心にあるものは愛なんだな、ようやくそのことに気がつきましたってえらそうに言っても、それがわかった、あるいはつかみかけてきたのは、本当にここ半年くらいです。でもわかった。絵画・人生に一番必要なものは愛です。そんなことは若い頃はわからなかったな。でも年齢とともに愛の要る仕事でよかったな、年齢とともに愛の増える仕事でよかったな。年齢とともに愛の増える人生でありたいです。
そして最終目標は顔真卿の「祭姪文稿」、この恐ろしく美しいものを絵画として描く。「祭姪文稿」をピンクで描けない訳がない、青で描けない訳がない。一人の中国人にできたことが一人の日本人にできるかな、わからない、挑戦してみないことにはわからない。しかしちょっと目標が高すぎやしないか。「祭姪文稿」の絵画化はおそらく同じく最終目標である「鳥類の聖書」でもあり、僕の中で重なり合うのだと思います。うん、わかった、つまり、高すぎる目標の場合は、同じだと感じるもの(事例)を増やしていけばいいんだ、そこから実は真正面が見えてくるかもしれない、見えてこなければ即次の手段を考える。失敗したら素早く立ち上がる、ドロドロそんなところに腰掛けていない。明日、Paint4黄とPaint5青二ついきます。
毎日、こんなことを書いていると延々と続いてしまうので、この4点の完成まで一応ここでやめますね?

ーやめません。今朝(2020年5月24日付)の The New York Times の一面には魂を激しく揺さぶられた。これがメディアだろう、これこそがジャーナリズムの気迫だろう。この一面の実現は、アイデアだとか企画だとかという次元の簡単な話ではない。リベラルな文化の彼我の差を痛感した。会ったこともない一人一人の何故か笑顔が行間から立ち昇ってくるようだった。みんな、もっと生きたかったんだろうな。みんな、もっと生きていたかったのだろうな、という思いに胸を締めつけられるようだった。さあ、生き残った僕は、生きている僕は、せめて絵画の制作を頑張ろう。 上述の最終目標はもしかしたらもうすぐそこまで来ているのかもしれない。昨日、制作の後、筆を洗っている時にふとそう思った、時間にして10秒くらい。すぐに「ええ〜、まさかなあ〜」、というつぶやきにとって変わられた。最終目標はあと何十年も努力してようやく得られるかもしれない境地だと常に思ってきたから。お前こそがリベラルな文化の少なき民そのものだ、どうしてすぐに「まさかなあ〜」なのだ。そんな条件反射ばかり鋭くなってお前は一体これまで何を学んできたのか?


(©The New York Times)

大きな転換点 ー「描く表現」から「作る表現」へー

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 3 May 2020 by kenwada

皆様、こんにちは。
今僕は写真のようなF30号の絵画を4枚制作中です。すべてまだ途中です。
前作を3月下旬にサインしてからのこの一ヶ月間、精神的にかなり追い込まれました。
結局、とことんやった結果、どうしてもこれまでの「描く表現」では、もう僕の中の何かがフィットしなくなり、我慢ができなくなりました。
「描く表現」の限界をつくづく感じました。
そして、もうしばらく描くのはやめよう、描くのはやめて作ろう、「作る表現」へと踏み出そう、この場合の「作る」は「創る」の字ではなくてあくまで「作る」の字の感覚です(「作る」で本当は十分なのではないのか、「創る」なんて大上段な構えは実は要らないのではないのか、という気持ちもあります)、そう思える自然なそして僕にとってはかなり大きな転換点・分岐点のようなものが訪れました。
絶望と裏腹のその瞬間は具体的には2020年4月21日の午後1時55分にやって来ました。
これからはしばらく「作る表現」を模索し格闘していきます。
今は「作り」始めたのだから当然楽しい、でもこれは同時にかなり難しい、そしてやがてまたいつの日か僕の心の中で「作る表現」にもフィットしないある限界点が訪れたら、、、また自分のその変化を受け入れて、自分を乗り越えて、あるいは壊して前へ進まなきゃね。芸術家は皆そうやって暗中模索の中、少しずつ前進して行くものなのでしょうね。答えがないから。
絵画を制作できるのは健康寿命の間だけだから、これからもとことんやろうと思います。
新作の4点、少しだけ期待してくださいね。

後日記
わかった! 結局、これは全取り替えの精神なんだ。絵画制作、結局、これは何かのリズムなんだな。もっとリラックスして制作したらどうか、日々の絵画制作をトレーニングとして行ったらいけない。前作やシリーズ化することに引き込まないこと、引き込むと天井(脳天)がつかえるから。制約や約束事が生まれるから。1点1点、分離・独立させること。どこでへも好きなところへ行って走り回っておいで。