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続・書の勉強について

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 10 October 2019 by kenwada

前回のエッセイ「書の勉強について」の中で、「中国の書家の作品であっても同じ東洋人として (僕は) 漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸になり得る」と書きましたが、後日、明け方の床の中でこれについて考え、またしても僕以外には何の役にも立ちそうにありませんが、当たり前のようでいて少し大切なことのように思いますので書いておきます。
まず、「欧米の」という言葉は、「漢字文化圏以外の国の」とかにするべきでしたが、そのことはさておき、僕が思ったことは、僕が中国の書家の作品を観る時、たとえ難しい字であっても漢字の旁や偏からある程度こういう字ではないかなと、推測することができる、つまりおおよその見当をつけることができます。もちろん中には歯の立たない漢字もあります、というか実際そういう字が多いのですが、それでもやはり子供の時から慣れ親しんできた漢字 (文化) ですので、やはり字として読んでみようと半ば無意識のうちに脳が勝手に反応してしまいます。
これに対して、例えばフランス人でも、アメリカ人でもいいのですが、彼らは余程の愛好家でない限り、漢字を字として読むことはしていない、よく掛け軸などにして部屋に飾っているのを見かけますが、彼らは漢字に対して字としては反応していない、それはもちろんフランス語や英語で意味を書いてもらってそのメモを見ながらこれはこういう意味だよ、などと説明することはできますが、字として理解しているわけではない、このことは日本語を話せる外国人はたくさんいますが、読み書きができる外国人は非常に少ないことからも容易に察せられます。
それでは彼らは漢字をどのように観ているのかというと、これは模様として観ているのだと思います。漢字を模様として観ている、僕が例えば象形文字や甲骨文、甲骨文字を観ている時に感じるように、あるいは全く理解できない他言語を観ている時に感じる感覚と同じです。模様として観ている、特に活字化されたものだと脳への刺激が限定されますが、肉筆のものだと全然違います、これを継続していくと、やがてデザインとして観ていることにつながります。だから現にたくさんの東洋美術の愛好家が諸外国にはいますし、オークション等でコレクターに熱気をもって迎えられるのでしょう。美しいからデザインとして美しいから、漢字の意味や成り立ちなんか知らない、でも一応英語訳で意味は知っているよ、おそらくそういう感覚なのだと思います。
そこで僕が思ったのは、このデザインとして文字を観るということは、多少の土台的な要素、僕の言葉で言う神経質な気質というのもずいぶんと漠然とした言い方ですが、余白や図形を観る習慣さえあれば誰にでもすぐに修得できる、実際、テーブルの上の物の配置、塩のビンやナイフ、皿とかそういう物です、を納得いくまで何時間も動かしていたジャコメッティのように、紙の上の字画の配置を何時間も動かす、気になる、全く同じことです、樹木の枝の配置も同じです、漢字をデザインとして観ることはある程度の訓練を積めば容易に修得できる。
そうであれば、漢字文化圏の我々には見当をつけることと、デザインとして観ることと、二つの大きな軸があることになる、これは一つの軸しかもたない彼らに対して大いなる強みにならないだろうか、ということです。言ってみれば二枚腰なのですから。
この二つの軸があることを絵画に必ず活かせるはずです、取り込めるはずなんです。逆の思考として、どうしてアメリカ人の Franz Kline に先を越されていて、我々の絵画には漢字のデザイン性を豊かに取り込んだ造形美に満ちた作品が少ないのだろう、その辺りから思考に揺さぶりをかければ答えは出てくるのではないか、作品が漢字として恥ずかしいからかもしれない、後ろに書家が控えているために下手なものを出品・発表できないという、こんなもの出して馬鹿にされるだけだという、ここ核心、重要ポイント。彼らは背後に書家など控えていませんので自由にやれる、この自由にのびのびやれる、何の束縛もないということは当たり前過ぎて見失われがちですが創作活動の肝、非常に大切なことです。この課題は突破しないと、デザインとしてだけ観ているよりは強いはずなのだから、あるいはデザインとして観ているだけだから彼らは強いのかもしれない、または単にエキゾチックの問題だけなのかもしれません、我々の日常生活において漢字があまりにも身の回りに溢れていてもはや特段の反応もしないという。
自然の中に漢字の要素を日常的に見い出す訓練、これはしています、何かどこかに突破口があります、必ず。

2019年10月10日記
和田 健

追伸 またまた今読んでいる数学者の岡潔さんの本の話ですが、先生は「でたらめ」を毎日一つずつ考える、この「でたらめ」を十ほど並べてみると、その中には一つぐらいポシビリティ (可能性) がある。このポシビリティをまた十ほど並べると、そこに一つぐらいファクト (事実) が見つかる、一年三百六十五日、毎日「でたらめ」を考えるともなく考えている、と仰っています。さすがだなあ〜、すごいなあ〜、ものすごく勉強になります。僕は今までわからないことがあると、声に出してわかっているところまで言ってみる、しゃべってみる、それもできるだけ大きな声がいい、というのを自分で編み出して実践してきたのですが、これに「でたらめ」を加えればいいんだ、声に出して「でたらめ」を言ってみればより強力な結びつきになる、なるほど。エディー・ジョーンズさんが目黒学院ラグビー部を指導する YouTube 面白いですね、この感覚だな、この感覚。声に出して「でたらめ」を言って、全く脈絡や関係ないものを結びつける、この感覚を絶対にはずしちゃいけない!折しも世の中ワールドカップでラグビーブーム、僕は試合は観れませんけれど、我家にテレビはないから。

書の勉強について

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 3 October 2019 by kenwada

最近、良寛さまの「書簡 貞心尼宛 先日は眼病の」と「雜詩巻」の書を観て「ああいいなあ」と思い、書の勉強のスイッチがまた入りました。この機会にこれまでの書の勉強について整理してまとめておくのも後年になって何かの役にたつかもしれない、誰の役にもたちませんが、まあ少なくとも自分の役にはたつかな、一つの資料として、くらいの気持ちでこれまでの経緯を日記や手帳、絵画日々のメモ(ノート)などからまとめてみました。

僕が書の勉強を始めたのは、フランスから帰国して間もなくの頃、確かどなたかの書を観て、この空間美、構成の美しさは絵画にすぐに取り入れられる、さらに中国の書家の作品であっても同じ東洋人として漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸となり得る、事実、Franz Kline や Pierre Alechinsky のように日本に来て書道を学んだりした大芸術家たちもいましたし、Joan Mitchell の絵画の中にも漢字的な要素をすごく感じます。そのようなことがあり、これは書の研究をきちんと一度やっておいた方がいい、プラスになることはあってもマイナスになることなど何もないと思って始めた思い出があります。

そうは言っても取っ掛かりがつかめませんでしたので、とりあえず世田谷区立梅丘図書館に行って、そこにあった平凡社の「書道全集」を5,6冊ずつ借りてきては全ページ観ました。確か全部で20何巻かあったと思います。全ページ読んだとは言えませんが、全ページ観て全体の流れを頭に入れました。その後は、例によって尊敬する福澤諭吉先生が「福翁自伝」で説かれている自身自力の研究、自分の絵画に直的に役立ちそうだと思ったところから始めて、最初に熱中したのは北魏時代の「龍門二十品」でした。二玄社から上下本を取り寄せ観入りました。

その後、時代順に言いますと王羲之、王献之、欧陽詢、虞世南、褚遂良、太宗、張旭(生没年不詳)、顔真卿、懐素の「自叙帖」でぶっ飛び、黄庭堅、王鐸の連綿草にも強いインスピレーションを得ました。最初はまずは作家の名前自体が読めませんでしたので名前の読み方から始めました。王羲之は2013年1月に上野の東京国立博物館で、王鐸も同展で観た思い出があります。それら中国の書家についてまとめたメモが手帳の中の2013年1月のところにありますので、遅くとも2012年には書の勉強を始めていたんだなと思います。

日本の書家ではこれも時代順に空海、白隠、良寛、三輪田米山、井上有一の作品に強い感化を受けました。空海は2011年9月に東京国立博物館の「空海と密教美術展」で「聾瞽指帰」の直筆を初めて観ました。白隠は2013年1月に渋谷のBunkamura で観て「南無地獄大菩薩」に感動し、井上有一は2015年4月に菊池寛実記念 智美術館で「ブッコウ国師げ」に感銘し、群馬県立近代美術館で2015年8月にようやく念願の「噫横川國民學校」を観ることができ、ニューヨークのメトロポリタン美術館でも2016年4月に作品を観ました。これだけの禅画や書を遺した白隠は独学であり、良寛研究者の方に是非ご教示願いたいのですが、良寛が本格的に書を始めたのは48才の頃と考えて一応よろしいのでしょうか。

昨日は午前中で制作の区切りがついたため、午後は顔真卿の「祭姪文稿」と黄庭堅の「伏波神祠詩巻」を観て過ごしました。何なんでしょうね、この圧倒的なまでの宇宙美は、もちろん宇宙美などという言葉があるとして、すごい!考えられないですね、この余白の使い方は、最後ダァーと右に流れて来るのもたまらないし、う〜ん、すごく「祭姪文稿」を観ていて思ったのですが、これは稿ですよね、草稿や原稿の方が美しい、所々丸でぐるぐるっと、そしてでんと太字、美しい、あり得ないくらい美しい、結局小説家の場合も同じですが印刷されたものよりも手書きの草稿や原稿の方がはるかに美しい、団体の美術展とか観に行って1年に1回のこの展覧会のためにいかにも仕上げました、清書しましたみたいな退屈な絵画よりもよほど美しい、ドキドキする、結局、人間性の発露なのでしょうね、絵画に草稿の要素を盛り込めたらあるいはさらに絵画自体が原稿であったら、そこに新しい方向性が必ず存在すると思います。これからも断続的にではあっても書の勉強を続けていきます。これだけの類を見ない偉大な芸術がお隣の国に仮に甲骨文の殷の時代からとしても約3600年以上も続いていて、我が国にも脈々と受け継がれていて、これを勉強しない研究しないという手はないですね、どこからどう見ても。

良寛さまの「貞心尼宛」のラストの「八月十八日」には参りました、特に最初の八の傾きの突飛さ、ユニークさと続く小さな十との絶妙のバランスや全体を流れる温かさ、漢字そのものは小学生にでも読めますよね、ここに全宇宙があると思いました。
ロケットなんか飛ばすより遥かに遠くまで行けるのに。

2019年10月1日記
和田 健

追伸 張旭が剣器を舞わすのを見て、懐素が夏雲の風にたなびくのを見て、黄庭堅が船頭が船を漕ぐのを見て、それぞれ悟りを得たという逸話に心を惹かれました。今読んでいる岡潔さんの数学上の発見の瞬間とあまりに酷似していますね。つまり究極の集中力を使い果たした者が、ふっとその場を離れ脳が対象から離れた時に「発見のするどい喜び」が起きる。僕にはもちろんそんなことはできないけれども、せめて手元に集中力をまとめておく、置いておくことは努力や心がけの部分だからできる、だから常にプリントアウトしたものを手元に持っていること、「祭姪文稿」を観て、ニワトリの動きを観る、ニワトリの動きを観て「祭姪文稿」を観る、これが実に面白い、何かの動きがマッチングする、そこに新しい発見がある、書を観てテーブルに指で描く、地面に棒で描く、空間に指で描く、それらは僕に最上のデッサンの練習をもたらしてくれる、別に書家になる訳でもなし、書の勉強は隙間時間を活用できる、そのために絶えずプリントアウトしたものを身につけていること、要は僕の怠慢。

Roaratorio (1979) Version 1 January 4, 2019

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 5 January 2019 by kenwada

水、小声、やがて詩の朗読だとわかる、バグパイプ、小鳥、教会の鐘、詩の朗読、詩の朗読、バグパイプ、子供、歓声、チリンチリン、ソプラノ、赤ん坊、歓声、詩の朗読、男の声、女の声、意味不明、意味不明、けたたましい音、へへへ、詩の朗読、車、This is, This is, This is, 遠くで歌、笑い、詩の朗読、下卑た声、民謡、馬、教会の鐘、車の通過、詩の朗読、大人の笑い、犬、子供の笑い、民俗音楽、再び詩の朗読、歌、背後音意味不明、ガタン、馬の蹄、チリンチリン、犬、民謡、バグパイプ、詩の朗読、静寂、民謡、車、民謡、ソプラノ、詩の朗読、馬、カモメ、美しい音色の音楽、詩の朗読、笑い、詩の朗読、one time, 詩の朗読、遠くの鐘、ボーンボーン、詩の朗読、車、幼児の声、意味不明、小鳥、詩の朗読、big boys, 意味不明、意味不明、ベル、詩の朗読、太鼓、意味不明、意味不明、意味不明、通りの雑踏、バグパイプ、太鼓、聖歌隊、聖歌隊、詩の朗読、聖歌隊、太鼓、小鳥、男、小鳥、小鳥、犬、歓声、民族楽器、馬、詩の朗読、車、民謡、詩の朗読、民謡、詩の朗読、民謡、詩の朗読、笑い、男、詩の朗読、女の歌、詩の朗読、子供の笑い、パパパパパ、幼児の笑い、ベル、水音、水、詩の朗読、意味不明、意味不明、小鳥、車、子どもの笑い、ブレーキ、詩の朗読、踏切、生活音、水、詩の朗読、ちゃりん、幼児の言葉、馬、詩の朗読、馬、馬、About, 馬、幼児、赤ん坊、赤ん坊、詩の朗読、聖歌、コケコッコー、雄鶏、水、川?、女、詩の朗読、小鳥、小鳥、教会の鐘、詩の朗読、女の子幼児、女の子幼児、詩の朗読、詩の朗読、女たちの下卑た笑い、水、雑踏、男たちの遠い笑い、詩の朗読、女の歌、民族楽器、笛、水、水、強い水音、詩の朗読、笛、小鳥、馬、笛、詩の朗読、男の歌、笛、グレゴリオ聖歌、何かのベル、ベル、グレゴリオ聖歌、教会の鐘、聖歌、詩の朗読、幼児の声、小鳥、詩の朗読、グレゴリオ聖歌、幼児の声、グレゴリオ聖歌、太鼓のリズム、太鼓のリズム、詩の朗読、小鳥、小鳥、遠くの教会の鐘、何かが割れる?、意味不明、詩の朗読、人々の笑い、女、ダンダンダン、再び同じ幼児の声、バグパイプ、小鳥、雑踏、聖歌、小鳥、雑踏、近くの鐘、再び同じ幼児の声、踊りのリズム?民俗舞踊、女の歌、歌、歌、カモメ、カモメ、雑踏、バグパイプ、詩の朗読、踊りのリズム、バンバン、太鼓、笑い、車、男の歌、男の歌、車、詩の朗読、男の歌、女、女、子供、小鳥、詩の朗読、小鳥、小鳥、男の歌、水、小鳥、聖歌隊、幼児、男の歌、詩の朗読、太鼓のリズム、オペラ?、女の合唱、羊、メエメエ、メエメエ、メエメエ、女の合唱、バイオリン、水、水、水、小鳥、ぴーよ、ぴーよ、カモメ、やかましいカモメ、笛、笛、バグパイプ、バグパイプ、教会の鐘、男の民謡、詩の朗読、水、車、通り、水、男の歌、アルミ缶?、女の歌、女の歌、雑踏、籠の小鳥?、詩の朗読、雑踏、教会の鐘、通り、rue, rue, 小鳥、バグパイプ、小鳥、小鳥、渾然一体、教会、詩、小鳥、教会、水、小鳥、小鳥、笛、バグパイプ、小鳥、男の歌、詩、詩大きな声、犬、女の歌、コケコッコー、コケコッコー、雄鶏、詩、太鼓のリズム、女、カモメ、バグパイプ、女の笑い、詩、鳥、男の歌、水音、川?、井戸?、教会の鐘、バグパイプ、男の歌、詩、女の歌、遠くの男、教会、男の歌、意識飛ぶ、水、笛、詩、男の歌、バグパイプ、詩、笛、詩、男の歌、幼児、車、女の歌、詩、幼児、轟音、小鳥、小鳥、バグパイプ、笛、男の歌、バンバンバンバンバンバン、意味不明、意味不明、意味不明、詩、男、水?、ベル、水?、ベル、女の歌、遠くの鐘、車、詩、馬、車、詩、掃く音、ベル、建築現場、詩、静寂、小鳥、朝、車、バグパイプ、笛、女の合唱、鳩、鳩、鳩、ふーふーふー、笑い、下卑た女の笑い、女の歌、カモメ、コケコッコー、雄鶏、詩、小鳥、雑踏、車、通り、羊の子ども、幼児の泣き声、幼児、幼児、詩、赤ん坊、赤ん坊、何かを叩く音、詩、水、詩、静寂、ピアノ、ジャズ?、詩、車、一瞬の静寂、詩、男の歌、男の声、鍵を回す?、男の歌、幼児の泣き声、男の歌、詩、チリンチリン、車、男の歌、詩、男の歌、詩、小鳥、男の歌、女の笑い、女の笑い、水、女の笑い、車、詩、通り、車、車、合唱、女の歌、詩、小鳥、詩、小鳥、詩、男の声、女、詩、カモメ、車、カモメ、カモメ、カモメ、詩、リズム音、太鼓、太鼓、男の歌、太鼓、男の歌、太鼓、詩、太鼓、太鼓、詩、何かを叩く音、太鼓、詩、小鳥、太鼓、小鳥、詩、小鳥、女の歌、意味不明、鶏、鶏、鶏、通りの雑踏、詩、詩、チリンチリン、チリンチリン、何かがこぼれる、太鼓のリズム、詩、意味不明、赤ん坊、犬、犬、わんわんわん、渾然一体、バグパイプ、詩、ドアがきしむ、女の歌、リズム音、民俗音楽、建築現場、民俗音楽、詩、詩、民俗音楽、美しい太鼓、女の合唱、民俗音楽、女の合唱、民俗音楽、小鳥、民俗音楽、小鳥、車、意味不明、ラジオevery morning, 意味不明、詩、女の歌、猫、猫、女の歌、猫、女の歌、詩、赤ん坊、バグパイプ、後ろ建築現場?、猫、詩、人々の声、女の子、女の子の叫び、聖歌隊、詩、男の歌、パイプオルガン、何かが泳ぐような水音、洗濯?、意味不明、ハーモニカのような音色、渾然一体、詩、赤ん坊、詩、ハーモニカ?、羊、メエメエ、小鳥、バゲッ!、民俗音楽、バゲッ!、詩、雄鶏、幼児、幼児の泣き声、詩、渾然一体、詩、赤ん坊、何かを叩く音、水、詩、相変わらず何かを吹く音、詩、小鳥、詩、車、男の歌、男の歌、何かを吹く音、ラジオ!、男の掛け声、ちゃーらい、何かを吹く音、詩、男の歌、詩、男の歌、男の歌、幼児、幼児、何かを吹く音、男の歌、詩、男の歌、幼児、幼児、まだ何かを吹き続ける、犬、男の歌、犬、幼児、幼児、詩、男の歌、犬、幼児、犬、鶏、詩、相変わらず吹き続ける、詩、幼児、幼児、渾然一体、幼児、渾然一体、詩、詩、小鳥、幼児、教会の鐘、幼児の泣き声、詩、幼児、馬、鶏、鶏、鶏、詩、小鳥、詩、小鳥、民俗音楽、詩、バグパイプ、男の間のびした声、赤ん坊の泣き声、詩、鶏、鶏、女の歌、通り、車、赤ん坊、赤ん坊、猫、赤ん坊、バグパイプ、猫、詩、バグパイプ、詩、意味不明、男、詩、渾然一体、渾然一体、犬、詩、馬車、馬車、通り、教会、小鳥、赤ん坊、赤ん坊、小鳥、赤ん坊、笛、赤ん坊、赤ん坊、赤ん坊、詩、鶏、詩、鶏、詩、鶏、詩、詩、笛、笛、詩、詩、赤ん坊、猫、詩、笛、男の歌、詩、建築現場、赤ん坊、路面電車、路面電車、赤ん坊、停車場、意味不明、詩、チリンチリン、詩、女の子、女の子、小鳥、男、男、意味不明、詩、小鳥、詩、詩、女の子、女の子、カモメ、詩、女の子、女の子、詩、カモメ、女の子の叫び、カモメ、カモメ。(1:00:11)

正確を期すならバグパイプ=イリアン・パイプス、太鼓=バウロン、笛=フルート、詩の朗読は途中より単に詩と表記。

それであれば、これもできる。
2019年1月4日午前10時27分15秒より

犬の寝息、犬の寝息、縄跳び、二重跳び、遠くのバイク、犬の寝息、静寂、遠くの車、静寂、遠くの車、静寂、子供の声、こんにちは、オーライ、オーライ、静寂、二重跳び、バタン、はい、トラックのバックする音、ピーピーピーピー、犬の寝息、バタン、バタン、何かする?、バイク音、はい、バタン、でんでん、ボールを地面にバウンドさせる音、バンバン、バンバン、犬の寝息、お疲れさまでしたー、バンバン、バンバン、でっどん、でっどん、で、で、で、で、ちぃ、犬の寝息、犬の寝息、で、とたん、とたん、で、でっどん、でっどん、で、で、で、で、で、で、で、で、トントン、トントン、で、で、で、で、で、トイレの水が流れる音、パシィ、で、で、で、・・・・で、で、で、静寂、で、で、で、で、で、で、で、で、バンバン、バンバン、ストーブがかすかにたてる音、すぃーすぃー、すぃーすぃー、犬がべちゃべちゃやる音、ぽろあんとぅらん、ぽろあんとぅらん、ウォーイ、ウォーイ、すぃーすぃー、すぃーすぃー、がらがらがらがら、静寂、遠くの環七の救急車のサイレン、うぉーうぉー、静寂、すぃーすぃー、すぃーすぃー、静寂、宅急便の配達の手押し車の音、ガラガラガラガラ、わん!、わん!、静寂、小鳥、静寂、静寂、犬の寝息、犬の寝息、ちらっと目の前の本を見る、Leap Before You Look、再び遠くで宅急便、ガラガラガラガラの小文字、飛行機、ぶぉ〜ん、ぶぉ〜ん、ピーポーピーポー、ぶぉ〜ん、ぶぉ〜ん、ピーポーピーポー、三たび宅急便、ぶぉ〜ん、ぶっっっっっぉ〜ん、犬の寝息、また?ガラガラガラガラ、小鳥、ほぃ、コトン、遠くの車、男の咳払い、えっへっへ、遠くのバイク、ぷうぉ〜ん、ぷうぉ〜ん、犬の寝返り。(28:45)

P.S. やられましたねHCE、バラッドそうですかバラッドですか、民謡、民衆の口伝えですね、読み書きの苦手な、やられましたねHCE、この後大丈夫なんでしょうか、洗濯まあ合っていたじゃないですか、カモメだってちゃんと飛んでいたじゃないですか、しかしそれにしてもこの真逆のベクトル実験は非常に面白かったです、人間の聴覚についての重要な示唆をいくつか得ました、ヒントをもらいました、さあ原作に入りましょう、いつものやり方で、そうです区立図書館が開くのを今か今かと待っていました年明け1月4日、借りてきました「フィネガンズ・ウェイク」関連図書4冊、検討タイム、宮田恭子さんの訳の集英社版で入りましょう、ただ今第一部第三章メチャクチャ面白い!これだけ文学的興奮を味わうのは T.S.Eliot の Gerontion 以来です、Here I am, Gerontion が踊り出てきて、僕の頭上にピャッと横風が吹きました、Joyce さんは初めて読んだ時、パッと、あ、この人は温かい人だなと思いました、あなたにはこれからも是非とも温かい人でいてください、読んで隙のない人ならたくさんいますから、あなたはこの本を1939年に書き上げました、80年後に一人の日本人が読み始めて鮮度が上がっています、ゲェ!何でこの本が買えないのですか?いくらなんでもそれはないでしょ、あんまりです、だから言ったじゃないですか、おできになるのならお笑いなさい、でもあなたはとばなければいけません、Laugh if you can, but you will have to leap.
2019年1月7日のお昼頃

2019年2月22日、「フィネガンズ・ウェイク」ようやく読了。
続いて2019年2月23日よりホメロスの「イリアス」(松平千秋訳、岩波文庫)に入る。

家族のうち誰がいちばんよく聞こえる場所に座るかも決めなくてはなりません

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 2 January 2019 by kenwada

前回に続き再び「グレン・グールドは語る」(ちくま学芸文庫)の話。

後半の4チャンネル、第1列から第4列までのマイクロフォンの話 、
特に第4列のピアノに関係なく遠くの壁に向けられた二本のマイクロフォンの
話は非常に面白く、
僕が心の中で長年思い描いてきたある一つのイメージ、
明確な既視感 (déjà-vu) をもつ一つのイメージを喚起させた。

そのイメージの中で僕はとてつもなく広いアトリエの中心に立っている、
例えれば小学校の体育館くらい広いアトリエの中心に僕は立っている、
そして僕は時計の文字盤のように12枚のキャンバスを円形に並べる、
あるいは24枚でもよいかもしれない、すなわち15度ずつ。
そして例えば僕が12時のキャンバスに向かっている時に、
真後ろの6時のキャンバスの絵を描くのだ、透視と僕が個人的に呼んでいるもの。
同様に3時のキャンバスに向かっている時に、
背後の9時のキャンバスの制作に入る。

野球に例えたらバッターボックスに入った時に、
ピッチャーの投げる球だけは見ない、
ずっとレフトとライトのポールだけを見ている、
左目でレフトのポールを、右目でライトのポールだけを
ずっと見ながらバットを振るのだから、そのスイングは呪文になる。

つまり描くものだけは見ない、
僕が眼を四隅に散らすと長年個人的に呼んでいるもの。

問題は僕のアトリエ内の立ち位置なのだが、
「同様に、4チャンネルで部屋の四方から出てくる音を聴く場合、
家族のうち誰がいちばんよく聞こえる場所に座るかも決めなくてはなりません。」(p.107)
で、パッとイメージできた!
僕が動けばよいのだ、例えば僕と2時のキャンバスを結ぶ線上を円の中心から1/4、中点、3/4と動いて、その地点から見る6時なり8時なりのキャンバスをさらに鋭角的にずらせばよいのだ、フランス時代に画集の中で、晩年の Joan Mitchell がアトリエの隅に貼られている作品制作にとって重要なデッサンを、椅子に座りながら横目で見上げている美しい白黒写真に釘付けになったことがあったけれども、脳を活性化させる重要なものは正面や視覚内の容易に観れる場所に貼らない、おそらく脳がいつでも観れると安心して、ある種の極端な安易な状態になってしまう、脳への刺激とともに、脳に断層・ズレを生じさせるような働きかけを弱める現象なのだと思う、もちろん彼女は長い間の制作活動を通して、触発・喚起されるものを貼る場所についての居心地のよさを熟知している、そういえば de Kooning がカッと横目で前作を観ながらキャンバスに線を引く美しいシーンが YouTube にあったな、11時と12時と1時に3枚のキャンバスを立て制作に入るのなら、それは全員やっている。そしてアトリエの天井中央に設置したカメラで僕の動きを真上から動画で撮り、頭の点を結んでいけば面白い図形→抽象画が生まれるだろう。

2018年12月31日
和田 健

P.S. その1
「グレン・グールドは語る」は面白かった、次に武満徹著作集 (新潮社)に入り、ジョン・ケージとの対談 (第5巻)に触発された。まず「ジョン・ケージ ー小鳥たちのためにー」(青土社)から入ろう。そして2019年1月2日、ラジオ劇 Roaratorio (1979) の1時間の衝撃!う〜ん、どうしてこう次々にまるで芋づる式に課題が出てくるのだろう?こうなればこれはどうしたってジェームス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」(1939) を読まなければいけないじゃないですか!おそらく相当難しいだろう、歯が立たないかもしれない、あるいは文体等に興味をもてないかもしれない、でもここはクリアーしないといけない、今までもそうして一つ一つ課題をクリアーしてきたではないか、ダンテの「神曲」だって、エリオットの「四つの四重奏」(原文)だって、そうやって一つ一つ乗り越えてきたんだ、ジョン・ケージが「フィネガンズ・ウェイク」を Roaratorio にもってこれたのなら、直観的に Roaratorio を絵画に落とす、平面にもってくることは絶対にできる、少なくとも可能性はあると思う。
Leap Before You Look

P.S. その2
2019年1月3日に思ったのだけれども、ジェームス・ジョイスの原作に取りかかる前に、Roaratorio をテープ起こしのようにして、バーっと音を言葉にして羅列していったらどうだろうか?
そうすれば面白いものができないだろうか?すなわち普通は原作を読んで、次にRoaratorio を聴いて理解を深めるという当たり前の順序を逆にする、逆方向からのベクトルを使う、従って原作に親しんでいる人からみたら、その音は小説の中で違う意味なんだよとか、差異・ズレが出てくる、そこが面白い、物語や聖書の伝承、昔話・・・なんでもいいんだけれども言い伝え、耳学問というものには必ずそういう要素が伴うと思う、さらにVersion 1 と 2 でも中身に違いが出てくる、意識がぶっ飛ぶところが大切、そこあまり面白くないから適当に聴いていたんだよとか、そのためにも何秒ごととかにいちいち音源を止めてのテープ起こし、確認作業をしないこと、一気にいく、Version 5 とか 6 とかになってきたら、今度は慣れの問題が出てくる、それもう何度も聴いたよ、だからもう集中力がうすれてきたんだよとか、それも面白いかもしれない、最後に退屈になって何も聞こえませんでしたとか、つまりは原作を読んでいないことを逆手にとって、原作を読む前にしかできない、今だからできることがあるのではないかという実験。John Cage が James Joyce の「フィネガンズ・ウェイク」を Roaratorio の中で音に翻訳したのなら、Roaratorio をとりあえず言葉に翻訳してみよう、何かが出てくるかもしれない。そう言えばグールドが掃除機の騒音の中で演奏するのは面白いと言っていたな。やってみましょう、早速!

来年僕は、触感上の妥協を呪文へとつなげられるか

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 29 December 2018 by kenwada

年末、Dear Grid Worker No.7, 8, 9, 10 (今回のテーマは白と黒)の
4枚の制作の追い込みに執念をかけましたが、結局仕上がらず。
年明けに持ち越しとなりました。
でもNo.7 と8 はほとんどサインしてもよいところまでこれましたし、
まあいいんじゃないでしょうか。
何よりも描いていて楽しかった。
絵画は非常に回転が速いから、そのめくるめくようなスピードに
脳がついていくのが大変です。
つまり変化していく色と形を認識するのにどうしても時間がかかります。
これでよいのか (残すのか)、あるいはつぶすのか、判断するためにです。
そこを急ぐと必ず失敗します。
性急さと熱意は常に失敗の根元になります。
つまり芸術家は情熱がある方が誰でもより多く失敗するという逆説的かつ基本的・初歩的な問題に直面し、これをどのようにとらえたらよいのか悩むことになります。
いずれにしましても芸術家の世界は常に一瞬足りとも油断したら終わりですので、この追い込みで何とかいい形で2019年に入れそうです。

年末年始は、今続けているW.H.Auden の詩の読み込み (先日1929を読み終わりました、第Ⅳ章の最初の10行、特にthe loud madman とfalling children の絡みはとてつもなく美しい!問題の核心はこのfalling の一語です、これをどう訳す、理解する、解釈するか)と、聖書の読み込み (同じ節を新共同訳→NASB→KJV→仏語訳の4冊を回し読みすることで、何とか原語の意味を推測・とらえようとする試み、少しずつ進めてマルコによる福音書13章まできました)に没頭しようと思っていましたが、急に「グレン・グールドは語る」(ちくま学芸文庫)にとりかかりました。
この本は非常に面白い!
「完全性は、ピアノから離れてさえいれば理論的には獲得可能です。ピアノに向かった瞬間、触感上の妥協を強いられ、完全性の程度は下がります。そして必ず妥協点を見つけることになりますが、理想を追求した分だけ妥協しないで済むのです。」(p.45)
ピアノから離れてさえいれば・・・・
ピアノから離れてさえいれば・・・・
絵画から離れてさえいれば・・・・
う〜ん、これは年末に大きな大きなというか、偉大なヒントが来たな、絵画は必ず妥協点な訳ですが、キャンバスに向かった瞬間、触感上の妥協を強いられるため、それは具体的には筆であったり、絵の具であったり、画布や紙の表面のざらつき具合 (目のあらさのこと)であったり、あるいは自分の指・手首・肩等の関節のなめらかさの状態 (あたたまり具合)であったり、う〜ん、・・・・わかった!これ程偉大なピアニストがこんな原点的なことに呻吟していたのか、これとBruno Monsaingeon が1981年に撮影した映像番組のYouTube のセットで徹底してつかもう、ここ。これらの障壁を少しでも取り除くためには、おそらく直観的に呪文的要素ということが核心になる。僕が毎日毎日考えていたこと、絵画を支配・コントロールしない、絵画は支配ではない、絵画に奉仕、仕えるということ、色と形に寄りそうということ、つまりは聴くということ!そしていかに心を静かに保ち、心のギアをニュートラルに入れた状態で描き始める、発進させられるか!その時が来たら、メモを取っておくこと、例えば少し眠い時くらいの方が心のギアがニュートラルに入りやすい (多少気合が抜けるため)、逆に20分程度の昼寝の直後、たくさん庭仕事をした後 (一見関係ないことで疲れた後にチャンスが来る)、来客の後 (ざらついた気分からすっとニュートラルに入れることがある)、等々。

それでは皆様にとって来たる2019年が素晴らしい年でありますように!
どうぞよいお年をお迎え下さい。

2018年12月29日
和田 健

P.S. 写真は2018年12月15日のアトリエ風景です。
その後、これらの4作品は何度も否定されその形を大きく変えていきました。

The Beggar Boy at Christ’s Christmas Tree

Posted in Essay 2012-2019 with tags , , , , , on 20 October 2018 by kenwada

キリストのヨールカに召された少年。
The Beggar Boy at Christ’s Christmas Tree
Le Petit Garçon à l’arbre de Noël du Christ

What a beautiful story! “The Beggar Boy at Christ’s Christmas Tree” is a Christmas-time short story written by Fyodor Dostoevsky (1821-1881) in January 1876. When I was reading his “A Writer’s Diary” last summer, I read this story for the first time and moved deeply. And I was inspired at that time, and immediately drew several images to my notebook. If you are interested in the story, and have not read it yet,  you can read the whole text at the following site.
http://orthochristian.com/58527.html (English)
http://www.gauchemip.org/spip.php?article13228 (français)
I especially recommend this French translation to you because it is so beautiful and full of rhythmic dynamism! English translation is, of course, beautiful, but I think that “three grand young ladies” in the translation is wrong of “four”.  I think that the most important thing of this story is in the one sentence: “Non, ce n’est pas un arbre de Noël”. In other words, this tree is no longer “yolka”. By accumulating such images, I am convinced that my new work, such as “Dear Grid Worker” will be born in the future.
Finally, I would like to inform you, Japanese translation by Fumihiko KONUMA is also very beautiful! Because I can not read Russian, I am always very grateful and respectful to the translators. Thank you.

以下、全くのなぐり書き、自分へのひとり言。
“Dear Grid Worker” のような自分にとって大きな道標となる重要な作品になると、非常に長期にわたる積み重ねが必要で、例えばフランス時代の自分の作品「マップ・ジョーヌ」や、Jean Dubuffet (1901-1985) のポンピドゥーでつぶされた公園の作品を観たあの衝撃あたりから綿々と続いて来ているので、そうなるとかれこれゆうに10年はかかっている訳で、例えばこのヨールカ yolka のノートや紙に描いた7つのイマージュにしても、2017年の自分の作品「ある芸術家が死んだ後、森の中に遺された十遍の青い詩8」との関連があり、そうそう一発で表出・出現、もってこれない。
ちなみにこちらの系統の原点は、フランスはマントノン時代に観た刈り取られたばかりの収穫後の麦畑、とうもろこし畑の驚くべき美しさであり、こちらも今年でちょうど丸10年になる。
そこで、一歩手前で止めておく、一歩手前で止めておいてよいので、それをたくさん積み重ねていくことが、やがて大きな作品へと結実する。先日その確信を得た。
つまり、絵画制作は時間軸の縦軸で切れるのだということ、その視点。縦糸を織り込めるのであれば、それは懐の深さが全然違う。
まあ、考えてみれば当たり前のことなんだけれど、以前は止めておいてよいものだとは全く思わなかった。その都度、その時点での課題を突破できなければそれで終わりだと思ってやってきた。つまり、時間軸は横軸に限られていると思い制作してきた。
できないという非常な悔しさとともに、その「一歩手前で止めておく」ということの感覚をようやく今月になって体得できるようになった。日課の何でもない犬の散歩中に突然わかった。それを簡単に一言で言うと、「結実への信頼」。何遍ダメだと思っても、やがて結実する、必ず。そうやって心の中に長年くすぶり続ける色や形に表せない漠然としたものを表に出してあげる、誕生させてあげるのが、我々の仕事なのかもしれない。そして、その表出したものが、観る人に残念ながら特に何の感動や共感を呼び起こさなくても、その厳しさや寂しさの上にいつまでも座り続けることができるのが芸術家なのかもしれない。
僕はつらい時は、いつも昨年読んだ T.S.Eliot の FOUR QUARTETS の
EAST COKER の中の一節、
The dahlias sleep in the empty silence.
Wait for the early owl.
励まされる
最初に読んだ時の衝撃は凄まじかった。
何なんだろう、これは!
紙の上のたった2行のこの驚異的な圧倒的な宇宙観!
ロケットなんか飛ばすよりはるか彼方まで飛んでいる。
絵画は残念ながら、まだこの2行までは到達していない。
だからこここそが目標だ。
それと最近読んだ W.H.Auden のMiss Gee の中の、
‘Lead me not into temptation
But make me a good girl, please.’
ここでgirl できたか!この場面でgirl はこないだろう!
このgirl を絵画に翻訳すると紫色だと思う。紫を使わないだろ、黒色か灰色だろう、普通。

yolka + dahlias + owl + girl = で必ず縦糸を織り込める。

2018年10月20日(土)記

INTERNATIONAL CONTEMPORARY ARTISTS CATALOG !

Posted in Essay 2012-2019, Exhibitions 2012-2019 with tags , , , , , , , , on 25 July 2018 by kenwada

皆様、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。
僕の方は、連日新シリーズの制作(今度のテーマは黒にピンク、そして補助的な意味合いとしての白、黒にピンクは実にエレガントですね、ここでこの課題を何としてもクリアーしたい!)と、8月のニューヨーク、11月のマドリッドの展覧会の準備に追われています。
そんな中、長年気になっていたマルカム・ラウリーの「火山の下」(白水社)に7月に入ってから腰を据えて取り組み、先日ようやく読了しました。素晴らしかった!美しい!たくさんの感想がありますが、このアルコール中毒(アルコール依存症という病態ではないように思います)の作家が書く文体を通して、僕は初めて「揺らぐ」ということを実感しました。これは絵画に取り入れられると思いました。常に軸をぶらしながら、揺らし動かし続けろ、ということですね。早速、「Dear ジェフリー・ファーミン」という画想が浮かびました。(色は黒のみ、四辺を四角く縁取る、アクリルでいこう) やがていつの日か形になるのでしょうか?
今はドストエフスキーの「作家の日記」(ちくま学芸文庫)を読んでいます。「この巨人は日常的に一体どのようなことを考えていたのか?」という、いたってシンプルなテーマを設定して、この夏の読書として取り組み始めましたが、執筆開始時の52歳にして何て若々しい、瑞々しい精神なのでしょう!ドストエフスキーは非常に論理的にもちろん書くことができる、もちろん書くことはできるのですが、書くのではなく「しゃべる」ことができる、このおしゃべりすることができるということの中に、僕は絵画に取り入れられる何か大事なヒントがあるように直感的に思います。描くのではなく、しゃべることができるようになれば。「展覧会に関連して」の一編・・・素晴らしいですね。そこには大ドストエフスキーから我々に、芸術とは何か、芸術家の魂とは何なのかについての珠玉の言葉が散りばめられています。「わたしはいわゆる「傾向」なるものをひどく恐れる。」(p.217) う〜ん、これ以上の贈り物というものが実際にありますでしょうか!

さて、肝心なことが後回しになってしまいましたが、スペインのINTERNATIONAL CONTEMPORARY ARTISTS というカタログ(というか雑誌です)の記念すべき第1号に僕の4作品が掲載されました。ディレクターのエリックさんが約束通りスペインから1冊送って下さいましたが、これが実際に手にしてみるとなかなか美しい雑誌でした。以下のサイトからdigital version をご覧いただけますので、ご興味のある方は観て下さい。僕の作品のページはp.46,47です。
https://www.artcertificate.eu/offres/offre.php?id=40

Dear Eric,

I received the beautiful catalog; International Contemporary Artists Vol.1 safely yesterday.
Thank you very much for sending it to me.
I am also so satisfied with my four artworks (p.46,47) as well as the ones of other artists.
Again, thank you very much from Japan!

Best regards,
Ken WADA