姉 2
姉 2
松戸市常盤平団地の自宅のベランダにて
1970年6月
撮影者: 母
姉と僕
My Sister 2
June 1970
Photographer: my mother
my sister and me
Ma Sœur 2
juin 1970
Photographe: ma mère
ma sœur et moi
姉、松戸市立常盤平中学校1年生。
僕、松戸市立常盤平第2小学校1年生。
朝の登校前、7時半頃だと思いますが、この時間には父はもう出勤していましたので、撮影者は間違いなく母です。
この小さなベランダにはたくさんの思い出があります。
カナブンをとってきて足に縫い糸を結んでベランダから放して遊びました。これは当時の男の子たちがごく普通にやっていた遊びでした。また春先になると千駄堀の畑まで歩いて行き、よくカエルやどじょう、ザリガニをつかまえて遊びました。僕はざるでどじょうをすくうのがうまかったですね。あの頃の子どもたちにとって憧れはマッカチと言っていましたが、ザリガニの非常に大きいやつでこれはさきいかを持って行って紐で吊るして釣らないといけない。ザリガニを160匹だかとってこのベランダに持って帰り、母を困らせました。当時はお百姓さんも大らかなもので田植え前の田んぼに子どもたちを入れてくれました。一度どじょうをすくっていてあまりに夢中になって片方の靴を畑の泥土の中に失くしてしまい、裸足で帰ったこともありました。写真の後ろの物置にカブトムシの幼虫を越冬させておいて、春先に羽化させたり、本棚の引き出しにカマキリの卵を入れておいて、翌年300匹だか床にぞろぞろ這い出してきて、うあ〜、カマキリの赤ちゃんて生まれた時からもうカマキリの形をしている〜、という僕の感動とは別に、母を困らせました。そうですね、カブトムシはあの頃の男の子にとって、もう何て言うか黄金の宝物でしたね。カブトムシ対ノコギリクワガタの千秋楽結びの一番とかやって盛り上がっていました。これにはちょっと組み合わせるときにコツが要るんです。まともにやるとカブトムシが圧勝しますから。相撲と言えば、全盛期に盲腸炎で突然亡くなった横綱玉の海関の大ファンで自分で母からもらった白い布に墨で頑張れ、玉の海と書いて応援旗を作り、テレビの前で熱心に振っていました。これには中学校から帰って来た姉も笑っていたな。小学校2年生の時、横綱が亡くなって、その翌日からピタッと相撲を観なくなりました。そうそうそれから、大切に飼っていた僕の亀がケースから逃げ出しこの4階のベランダから落ちてしまい、探しに行ったこともありました。ちゃんと無事に見つかって亀って丈夫だなあと感心したり、ベランダの鳥籠で飼っていた十姉妹が増えすぎちゃって大変なことになり、これも母を困らせました。
僕はとにかく手がつけられないほど腕白で、別に何か悪いことをする訳ではないのですが、毎日外を走り回っていないと気の済まない子でした。小学校から帰ると、ただいま〜、行ってきま〜す、と玄関にランドセルを放り出し、そのまま家には一歩も入らずに、暗くなるまで外でたくさんの友だちと遊びました。春・夏・秋は主に野球、冬はサッカー、小学校時代を通じて人の3倍は遊んだなという妙な自負があります。勉強なんてのは体が弱かったり、何か事情があったりして家にいなければいけない子がやるもんだと、かなり長い間真剣に思っていました。おやつなんか食べる子もどうかしている、おやつを食べる時間がもったいない、その分遊べなくなるじゃないかと思っていました。毎日走り回っていたので長距離走が速くなり、小学校3,4年生の時、校内の学年のマラソン大会で確か開校以来初の2連覇をしました。当時は1学年8学級もありましたので、すごくうれしかったです。休み時間に学校の図書館でオリンピックの本を見て、ザトペック選手の写真を見たりしてモチベーションを高め、さらに走っていました。子どもの頃に思う存分自然に触れ、野原を駆け回ったことが僕の絵にどのような影響を与えているのかについてはわかりませんが、あの頃は、自分がまさか将来、毎日森の中のアトリエで絵を描いたり本を読んだりして暮らすようになるとは、人間は勉強以外では絶対に向上できないと考えるようになるとは、夢にも思いませんでした。人間、得意なことと好きなことの区別はなかなかできないものです。子どもはもちろんですが、大人になってからもこれはかなり難しいことなのではないでしょうか。
「姉」というタイトルなのに、自分のことばかり長々と書いて失礼いたしました。
この写真からちょうど50年が経ちましたね。
姉はその後、娘時代に洗礼を受けクリスチャンになり、子どもたちの明るい優しい母親になりました。子どもたちも皆独立し、子育ても終わりました。
姉とは今日までもめ事や喧嘩の類は一切なく、何か困ったことがあれば話し合い協力して乗り越えながら何とかこれまで生きてきました。
姉には本当に感謝しています。
後日記
僕の人生においても、そしておそらくは誰の人生においてもそうだと思いますが、この後、いろいろとつらいことや悲しいこと、挫折や苦しい病気のこと、さらには地獄の底のような大きな絶望が続きました。当たり前のことですが、人生は子どもの頃に野原を駆け回っていたようにはいかない。でもあの頃はそんなことはわからなかったな、このままずっと走り続けて行けるような気がしていた。上述のような小さなエピソードならあと50や100は書けると思いますが、何故か重要だなと思うことをあと2つだけ、僕は子どものころ授業中クラスのみんなを笑わせることがとても好きな子どもだったということ、小学校6年間ほとんど毎時間これに熱中していました。あともう一つは非常に神経質な子どもだったということ、これは自分で自分は神経質だなあと子どもながらによく感じていました。
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