検証 ー「犬の爪跡」ー

以下のエッセーは、今年の3月に書いて没にしていたものです。
12月1日に掲載したエッセー「クリント·イーストウッド方式」と
少し関連があるように思いましたので掲載します。
これを書いた後、5月の個展、11月の二人展と経過して、
少し思うところはありますが、原文のまま掲載します。
しかし今読むと、Pollock の When I am in my painting っていうのは
それだけでゾクゾクしますね。

無意識というのは、「記録」である。
無意識というものを隠れ蓑に、実は意識の集大成なっているのではないかという
問題に悶々としていたのだが、また無意識そのものを見つけた。
我家の台所の床は、32×32cmの正方形の床板が組み合わされて
できているが、これに愛犬がつけた爪の跡である。
これは全くの無意識である。
しかしこれを果たして絵画と言えるか?言えない。
それでは何か?「記録」である。
「記録」が絵画と言えないのなら、絵画というものをすべて排除したい。
何故なら無意識である記録の方が美しいから。

犬の爪跡、2012年3月
紙に墨、水彩、白鉛筆、32.0×32.0cm
The claw marks of my dog on the floor in the kitchen, March 2012
India ink, watercolour and white pencil on paper, 32.0×32.0cm

トレーシングペーパーでは無理なので、サランラップを用い正確に爪跡をなぞる。
そしてカーボン紙で水彩紙にこれまた正確に写す。
これを観ると、結局真に無意識的なるものは、絵にならないことがわかる。
ただの凡庸とした「記録」にとどまることがわかる。
これは絵画ではない。では何か。何度も言うけれども「記録」である。
逆に言うと、絵画になっているということは、そこに何らかの意識が働いている
ということになる。
どのようにして意識の枠をはずすか?
どのようにして構築の枠をはずすか?
どのようにして何らかの働く意図をはずすか?
すべて絵画にする以上無理なのか。
結局、無意識を隠れ蓑にした意識の集大成でよいのではないだろうか?
「無意識から湧き上がるイメージを重視したスタイル」くらいで満足すべきか。
そこに現実的な妥協という名目の一致点を見出すべきか。

Jackson Pollockが言っている。
「絵の中にいるとき、私は自分のしていることを意識していない。
「知り合う」ための時間を過ごした後、やっと私は自分のやっていたことを
わかるようになるのです。」
以下原文。
(When I am in my painting, I’m not aware of what I’m doing.
It is only after a sort of ‘get acquainted’ period that I see what I have been about. 
-My painting, 1956)
これは痛いほどよくわかる。
そうだよな、そうでなくっちゃ、そう来なくっちゃなと思う。

La Galerie de Ken WADAに載せたロンドンの壁の写真(10枚)のような
無意識の集結としての美しさは存在する、確かに存在する。
・苔むした樹皮の美しさなども無意識の集結である。
・目を閉じて描いてみたらどうだろうか。
・絵画制作時の枠外にはみ出した部分(枠外は美しい)を組み合わせる。
・これとギブロス疑似聖刻文字(前15~14世紀)、甲骨文字(前14~11世紀)等の象形文字。
(こんなものを3500年前に描かれていたら我々のすることなんか何にもない気がする。)
・自分へ「よく考えること」。

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