てんでばらばら
後ろの筋雲、手前の樹木A、さらにその手前の樹木B。
反転による組み合わせ。
自然の現物は、collage そのもの。
(ちなみに筋雲には、縦の筋雲、横の筋雲、斜めの
筋雲が用意されている。)
後ろの筋雲は、手前の樹木Aに合わせようとしてこない、
現に今朝は快晴、雲一つない、筋雲に対する樹木A、
樹木Aに対する樹木B、以下すべて同様。
これを体でつかめば、森全体もまた同じであることが、
理屈ではなく、はっきりとわかる。
ところで、「切り(取り)」の問題をどう考えるのか?
そこでまず試しにカメラで切ってみる。
何がわかるか。
「切り」の問題をどう扱ったらよいのか?
裏から切るか?
表から意図的にきれいに切るか?
表から目隠しして切るか?
いっそのこと切らないか?
切る「頻度」をどうするか?
切る時は、大胆に切る、躊躇しない。
大胆に躊躇せずに切るためには、現実にしがみつかないこと。
縦・横で切らない、斜めに枠をとる。
回転で切る。
そしてcollage でよい所を隠す。
これらはすべてつまらないコツのようなもの。
(制作風景1、紙に墨、水彩)
(制作風景2、紙に墨、水彩)
(制作風景3、紙に墨、水彩)
(制作風景4、紙に墨、水彩)
(制作風景5、紙に墨、水彩)
次に、「組み合わせ」の問題が来る。
そこで切ったもの(断片)を、無作為に床の上に並べる。
これが難しい、少しでも気を緩めると、
すぐにまとまりをもたせて、きれいに並べたくなる。
これを四方を回りながら、回転で観ると新しい気づきがある。
その際、右回り、左回りで観る。
要は、右利きの絵と、左利きの絵があるということ。
さらに、「きれいなものにやがて目が慣れる」という問題が出て来る。
*樹木A は樹木B に・・・・樹木Z に「一緒に調子を合わせて
枝葉を伸ばし、全体としての調和を目指そうよ。」などと、
決して話しかけたりしない。
つまり、自然(森)の原理は、てんでばらばら。
・いかに人と違っているかを誇る→フランス人。
・どのようにして列をはみ出さないか→日本人。
・風変りであることを認める文化→イギリス人。
・ヘルマン・ヘッセが、その圧倒的なまでに美しい叙事詩
「庭でのひととき」の中で触れている巨大なサボテンと
小びとのクローバーの例は、そこにあまりの「体格差」が
あったからだと思う。
おかしみのある程の体格差が。
てんでばらばら。
Leave a Reply