TSP No.45 ー絵画は表現の固まりー
Acrylic on canvas, 38.5×51.5 in. (97.0×130.3 cm)
August 2, 2021

前回、TSP No.44 で書いた彼ら、彼女らがもつ、もともとの能力の違い、才能の違いについて、例によって夜中に目が覚めた時に考える。
これは一体何なのか?
そこから思考がたどり着いたことなのだけれども、絵画というものは、もっとダイレクトなものなのではないだろうか、表現の固まりなのだということ、もっと表現に密着した本能的・原始的なものなのだということ。
それが彼ら、彼女らは、強く出る、あるいは出せる。
様々な文化的、社会的な背景を基盤として。
その中でも、彼ら、彼女らに一番影響を与えているのは、実感として、自由と自主独立だなと思う。
いかに人と違うかがかっこいい文化と、出る杭は打たれることのないようにいかにして工夫するかの画一的な横並びの文化と。
それから、冗談とかではなく、食べ物の影響もあるかもしれない。
7年間フランスに住んで、いわば人体実験のように自分の体を通して感じたけれども、毎日、肉とチーズばかり食べていると、自然と喜怒哀楽が激しくなる。
「精神の瞬発力」とでも呼ぶべきようなものが高まる。
そしてその分、精神の安定は欠くようになる。
実は、この状態は表現活動には向いている。
まあ学者的にはNOかもしれないですけれど、生活者の目で見れば、これは十二分にあり得ます。
人間、幼少期からの食生活の習慣、積み重ねの影響は計り知れないですから。
結局、表現なんだな、少し見えてきたぞ、この問題の核心が。
それを日本人は、多くの場合、技術や誠実さで対抗しようとするからな。
塗り方が雑でないとか、最後まできれいに仕上げているとか、きちんとしていて恥ずかしくないとか、そんなようなことです。
特にこの恥ずかしくないものを、拙くないものをというのが、どうも日本人特有の一般的にみられる感性で、別に恥ずかしくてもなんでも、それよりは表現を求めたいという気持ちが、もう少し彼ら、彼女らには、社会的に許容されていることも加わり、日常的に強く心の中にもっているのかもしれない。
そのような文化的な背景があればこそ、必然的にゴッホも生まれてきたのではないだろうか。
表現への飢えや希求、渇望が、恥やメンツ、プライドよりも若干強い。
日本人は、彼ら、彼女らに比べると、どうしても押しが弱い。
草間さんのニューヨーク時代のあの斑点の作品は、今のようにあまりに有名になったことに比べれば、当時はまだほとんど無名の存在に近かったけれども、すごく西欧人のダイレクトな表現を求める感覚に近い、と言いますか、あまりに根源的なものが酷似している。
昨年の Damien Hirst の一連の Veil Paintings も全く同じです。
この問題は、僕の考えに足りないところもあると思いますので、さらにもう少し深く掘り下げて考えてみます。
例えば、彼ら、彼女らは、なにゆえに常に合理的な思考をするのか、それと彼ら、彼女らの表現との関係について考えていない。
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