最近思うこと

1.  ゴッホの例を持ち出すまでもなく、「絵画」とは、要は人生のその時点における
その人の「純密度」のことである。
従って純密度が上がれば絵画の質も上がるし、純密度が下がれば絵画の質も
下がる。

2.  毎日描いているとつくづく感じることだが、
「デッサン」とは、要は「漢字」である。
「漢字」とは、要は「デッサン」である。
これは漢字の起源を考えてみれば、当たり前のことである。
数々の象形文字、とりわけビブロス疑似聖刻文字の美しさ。
こんな面白いものを紀元前15~14世紀に描かれていては、
すなわち3500年も前に描かれていては、
もう抽象画家のやることなど何もないのではないかと感じさせる美しさ。

3. そこで問題となるのは、漢字文化圏の人間である日本人には、
当然のことながら、漢字に対してイニシアチブがあるべきはずなのに、
どうしてFranz KlineやJoan Mitchell、またはPierre Alechinskyらが
やっているような仕事がなかったのか、あるいはまたは少なかったのか
ということは、ちょっと考えておかなければいけない。
実際に書道の手ほどきを受け来日して書道の映画作りもしたAlechinskyの例を
持ち出して比較しての話ではなく、彼らの仕事の中に漢字に対する
イニシアチブを、極「一般的」に感じる。

4.  最近、立て続けに「傾いた世界8」を潰した。
このところの調子自体は悪くないので、
自分にはできないかもしれないと思った。
「傾いた世界」なんて、自分には見えないのではないかと思った。
いくら線を引いても形が出てこない、見えてこない、
見えなければ、描けない。
当たり前の話しである。
見えなければ、どうなるか。
終わりである。The end.
これも当たり前の話しである。

この問題を考えていて行き着いたのは、
もっと大胆に試みたらいいのではないか、ということである。
もうそういう時期に来ているのに、それを相も変わらず塗っているから、
その義務感、自己に対するケチさから離れられないから、
一種の自家中毒のような矛盾を自分に対して起こしている
のではないだろうか。
何のことはない、苦しんでいたのは、自分に対して自分が吐き気を
催していることに、自分が気づかないという、間の抜けた話しである。
しかしながら、これらのことが無意識下で進行していて、
今日ようやく気づけたということ自体が、確実に一つの「傾いた世界」である。
「義務の中にいるな」ということは、ロンドンのMaggy ROBERT氏から教わった。
氏からは、抽象画にもっていくために色と形を変えることについての、
究極のエッセンスも学んだ。
感謝しても仕切れない。

5.  最近読んだ本で一番面白かったのは、
ジャン・ジャック・ルソーの「告白」(岩波文庫上中下巻)。
こんないい本が絶版だなんて。
最初、図書館で延長しながら借りて読み、さらにアマゾンで買って読んだ。
一人の男が徒手空拳で読書と出会った人々から受けた影響だけを頼りに、
18世紀最大のフランスの思想家に登り詰めるお話。
僕は、「どうやって仕事を作るか」という観点から読んだが、
何カ所もハッとするところがあった。
同じくルソーの「孤独な散歩者の夢想」(岩波文庫)も素晴らしい。
重要なヒントをいくつももらった。
それから、この一年で3回目になるヘルマン·ヘッセの「車輪の下」(新潮文庫)。
この中で主人公のハンス·ギーベンラートが神学校の試験を終え、
魚釣りに行く場面は例えようもなく美しい。
圧倒的に美しい。
これを読むといつも小川の岸辺で「川面」や「ユール谷の風景」のシリーズを
粘っては格闘しながら描いていたフランスのChimayという
まるで隠れ家のようなひっそりとした場所、僕にとっての自然の教室であり
道場でもあった大切な場所を思い出す。

6.  話しは変わるけれど、ある人が絵を始めた時点で、
絵の資質があるかどうかは、
結局は「色と形に反応するかどうか」だけだと思います。
これは、例えばその人と一緒に横に並んで絵を観ている時に、
絵を観ずに、集中してその人を見ていると比較的容易にわかります。
一緒になって目の前の絵を観ていてもわかりません。

7.  当たり前の話しになりますが、「子供の時から絵が上手い」ということと、
「作家として自分の作品の世界を展開·伸張できる」という能力は
全く別のものです。
ところが、ここの大切なポイントがどうも混同されているように思います。
例えば、どこの小学校にも昔から必ずクラスや学年の中に
字の上手い子がいます。
でもその子に向かって、
「すごく字が上手いね。きっと将来いい小説家になるね。」
と言ったら、その子も意味がわからないし、
周りで聞いていた人も???でしょう。
ところがどういう訳か、これもまた昔から必ずといっていい程、
どこの小学校の学年にもいる絵の上手な子に、
「上手な絵を描くね。きっと将来は画家になるね。」
と言うことはよく見受けられます。

8.  このことについて一歩進めて考えてみると、
確かに極まれに「子供の時から絵が上手い」、「作家として自分の世界を
展開できる」という両者を兼ね備えた人がいます。
この例の一番わかりやすい代表者は、何といってもピカソです。
でも天は二物を与えないので、例えば、マティスは法学部からの転向、
ボナールも法学部からの転向、ゴーギャンは株式仲買人から、
ゴッホは宣教師・教師から、カンディンスキーは法学·医学からの転向
というように(まだまだ枚挙に遑がありませんが)、
全く違う分野からの転向組が多いのも事実です。
この事実は何を意味しているかというと、簡単に言うと絵画にはかなりの知力が
要るということです。
少なくとも、マティス、ボナール、ゴーギャン、ゴッホ、カンディンスキーという、
この言ってみれば“オール・スター”5人が揃いも揃ってそうだということは、
そこに何か共通に含まれる要素があると考えた方がいいように思います。
以前、平山郁夫さんの本を読んでいた時に、
氏のおじさんが甥が絵が上手いのをわかっていたけれど、
大学受験の直前になるまで、(一般の)勉強をさせるために芸大受験を
勧めなかった、というエピソードを読んですごいおじさんだなあ、
と思ったことを思い出しました。
氏のおじさんはここのところが痛い程わかっていたのだと思います。

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