Untitled Sketches No.13 —As an Attempt to Image Poetry  ーFrom the series; Sinto Shrines and Indigenous Faith, and Village Tombsー

無題スケッチ No.13 —映像詩への一つの試みとして
—シリーズ;神社と土着信仰、そして村の墓から—
2017年10月
北軽井沢 作品 No.318
映像、37秒

Untitled Sketches No.13 —As an Attempt to Image Poem
ーFrom the series; Sinto Shrines and Indigenous Faith, and Village Tombsー
October 2017
Kitakaruizawa No.318
Image, 37 seconds

Sans titre Croquis N°13 —Comme une Tentative de Image Poème
—De la série; Temples Shintô et Foi Indigène, et Tombes du Village—
octobre 2017
Kitakaruizawa N°318
Image, 37 secondes

このシリーズを始めるにあたってその方向性をNo.1 のところに書きましたが、「動画」という言葉が少し的確でなかったのかもしれません。
撮り続けるうちに僕は動画には興味がないことがわかってきました。
僕が撮りたいと思ったのは動画ではなく、「映像」だったのです。
何秒間かのあるいは何分間かの。
長いのは要らない。

僕は「映像」による「詩」、「映像詩」のようなものを創りたいと思ったのです。
撮れる、創れると思ったのです。

そんなの写真でいいではないかと言われるかもしれませんが、
僕にとって写真はどうしてもベタなんだよね、
これはもうベタなんだよね、としか説明できません。
パリ時代にHenri Cartier-Bresson やRobert Doisneau の個展を食い入るように見たけれども、タイトル通りそれが「決定的瞬間」であればあるほど、僕にとってはどうしてもベタなんです。
ましてやその辺りの凡百の写真にいたっては、写りがいいですね、きれいですね、機材・画質がよいですね、としか感じられない。

「映像詩」に賛同してくれる人はいないと思うけれども、
それは毎度いつものこと、僕にとっては普段と変わらない、
昨日までと同じ環境だということ。

それから、物事をするのにやはりお金がかかり過ぎていると思う。
詩人や芸術家だとか、哲学者だとか、さらには数学者だとか・・・・
そういった者が生きていくのにそんなにお金がかかってよいのだろうか。

その点、「映像詩」であれば、僕のような貧乏芸術家にだって撮れる、
創れる。
「もういい加減その画質止めて下さい」と誰かに言われるまで、
今の粗末な機材で撮り続ける気迫が大切なんです。
牙をむく気迫が。

自分の詩を堂々と勇気をもって撮り続ければいいんです。
ただし撮る時は肩の力を抜いて、静かに、そっと、ね。
「映像詩」はマイナスイオンなのだから。

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