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僕はひまわりの種を超えられるか?

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 13 January 2020 by kenwada

Sunflower Seeds

Array of Sunflower Seeds.
お正月のある朝、日課の野鳥の餌やりを終えた後、餌箱の底に偶然並んだひまわりの種を見て思わずびっくり、美しい!咄嗟に整列美などというつまらない言葉を作りたくなる。まあそれでも造形美よりはまだいいか。さて僕はこの配列の美しさを作れるか?この内の一粒でも種を動かせば、たちまちにしてそこには人為の匂いがたちこめるだろう。打倒人為、脱人為。僕の Dear Grid Worker や Picky Dancers のシリーズもこの着想の流れから来ています。
しかし絶妙だな、この配置、流れ、横向きだって左向きと右向きに斜め横向きまで何でもご用意だ、上下の辺の抜群の止め、粒の上三角形・下三角形の使い分けはちょつとまねできない。そして全体をまとめるこの適度の崩れ、間の抜け方はさらにまねできない。これを観て顔真卿(709-785)の祭姪文稿を観る、祭姪文稿を観てこれを観る、これを観て李白(701-762)の詩を読む、李白の詩を読んでこれを観る、結局全部同じことなのではないだろうか。天為。闊達無碍。気宇壮大。ますらおぶりの書であり詩であり絵画。
まだまだ僕は酒でも飲みながらぽかんと口を開けて、たくさん雲の流れや夕日を見て、森の小鳥たちとたくさんお話しして、相当心を太くしていかないとひまわりの種は超えられない!でもということは、逆にその方向で行けば接近できるという気持ち、すなわち希望が、僕の心の中にすでにあるのではないだろうか。

2020年1月13日記。
和田 健

今後の僕の課題がはっきりと見えてきました!

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 5 January 2020 by kenwada

皆様、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年末より李白(701-762)の詩を集中して読み始めました。
2019年12月25日の僕のノートのメモには、
「この年末を李白(701-762)の勉強に捧げる。あと26日ー31日の6日。非常に鋭角的で天衣無縫、線が伸び伸びしており、相互に響き合い、闊達なとてつもないスケールの天才的な絵画的・空間的要素を感じる!幾重にも重ねられた星印のような図形的なイメージがある。それでありながら作品の底流にタオ的な明るさ、おおらかさ、あたたかさをも同時に感じる。この傑出したインスピレーションは絶対に絵画の中に取り入れられる。よってこれを勉強しない手はない!
2019年12月25日(水)夜記。」
とあります。

以来、少しずつ読み進めてきて、いくつもの美しい、圧倒的に美しい詩に出会いました。具体的には、「山中にて俗人に答う」「静夜思」「内に贈る」「九日 竜山に飲む」「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」「独り敬亭山に座す」「白鷺鷥」有名な「月下獨酌」これなどは英語訳を読むと Drinking Alone by Moonlight なのか、Drinking Alone under the Moon なのか、Drinking Alone in the Moonlight なのか、いくつもの英語訳があって、そもそもタイトルからして僕なら当然最初 under だろうと思いましたが、by なのか under なのかはたまた in なのかなんて考えていると面白くて病みつきになります。「春の日に酔いより起きて志を言う」素晴らしいですね、美しい!「汪倫に贈る」あたたかい、素晴らしい!今、「長干の行」を読んでいます。素晴らしい、美しい、この詩は14歳の夫婦という設定を非常に甘美にやわらかく打ち出してきた時点で勝負あった!だけれどもこの時代にはごく普通の結婚年齢だったのかもしれないな、いやでもこの時代にあって夫が四川省まで行ってしまうというのは、ほとんど地の果てに行ってしまった感じがしただろうな、直感的に言って僕はこの詩を李白はイマジネーションで書いているなと思う、いやいやそうではなくてこれは彼の見聞に基づくもので・・・等々、先を読み進めるのが少しもったいなくなる、そんな感じ。Ezra Pound の訳がまた素晴らしく優しい、While my hair was still cut straight across my forehead う〜ん、cut straight across か、よくここまで置き替え練り上げてくるな、すごいなこの1行目。唯一五月の five months のところは意味が取れないので、ここ研究課題。(That is, Despite Ezra Pound translated August as August in line 23, why did he translate May into five months in line 17? I think that this word “five months” has changed various meanings in the poem.)

これとテレビのない我家で年末にNHKラジオの「教授の大みそか」という蓄音機&SPレコードの特集番組を聴き、最後の1930年の録音のカザルスのこの世のものとは思えないまるで神が舞い降りてきたような演奏を聴いた時に、李白とカザルスに通底するものをはっきりと感じ、年が明けてから「らじるらじる」で何度もこの演奏を繰り返し聴いて、年明け早々少し思考が進んで今後の僕の課題をつかみかけてきました。

つまり詩を書くのではなく言葉を置く感じ。音楽を演奏するのではなく、音を置く感じ。宇宙と一体となって出てくるもの、天から舞い降りてくる言葉や音をつかまえて、それをそっと紙や弦の上に put する。必要以上に自分が泣いたり感情移入したりしてはダメ。天から降りてきたものだけを詩や音楽にしている。自分を無、カラにしないと入って来ない。まわりの言葉や音が入って来ない。静寂。

これを自分にあてはめると、僕はこの2年間毎日毎日1. いい加減に、2. 無造作に、3. がさつに、4. ぶっきらぼうに、5. すっぽ抜けている、6. ぶっ飛んでいる、7. 適当に、この7項目をそれこそ金科玉条のようにして毎朝描き始める前にお経のように唱えてはこの7つの中の調和を模索してきたのですが、つまり、キチキチ詰めているんじゃない、ピキッとしていると絵画は非常につまらない、退屈になる、あくまで僕にとってはということですが、その先に思考が進めなかったものが李白とカザルスを通してわかりかけてきた。

つまり描くのではなく降りてきた色だけ形だけそっとキャンバスの上に置く感じ、自分で絵を描いたらいけない、絵を支配したらいけない、絵をコントロールしたらいけない、絵画の中に征服欲をもちこんだらいけない!
これは李白やカザルスのようなgreatestたちに率直な物言いで大変失礼だけれども直感的に感触なのだと思う。感触なんだと思います。この感触をつかんでしまえばまた前に進める。

そしてそれを大きく展開してたっぷりと自分でも表現し終えたなと思えたらやめます。
Cy Twombly が英語のインタビューの中でアトリエの窓辺で2,3時間海を見てから描き始めると答えていたけれども、この感触をはっきりとつかんでいたんだな。
僕のノートの2018年5月21日のメモに、「The dahlias sleep in the empty silence. Wait for the early owl. EAST COKER, まだ絵画はここまで到達していない、唯一これに迫れたのは全く違う方向からのアプローチでCy Twombly だと感じる。」とあります。やっぱり2018年4月に NYC の Gagosian で Twombly の Drawing を94点観て、いろいろ感じたんだろうな。

さあ環になって踊れ!Mélangez! Mélangez! Mélangez! À tout à l’heure!
無心に心穏やかに描く、マントノンの青い夜の水彩画の時のように、窓辺で。

しかしすごい時代だな、 顔真卿がいて、懐素がいて、李白がいて、杜甫がいて、日本からは空海が留学で入唐していて、・・・。
一度でいいから僕も唐に行ってみたかったな。別に都の西安(長安)でなくてもいいから。そして村人汪倫の酒を僕も飲んで、その足で僕も小舟に乗って長江を下り、望夫の台から心配そうに西方の彼方を見つめる The River-Merchant’s Wife を岸辺にふと見かける、
Alas! きっとそれはとてつもなく美しいだろうな。

2020年1月5日記。
和田 健

あの頃の自分から電話をもらったら、「僕は今でも絵を描き続けているよ」ってただそれだけ伝えよう

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 21 October 2019 by kenwada

1. スペイン

ジ、ジ、ジ、ジ。
Allô! Allô!
やあ、元気かい?

スペインのラ・コルーニャで、僕は飲みかけのリベイロの白ワインの瓶を持って街を歩いていた。
マドリッドがスペイン語の不規則動詞を覚えるにはあまりに暑くて。
39℃で今日は涼しいぞなんて、ガリシア地方までちょっと気分転換に抜け出した。
バルに入ると、父親と10歳ぐらいの男の子が油で黒光りした小さな木のテーブルで、アサリをオリーブオイルに浸した一皿の小鉢を前に向かい合って座っていた。
爪楊枝でアサリを掬いとっては、パンの上に浸して、かわるがわる食べていた。
父親は育ち盛りの息子に少し遠慮しながら食べていた。
僕は、それをただぼんやりと眺めていた。
2002年の6月、ガリシア地方はとても涼しかった。

2. フランス

ジ、ジ、ジ、ジ。
Allô! Allô!
やあ、元気かい?

僕は、International Herald Tribune から切り抜いたその写真をずいぶん長いこと、アトリエの壁に貼っていた。
口元を黒いマフラーで押さえた女の子が写っている写真。
ちょうどモスクワの地下鉄でテロがあって、駅にたくさん積まれたお悔やみの赤い花の右横で、その女の子は口元を押さえて絶句したように立っていた。
女の子の髪留めの小さな赤いリボンと、手提げバックの赤い把っ手と、赤い花の塊を僕は来る日も来る日もただじっと見つめていた。
ああ、何かが描けるかもしれないって思った。
きっとその女の子が、「罪と罰」のソーニャに見えたのだろう。
ソーニャが描きたくてたまらなかったから。

3. メキシコ

ジ、ジ、ジ、ジ。
Allô! Allô!
やあ、元気かい?

メキシコのサン・ミゲル・デ・アジェンデで一ヶ月間屋上の小さな部屋で暮らした。
5階建てのアパートの下の四つ角に、毎日決まって夕方の5時になるといつも同じ親子がやって来て、お父さんがハーモニカを吹いた。
しばらくしてお父さんは目が見えないことに気がついた、それで小さな男の子が、二人の前に置かれた小さな籠に小銭が入ると、「グラシアス」って恥ずかしそうに言った。
僕は日が暮れると毎晩屋上の椅子に座って、下から響いてくるハーモニカの音色を静かに聴いていた。
あの男の子もきっと大きくなっただろう。
2002年の10月だったから、きっとすごく大きくなっただろう。

4. フランス

ジ、ジ、ジ、ジ
Allô! Allô!
やあ、本当に元気かい?

僕らがもう戸締まりをして、二階の洗面所で歯を磨いていると、オードレーが青い夜から帰って来た。
向かいの旧事務所の屋根に静かに舞い降りて、「ニャー」と一言、帰って来て「当然でしょ」って顔をしていた。
10月末の雨に煙る午後にあの子が初めて息子のクーを旧事務所の屋根の上に連れて来た時は、思わず息を飲む程の美しさだった。
生まれたての子猫に歩幅を合わせて屋根を下りながら、一緒に一歩一歩濡れた紅葉の赤や黄を踏みしめながら、「ほら見て、私の子よ、私の子よ」って、背筋をピンと伸ばしてすごく自慢げに言っていた。
僕はそれまでに人間の表情の中にこんなにも幸せな表情を見たことがなかった。
オードレーは僕に一番幸せな表情は、もしかしから人間の中にはないかもしれないことを教えてくれた。
オードレーが僕の先生だった。
オードレー、クー、聞こえるかい、僕は今でも絵を描き続けているよ
野良猫を抱き上げたことがない人なんて、
抱き上げて頬ずりしたことがない人なんて何だか信用がおけない。
「動物を大切にしなさい、可愛がりなさい」ってゾシム長老も言っていた。
ゾシム長老の若い兄の回想録には泣いた、あそこだけ何度も何度も繰り返し読んだ。

美しかった、マントノンは。
僕のちっぽけな50年の人生で、一番美しい時代だった。
一瞬にして終わった。
母が倒れて、空港に走って、まるでそれまで観ていたテレビの電源コードを思いっきりブチ抜くように、一瞬にして終わった。
今ごろはさぞかし菜の花畑がきれいだろう。

あの頃の自分から電話をもらったら、「僕は今でも絵を描き続けているよ」ってただそれだけ伝えよう。
それでは、また。

2013年5月5日記
2019年10月20日加筆修正
和田 健

「君はいろいろなことがわからないみたいだけれど、アルベール・カミュがどんなに母親を愛していたかだけはよくわかるみたいだね」と僕は街角で誰かに肩を叩かれて言われたことは今までに一度もない、あるいはさらに「絵画そのものが原稿であったなら」つまりは「原稿絵画」と「絵童話」の創造に向けて

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 20 October 2019 by kenwada

デザインとして漢字を観ている内にできるのではないかと思いました。
つまりは抽象画による原稿絵画」、「絵童話」の創造という新しい構想です。
山奥でひたすら両者を創造する。
ただ絵画する」という三昧の境地へと至れ!
以上です。

2019年10月19日記
和田 健

続・書の勉強について

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 10 October 2019 by kenwada

前回のエッセイ「書の勉強について」の中で、「中国の書家の作品であっても同じ東洋人として (僕は) 漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸になり得る」と書きましたが、後日、明け方の床の中でこれについて考え、またしても僕以外には何の役にも立ちそうにありませんが、当たり前のようでいて少し大切なことのように思いますので書いておきます。
まず、「欧米の」という言葉は、「漢字文化圏以外の国の」とかにするべきでしたが、そのことはさておき、僕が思ったことは、僕が中国の書家の作品を観る時、たとえ難しい字であっても漢字の旁や偏からある程度こういう字ではないかなと、推測することができる、つまりおおよその見当をつけることができます。もちろん中には歯の立たない漢字もあります、というか実際そういう字が多いのですが、それでもやはり子供の時から慣れ親しんできた漢字 (文化) ですので、やはり字として読んでみようと半ば無意識のうちに脳が勝手に反応してしまいます。
これに対して、例えばフランス人でも、アメリカ人でもいいのですが、彼らは余程の愛好家でない限り、漢字を字として読むことはしていない、よく掛け軸などにして部屋に飾っているのを見かけますが、彼らは漢字に対して字としては反応していない、それはもちろんフランス語や英語で意味を書いてもらってそのメモを見ながらこれはこういう意味だよ、などと説明することはできますが、字として理解しているわけではない、このことは日本語を話せる外国人はたくさんいますが、読み書きができる外国人は非常に少ないことからも容易に察せられます。
それでは彼らは漢字をどのように観ているのかというと、これは模様として観ているのだと思います。漢字を模様として観ている、僕が例えば象形文字や甲骨文、甲骨文字を観ている時に感じるように、あるいは全く理解できない他言語を観ている時に感じる感覚と同じです。模様として観ている、特に活字化されたものだと脳への刺激が限定されますが、肉筆のものだと全然違います、これを継続していくと、やがてデザインとして観ていることにつながります。だから現にたくさんの東洋美術の愛好家が諸外国にはいますし、オークション等でコレクターに熱気をもって迎えられるのでしょう。美しいからデザインとして美しいから、漢字の意味や成り立ちなんか知らない、でも一応英語訳で意味は知っているよ、おそらくそういう感覚なのだと思います。
そこで僕が思ったのは、このデザインとして文字を観るということは、多少の土台的な要素、僕の言葉で言う神経質な気質というのもずいぶんと漠然とした言い方ですが、余白や図形を観る習慣さえあれば誰にでもすぐに修得できる、実際、テーブルの上の物の配置、塩のビンやナイフ、皿とかそういう物です、を納得いくまで何時間も動かしていたジャコメッティのように、紙の上の字画の配置を何時間も動かす、気になる、全く同じことです、樹木の枝の配置も同じです、漢字をデザインとして観ることはある程度の訓練を積めば容易に修得できる。
そうであれば、漢字文化圏の我々には見当をつけることと、デザインとして観ることと、二つの大きな軸があることになる、これは一つの軸しかもたない彼らに対して大いなる強みにならないだろうか、ということです。言ってみれば二枚腰なのですから。
この二つの軸があることを絵画に必ず活かせるはずです、取り込めるはずなんです。逆の思考として、どうしてアメリカ人の Franz Kline に先を越されていて、我々の絵画には漢字のデザイン性を豊かに取り込んだ造形美に満ちた作品が少ないのだろう、その辺りから思考に揺さぶりをかければ答えは出てくるのではないか、作品が漢字として恥ずかしいからかもしれない、後ろに書家が控えているために下手なものを出品・発表できないという、こんなもの出して馬鹿にされるだけだという、ここ核心、重要ポイント。彼らは背後に書家など控えていませんので自由にやれる、この自由にのびのびやれる、何の束縛もないということは当たり前過ぎて見失われがちですが創作活動の肝、非常に大切なことです。この課題は突破しないと、デザインとしてだけ観ているよりは強いはずなのだから、あるいはデザインとして観ているだけだから彼らは強いのかもしれない、または単にエキゾチックの問題だけなのかもしれません、我々の日常生活において漢字があまりにも身の回りに溢れていてもはや特段の反応もしないという。
自然の中に漢字の要素を日常的に見い出す訓練、これはしています、何かどこかに突破口があります、必ず。

2019年10月10日記
和田 健

追伸 またまた今読んでいる数学者の岡潔さんの本の話ですが、先生は「でたらめ」を毎日一つずつ考える、この「でたらめ」を十ほど並べてみると、その中には一つぐらいポシビリティ (可能性) がある。このポシビリティをまた十ほど並べると、そこに一つぐらいファクト (事実) が見つかる、一年三百六十五日、毎日「でたらめ」を考えるともなく考えている、と仰っています。さすがだなあ〜、すごいなあ〜、ものすごく勉強になります。僕は今までわからないことがあると、声に出してわかっているところまで言ってみる、しゃべってみる、それもできるだけ大きな声がいい、というのを自分で編み出して実践してきたのですが、これに「でたらめ」を加えればいいんだ、声に出して「でたらめ」を言ってみればより強力な結びつきになる、なるほど。エディー・ジョーンズさんが目黒学院ラグビー部を指導する YouTube 面白いですね、この感覚だな、この感覚。声に出して「でたらめ」を言って、全く脈絡や関係ないものを結びつける、この感覚を絶対にはずしちゃいけない!折しも世の中ワールドカップでラグビーブーム、僕は試合は観れませんけれど、我家にテレビはないから。

書の勉強について

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 3 October 2019 by kenwada

最近、良寛さまの「書簡 貞心尼宛 先日は眼病の」と「雜詩巻」の書を観て「ああいいなあ」と思い、書の勉強のスイッチがまた入りました。この機会にこれまでの書の勉強について整理してまとめておくのも後年になって何かの役にたつかもしれない、誰の役にもたちませんが、まあ少なくとも自分の役にはたつかな、一つの資料として、くらいの気持ちでこれまでの経緯を日記や手帳、絵画日々のメモ(ノート)などからまとめてみました。

僕が書の勉強を始めたのは、フランスから帰国して間もなくの頃、確かどなたかの書を観て、この空間美、構成の美しさは絵画にすぐに取り入れられる、さらに中国の書家の作品であっても同じ東洋人として漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸となり得る、事実、Franz Kline や Pierre Alechinsky のように日本に来て書道を学んだりした大芸術家たちもいましたし、Joan Mitchell の絵画の中にも漢字的な要素をすごく感じます。そのようなことがあり、これは書の研究をきちんと一度やっておいた方がいい、プラスになることはあってもマイナスになることなど何もないと思って始めた思い出があります。

そうは言っても取っ掛かりがつかめませんでしたので、とりあえず世田谷区立梅丘図書館に行って、そこにあった平凡社の「書道全集」を5,6冊ずつ借りてきては全ページ観ました。確か全部で20何巻かあったと思います。全ページ読んだとは言えませんが、全ページ観て全体の流れを頭に入れました。その後は、例によって尊敬する福澤諭吉先生が「福翁自伝」で説かれている自身自力の研究、自分の絵画に直的に役立ちそうだと思ったところから始めて、最初に熱中したのは北魏時代の「龍門二十品」でした。二玄社から上下本を取り寄せ観入りました。

その後、時代順に言いますと王羲之、王献之、欧陽詢、虞世南、褚遂良、太宗、張旭(生没年不詳)、顔真卿、懐素の「自叙帖」でぶっ飛び、黄庭堅、王鐸の連綿草にも強いインスピレーションを得ました。最初はまずは作家の名前自体が読めませんでしたので名前の読み方から始めました。王羲之は2013年1月に上野の東京国立博物館で、王鐸も同展で観た思い出があります。それら中国の書家についてまとめたメモが手帳の中の2013年1月のところにありますので、遅くとも2012年には書の勉強を始めていたんだなと思います。

日本の書家ではこれも時代順に空海、白隠、良寛、三輪田米山、井上有一の作品に強い感化を受けました。空海は2011年9月に東京国立博物館の「空海と密教美術展」で「聾瞽指帰」の直筆を初めて観ました。白隠は2013年1月に渋谷のBunkamura で観て「南無地獄大菩薩」に感動し、井上有一は2015年4月に菊池寛実記念 智美術館で「ブッコウ国師げ」に感銘し、群馬県立近代美術館で2015年8月にようやく念願の「噫横川國民學校」を観ることができ、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも2016年4月に作品を観ました。これだけの禅画や書を遺した白隠は独学であり、良寛研究者の方に是非ご教示願いたいのですが、良寛が本格的に書を始めたのは48才の頃と考えて一応よろしいのでしょうか。

昨日は午前中で制作の区切りがついたため、午後は顔真卿の「祭姪文稿」と黄庭堅の「伏波神祠詩巻」を観て過ごしました。何なんでしょうね、この圧倒的なまでの宇宙美は、もちろん宇宙美などという言葉があるとして、すごい!考えられないですね、この余白の使い方は、最後ダァーと右に流れて来るのもたまらないし、う〜ん、すごく「祭姪文稿」を観ていて思ったのですが、これは稿ですよね、草稿や原稿の方が美しい、所々丸でぐるぐるっと、そしてでんと太字、美しい、あり得ないくらい美しい、結局小説家の場合も同じですが印刷されたものよりも手書きの草稿や原稿の方がはるかに美しい、団体の美術展とか観に行って1年に1回のこの展覧会のためにいかにも仕上げました、清書しましたみたいな退屈な絵画よりもよほど美しい、ドキドキする、結局、人間性の発露なのでしょうね、絵画に草稿の要素を盛り込めたらあるいはさらに絵画自体が原稿であったら、そこに新しい方向性が必ず存在すると思います。これからも断続的にではあっても書の勉強を続けていきます。これだけの類を見ない偉大な芸術がお隣の国に仮に甲骨文の殷の時代からとしても約3600年以上も続いていて、我が国にも脈々と受け継がれていて、これを勉強しない研究しないという手はないですね、どこからどう見ても。

良寛さまの「貞心尼宛」のラストの「八月十八日」には参りました、特に最初の八の傾きの突飛さ、ユニークさと続く小さな十との絶妙のバランスや全体を流れる温かさ、漢字そのものは小学生にでも読めますよね、ここに全宇宙があると思いました。
ロケットなんか飛ばすより遥かに遠くまで行けるのに。

2019年10月1日記
和田 健

追伸 張旭が剣器を舞わすのを見て、懐素が夏雲の風にたなびくのを見て、黄庭堅が船頭が船を漕ぐのを見て、それぞれ悟りを得たという逸話に心を惹かれました。今読んでいる岡潔さんの数学上の発見の瞬間とあまりに酷似していますね。つまり究極の集中力を使い果たした者が、ふっとその場を離れ脳が対象から離れた時に「発見のするどい喜び」が起きる。僕にはもちろんそんなことはできないけれども、せめて手元に集中力をまとめておく、置いておくことは努力や心がけの部分だからできる、だから常にプリントアウトしたものを手元に持っていること、「祭姪文稿」を観て、ニワトリの動きを観る、ニワトリの動きを観て「祭姪文稿」を観る、これが実に面白い、何かの動きがマッチングする、そこに新しい発見がある、書を観てテーブルに指で描く、地面に棒で描く、空間に指で描く、それらは僕に最上のデッサンの練習をもたらしてくれる、別に書家になる訳でもなし、書の勉強は隙間時間を活用できる、そのために絶えずプリントアウトしたものを身につけていること、要は僕の怠慢。

Roaratorio (1979) Version 1 January 4, 2019

Posted in Essay 2012-2020 with tags , , , , , on 5 January 2019 by kenwada

水、小声、やがて詩の朗読だとわかる、バグパイプ、小鳥、教会の鐘、詩の朗読、詩の朗読、バグパイプ、子供、歓声、チリンチリン、ソプラノ、赤ん坊、歓声、詩の朗読、男の声、女の声、意味不明、意味不明、けたたましい音、へへへ、詩の朗読、車、This is, This is, This is, 遠くで歌、笑い、詩の朗読、下卑た声、民謡、馬、教会の鐘、車の通過、詩の朗読、大人の笑い、犬、子供の笑い、民俗音楽、再び詩の朗読、歌、背後音意味不明、ガタン、馬の蹄、チリンチリン、犬、民謡、バグパイプ、詩の朗読、静寂、民謡、車、民謡、ソプラノ、詩の朗読、馬、カモメ、美しい音色の音楽、詩の朗読、笑い、詩の朗読、one time, 詩の朗読、遠くの鐘、ボーンボーン、詩の朗読、車、幼児の声、意味不明、小鳥、詩の朗読、big boys, 意味不明、意味不明、ベル、詩の朗読、太鼓、意味不明、意味不明、意味不明、通りの雑踏、バグパイプ、太鼓、聖歌隊、聖歌隊、詩の朗読、聖歌隊、太鼓、小鳥、男、小鳥、小鳥、犬、歓声、民族楽器、馬、詩の朗読、車、民謡、詩の朗読、民謡、詩の朗読、民謡、詩の朗読、笑い、男、詩の朗読、女の歌、詩の朗読、子供の笑い、パパパパパ、幼児の笑い、ベル、水音、水、詩の朗読、意味不明、意味不明、小鳥、車、子どもの笑い、ブレーキ、詩の朗読、踏切、生活音、水、詩の朗読、ちゃりん、幼児の言葉、馬、詩の朗読、馬、馬、About, 馬、幼児、赤ん坊、赤ん坊、詩の朗読、聖歌、コケコッコー、雄鶏、水、川?、女、詩の朗読、小鳥、小鳥、教会の鐘、詩の朗読、女の子幼児、女の子幼児、詩の朗読、詩の朗読、女たちの下卑た笑い、水、雑踏、男たちの遠い笑い、詩の朗読、女の歌、民族楽器、笛、水、水、強い水音、詩の朗読、笛、小鳥、馬、笛、詩の朗読、男の歌、笛、グレゴリオ聖歌、何かのベル、ベル、グレゴリオ聖歌、教会の鐘、聖歌、詩の朗読、幼児の声、小鳥、詩の朗読、グレゴリオ聖歌、幼児の声、グレゴリオ聖歌、太鼓のリズム、太鼓のリズム、詩の朗読、小鳥、小鳥、遠くの教会の鐘、何かが割れる?、意味不明、詩の朗読、人々の笑い、女、ダンダンダン、再び同じ幼児の声、バグパイプ、小鳥、雑踏、聖歌、小鳥、雑踏、近くの鐘、再び同じ幼児の声、踊りのリズム?民俗舞踊、女の歌、歌、歌、カモメ、カモメ、雑踏、バグパイプ、詩の朗読、踊りのリズム、バンバン、太鼓、笑い、車、男の歌、男の歌、車、詩の朗読、男の歌、女、女、子供、小鳥、詩の朗読、小鳥、小鳥、男の歌、水、小鳥、聖歌隊、幼児、男の歌、詩の朗読、太鼓のリズム、オペラ?、女の合唱、羊、メエメエ、メエメエ、メエメエ、女の合唱、バイオリン、水、水、水、小鳥、ぴーよ、ぴーよ、カモメ、やかましいカモメ、笛、笛、バグパイプ、バグパイプ、教会の鐘、男の民謡、詩の朗読、水、車、通り、水、男の歌、アルミ缶?、女の歌、女の歌、雑踏、籠の小鳥?、詩の朗読、雑踏、教会の鐘、通り、rue, rue, 小鳥、バグパイプ、小鳥、小鳥、渾然一体、教会、詩、小鳥、教会、水、小鳥、小鳥、笛、バグパイプ、小鳥、男の歌、詩、詩大きな声、犬、女の歌、コケコッコー、コケコッコー、雄鶏、詩、太鼓のリズム、女、カモメ、バグパイプ、女の笑い、詩、鳥、男の歌、水音、川?、井戸?、教会の鐘、バグパイプ、男の歌、詩、女の歌、遠くの男、教会、男の歌、意識飛ぶ、水、笛、詩、男の歌、バグパイプ、詩、笛、詩、男の歌、幼児、車、女の歌、詩、幼児、轟音、小鳥、小鳥、バグパイプ、笛、男の歌、バンバンバンバンバンバン、意味不明、意味不明、意味不明、詩、男、水?、ベル、水?、ベル、女の歌、遠くの鐘、車、詩、馬、車、詩、掃く音、ベル、建築現場、詩、静寂、小鳥、朝、車、バグパイプ、笛、女の合唱、鳩、鳩、鳩、ふーふーふー、笑い、下卑た女の笑い、女の歌、カモメ、コケコッコー、雄鶏、詩、小鳥、雑踏、車、通り、羊の子ども、幼児の泣き声、幼児、幼児、詩、赤ん坊、赤ん坊、何かを叩く音、詩、水、詩、静寂、ピアノ、ジャズ?、詩、車、一瞬の静寂、詩、男の歌、男の声、鍵を回す?、男の歌、幼児の泣き声、男の歌、詩、チリンチリン、車、男の歌、詩、男の歌、詩、小鳥、男の歌、女の笑い、女の笑い、水、女の笑い、車、詩、通り、車、車、合唱、女の歌、詩、小鳥、詩、小鳥、詩、男の声、女、詩、カモメ、車、カモメ、カモメ、カモメ、詩、リズム音、太鼓、太鼓、男の歌、太鼓、男の歌、太鼓、詩、太鼓、太鼓、詩、何かを叩く音、太鼓、詩、小鳥、太鼓、小鳥、詩、小鳥、女の歌、意味不明、鶏、鶏、鶏、通りの雑踏、詩、詩、チリンチリン、チリンチリン、何かがこぼれる、太鼓のリズム、詩、意味不明、赤ん坊、犬、犬、わんわんわん、渾然一体、バグパイプ、詩、ドアがきしむ、女の歌、リズム音、民俗音楽、建築現場、民俗音楽、詩、詩、民俗音楽、美しい太鼓、女の合唱、民俗音楽、女の合唱、民俗音楽、小鳥、民俗音楽、小鳥、車、意味不明、ラジオevery morning, 意味不明、詩、女の歌、猫、猫、女の歌、猫、女の歌、詩、赤ん坊、バグパイプ、後ろ建築現場?、猫、詩、人々の声、女の子、女の子の叫び、聖歌隊、詩、男の歌、パイプオルガン、何かが泳ぐような水音、洗濯?、意味不明、ハーモニカのような音色、渾然一体、詩、赤ん坊、詩、ハーモニカ?、羊、メエメエ、小鳥、バゲッ!、民俗音楽、バゲッ!、詩、雄鶏、幼児、幼児の泣き声、詩、渾然一体、詩、赤ん坊、何かを叩く音、水、詩、相変わらず何かを吹く音、詩、小鳥、詩、車、男の歌、男の歌、何かを吹く音、ラジオ!、男の掛け声、ちゃーらい、何かを吹く音、詩、男の歌、詩、男の歌、男の歌、幼児、幼児、何かを吹く音、男の歌、詩、男の歌、幼児、幼児、まだ何かを吹き続ける、犬、男の歌、犬、幼児、幼児、詩、男の歌、犬、幼児、犬、鶏、詩、相変わらず吹き続ける、詩、幼児、幼児、渾然一体、幼児、渾然一体、詩、詩、小鳥、幼児、教会の鐘、幼児の泣き声、詩、幼児、馬、鶏、鶏、鶏、詩、小鳥、詩、小鳥、民俗音楽、詩、バグパイプ、男の間のびした声、赤ん坊の泣き声、詩、鶏、鶏、女の歌、通り、車、赤ん坊、赤ん坊、猫、赤ん坊、バグパイプ、猫、詩、バグパイプ、詩、意味不明、男、詩、渾然一体、渾然一体、犬、詩、馬車、馬車、通り、教会、小鳥、赤ん坊、赤ん坊、小鳥、赤ん坊、笛、赤ん坊、赤ん坊、赤ん坊、詩、鶏、詩、鶏、詩、鶏、詩、詩、笛、笛、詩、詩、赤ん坊、猫、詩、笛、男の歌、詩、建築現場、赤ん坊、路面電車、路面電車、赤ん坊、停車場、意味不明、詩、チリンチリン、詩、女の子、女の子、小鳥、男、男、意味不明、詩、小鳥、詩、詩、女の子、女の子、カモメ、詩、女の子、女の子、詩、カモメ、女の子の叫び、カモメ、カモメ。(1:00:11)

正確を期すならバグパイプ=イリアン・パイプス、太鼓=バウロン、笛=フルート、詩の朗読は途中より単に詩と表記。

それであれば、これもできる。
2019年1月4日午前10時27分15秒より

犬の寝息、犬の寝息、縄跳び、二重跳び、遠くのバイク、犬の寝息、静寂、遠くの車、静寂、遠くの車、静寂、子供の声、こんにちは、オーライ、オーライ、静寂、二重跳び、バタン、はい、トラックのバックする音、ピーピーピーピー、犬の寝息、バタン、バタン、何かする?、バイク音、はい、バタン、でんでん、ボールを地面にバウンドさせる音、バンバン、バンバン、犬の寝息、お疲れさまでしたー、バンバン、バンバン、でっどん、でっどん、で、で、で、で、ちぃ、犬の寝息、犬の寝息、で、とたん、とたん、で、でっどん、でっどん、で、で、で、で、で、で、で、で、トントン、トントン、で、で、で、で、で、トイレの水が流れる音、パシィ、で、で、で、・・・・で、で、で、静寂、で、で、で、で、で、で、で、で、バンバン、バンバン、ストーブがかすかにたてる音、すぃーすぃー、すぃーすぃー、犬がべちゃべちゃやる音、ぽろあんとぅらん、ぽろあんとぅらん、ウォーイ、ウォーイ、すぃーすぃー、すぃーすぃー、がらがらがらがら、静寂、遠くの環七の救急車のサイレン、うぉーうぉー、静寂、すぃーすぃー、すぃーすぃー、静寂、宅急便の配達の手押し車の音、ガラガラガラガラ、わん!、わん!、静寂、小鳥、静寂、静寂、犬の寝息、犬の寝息、ちらっと目の前の本を見る、Leap Before You Look、再び遠くで宅急便、ガラガラガラガラの小文字、飛行機、ぶぉ〜ん、ぶぉ〜ん、ピーポーピーポー、ぶぉ〜ん、ぶぉ〜ん、ピーポーピーポー、三たび宅急便、ぶぉ〜ん、ぶっっっっっぉ〜ん、犬の寝息、また?ガラガラガラガラ、小鳥、ほぃ、コトン、遠くの車、男の咳払い、えっへっへ、遠くのバイク、ぷうぉ〜ん、ぷうぉ〜ん、犬の寝返り。(28:45)

P.S. やられましたねHCE、バラッドそうですかバラッドですか、民謡、民衆の口伝えですね、読み書きの苦手な、やられましたねHCE、この後大丈夫なんでしょうか、洗濯まあ合っていたじゃないですか、カモメだってちゃんと飛んでいたじゃないですか、しかしそれにしてもこの真逆のベクトル実験は非常に面白かったです、人間の聴覚についての重要な示唆をいくつか得ました、ヒントをもらいました、さあ原作に入りましょう、いつものやり方で、そうです区立図書館が開くのを今か今かと待っていました年明け1月4日、借りてきました「フィネガンズ・ウェイク」関連図書4冊、検討タイム、宮田恭子さんの訳の集英社版で入りましょう、ただ今第一部第三章メチャクチャ面白い!これだけ文学的興奮を味わうのは T.S.Eliot の Gerontion 以来です、Here I am, Gerontion が踊り出てきて、僕の頭上にピャッと横風が吹きました、Joyce さんは初めて読んだ時、パッと、あ、この人は温かい人だなと思いました、あなたにはこれからも是非とも温かい人でいてください、読んで隙のない人ならたくさんいますから、あなたはこの本を1939年に書き上げました、80年後に一人の日本人が読み始めて鮮度が上がっています、ゲェ!何でこの本が買えないのですか?いくらなんでもそれはないでしょ、あんまりです、だから言ったじゃないですか、おできになるのならお笑いなさい、でもあなたはとばなければいけません、Laugh if you can, but you will have to leap.
2019年1月7日のお昼頃

2019年2月22日、「フィネガンズ・ウェイク」ようやく読了。
続いて2019年2月23日よりホメロスの「イリアス」(松平千秋訳、岩波文庫)に入る。