続・書の勉強について

前回のエッセイ「書の勉強について」の中で、「中国の書家の作品であっても同じ東洋人として (僕は) 漢字が少しは読めますから、これは欧米の絵画に対する強力な対抗軸になり得る」と書きましたが、後日、明け方の床の中でこれについて考え、またしても僕以外には何の役にも立ちそうにありませんが、当たり前のようでいて少し大切なことのように思いますので書いておきます。
まず、「欧米の」という言葉は、「漢字文化圏以外の国の」とかにするべきでしたが、そのことはさておき、僕が思ったことは、僕が中国の書家の作品を観る時、たとえ難しい字であっても漢字の旁や偏からある程度こういう字ではないかなと、推測することができる、つまりおおよその見当をつけることができます。もちろん中には歯の立たない漢字もあります、というか実際そういう字が多いのですが、それでもやはり子供の時から慣れ親しんできた漢字 (文化) ですので、やはり字として読んでみようと半ば無意識のうちに脳が勝手に反応してしまいます。
これに対して、例えばフランス人でも、アメリカ人でもいいのですが、彼らは余程の愛好家でない限り、漢字を字として読むことはしていない、よく掛け軸などにして部屋に飾っているのを見かけますが、彼らは漢字に対して字としては反応していない、それはもちろんフランス語や英語で意味を書いてもらってそのメモを見ながらこれはこういう意味だよ、などと説明することはできますが、字として理解しているわけではない、このことは日本語を話せる外国人はたくさんいますが、読み書きができる外国人は非常に少ないことからも容易に察せられます。
それでは彼らは漢字をどのように観ているのかというと、これは模様として観ているのだと思います。漢字を模様として観ている、僕が例えば象形文字や甲骨文、甲骨文字を観ている時に感じるように、あるいは全く理解できない他言語を観ている時に感じる感覚と同じです。模様として観ている、特に活字化されたものだと脳への刺激が限定されますが、肉筆のものだと全然違います、これを継続していくと、やがてデザインとして観ていることにつながります。だから現にたくさんの東洋美術の愛好家が諸外国にはいますし、オークション等でコレクターに熱気をもって迎えられるのでしょう。美しいからデザインとして美しいから、漢字の意味や成り立ちなんか知らない、でも一応英語訳で意味は知っているよ、おそらくそういう感覚なのだと思います。
そこで僕が思ったのは、このデザインとして文字を観るということは、多少の土台的な要素、僕の言葉で言う神経質な気質というのもずいぶんと漠然とした言い方ですが、余白や図形を観る習慣さえあれば誰にでもすぐに修得できる、実際、テーブルの上の物の配置、塩のビンやナイフ、皿とかそういう物です、を納得いくまで何時間も動かしていたジャコメッティのように、紙の上の字画の配置を何時間も動かす、気になる、全く同じことです、樹木の枝の配置も同じです、漢字をデザインとして観ることはある程度の訓練を積めば容易に修得できる。
そうであれば、漢字文化圏の我々には見当をつけることと、デザインとして観ることと、二つの大きな軸があることになる、これは一つの軸しかもたない彼らに対して大いなる強みにならないだろうか、ということです。言ってみれば二枚腰なのですから。
この二つの軸があることを絵画に必ず活かせるはずです、取り込めるはずなんです。逆の思考として、どうしてアメリカ人の Franz Kline に先を越されていて、我々の絵画には漢字のデザイン性を豊かに取り込んだ造形美に満ちた作品が少ないのだろう、その辺りから思考に揺さぶりをかければ答えは出てくるのではないか、作品が漢字として恥ずかしいからかもしれない、後ろに書家が控えているために下手なものを出品・発表できないという、こんなもの出して馬鹿にされるだけだという、ここ核心、重要ポイント。彼らは背後に書家など控えていませんので自由にやれる、この自由にのびのびやれる、何の束縛もないということは当たり前過ぎて見失われがちですが創作活動の肝、非常に大切なことです。この課題は突破しないと、デザインとしてだけ観ているよりは強いはずなのだから、あるいはデザインとして観ているだけだから彼らは強いのかもしれない、または単にエキゾチックの問題だけなのかもしれません、我々の日常生活において漢字があまりにも身の回りに溢れていてもはや特段の反応もしないという。
自然の中に漢字の要素を日常的に見い出す訓練、これはしています、何かどこかに突破口があります、必ず。

2019年10月10日記
和田 健

追伸 またまた今読んでいる数学者の岡潔さんの本の話ですが、先生は「でたらめ」を毎日一つずつ考える、この「でたらめ」を十ほど並べてみると、その中には一つぐらいポシビリティ (可能性) がある。このポシビリティをまた十ほど並べると、そこに一つぐらいファクト (事実) が見つかる、一年三百六十五日、毎日「でたらめ」を考えるともなく考えている、と仰っています。さすがだなあ〜、すごいなあ〜、ものすごく勉強になります。僕は今までわからないことがあると、声に出してわかっているところまで言ってみる、しゃべってみる、それもできるだけ大きな声がいい、というのを自分で編み出して実践してきたのですが、これに「でたらめ」を加えればいいんだ、声に出して「でたらめ」を言ってみればより強力な結びつきになる、なるほど。エディー・ジョーンズさんが目黒学院ラグビー部を指導する YouTube 面白いですね、この感覚だな、この感覚。声に出して「でたらめ」を言って、全く脈絡や関係ないものを結びつける、この感覚を絶対にはずしちゃいけない!折しも世の中ワールドカップでラグビーブーム、僕は試合は観れませんけれど、我家にテレビはないから。

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