斑点A 2014.12.1-2014.12.27
斑点A 2014.12.1-2014.12.27
2014年12月
北軽井沢 作品 No.160
紙に水彩、100.0×100.0cm
*制作の動機や背景についてのノート。
無意識に打った遠く離れた斑点Aと斑点Bが、
次第に呼応し合い、お互いに意味をもち合うことはあるのか?
さらにその中継地点としての斑点Cが存在し、
三角関係としての意味を相互にもち合い始めることはあるのか?
まるで東京を上空から眺めるように、各斑点は各住宅に対応する。
Pompidou でJean Dubuffet の絵画を観た時、公園だか広場だかを俯瞰し、
上から叩き潰しているのをみて感動した、
でもそうじゃない、さらにそれを一歩進めて、
公園だか広場だかの意味を消し斑点とする、無意味な斑点とする。
そこで、その際に重要なのは、各斑点に何ら意味を置かないこと、
全く無意味な斑点の羅列を心がけること、
まるで目の前の庭の柿の木に来た小鳥が、次にどの枝にとまり、
どの柿の実をついばむかがわからないように。
湖面を泳ぐ野鳥や放し飼いの鶏の駆け回る軌道、
スケートリンク上に選手がつけた無数の幾何模様。
無意味な斑点の累積によって、紙面に時系列を持ち込む、
無意識の時系列が、目標としてきた無意識絵画に一番近づけるのではないか。
ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」の腎臓料理をする男の描写*¹のように、
T.S.エリオットのRhapsody on a Windy Nightの中の
午前2時半に腐ったバターのかけらをむさぼり食う猫*²のように、
ひたすら無意味な斑点を羅列すること、ひたすら。
そして紙面一杯に斑点が終了した時、ここをもう少し密度上げてとか、
例の一連のお決まりの作業をして、絵画として絶対に仕上げないこと。
あくまでそのまま提示すること。
そのまま斑点の時系列の記録として。
すなわち、絵画ではなく、記録。
記録を提示するということ。
そのことが、無意識絵画として目指してきたものに、
とりあえず現時点としては、一番近接するのではないか。
*¹ ジェイムス・ジョイス「ユリシーズ」第4挿話(集英社文庫)
*² Half-past two,
The street lamp said,
“Remark the cat which flattens itself in the gutter,
Slips out its tongue
And devours a morsel of rancid butter.”
その他、重複も含めて。
1、自己治癒行為としての斑点。
2、2014年12月1日から2014年12月27日にかけての
時系列の記録を残す。これについては上記。
3、全くの無意味さの累積・継続・集合体は、一つの意味をもつに至るのか?
あるいは意味をもつには至らないのか?
すなわちただの「時間つぶし」に終わるのか?
4、その前提として考えられることに、そもそも時間つぶしでない人生と
いうものがあるのか?
5、社会貢献という微笑⇔草むしりという行為。
6、私の人生は時間つぶしですと言う人間の誠実さ、ひたむきさを信じることが
できるのか?心の叫びは聞こえるのか?あるいは誰にも届かないものなのか?
7、昨日斑点を一つ打ち、今日斑点を一つ打つ、明日も斑点を一つ打つ、
人生全体で、
365点×生きた年数+うるう年の点=一つの意味をもつに至るのか?
The speckles A 1.12.2014-27.12.2014
December 2014
Kitakaruizawa No.160
Watercolour on paper
100.0×100.0cm
Les taches A 1.12.2014-27.12.2014
décembre 2014
Kitakaruizawa N°160
Aquarelle sur papier
100.0×100.0cm
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