家族のうち誰がいちばんよく聞こえる場所に座るかも決めなくてはなりません
前回に続き再び「グレン・グールドは語る」(ちくま学芸文庫)の話。
後半の4チャンネル、第1列から第4列までのマイクロフォンの話 、
特に第4列のピアノに関係なく遠くの壁に向けられた二本のマイクロフォンの
話は非常に面白く、
僕が心の中で長年思い描いてきたある一つのイメージ、
明確な既視感 (déjà-vu) をもつ一つのイメージを喚起させた。
そのイメージの中で僕はとてつもなく広いアトリエの中心に立っている、
例えれば小学校の体育館くらい広いアトリエの中心に僕は立っている、
そして僕は時計の文字盤のように12枚のキャンバスを円形に並べる、
あるいは24枚でもよいかもしれない、すなわち15度ずつ。
そして例えば僕が12時のキャンバスに向かっている時に、
真後ろの6時のキャンバスの絵を描くのだ、透視と僕が個人的に呼んでいるもの。
同様に3時のキャンバスに向かっている時に、
背後の9時のキャンバスの制作に入る。
野球に例えたらバッターボックスに入った時に、
ピッチャーの投げる球だけは見ない、
ずっとレフトとライトのポールだけを見ている、
左目でレフトのポールを、右目でライトのポールだけを
ずっと見ながらバットを振るのだから、そのスイングは呪文になる。
つまり描くものだけは見ない、
僕が眼を四隅に散らすと長年個人的に呼んでいるもの。
問題は僕のアトリエ内の立ち位置なのだが、
「同様に、4チャンネルで部屋の四方から出てくる音を聴く場合、
家族のうち誰がいちばんよく聞こえる場所に座るかも決めなくてはなりません。」(p.107)
で、パッとイメージできた!
僕が動けばよいのだ、例えば僕と2時のキャンバスを結ぶ線上を円の中心から1/4、中点、3/4と動いて、その地点から見る6時なり8時なりのキャンバスをさらに鋭角的にずらせばよいのだ、フランス時代に画集の中で、晩年の Joan Mitchell がアトリエの隅に貼られている作品制作にとって重要なデッサンを、椅子に座りながら横目で見上げている美しい白黒写真に釘付けになったことがあったけれども、脳を活性化させる重要なものは正面や視覚内の容易に観れる場所に貼らない、おそらく脳がいつでも観れると安心して、ある種の極端な安易な状態になってしまう、脳への刺激とともに、脳に断層・ズレを生じさせるような働きかけを弱める現象なのだと思う、もちろん彼女は長い間の制作活動を通して、触発・喚起されるものを貼る場所についての居心地のよさを熟知している、そういえば de Kooning がカッと横目で前作を観ながらキャンバスに線を引く美しいシーンが YouTube にあったな、11時と12時と1時に3枚のキャンバスを立て制作に入るのなら、それは全員やっている。そしてアトリエの天井中央に設置したカメラで僕の動きを真上から動画で撮り、頭の点を結んでいけば面白い図形→抽象画が生まれるだろう。
2018年12月31日
和田 健
P.S. その1
「グレン・グールドは語る」は面白かった、次に武満徹著作集 (新潮社)に入り、ジョン・ケージとの対談 (第5巻)に触発された。まず「ジョン・ケージ ー小鳥たちのためにー」(青土社)から入ろう。そして2019年1月2日、ラジオ劇 Roaratorio (1979) の1時間の衝撃!う〜ん、どうしてこう次々にまるで芋づる式に課題が出てくるのだろう?こうなればこれはどうしたってジェームス・ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」(1939) を読まなければいけないじゃないですか!おそらく相当難しいだろう、歯が立たないかもしれない、あるいは文体等に興味をもてないかもしれない、でもここはクリアーしないといけない、今までもそうして一つ一つ課題をクリアーしてきたではないか、ダンテの「神曲」だって、エリオットの「四つの四重奏」(原文)だって、そうやって一つ一つ乗り越えてきたんだ、ジョン・ケージが「フィネガンズ・ウェイク」を Roaratorio にもってこれたのなら、直観的に Roaratorio を絵画に落とす、平面にもってくることは絶対にできる、少なくとも可能性はあると思う。
Leap Before You Look
P.S. その2
2019年1月3日に思ったのだけれども、ジェームス・ジョイスの原作に取りかかる前に、Roaratorio をテープ起こしのようにして、バーっと音を言葉にして羅列していったらどうだろうか?
そうすれば面白いものができないだろうか?すなわち普通は原作を読んで、次にRoaratorio を聴いて理解を深めるという当たり前の順序を逆にする、逆方向からのベクトルを使う、従って原作に親しんでいる人からみたら、その音は小説の中で違う意味なんだよとか、差異・ズレが出てくる、そこが面白い、物語や聖書の伝承、昔話・・・なんでもいいんだけれども言い伝え、耳学問というものには必ずそういう要素が伴うと思う、さらにVersion 1 と 2 でも中身に違いが出てくる、意識がぶっ飛ぶところが大切、そこあまり面白くないから適当に聴いていたんだよとか、そのためにも何秒ごととかにいちいち音源を止めてのテープ起こし、確認作業をしないこと、一気にいく、Version 5 とか 6 とかになってきたら、今度は慣れの問題が出てくる、それもう何度も聴いたよ、だからもう集中力がうすれてきたんだよとか、それも面白いかもしれない、最後に退屈になって何も聞こえませんでしたとか、つまりは原作を読んでいないことを逆手にとって、原作を読む前にしかできない、今だからできることがあるのではないかという実験。John Cage が James Joyce の「フィネガンズ・ウェイク」を Roaratorio の中で音に翻訳したのなら、Roaratorio をとりあえず言葉に翻訳してみよう、何かが出てくるかもしれない。そう言えばグールドが掃除機の騒音の中で演奏するのは面白いと言っていたな。やってみましょう、早速!
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