エスキースから考えたこと

Esquisse 1

Esquisse 1

Esquisse 2

Esquisse 2

Esquisse 3

Esquisse 3

Esquisse 4

Esquisse 4

現場に座ってのエスキース作りは、僕の創作活動の生命線である。
絶対に現場でなければならない。
パソコンに取り込んだ写真の前では不可である。
様々な気象条件に左右されながらの現場でのエスキース作りは、すごく楽しい。
目の前の自然から実に多くのことを教えられ、考えさせられながら少しずつ学ぶ。

上2枚は、アトリエから歩いて3分くらいのところに流れている
沢を描いた6枚のエスキースの中の2枚。
この沢の美しさを表現することは難しい。
Alberto Giacomettiが、
「本物の画家は美しい風景を求めて旅行など決してしない。」
と言ったのは、正しくその通りである。
アトリエの裏の沢で十分である。
Esquisse 1がその時の4枚目、Esquisse 2が6枚目。
ちなみに、Giacomettiの言葉は、この後、「どんな世界一周旅行よりも大きな旅行
が人の顔の中にある。」と続き、矢内原氏の顔と格闘するのだけれど、この話は
また今度。
いやまた今度ではなく、以下はこの話の周辺なのかもしれない。

下2枚は、自転車で付近の牧草地に出かけて、その回りの森林を描いた6枚の
エスキースの中の2枚。
Esquisse 3がその時の5枚目、Esquisse 4が6枚目。

さて今回考えさせられたことは、以下の2点である。
1、我々人間の脳は、ある風景なり、人物なりを見た時に、「主」に見えたもの、
感じたものが実は「従」で、「従」に見えたもの、感じたものが実は「主」
なのではないか、ということ。
2、言葉に依らない、ということ。

1点目は、Esquisse 1を描いていて、最初目を奪われた沢の上を覆う木や枝、
葉を表現していたのだけれど、4枚目に水の流れだけのEsquisse 1を描いて、
パン!と初めて風景が”見えた”。
あれ、どうしてなのだろう?と思い、描いたのがEsquisse 2でその発展系。

Esquisse 3の時も、この風景の前に大きな木が3、4本立っていて、
最初そこに目が奪われそれを表現して今ひとつの後、実は後ろの山なのでは
ないかと思い、描いたら一発で見えた。
どうしてなのだろう?

人間は普段朝から晩まで何かの風景なり、人物なり、机でも椅子でも何でも
いいのだけれど、何かを見ながら生活しているが、実はパッと見て「主」と
して見えているところが実は「従」で、パッと見た時に「従」に見えたところ
にこそ「主」たる部分が隠されているのではないかという仮説です。

無意識絵画の創造に取り組んでいる時に、描いている筆の先だけは見ない、
ということをやっていて、これを個人的に「四隅に目を飛ばす」と呼んでいる
のだけれど、それと何か関連がある気がする。
この訓練として、例えば相撲中継を観ている時に力士だけは見ない、
というのを取り入れていて、いつも画面の土俵の回りに座っている人の手の動き
だとか、何着ているとかだけ見るようにしている。
あるいは、そんなことばかりやっているからそうなるのかもしれないけれど、
見えたものの中の主が従で、従に見えたものが実は主であるというのは、
そこに一般的な何かが存在していると直感的に思えてならない。

2点目の言葉に依らない、というのは、Esquisse 1を描いた時に、頭のどこかに
沢を描いていて山を描いたらやっぱりまずいよな、というのがあるのだと思う。
こういうのは幼少時の学校教育とかがすごく関係していると思う。
山と答えなければいけないところを海と答えると×になるというような。
次の( )に当てはまる言葉を答えなさい、
で答えられると点数が取れてよいとされてきたような。
Esquisse 1を描いていて沢を描いて、ああ、それでよし、パッと見えたと思った
のかもしれない。
主も従もなく、( )に当てはまる言葉が描けただけなのかもしれない。

このことに初めて気づいたのは、ウィトゲンシュタインの「青色本」と
「哲学探究」を読んでいた時で、
『私が誰かを買物にやる。
かれに「赤いリンゴを五つ買ってきてくれ」(青色本では六つ)』
という紙片を渡す話に強い衝撃を受けた。
結局、沢を描いていて一瞬でもこれは沢だなと言葉で思ってしまった瞬間に、
もうこれは誰が何と言っても、あなたが描いているのは沢なんですよ、という
ある種の規制が入ってしまうのではないだろうか。
山を見て山という言葉に置き換えてしまった瞬間に山でしかなくなるのだと思う。
言葉の枠をはずすこと、そのためには、風景を見た時に言葉を用いずに、
いつも「一体これは何だろう?」と思う練習をするといいと思う。

このことに気づいたもう一つの理由は、「身ぶり」ということで、
昨年、大江健三郎氏と仏人作家のパトリック・シャモワゾー氏の対談を聴いた
時に、このキーワードが出てきた。
確かに7年海外にいてよくわかったけれど、言葉が不自由だと人間何とか
必死で伝えようとして、この身ぶりというのが出てくる。
風景を前にした時に、身ぶりでそれを表現する、それもできるだけ大きな
身ぶりで表現する、という練習を加えていこう。

Grenn Gouldが森の中の沢だか滝だかに向かって大きな声で歌いながら指揮の
ような動作をする映像があるのだけれど(動物園で動物に向かって歌いながら
指揮する映像もある)、
あそこは笑うところではなくて、あれも結局同じことなのだと思う。
自然のエネルギーを言葉に依ってではなく、身ぶりに依って吸収した方が、
得られるエネルギーがはるかに大きいということを、彼は実感して日常化していた
のだと思う。

先日書いたトルストイの「コザック」の再読を始めました。
僕の本は、中央公論新社版のものだけれど、あの32、33ページの
「あれはいったいなんだね?」
「山でさあ」
山々は・・・・山々は・・・・山々は・・・・
の表現には驚かされる。
超弩級の才能があるからできることなのだろうけれど、
でも言葉に依る小説家が言葉に依らないことが書けているのに、
もともと言葉に依らないはずの絵画の人が、言葉に依らないことが描けない
としたら、自分に対して情けないし悔しいと思います。

長くなりました。
以上です。

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